2016年11月9日水曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】3-2後期古代の註釈家たち

 ――後期古代の註釈家たち

 それでは、アッバース朝の翻訳運動のおかげでアラビア語でアリストテレスを読めるようになったアラブ人たちは、現代の私たちが読むのと同じようにアリストテレスを読んだのでしょうか?それは違います。後でお話するように、アリストテレスのアラビア語への翻訳にはいくつもの要素がからみついてきて、彼らが理解したアリストテレス哲学は、私たちが理解するものとはかなり異なるものになっていました。その原因のふたつが「註釈」と「新プラトン主義」です。新プラトン主義については後で詳しく説明しますが、古代ローマ時代に生きたプロティノスが作った、かなり独創的な思想大系です。この新プラトン主義は次第に勢力を増し、いつの間にかアリストテレスの解釈にも新プラトン主義の要素が取り入れられることになります。

 ここではまず「註釈」についてお話しますが、みなさんは「註釈」と聞いて何をイメージしますか?まず「註釈」という言葉がよく分からない人の方が多いと思います。英語では「註釈」のことをcommentaryと言いますが、コメンタリーというと、DVDなどに付いている副音声のオーディオ・コメンタリーを連想する人もいるかもしれません。オーディオ・コメンタリーでは監督や俳優などが映画のシーンについて解説したり裏話を披露したりしますが、あれは制作者自身によるコメンタリーです。
 哲学の世界における註釈は、本人によって書かれることもありますが、大抵はもっと後の時代の、著者以外の人によって書かれます。つまり註釈とは、哲学的に重要な作品(たとえばアリストテレスの『形而上学』、『魂について』、『カテゴリー論』には多くの註釈が書かれました)に対して、その後の哲学者たちが独自の解釈を加えて解説したもののことを言うのです。言ってみれば「解説本」のようなものですが、誤解していけないのは、現代ですと誰かの本の「解説」を書くより、自分自身のオリジナルな作品を書く方が偉いというイメージがあるかもしれませんが、かなりの時代になるまで、「註釈」は必ずしもランクの低い本だとはみなされなかったということです。むしろ「註釈」という形式をしっかり守って、そのなかで自分のオリジナルな思想を展開するというのがスタンダードな書き方だったのです。だから近世以前の哲学について「註釈という形式主義が主流でオリジナルな思想は展開されなかった」というのは、「オリジナルなものを書くのが一流」という現代的な見方による一面的な評価に過ぎなくて、むしろそういった考え方にとらわれている方が形式主義と言えるかもしれません。

 さて紀元前に活躍したアリストテレスですが、彼の作品にすぐさま註釈が書かれるようになったわけではありません。何とアリストテレスの作品はしばらくのあいだ世間から忘れ去られてしまうのです。その後ロードスのアンドロニコスという人の手によって現在伝わっている形へとまとめられます。アリストテレスの研究が盛んになったのは、それからです。
 現代にまで伝わるアリストテレスの註釈家としてもっとも古いのはアフロディシアスのアレクサンドロスです。(彼以前にも註釈家はいますが、現在ではほとんど顧みられていません。)彼は3世紀ごろのローマ帝国の人で、アフロディシアスはいまのトルコ領内にありますが、当時はギリシア人が数多く住んでいました。アレクサンドロスは数多くのアリストテレスの作品に註釈を書いたのですが、彼の考えでもっとも有名なのが「能動知性」という考え方でしょう。これはアリストテレス『魂について』第3巻第5章にある記述がもとになっています。アリストテレスはそこで知性について語っているのですが、知性を「肉体の死と一緒に滅んでしまう知性」と「死後も消滅しない知性」のふたつに分けました。アレクサンドロスはそこに書かれている「死後も消滅しない知性」のことを「神」だと考えました。アリストテレス自身はそんなにはっきりと書いていないので、いろいろな解釈ができるのですが、アレクサンドロスはそこに彼自身のオリジナルな思想を入れ込みます。これによってアリストテレスの解釈にぐっと幅がでてきます。

 ほかには東ローマの皇帝に仕えたテミスティオスがいます。彼もアリストテレスの註釈をおこないますが、「能動知性」について、アレクサンドロスとまったく違った解釈をおこないます。彼によれば、能動知性は神のような人間の外側にある何か「超越的な存在」ではなく、あくまでも人間のなかにある知性の一側面だといいます。つまり、アリストテレス自身においてまったく問題となっていなかった能動知性という問題が立てられ、それがとてもホットな話題として取り扱われているのです。テミスティオスの書いた、アリストテレス『魂について』の註釈はほぼ完全な形でアラビア語に翻訳され、中世アラビア語哲学にとても大きな影響を与えました。(その割に、中世アラビア語哲学では能動知性にかんしてアレクサンドロス寄りの解釈が主流でした)

 もうひとり重要な註釈家を挙げるとすれば、ヨハネス・フィロポノスがいるでしょう。彼の名「フィロポノス」は「フィロ=好き」と「ポノス=仕事」から組み合わされていて、「勤勉」という意味です。とても真面目な響きのする名前ですね。(ちなみに第二次世界大戦が終わるまで日本で販売されていた「ヒロポン」という薬は、この「フィロポノス」と同じ意味です。ヒロポンがどういう薬か分からない人は、おじいちゃんに聞くといいでしょう。)フィロポノスは6世紀ごろのアレクサンドリアで活躍したキリスト教徒です。彼はキリスト教徒だったので、アリストテレスの註釈を書きながら、キリスト教の教えと合わない部分をどうにか解釈しようとします。フィロポノスの註釈はとても細かくて、ほとんどアリストテレスの作品の一字一句に対して註釈をしています。彼の註釈もアラビア語に翻訳されたことが分かっているのですが、なぜかフィロポノスの作品のアラビア語訳はひとつも現存していません。それではまったく影響を与えなかったのかというとそうでもなく、イブン・シーナーの哲学などには、明らかにフィロポノスの影響を見ることができます。

 ほかにもシュリアノス、オリュンピオドーロス、シンプリキオスなどの註釈家がいますが、中世アラビア語哲学に与えた影響を考えて、とくにアレクサンドロス、テミスティオス、フィロポノスの三人について軽く触れてみました。
 ふつうの哲学史の教科書では完全に飛ばされてしまう分野だと思いますが、一見地味な「註釈」というスタイルのなかに、とんでもないオリジナリティが潜んでいることが分かってもらえたのであれば、いまはそれで充分です。

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【高校生のための中世アラビア語哲学入門】【コラム】質料と形相

   【コラム】質料と形相

 さて、アリストテレス哲学を成り立たせるふたつの要素が「質料」と「形相」です。質料はギリシア語でヒューレー、形相はエイドスと呼ばれます。(質料は最近「素材」と訳されることもあり、その訳の方が分かりやすいとも思いますが、ここでは私も慣れ親しんだ「質料」という訳語を使うことにします。)また英語では質料をmaterial、形相をformと言います。
 この質料と形相、いったい何なのでしょうか?
 一旦日本語から離れて、ちょっと英語で考えてみましょう。materialは「材料」や「素材」のことですね。「物質」という風にも訳せるでしょうか。formはとても広い意味ですが「形」や「姿」といった意味から「形式」といった風にも訳せます。アリストテレスの哲学では、このmaterialとformが組み合わさることによって存在ができあがります。つまり、「物質」と「形式」が組み合わさるのですね。

 だから、私たち人間は、人間の「形相」と、それを受け入れる「質料」から組み合わさっているわけです。この質料というものについて勘違いしてはいけないのは、「質料=モノ」ではないということです。どいういうことかと言いますと、良く分からないけど「何か」がそこにある。それが「質料」だろう。なにしろ「質料」は「物質」なのだから。これは違います。そこにちゃんと何らかのモノとして存在している以上、それは何らかの形相を受け入れているわけです。だから、形相のない質料だけ、言ってみればむき出しの質料のようなものは、私たちの生きているこの世界には存在しないわけです。だから、アリストテレス哲学の場合、ヒューレーを「物質」と訳してしまうと、少し誤解が生じてしまうかもしれないのですね。この質料は四元素(火・水・空気・土)の組み合わせからできていて、この組み合わせが精妙な質料ほど優れた形相を受け入れいることができて、組み合わせが粗雑だと、石ころや草木といったものの形相しか受け入れることができません。
 一方で、人間の「形相」とは一体何だと言うと、これも目に見えない、「人間という種」の設計図のようなものです。こちらも勘違いしていけないのが、私の形相は「私の設計図」ではないということです。これを書いている私は人間で、これを読んでいるあなたもおそらく人間でしょう。その場合、私とあなたの形相は基本的に同じなのです。つまり形相はあくまでも「人間という種」を成り立たせるための設計図なのです。(人間を成り立たせるためのDNAのようなものをイメージすると、現代人には分かりやすいかもしれません。とはいえ、DNAの方は個人間で僅かに差異があるので、正確には対応しませんが…。)

 それじゃあ、アリストテレスの哲学では、私とあなたの区別は付けられないってこと?いえ、そんなことはありません。私は背が高くて、あなたは背が低い、鼻が高い、目が大きい、指が太いといった個人的な特徴はすべて、付帯性(シュンベベーコス)と呼ばれます。ですから、人間としては「質料+形相」で同じ。個々人の違いは付帯性によって区別されるのです。この「質料+形相」をアリストテレスはウーシアと呼びました。これは「本質」とも「実体」とも訳されます。実体が何を指すかは難しいのですが、現に存在しているもの、ぐらいの意味だと考えてもらって大丈夫です。しかし「本質」と「実体」、どうも日本語にするとずいぶん意味が違うように思えないでしょうか?「本質」というと、どちらかというと先に説明した「形相」に近いもののように思えるでしょうし、「実体」というと現に存在しているものですから、「質料+形相」のようにも思えます。つまり、アリストテレスが言うウーシアというのはとても広い意味をもつものだったのですが、そのうちの「本質」と「実体」という意味が段々と分離していくことになります。これは後に「存在と本質」の問題として成立するのですが、いまは何やらウーシアという言葉にただならぬ気配があるということだけ感じてもらえれば結構です。

 ちなみにもっと東に目を向けると、中国の儒教のひとつ朱子学では、この世にあるものすべてを理と気のふたつで説明します。そして、この説明がアリストテレスの質料と形相の説明とそっくりなのです!朱子学の開祖朱熹によれば、この世のものは目に見えない(形而上)法則のような「理」と、それを受け入れて現実化する(形而下)「気」の組み合わせからできていて、この気には陰陽の性質があり、陰陽のバランスがととのった気ほど優れた理を受け入れることができるのです。どうですか?アリストテレス哲学にとても良く似ていないでしょうか?もちろんこの類似性には昔の日本人も気付いており、明治時代の哲学者、井上哲次郎は「存在」や「本質」について考える分野Metaphysicsの訳語として「形而上学」という言葉を作り出したのです。(「形而上」「形而下」という言葉そのものはもっと古い『易経』に由来します。)
 朱熹にたいしてアリストテレス哲学の直接的な影響があったかどうかは分かりませんが、洋の東西でこんなに似た考え方があるというのも面白いものですね。

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【高校生のための中世アラビア語哲学入門】3-1アリストテレス哲学

第三章 思想的な流れ

 ――アリストテレス哲学

 前章までで、中世アラビア語哲学をめぐるおもに歴史的な背景についてお話しましたので、ここでは逆に思想的な背景について説明することにしましょう。20世紀のイギリスの数学者、哲学者であったアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは西洋哲学を「プラトンの註釈の集まりからできあがっている」と言いましたが、少なくとも中世アラビア語については当てはまりません。むしろ「中世アラビア語哲学は、アリストテレスの註釈の集まりからできあがっている」と言った方が正確でしょう。(もちろんホワイトヘッドはそのアリストテレスすらプラトンの註釈であるという意味を込めているのでしょうが。)
 これはいったいどういうことでしょうか?

 以前もお話したように、中世アラビア語哲学が形成されるきっかけのひとつとして、アッバース朝の時代における大規模な翻訳運動があり、それには「先進的なギリシアの学問を取り入れる」という動機がありました。ですからなによりも哲学は「学問」、当時の最先端の「科学」として導入されたのです。そのため、これは重要なことなのですが、ギリシア語からアラビア語に翻訳された文献のなかに「文学作品」はほとんど含まれていません。ホメロスの叙事詩やソフォクレスの悲劇、アリストファネスの喜劇など、古典ギリシアの膨大な文学作品に、アラブ人たちはほとんど興味を示さなかったのです。
 そして、現存するプラトンの作品は、偽書だとされているいくつかの書簡を除けばすべて「対話篇」、つまり演劇のシナリオのような、ある意味「文学的」なものなのです。ですから文学的な香りのするプラトンよりも、キッチリとした論文形式のアリストテレスの方が好まれたということは言えるでしょう。9世紀ごろから開始されたアリストテレスのアラビア語翻訳はものすごい勢いで進められ、だいたい10世紀の前半にはほぼすべてのアリストテレスの作品がアラビア語で読めるようになります。このように、中世アラビア語哲学の骨格はアリストテレス哲学でできあがっているため、彼らは敬意を込めてアリストテレスのことを「第一の師」と呼びます。

 それでは、「第一の師」アリストテレスは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
 アリストテレスは紀元前384年、マケドニアに生まれます。マケドニアとはギリシアのすぐ北に位置する国で、民族的にはギリシア人が作った国ですが、都市国家のアテネやスパルタと違って、王が支配する王国でした。彼はそのマケドニアのスタゲイラで生まれたため、「スタゲイラのアリストテレス」と呼ばれることもあります。青年になってからアテネにある哲学の学園アカデメイアで学びます。ここはプラトンが作った学園で、アリストテレスはここで20年ほど勉強します。その後プラトンが亡くなると故郷のマケドニアに帰り、王子のアレクサンドロスの教育を引き受けます。このアレクサンドロスこそ、後の有名なアレクサンドロス大王、つまりアレクサンドロス三世です。アリストテレスがアレクサンドロスに教えたのは彼が即位するまでの6年ほどのあいだだったと言います。その後アリストテレスはアテネに戻り、自らの学園リュケイオンを建て、そこで哲学を教えます。アレクサンドロス大王はインドに到達するほどの大帝国を建設しますが、遠征途上病に倒れ、帝国は瓦解します。当然ながらその間マケドニアに抑圧されていたアテネでは反マケドニアの空気が生まれます。アリストテレスもマケドニア人だったため、迫害を逃れるために亡命しますが、紀元前322年、亡命先で亡くなります。62歳でした。

 そんな彼の哲学はとても広範囲にわたります。日本で出版されているアリストテレス全集や岩波文庫の本などを見てもらえば分かりますが、『形而上学』や『魂について』といった「いかにも哲学的」な本以外にも、『動物誌』や『天について』など博物学的な本、『カテゴリー論』や『命題論』のような論理学的な本も書いています。そしてこれらがすべてまとめて「哲学」と呼ばれていたのです。アリストテレス哲学はこのように幅広い分野をカバーしているので、彼の哲学についてひとことで言うのは難しいのですが、もしひとつだけ言うなら、それはプラトンの哲学に比べて「経験主義的」な面をもっているということです。(プラトンの哲学については後で説明します。)
「アリストテレスの提灯」という言葉があります。これは何のことでしょうか?アリストテレスが発明した灯りのことでしょうか?じつはこれ、ウニの口のところにあるクチバシのような部分のことなのです。アリストテレスはウニを観察して、このクチバシが提灯に似ていると書き記したので、後の人びとはこの部分を「アリストテレスの提灯」と呼ぶようになったのです。
もちろんアリストテレスの哲学は観察や経験だけを取り扱うのではなく、経験に左右されない絶対的な真理のようなものも取扱います。しかしアリストテレスは「真理に近いもの」と「我々に近いもの」は別だと考えます。そして、私たち人間は「我々に近いもの」、つまり経験からしか出発できないのですから、まずは経験から思考を出発させなければならないと言います。

 また、アリストテレスの作品にはたいてい、彼以前の哲学者たちの考えがまとめられています。つまり、ほかの哲学者はこのように考えていたのだけど、彼らの意見はこのような理由によって不充分である、だから私はこのように主張する、という風に書くのです。これは現代では「先行研究」の検討といって、論文など学術的なものを書くときには必ずやることです。これは文系、理系にかかわらずやらなければならないことです。これを最初に始めたのがアリストテレスなのです。だから、その意味でもアリストテレスは今日にまで続く「学問」のフォーマットを作った人と言えるかもしれません。

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2016年11月6日日曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学】2-2正統カリフたちの時代

 ――正統カリフたちの時代

 ムハンマドが632年に亡くなると、ムスリムの有力な長老たちはすぐに会議を開きます。ムハンマドの盟友であり、男性では最初にムスリムになったアブー・バクルムハンマドに下された啓示を守りイスラームを信じてゆくことを主張しましたが、少なくない族長たちが、「自分はムハンマドに従ったわけであって、イスラームに心から改宗したわけではない、だからムハンマドが死んだ今、契約は無効になった」などと主張して、イスラームから離反しようとします。結局アブー・バクルが初代のカリフとなりイスラームという宗教は存続しますが、アブー・バクルのカリフとしての2年ほどという短い期間は(アブー・バクルムハンマドよりも年上でした)、ほぼこの離反(リッダ)を鎮圧することに費やされました。
 ここでいま「カリフ」と言いましたが、これはアラビア語の発音に近づけると「ハリーファ」または「カリーファ」となり、「代理人」という意味です。つまりアブー・バクル以下のカリフは、「神の使徒(ムハンマド)の代理人」としてイスラームの共同体を指導していくということなのですね。

 アブー・バクルの次はウマル・イブン・ハッターブがカリフになります。ウマルは豪傑として知られた人物であり、最初の男性ムスリムでムハンマドの年上の友人だったアブー・バクルの次の人選として、みなが納得するものでした。ウマルは最初「神の使徒の代理人の代理人」と名乗っていたようですが、のちに「信徒たちの指揮官」(アミール・アルムウミニーン)と名乗るようになります。これはカリフの別名としてその後も定着してゆきます。(もし「神の使徒の代理人の代理人」が定着していたら、その次は「神の使徒の代理人の代理人の代理人」となり、大変なことになるところでした。)
 アブー・バクルの時代にアラビア半島の離反(リッダ)は鎮圧できたので、ウマルの時代はまさにイスラームの大躍進でした。メソポタミア地方、エジプトを次々と征服してゆき、642年にはニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを破り、400年続いたササン朝ペルシア帝国を壊滅状態に追い込みます。(ササン朝の滅亡がいつになるかは意見が分かれるところですが、ニハーヴァンドの戦いの642年とする見方もあれば、再起を図って落ち延びていたヤズデギルド3世が殺された651年とする見方もあります。)
 このようにイスラームの大躍進を果たしたウマルでしたが、644年、彼に恨みをもった異教徒の奴隷に暗殺されてしまいます。

 第三代目のカリフにはウスマーンが選ばれましたが、彼の時代に特筆すべきなのは、イスラームの聖典『コーラン』がまとめられたことです。それまでも預言者ムハンマドの啓示を書き記すことはされていたそうなのですが、基本的に啓示は口伝えで信者にくだされ、ムハンマドから直接啓示を聞いた者たちは教友(サハーバ)と呼ばれ、啓示は基本的に彼らの頭のなかに記憶されていました。ところがそれだと記憶違いも出てくるし、なにより度重なる戦争でこの教友たちの数が少なくなっていきます。そのためウスマーンは預言者の啓示を正しい形で残すことを命令し、彼の時代に『コーラン』がまとめられたのです。ですから現存する『コーラン』はウスマーン版とも呼ばれます。『コーラン』をアラビア語で発音すると『クルアーン』の方が近いのですが、ここでは一般に広まっている『コーラン』という呼び方を使うことにします。「クルアーン」とは「朗誦するもの」という意味です。
 キリスト教やユダヤ教の聖書が基本的には数多く残っている写本同士をつきあわせて作り出されたテキストなのに対して、『コーラン』はこのようにかなり早い時期(ムハンマドの死後17年ほど)に決められたので、「異読」というものが基本的にありません。さいきんはウスマーン版よりも古いコーランの写本が見つかったりしていますが、基本的には現行のものと同じ(または異読があっても僅か)ということのようです。
 またカリフはこれまでムハンマドの出身部族、クライシュ族から選ばれていたのですが、ウスマーンはクライシュ族のなかのウマイヤ家の出身です。世界史を習った方は「ウマイヤ」という言葉、聞いたことがありませんか?そう、正統カリフの後に最初のアラブ人の王朝となった「ウマイヤ朝」です。ウマイヤ朝は同じくウマイヤ家の出身でウスマーンの親戚でもあったムアーウィヤによって開かれます。
 軍事的にはウマルの拡張路線の後始末に翻弄されていまひとつだったウスマーンですが、彼も暗殺されてしまいます。しかもウマルの場合は異教徒の奴隷だったのですが、ウスマーンの場合は彼に不満をもったムスリムたちに暗殺されてしまいます。ウスマーン自身は穏やかで謙虚な人物だったと言われますが、彼にいろいろと便宜を頼むウマイヤ家の押しに負けて、ウマイヤ家重視の政策をとってしまい、ほかのクライシュ族の恨みをかったのが原因でした。

 第四代のカリフには、アリーが選ばれます。アリーの父親は未成年のムハンマドの後見人となったアブー・ターリブですので、アリームハンマドのいとこということになります。(アリーの方がずっと年下ですが。)彼が第四代目にして最後の正統カリフになります。
 アリーのカリフ就任は最初から問題含みでした。彼のカリフ就任には、ウスマーンの親戚で当時ダマスカス総督をしていたムアーウィヤと、ムハンマドの妻にしてアブー・バクルの娘であるアーイシャが反対します。アリーはまずアーイシャとその賛同者の軍勢を蹴散らします。(この戦いではアーイシャ自らがラクダに乗って出陣したことからラクダの戦いと呼ばれます。)ここにおいてはじめて、ムスリム同士が大きな戦いをおこなったということで、イスラーム内部での最初の「内戦」と言えるかもしれません。残る敵はムアーウィヤなのですが、ムアーウィヤは第三代カリフ、ウスマーン暗殺の首謀者はアリーだとして、血の復讐を主張します。本当のところはどうか分かりませんが、ウスマーン暗殺の動機はウマイヤ家優遇政策なわけですから、言ってみればウマイヤ家以外のクライシュ族全員に動機があるともいえます。ところでアリーは剛毅、直情径行な豪傑として知られ、その武勇は有名でした。一方でムアーウィヤは「私の鞭が仕えるなら私の剣は使わず、私の舌が仕えるなら私の鞭は使わない」という言葉も残っている人物で、どちらかというと策略家タイプの冷静沈着な人物でした。もちろんアリーと直接正面からぶつかって勝てるわけがありません。彼はお得意の策をめぐらしアリーと和睦します。すると、ムアーウィヤには「アリーと引き分けた実力者」という評判がつき、アリーには「武勇に優れたカリフなのに文弱なムアーウィヤを和睦を結んだ腰砕け」という評価がくだされます。これは一部のアリー支持者にとって衝撃的なことで、彼らは熱心なアリーの味方だっただけに、ムアーウィヤの口車に乗せられたアリーに失望し、悲しみ、怒ります。彼らを「ハワーリジュ派」(離脱者)と呼び、彼らは歴史上イスラームで最初の分派となります。ハワーリジュ派たちはムアーウィヤアリーの両方に刺客を送ります。そのあいだにムアーウィヤはダマスカスから勝手に「カリフ」を名乗り始めます。しかし一度腰砕けの評価がくだされてしまったアリーはまず味方の動揺を納めなければならず、そうこうしているうちにハワーリジュ派の刺客に暗殺されてしまいます。一方で何事にも慎重だったムアーウィヤは暗殺を警戒していたので暗殺を逃れることができました。
 これで正統カリフ四人のうち、三人までもが暗殺という最期を遂げたことになります。

 それでは次のカリフは誰か?
 もちろんすでにダマスカスでカリフを自称していたムアーウィヤが一番の候補者ということになります。彼なら名声、実力ともに申し分ありません。しかしおさまらないのがアリーの支持者たちです。彼らは長老たちの合議でなく、実力で勝手にカリフを名乗ったムアーウィヤを認めず、アリーの息子、ハサンフサインと担ぎ出します。これが「アリー派」(シーア・アリー)です。日本語ではシーア派と呼ばれていますが、シーアとはアラビア語で「派閥」という意味なので、シーア派だと「派派」になってしまうのですね。
 とはいえ大半のムスリムはムアーウィヤのカリフを認めます。そこで彼らは「慣行」(スンナ)に従った人々ということで「スンナ派」と呼ばれます。

 ムアーウィヤのカリフ即位により正統カリフの時代は終わりをつげ、ムアーウィヤの出身部族ウマイヤ家の名を冠した「ウマイヤ朝」が最初のアラブ人の作った王朝として成立します。661年、ムハンマドが亡くなってから27年後のことでした。

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2016年11月2日水曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学】2-1イスラームの誕生

第二章 歴史的な流れ

 ――イスラームの誕生

 第二章と第三章では、中世アラビア語哲学が形成されるまでの流れを、歴史的、思想史的な観点から見ていきたいと思います。まず第二章では歴史的な側面に目を向けてみることにしましょう。
 中世アラビア語哲学には、「イスラーム哲学」と違って宗教色が希薄です。哲学者たちは必ずしも反宗教的な姿勢を示したわけではありませんし、(哲学者がムスリムの場合)大抵の人たちは自らを敬虔なムスリムだと考えていました。しかし、ギリシアから輸入された「哲学」という外来の学問と、土着の宗教であるイスラームが馴染みにくかったというのは否定できません。
 とはいえ、彼らは主にイスラームを信奉する王朝に仕えていましたし、彼らが活躍したのはムスリムが多数派を占める地域であったというのもまた事実です。ですから、第二章はこの「イスラーム」という宗教の成り立ちを簡単に振り返ることから始めたいと思います。

 イスラームというと、ときどき中東=メソポタミアという連想からか、ユダヤ教やキリスト教の元になったと思っている人がいますが、これは大きな誤解であり、これら三つの宗教のなかではもっとも新しいものです。ユダヤ教がもっとも古く、ユダヤ王国を盛り上げたダビデ王の戴冠は紀元前1000年だと言われています。とはいえ、ユダヤ教の聖典『旧約聖書』がそのころに存在していたわけではなく、いまの聖書の核になるようなものが集まり出してきたのは紀元前5世紀以降だとされています。その後、現在のパレスチナに住んでいたユダヤ人のなかからイエスという男が現れ、ローマ帝国によって処刑された彼を神の子だとする「キリスト教」運動が、彼の弟子たちのあいだで次第に盛んになっていきました。キリスト教の聖典「新約聖書」が書かれたのは、もっとも古いとされるパウロの手紙が50年ごろ、もっとも新しいヨハネ福音書が100年ごろとされています。(ちなみに、教団としてのキリスト教の成立に深くかかわったパウロは生前のイエスに一度も会ったことがありません。)そして、イスラームは預言者ムハンマドがメッカからメディナに逃れた(聖遷=ヒジュラ)622年を元年としていますから、キリスト教よりも600年ほど新しいということになります。日本に目を向けてみると、聖徳太子が亡くなったとされるのが622年だと言えば、イメージがわくでしょうか。

 イスラームの預言者ムハンマドはメッカの豪族クライシュ族に生まれます。ただし彼の父親は彼が生まれる前に亡くなっているので、部族では叔父のアブー・ターリブの庇護を受けていました。成人したムハンマドはほかのクライシュ族の男子と同じように交易商になり、25歳のころ15歳年上の裕福な未亡人ハディージャと結婚します。その後ハディージャと力を合わせながら商売をおこなっていったムハンマドですが、40歳になったころ、突然心のなかに言い知れない悩みが沸き起こり、メッカ郊外にあるヒラー山の洞窟にこもって瞑想をおこなうようになります。若いころから交易商として一生懸命はたらいて、40歳になってひと段落したとき、ふと何か心に感じるものがあったのでしょうか。(当時の40歳は、現在の60歳ぐらいの感覚だと思えば分かりやすいです。)
 あるとき、いつものように瞑想をおこなっていると、突如ムハンマドの耳に「読め!」という声が聞こえます。これが天使ジブリールで、彼に神からの啓示を伝えます。ジブリールとはキリスト教でいうところの天使ガブリエルのアラビア語風発音で、マリアイエスの受胎を伝えたのもガブリエルだとされています。メッセンジャー的な役割を担う天使なのですね。突然の啓示にうろたえているムハンマドを励まし、最初にイスラームに改宗したのも妻のハディージャです。
 その後も断続的に啓示は下され、神の教えを伝えるムハンマドのもとに人々は集まってきますが、当然ながらメッカに住む住民の多くはイスラームにたいして懐疑的であり、ムハンマドのもとに集まる集団はわけのわからない新興宗教として危険視されます。これはイエスのもとに集まった集団が当時のユダヤ教から危険視されたのと同じであり、現在は長い歴史をもつ宗教であっても、それが成立したときには「新興宗教」だったということがよく分かります。
 迫害を受けながらも教団を維持していたムハンマドですが、619年に叔父のアブー・ターリブと妻のハディージャが亡くなり、メッカ住民からの迫害はさらに激しくなります。迫害がひどくなって、このままでは命の危険もあるかもしれないというとき、ヤスリブという街の住民から部族間の抗争の調停者としてムハンマドが呼ばれます。部族の対立を無関係の第三者に収めてもらうためということですが、こういった役割にムハンマドが選ばれるということは、ヤスリブの住民から彼がメッカの有力者のひとりとみなされていたことが分かります。ムハンマドは親友のアブー・バクルと共に、夜陰にまぎれてメッカを脱出します。メッカ側はムハンマドに刺客を差し向けましたが、なんとか無事にヤスリブに到着します。これが622年、聖遷(=ヒジュラ)と呼ばれるものです。
 ムハンマドを迎えたヤスリブはその後「預言者の街」(マディーナ・アンナビー)と呼ばれるようになります。このマディーナが訛ったものがメディナです。だから、メディナだけだと「街」という意味になってしまいます。ヤスリブ=メディナに拠点を移したムハンマドはその後もどんどん勢力を拡大していき、ムハンマド率いるメディナとメッカは何度も戦いを繰り広げます。攻防は一進一退でしたが、ついに630年、ムハンマドはメッカに無血入城します。当時のメッカでは多神教が信じられており、カアバ神殿には数々の神様の像(偶像)がまつられていました。メッカに入城したムハンマドはまず、このカアバ神殿にあった神様の像をすべて破壊しました。イスラームでは唯一の神様(アラビア語ではアッラーと言います)のみを信仰するべきで、数多くの神様を信じたり、神様の像を拝んだりすることは禁止されているからです。もちろんこれはユダヤ教でもキリスト教でも同じですが、キリスト教の場合、とくにカトリックはイエスの像やマリアの像が教会にあったりしますから、少し違いますね。(キリスト教でもプロテスタントにはカトリックのこういった態度を良く思わない人もいます。)
 その後632年にムハンマドはメッカに巡礼をおこなったさいに亡くなりますが、その後継問題を巡って、ふたたび大問題が生じてしまいます。
 ムハンマドに下された啓示は聖遷を境にして前半をメッカ期、後半をメディナ期と呼ばれます。メッカ期の啓示は一般的に短く、畳み掛けるような調子で、非常に緊張感の強いものが多く、内容もこの世の終わりなど、いわゆる「終末論」的な雰囲気のものが目立ちます。かわりにメディナ期の啓示はひとつひとつが長く、内容も共同体の決まりごとについてなどが多くなっていきます。これはイスラームという共同体がそのときどきに必要としている啓示が、そのときに応じて下されていったということなのでしょう。
 また、日本人などはときに褒める気持ちからも『コーラン』の(とくにメッカ期の)啓示を「詩のようだ」と言いますが、これはムスリムからするととんでもない言葉であるということは知っておいた方がいいでしょう。なぜなら詩とは、あくまでも人間や精霊などが作り出すもので、神が直接くだす啓示とはまったく別物だからです。実際ムハンマドも当時は「詩人」と呼ばれることがあり、これにたいして「もしこの神の啓示を詩と言うなら、詩人たちはこれに匹敵するぐらいのものを作ってみせろ」と返しています。

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2016年11月1日火曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】1-5なにが論じられていた?

 ――なにが論じられていた?

 それでは、このようなエリート哲学者たちが熱心に学んでいた「哲学」の中身はいったいどういうものだったのでしょうか?当時の哲学者たちが学んでいたものは、一般的にアリストテレスの流れを汲む哲学であり、ペリパトス派とも呼ばれています。ペリパトスとは「歩きまわる」という意味なので(アリストテレスは自らの学園リュケイオンで仲間たちと散歩しながら議論を交わしたといいます)、日本では別名「逍遥学派」ともいいます。これをアラビア語では「マッシャーイー」といいます。
 ではマッシャーイーたちが学んでいたのは、アリストテレスの哲学だったのでしょうか?このような質問は奇妙に聞こえるでしょうか?マッシャーイー=ペリパトス派はアリストテレス学派という意味なのだから、そこで学ばれているのはアリストテレスの哲学、当然でしょう?と。
 それが違うんです。これは「アリストテレス以外の学問も含まれている」という意味と、「アリストテレス哲学のなかに違う要素が入り込んでいる」という意味の、ふたつの意味で違います。
 それではためしに、中世アラビア語哲学最大の巨人、イブン・シーナーの主著『治癒の書』の構成を見てみることにしましょう。この作品はイブン・シーナーの弟子ジューズジャーニーの報告によると、日々の政務で弟子たちに講義をする時間のなかったイブン・シーナーが、当時のペリパトス派の議論をすべて網羅した本を書くから、弟子たちはこれを学んで彼の政務の邪魔をしないようにとの目的で書かれたということです。ですから『治癒の書』では、イブン・シーナーが考える、ペリパトス派の学問体系がすべて網羅されているということになります。(とはいえ結果的に『治癒の書』の内容そのものは「教科書」というよりもイブン・シーナーの独自色の強いものになってしまったので、ジューズジャーニーは『治癒の書』冒頭に弁解じみた序文を書いているのですが。)

 『治癒の書』は以下のような四部構成になっています。

 第一部:論理学
 (1)入門篇(エイサゴーゲー)、(2)カテゴリー論、(3)命題論、(4)分析論前書、(5)分析論後書、(6)ソフィスト反駁、(7)トピカ、(8)弁論術、(9)詩学
 第二部:自然学
 (1)自然学講義、(2)天について、(3)生成消滅論、(4)鉱物論、(5)気象論、(6)魂について、(7)植物論、(8)動物論
 第三部:数学
 (1)幾何学、(2)天文学、(3)算術、(4)音楽
 第四部:形而上学

 どうでしょうか?アリストテレスの学問体系について少し詳しい人なら、「あれ?」と思うはずです。
 まず論理学ですが、最初に入っている「入門篇」(エイサーゴーゲー)は、アリストテレス自身の作品ではなく、新プラトン主義者のポルフュリオスが書いた「カテゴリー論」への入門書『エイサゴーゲー』をもとにしています。その後は古代において「オルガノン」(=道具)と呼ばれた論理学の本が続くのですが、通常は論理学に含まれない「弁論術」と「詩学」もここに含まれています。この並べ方は、後期古代のアレクサンドリア学派の学問分類が影響を与えていると言われています。
 第二部の自然学についてはそれほど問題がないかもしれません。アリストテレスの「植物論」は聞いたことがないかもしれませんが、これは現在ギリシア語では残っていないのですが、アラビア語の翻訳は残っています。ですから、自然学はおおむねアリストテレスの学問体系をなぞったものと言えるでしょうか。
 第三部の数学がまた困りものです。このなかには、アリストテレスの学問はひとつも含まれていません。たとえば「幾何学」はもちろんエウクレイデス(=ユークリッド)の『原論』をもとにしていますし、「天文学」はプトレマイオスの『アルマゲスト』です。「算術」はニコマコスの『入門書』、「音楽」はプトレマイオスの『ハルモニア論』をもとにしています。そもそも天文学や音楽を数学に含めるのは、現代人の目からすると奇妙に思えるかもしれませんが、天文学は天体の運動法則、音楽は音階の比例を取り扱うということで、数学の一分野とみなされていました。
 第四部の「形而上学」はもちろんアリストテレスの『形而上学』がもとになっており、これだけ一冊でひとつの部を構成しています。

 アリストテレスの学問をもとにしながら、そこに不足しているもの(おもに数学など)は別のところから引っ張ってきていることが分かります。これが「アリストテレス以外の学問も含まれている」という意味です。
 それでは、「アリストテレス哲学のなかに違う要素が入り込んでいる」とはどういう意味でしょうか?それについては「新プラトン主義」という要素を抜きにしては語れないのですが、ここでは長くなってしまうため、また後で詳しく説明することにします。

 ところで、上のリストを見て、奇妙に思った人はいませんか?当時の哲学者には医者が多かったというのに、このなかに「医学」が含まれていません。当時の医学はローマ時代の医者ガレノスの体系を引き継いでいたのですが、実は医学は「実践的な学問」として、哲学よりも下に置かれていたのです。そして人間の仕組みについて、心や認識、知性の分野は「魂について」、身体の構造については「動物論」で論じられているのです。この区別は、中世アラビア語哲学にとって、とても重要な意味をもっています。上で挙げられた『治癒の書』に含まれている学問はすべて「思弁的・観想的な学問」で一般法則を扱うものです。当時はこれこそが学問だと思われていました。逆に「医学」や「工学」といった「実学」は、それぞれのケースによって法則が当てはまることもあり、当てはまらないこともあるため、「実践的な学問」として学問的な価値の低いものとみなされていたのです。この「思弁的・観想的な学問>実践的な学問」という構図は、実学重視、役に立つものこそ学ぶべき価値があるという現代社会に生きている私たちからすると、少し奇妙に思えるかもしれません。しかし当時の人たちにとって、法則性があるものこそが尊いのであり、その意味では「基礎数学」や「基礎物理学」の重要性を訴える現代の数学者や理論物理学者たちと近い考え方をしていると言えるでしょう。
 また忘れてはならないのは、この時代「医学」や「工学」や「光学」といった実践的な学問もまた大きく発展したということです。権力者たちには、哲学者のもつ「実践家」としての側面も大いに期待されていたでしょうし、彼ら自身もその期待に応えています。ただし、現代の言葉を使っていえば、「基礎科学」と「応用科学」のうち、「基礎科学」こそを徹底して学ぶべきであり、「応用科学」はあくまでもその「応用」に過ぎない、というのが中世アラビア語哲学を通じての基本姿勢だったように思われます。
 超絶エリートたちが学ぶ、一般法則にかんする学問の体系(論理学、自然学、数学、形而上学)を総称して「哲学」と呼んでいたのです。(そしてそのサブカテゴリーに「医学」や「工学」などの実践的学問が含まれます。)

 中世アラビア語哲学がどのような時代のもので、どのような地域のもので、そして誰がそれを担い、どういったことが論じられていたか、だいたいのことは分かってきたでしょうか?とても複雑ですので、すぐには分からなくて結構です。しかし、これ以降を読み進めるうちに、少しずついろいろな情報がつながっていくのではないかと思います。分からないときは立ち止まって考えるのもいいですし、そのまま読み飛ばして後で戻ってくればいいや、というのでもかまいません。良くないのは「何がなんでも分からなきゃ」という気持ちです。ゆっくり進んでいきましょう。
 それでは第二章では、中世アラビア語哲学を取り巻く歴史的な背景を、もう少し詳しく見ていくことにしましょう。

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【高校生のための中世アラビア語哲学入門】1-4誰によって担われていた?

 ――誰によって担われていた?

 みなさんは「哲学者」と聞いてどのような人を思いうかべますか?図書館や研究所にこもって、カビのはえた古文書をめくっている老人でしょうか?それとも、山奥や沙漠に隠れ住んで、世間の喧騒から離れて真理について思いを巡らせる修行僧のような人でしょうか?もちろん、そういった哲学者たちがいたのは事実ですし、少なくとも最近の哲学者となると、サルトルなど少数の例外を除けば、大学の先生をしていますから(これは日本でも外国でもだいたい同じです)、「世間知らず」といったイメージがつきまとうのは、ある意味当然のことかもしれません。
 しかし、そういったイメージを中世アラビア語哲学に当てはめるのは間違っています。この時代、哲学をおこなっていた人たちの代表的な職業を挙げれば、「政治家」、「医者」、「翻訳家」、「科学者」といった人たちになります。そして、これは重要なところなのですが、「宗教家」や「神学者」はひとりもいません。ヨーロッパのスコラ哲学が主に修道院に所属するキリスト教の神学者たちによって担われたのとは対照的です。(もちろん「アラビア語哲学」に限っての話です。「イスラーム哲学」の担い手には、神学者もいっぱいいます。)

 現代の日本において、哲学を勉強すると言えば、少なくとも就職とはまったく関係のないことを学ぶということであり、医学や科学とはまったく関係ないものとみなされています。でもこの時代、「哲学」を学ぶのは、きわめて特権的なエリートだけだったのです。
 なぜ、そのようなことが起こったのでしょうか?
 先ほども述べたように、アッバース朝の時代になって社会が安定すると、ギリシアなどの先進的な地域の学問をアラビア語に翻訳する運動が盛んになります。そして、カリフや有力者などは先進的な学問を取り入れるために、こういった翻訳活動に莫大な予算を付けて、こぞってギリシア語の文献を翻訳させます。そこで活躍したのが、ギリシア語にも堪能なキリスト教徒たちでした。そして、こういったギリシアの先進的な知識の頂点に輝いていたのが「哲学」だったのです。当時はまだ「科学」というものが独立して立てられていたわけではなく、現代の私たちが「サイエンス・自然科学」として思いうかべる内容は、哲学の一分野「自然学」で学ばれていました。(余談ですが、「サイエンス」とはもともと「知識・学問」といった程度の意味しかありません。それが今では「自然科学=サイエンス」とみなされています。それ以外の学問はサイエンスではないのでしょうか?)
 ですから、当時のエリートたちにとって、「哲学を学ぶこと」といえば、「ギリシアの学問を学ぶこと」とほぼ同じ意味だったのです。彼らは大抵の場合、権力者の庇護を受け、大臣や医者、ほかにも法学者などの立場で王様などに助言をする立場でした。現代から見ると、哲学者が文部科学大臣や厚生労働大臣に就任しているようなものです。不思議な感じがしますか?でも、もとをたどれば「哲学」はつねに政治と隣り合わせでした。ソクラテスは若者の扇動者として政治的な理由で裁判にかけられ、プラトンはシチリアの若い独裁者を教育して理想国家を作ろうとしました。また、アリストテレスアレクサンドロス大王の家庭教師をしていました。その流れを考えると、中世アラビア語哲学の担い手たちが政治にきわめて近い位置にいたのも、まったく不思議ではありません。むしろその後の哲学者たちがだんだん政治から離れていったのは、本来の哲学の姿からすると奇妙な変化なのかもしれません。

 以上のように、中世アラビア語哲学を盛り上げた哲学者たちは、大抵が政治の中枢にいるエリートたちでした。そのため中世アラビア語哲学は権力者と非常に近い立場を得ることができたのです。でも、これには思わぬ副作用もありました。当然といえば当然なのですが、当時の一般庶民からすると「哲学者」というのは「権力者のそばでよくわからないギリシア(=異教徒)の学問を講義しているいけすかない奴ら」というイメージです。そして哲学者たちの方も、自分たちがエリートであることを隠そうとしません。この亀裂に神学者たちが割って入り、民衆の側について、「哲学のような有害な学問は追放すべきだ!」と反対運動をするということもしょっちゅうありました。「アラビア語哲学」が「イスラーム哲学」に形を変えざるをえなかった理由のひとつに、このようなエリート主義も関係しているかもしれませんね。

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2016年10月31日月曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】【コラム】「東方哲学」とはいったいなにか?

  【コラム】「東方哲学」とはいったいなにか?

 さきにも述べたように、「東方哲学」とはイブン・シーナーが考え出した用語で、晩年の彼は自らの哲学を「東方哲学」と呼んでいます。これは現在の研究によると、「西方哲学」つまり「バグダード学派」に対抗するために自らの哲学をそう呼んだのではないかと言われています。(イブン・シーナーが生きていた時代、まだアンダルシアに哲学は興っていませんから、彼にとって西方とはバグダード学派のことでした。)
 つまり、彼の提唱した「東方哲学」とは、純粋に地理的な要素によって名付けられたものだったということです。実際にイブン・シーナーの哲学とバグダード学派の哲学を見てみても、それほど極端に違うということはありません。それに彼はバグダード学派のひとりファーラービーからも強い影響を受けていますから、まったく別ものになるわけがありません。

 しかし、これまでこの「東方哲学」という言葉の意味をめぐって、少なからず論争がなされてきたのも事実です。それは、アンリ・コルバンに代表される、そしてもっとさかのぼれば19世紀のアウグスト・フェルディナンド・メーレンにまで行きつく、イブン・シーナーと神秘主義を結び付ける考え方に端を発します。コルバンはドイツの哲学者ハイデガーの『形而上学とは何か?』を最初にフランス語に翻訳した人物でもあり、彼自身とても優れた思想家だったのですが、彼はイラン的な神秘哲学を熱心に研究していました。そのためイラン的な神秘哲学を最終的な到達地点にあらかじめ設定して、そこに行きつくまでの筋道を組み立てるという手法を取ったのです。
 イブン・シーナーの晩年の著作に『示唆と暗示』というものがあるのですが、メーレンはその著作の後半が神秘主義(スーフィズム)であると主張したのです。コルバンはそれに乗っかる形で、イブン・シーナーは晩年に至って神秘主義に目覚め、イラン的な神秘哲学の第一歩を踏み出したとしたのです。つまり、イブン・シーナーの哲学は基本的に新プラトン主義的なアリストテレス哲学であり、それはコルバンから見るとギリシア哲学の借り物に過ぎません。しかし彼が晩年になって編み出した彼独自の「東方哲学」こそ、イラン的な、真にオリジナルな哲学の萌芽ということになります。(イブン・シーナーはペルシア(=イラン)系の出自です。)
 ですからコルバンは彼の「東方哲学」に神秘的な意味を込めようとします。それは西洋に対するオリエントでもあり、「光出づる地」の神秘的な哲学でもあります。

 イブン・シーナーより後にシリアのアレッポで処刑されたペルシア系の哲学者にスフラワルディーという人物がいます。彼の主著は『照明叡智学』などと呼ばれますが、コルバンはこれを『東方神智学』と訳します。どういうことかというと、スフラワルディーがここで使用している「照明」(イシュラーク)というのは、「東方」(マシュリク)と同じ語根の言葉で、アラビア語においてふたつの言葉は割と入れ替え可能なのです。そこでコルバンスフラワルディーのなかに、イラン的な「東方哲学」の流れを見出して、イシュラークを「東方、オリエント」と読んだのです。またコルバンスフラワルディーの「照明哲学」のなかに、光の宗教ゾロアスター教のモチーフを積極的に見つけ出そうとします。(もちろんスフラワルディー自身もこういったイメージを意識的に使っています。)但し、スフラワルディーのこの「光」のイメージは、現在ではむしろプラトン主義とのつながりが注目されています。(プラトンにおいて、善のイデアは太陽、つまり光なのです。)

 「東方」という言葉は、使う人によってかくも特別な意味が込められる言葉なのだということは、少し気を付けておいた方がいいかもしれませんね。

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【高校生のための中世アラビア語哲学入門】1-3どんな地域の哲学?

 ――どんな地域の哲学?

 それでは、中世アラビア語哲学がおこなわれていたのは、どのような地域なのでしょうか?
 もちろん、アラビア語が文章語として使用されている地域であり、それはこの時代、ほとんどイスラームという宗教の範囲と重なります。しかしイスラームという宗教を信仰していても、日常的には自分たちの言葉を話しているという地域も多いです。たとえばこの時代でも、ペルシア系の人々が住む地域(現在のイランよりも広い)では、人びとは日常的にはペルシア語を話し、文章を書くときだけアラビア語を使用しました。
 また、イスラームが信仰されている地域とだいたい重なりますが、そこには数多くのキリスト教徒やユダヤ教徒など、ムスリム(=イスラム教徒)以外の人びとも住んでいました。このように、中世アラビア語哲学がおこなわれていたのは、きわめて多種多様な人びとが暮らす、広大な地域なのです。

 もう少し具体的にお話しましょう。中世アラビア語哲学がこのようにとても広い範囲でおこなわれていたとはいえ、そこには大きく分けてふたつのグループがあります。ひとつは現在のイラクやイラン以東などを中心とした「東方哲学」のグループ。もうひとつはアンダルシア(現在のスペイン)を中心とした「西方哲学」のグループです。そして「東方哲学」はさらに、バグダードを中心とした「バグダード学派」と、ホラーサーン(現在のイラン東部からアフガニスタン)、トランスオクシアナ(現在の中央アジア)などさらに東で栄えた「東方哲学」があります。「東方哲学」という言葉がふたつも出てきてまぎらわしいですが、ここでは今後、狭義の「東方哲学」、つまりホラーサーンやトランスオクシアナで興隆した哲学のことを「東方哲学」と呼ぶことにします。

 それでは、それぞれの地域の哲学がどのようなものか、簡単に見ていくことにしましょう。
 まずはこのなかで「バグダード学派」が時代的にはもっとも古いです。しかしそれ以前のキンディーなどはバグダードで活躍したにもかかわらず、一般的にはバグダード学派とみなされることはありません。バグダード学派は名前の通りバグダードを中心として栄えたのですが、本当のことを言うと「学派」と言うほどまとまったグループではなく、もっとゆるやかな傾向をもった哲学者の集まりです。彼らに共通する要素を言うと、論理学をとても重視したということです。また、バグダード学派にはキリスト教徒がとても多かったことも特徴です。ただし、ファーラービーのようなムスリムもバグダード学派だとみなされます。

 その後、バグダードで発展した哲学は東の地域へと伝わります。具体的にはさきに述べたホラーサーンやトランスオクシアナといった、当時のイスラーム世界からすると「辺境」や「周縁地域」と言って良い場所です。どうやらこの地域出身の人たちがバグダードなどに留学し、そこで哲学を学んで生まれ故郷にもちかえったことにより、こういった東の果てでも哲学というギリシアの学問が学ばれることになったようです。東方哲学の中でももっとも重要なのがイブン・シーナーです。むしろ「東方哲学」とは、バグダード学派など「西」の哲学に対抗するためにイブン・シーナーが呼び始めた名前ですので、本当のことを言うとイブン・シーナー以前のこの地域の哲学にたいして東方哲学と言うのはおかしいのですが、ここではイブン・シーナー以前も含めることにします。東方哲学の特徴はアリストテレス新プラトン主義折衷主義ですが、これはキンディーにも見られる特徴で、東方に哲学をもち帰った哲学者たちには、バグダード学派と同じくキンディー学派の影響も強かったことが分かります。

 時代的にはもっとも遅く成立したのが「西方哲学」です。西方哲学がおこなわれたのは現代のスペインやモロッコなどですが、この辺りは当時イスラームを信奉する王朝が支配していました。西方哲学の最初の哲学者とされるのがイブン・バーッジャですが、彼は政治家としての業務に忙殺されて、それほどまとまった作品を残していません。その後の哲学者イブン・トゥファイルによる哲学小説『ヤクザーンの子ハイイ』(これは『ロビンソン・クルーソー』に影響を与えたと言われています)、純粋アリストテレス主義を提唱し、イスラームよりもスコラ哲学に多大な影響を与えたイブン・ルシュドなど、西方哲学を支えた哲学者たちはとても個性が強いです。またこの地域ではユダヤ人コミュニティがそれ以外の地域よりも発達していたため、西方哲学の地域ではユダヤ哲学も盛んでした。(但し、両者に交流があったかどうかは分かりません。)

 時代に沿ってそれぞれの地域の影響関係を見ていくと、バグダード学派から東方哲学に、そしてバグダード学派と東方哲学から西方哲学にという流れになります。そして私たちが取り扱うイブン・ルシュドの死によって、ひとまず「中世アラビア語哲学」のフェーズは終わりを迎えますが、その後は東方で哲学がまったく滅びていくかというとそういうわけではなく、よりイスラームと親和的な形をとって、むしろ「イスラーム哲学」とでも呼ぶべき形で続いていくことになります。

 以上が中世アラビア語哲学がおこなわれた地域にかんする大まかな流れになります。もちろんエジプトやシリアなど、当時の先進的な地域でも哲学はおこなわれていましたし、それらの地域を無視することはできないのですが、まずは大まかに「バグダード学派」、「東方哲学」、「西方哲学」という三つのグループを覚えてもらえば大丈夫です。

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2016年10月30日日曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】【コラム】「アラビア語哲学」?「イスラーム哲学」?

【コラム】「アラビア語哲学」?「イスラーム哲学」?

 さて、それではなぜ「アラビア語哲学」と「イスラーム哲学」なのでしょうか?それぞれの呼び名にはどんな意味があるのでしょうか?
 まず、私がここで使っている「アラビア語哲学」という呼び名は、先ほども言いましたように英語でのArabic Philosophyの訳語であり、ちょっと日本語として馴染のない言葉です。でもなぜそんな不自然な言葉を使うかというと、「アラビア語哲学」の担い手たちが特定の宗教や民族に限定できないからなのです。
 歴史についてお話しするところでもう少し詳しく説明しますが、とくに成立初期のアラビア語哲学は、キリスト教徒たちの力を無視しては語れません。彼らの大半はネストリウス派やヤコブ派など、単性論と言われ西方の教会では異端とされた人たちで、東方に移り住んでいました。とくにアッバース朝は先行のウマイヤ朝と違って異民族の人材も積極的に活用したため、バグダードなどの大都市にはキリスト教徒が大勢いました。彼らの聖典である『新約聖書』はギリシア語で書かれているため、(もちろん個々人での能力の差はあったでしょうが)キリスト教徒たちはギリシア語を操ることができました。そしてこういった人たちが、アッバース朝におけるギリシアの先進的な文明のアラビア語への翻訳活動を牽引してきたのです。フナイン・イブン・イスハークイスハーク・イブン・フナインの親子による翻訳は有名で、とりわけ息子のイスハーク・イブン・フナインは数々のアリストテレスの著作をアラビア語に翻訳しました。また翻訳家以外にも、アブー・ビシュル・マッターヤフヤー・イブン・アディーなどの哲学者もキリスト教徒でした。(ユダヤ教徒の哲学者もいたのですが、彼らはキリスト教徒たちほどイスラームと積極的に交流せず、当時のユダヤ人哲学者からのアラビア語哲学への影響というのは意外と少ないものです。)
 そして民族的なことについて言いますと、実はアラビア語哲学を担った哲学者のなかでアラブ人というのは余りいないのです。最初のアラブ人の哲学者と言われるキンディーが有名ですが、それ以外となると有名な哲学者にはペルシア系の人が多いのです。ですから、アラブ人による「アラブ哲学」というのはまったく成り立たない呼び方になります。
 宗教についても「イスラーム哲学」は成り立たない。とても多種多様な人材が集まって哲学をおこなっていた、でもそこで共通していたのは「アラビア語という言葉を使う」ということ。そこで、アラビア語という言語による「アラビア語哲学」という呼び名が必要になってくるわけです。

 じゃあ、「イスラーム哲学」という呼び名は当てはまらないのでしょうか?実はそうではありません。先ほど述べた13世紀以降になると、今度は「アラビア語哲学」という呼び名が当てはまらなくなります。この頃になるとペルシア人の哲学者たちはペルシア語で著作をおこなうことが増えてきます。またオスマン帝国が成立した後は、トルコ系のオスマン語で書かれた作品も登場します。必ずしも哲学をおこなうためにアラビア語を使う必要がなくなってくるのですね。
 そして時代を経るごとにキリスト教徒たちの役割も小さくなってゆき、哲学はだんだんとイスラーム的な要素を強く前面に押し出してくることになります。イスラームの神学者が哲学書に註釈をおこなうといった、以前だったら考えられないようなことも普通に行われていくことになります。つまり、哲学がギリシア臭いといって宗教家から嫌われていた時代にあった、「哲学者vs神学者」という構図も成り立たなくなっていくのです。
 これは、ヨーロッパのスコラ哲学に比べると分かりやすいかもしれません。13世紀以降の「イスラーム哲学」は、スコラ哲学と同じく、宗教と哲学が融和して、混じり合っていくのですね。逆にアラビア語哲学は「哲学」の要素が強すぎて、宗教的なものとは対立することが多いのです。
 著名なイスラーム哲学の研究家アンリ・コルバンは「イスラーム哲学」という呼び方を好みますが、それは彼がイランの神秘主義を熱心に研究していたからです。イランの神秘主義は主にペルシア語で書かれていましたし、「アラビア語哲学」ではどうにも都合が悪いのです。それにコルバンが研究していた時代の哲学はほとんど哲学の担い手はムスリム(イスラム教徒)でしたし、「イスラーム哲学」という呼び名がピッタリ来ます。

 「イスラーム哲学」という呼び名を好む人たちからすると、「アラビア語哲学」というのはギリシアからの輸入哲学に過ぎず、そこに真に独創的なものはないように見えるかもしれません。逆に「アラビア語哲学」という呼び名を好む人たちからすると、「イスラーム哲学」の名のもとで展開されている思想を何の譲歩もなしに「哲学」と呼ぶことに躊躇があるかもしれません。それは「神学」の一分野、または「宗教哲学」であって、純粋な「哲学」のように見えないかもしれません。(もちろんキリスト教の神学者であったトマス・アクィナスのスコラ哲学が「哲学」であるのと同じ程度には哲学と呼べるでしょう。)
 同じ地続きのひとつながりの哲学なのに、前半は「アラビア語哲学」、後半は「イスラーム哲学」と呼んだ方がいいという理由、なんとなく分かってきたでしょうか。

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【高校生のための中世アラビア語哲学入門】1-2どんな時代の哲学?

――どんな時代の哲学?

 「中世アラビア語哲学」という言葉の指す意味が少し明らかになったところで、もう少し詳しく見てみることにしましょう。
 まずは、中世アラビア語哲学がどんな時代の哲学なのかということです。先ほども書きましたように、ここでは大まかに言って、キンディーが生まれたとされる800年前後から、イブン・ルシュドが亡くなる1198年までの時代に展開された哲学的思想のことを指します。
 そして、この期間の「いつから」についてはあまり論争がないのですが、「いつまで」をどの時点に設定するかによって、その人が中世アラビア語哲学に何を含めようとしているか、ある程度分かってきます。
 じつは、中世アラビア語哲学の期間を「イブン・ルシュドが亡くなるまで」とする見方は、むしろとても伝統的なものなのです。そして、逆に「13世紀以降こそがイスラーム哲学の黄金期である」という見解もあります。
 これはいったいどういうことでしょうか?
 その答えは、「アラビア語哲学」と呼ぶか「イスラーム哲学」と呼ぶかということにもかかわってきます。

 まず、イブン・ルシュドが亡くなるまでが中世アラビア語哲学の絶頂期であるとする見方は、ものすごく大きく言うと、ヨーロッパ中心史観に基づいているという解釈もできます。この考え方では、中世アラビア語哲学というのはギリシア哲学のコピーであり、その遺産はいくらか捻じ曲げられた形でヨーロッパに伝わり(つまり、本来ギリシア(=ヨーロッパ!)の財産だったものを、正当な持ち主のもとに返してもらったということです)、それ以降の中東には、いわば哲学の搾りかすしか残っていないという考え方です。
 これは、中世ヨーロッパの哲学思想、いわゆるスコラ哲学(ギリシア語のスコレー(=余暇)に由来し、主にキリスト教の宗教家によって担われた哲学思想です)を中心に見た場合、とてもしっくりくる見方です。そこにおいて、イブン・シーナーイブン・ルシュドといった哲学者たちは、そのラテン語名アヴィセンナアヴェロエスとしてのみ意味をもちます。こういった単純な見方は、現代の世界的な研究においてはほとんどなくなってきましたが、ふつうの人はそもそも中世アラビア語哲学のことをあまり知らないし、そもそもスコラ哲学研究者のあいだでも、この歴史観は(若い人には少なくなりましたが)、まだまだ健在なように思われます。

 それでは逆に、13世紀以降こそがイスラーム哲学の黄金期だという見方についてはどうでしょうか?これは先ほどのヨーロッパ中心史観とはまったく逆の考え方です。確かにイブン・ルシュドが亡くなって以降も、中東地域から哲学が消えたわけではありませんでした。ただし、それはここで取り扱おうとしているものとは少し違った形になります。私の考えでは、イブン・ルシュドが亡くなるまでは「アラビア語哲学」であり、むしろそれ以降は「イスラーム哲学」と呼ぶのが相応しいと思われます。これについてはもう少し後で詳しく説明しますが、とにかく、この頃を境にこの地域で展開される哲学の性格が変わっていくということには注意しておきましょう。
 もちろん「アラビア語哲学」はきわめてギリシア的要素の強いものであり、この時代の哲学はあくまでも「借りものの哲学」だという批判は成り立つでしょうし、真にイスラーム的な形でオリジナリティをもって展開されていくのはそれ以降の哲学なのだという主張はまさにその通りだと思います。
 しかし一方で、「アラビア語哲学」と「イスラーム哲学」はクッキリと二分割できるものでもないし、その必要もありません。イブン・シーナーに代表される東方のアラビア語哲学を批判した神学者のガザーリーは、マドラサ(宗教学校)の教育に哲学的な「論理学」を導入します。それに、表面的な表現形式はイスラーム色が強くなったとはいえ、その骨格は「アラビア語哲学」期に形成された体系を利用しています。ですから、このふたつは本当のところ地続きであり、別にふたつの別の哲学体系があるわけでもないのです。
 ただ、中世の中東地域で展開された哲学を大きく分けるとそれぞれ「アラビア語哲学」、「イスラーム哲学」とでも呼ぶことの出来るようなふたつの時代があり、私たちがここで学ぼうとしているのはその前半、「アラビア語哲学」と呼ぶべき哲学思想だということさえ分かれば、それで問題ありません。

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【高校生のための中世アラビア語哲学入門】1-1はじめに

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第1章 はじめに

 これからみなさんと一緒に、「中世アラビア語哲学」について学んでいきたいと思います。
 「中世アラビア語哲学」と聞いて、いったい何を思いうかべましたか?「中世」も「アラビア語」も「哲学」も、ふつうの人にはあまり縁のない言葉なのに、それが三つも並ぶと、まったく訳が分からなく感じてしまうかもしれません。それも無理のないことです。ですから、第1章の「はじめに」では、みなさんとこれから学んでいく予定の「中世アラビア語哲学」がいったいどんなものなのか、だいたいの輪郭だけでもつかんでおきたいと思います。

――「中世」?「アラビア語」?「哲学」?

 「中世」、「アラビア語」、「哲学」という三つの言葉ですが、まずは「中世」から見てみることにしましょう。

 「中世」というのはとても曖昧な言葉です。英語で言えばMiddle Agesとなりますが、みなさんはこの言葉を聞いて、どんなものを思いうかべますか?中世ヨーロッパの剣と魔法の物語、『指輪物語』(映画『ロードオブザリング』)のようなものを思いうかべますか?世界史が好きな人なら、もう少し具体的な内容、たとえばカノッサの屈辱や十字軍などを連想するかもしれません。でも、一般的に「中世」と聞いてアラブのことを思いうかべる人は少ないのではないかと思います。それもそのはずで、中世というのはローマ帝国の滅亡(4から5世紀ごろ)からルネサンス(14世紀ごろ)までの約1000年間の期間を指すために、後になってから発明された言葉だからです。この1000年ほどの間、ヨーロッパでは古代ローマの古典の知識や活き活きとした芸術の感覚が失われ、ルネサンスになってやっと「再生」(ルネサンスとは「再び生まれる」という意味です)したと言われています。ここにはある種の真実もあるのですが、大抵が後世の人たちによる「レッテル貼り」に過ぎません。そんな言葉を中東に当てはめるのですから、どだい無理があります。ここで言う「中世」というのも、かなり限定的な意味になってしまいます。具体的に言えば、キンディーの生まれた頃(800年ごろ)からイブン・ルシュドの死(1198年)ぐらいまでの400年ほどの期間を指します。(この期間の「開始年」はいいとして、「終了年」については議論が分かれるのですが、それについては後で説明します。)

 「アラビア語」というのは、まさにそのままの意味で、アラビア語を使って書かれた哲学を取り扱うということです。これはちょっと奇妙な分類のように思われるかもしれません。なるほど、「ドイツ哲学」や「フランス哲学」といった言い方はしますし、これはほとんど「ドイツ語哲学」や「フランス語哲学」と同じ意味です。「ギリシア哲学」だってそうですね。ですから、「アラビア哲学」という言い方でもいいのですが、「アラビア」だと「アラビア半島」を指してしまう可能性もあるので、「言語」による分類であることを強調するために「アラビア語哲学」という言い方をしているのです。たしかにこれは、とても不細工な言葉で、日本語としてあまりこなれていません。ですから、ほかのもっと良い呼び名があれば、そちらを採用したいと思います。実際、英語ではさいきんこの分野をArabic Philosophy、まさに「アラビア語哲学」と呼ぶことが優勢になってきています。「アラビア語哲学」という不細工な日本語を使わずに、「イスラーム哲学」や「アラブ哲学」ではダメなのかと思う人もいるかもしれません。もちろん「イスラーム哲学」という呼び名にも根拠はあります。(「アラブ哲学」はダメです。)でも、ここでは「イスラーム哲学」ではなく、「アラビア語哲学」という呼び名を使います。その理由についても後で説明します。

 最後に「哲学」ですが、これはみなさんも何となく分かるのではないでしょうか。そもそも「中世アラビア語哲学」に興味があるのですから、まずは「哲学」に興味がある人がほとんどでしょう。しかし、この時代の「哲学」という言葉には、とても特殊な意味があります。哲学のことをアラビア語で「ファルサファ」と言います。英語のPhilosophyに似ていませんか?それもそのはずです。両方とも、ギリシア語のフィロソフィアという言葉が元になっているからです。つまり、アラビア語で哲学(ファルサファ)というと、ギリシアから輸入された学問であるということが大前提になっているのです。私たちが取り扱う時代の後半になると、「ファルサファ」という、いかにも外来語の言葉ではなく、「ヒクマ」というアラビア語由来の言葉が使われ始めますが、それもこれも、「哲学」というものに付きまとう「ギリシア臭」を消し去ろうという努力の現れだと言えるでしょう。ギリシア以外のヨーロッパ人にとっても「フィロソフィア」というのはギリシアからの借り物なのですが、彼らはギリシア文明を自分たちの祖先だと考え、ギリシアから「哲学」という学問を取り入れることに何の疑問も抱きませんでした。でも中東においては違います。ギリシアというのは、ハッキリと「他者」でした。そして、私たちが取り扱うのは、まさにこの「ファルサファ」、彼らからするととても「ギリシア臭」の漂う学問なのです。

 以上の駆け足の説明で、「中世」、「アラビア語」、「哲学」という三つの言葉がそれぞれどういう意味で使われているか、ぼんやりとでもわかったでしょうか?それでは、もう少し具体的に、中世アラビア語哲学がどんな時代の、どんな地域の、どんな内容の学問なのか、見てみることにしましょう。

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【高校生のための中世アラビア語哲学入門】もくじ

高校生のための中世アラビア語哲学入門

もくじ

第一章 はじめに
 ――「中世」?「アラビア語」?「哲学」?
 ――どんな時代の哲学?
   【コラム】「アラビア語哲学」?「イスラーム哲学」?
 ――どんな地域の哲学?
   【コラム】「東方哲学」とはいったいなにか?
 ――誰によって担われていた?
 ――なにが論じられていた?

第二章 歴史的な流れ
 ――イスラームの誕生
 ――正統カリフたちの時代
   【コラム】シーア派
 ――アッバース朝の興隆
 ――分裂と混迷
 ――西方世界

第三章 思想的な流れ
 ――アリストテレス哲学
   【コラム】質料と形相
 ――後期古代の註釈家たち
 ――プラトンとプラトン主義
 ――哲学史の裏の顔・新プラトン主義
   【コラム】偽装された新プラトン主義
 ――折衷主義哲学の成立

第四章 社会とのつながり
 ――権力者たちとのつながり
 ――神学者たちとのつながり
 ――大衆とのつながり

第五章 その後に与えた影響

第六章 代表的人物

第七章 中世アラビア語哲学の特徴

第八章 中心的なテーマ

第九章 おわりに

2016年9月5日月曜日

あの哲学者は論理派?直観派?(思いが溢れて伝えきれない編)

モテ系・非モテ系にかんする考察を行っていくうちに、いろいろ浮かび上がってきた観点がある。
そのひとつに、哲学者が「推論」を重視するか(discursive)、「直観」を重視するか(intuitive)という点である。
もちろん本来哲学において推論と直観は論理の両輪であり、切っても切れない関係にあり、だいたいの哲学者はその両方をバランスよく使用しているのだが、中にはそのバランスが悪い、どちらかに振り切ってしまっている(もしくはそのように見える)、まるで呂布や張飛のような哲学者がいないこともない。

今回からはしばらく、この「論理」(正式には推論だがゴロが悪いので論理とさせてもらう)と「直観」がどちらかに振り切れている哲学者について見ていきたいと思う。

まずは直観重視派を見ていきたいが、そのなかでも「思いが溢れて伝えきれない哲学者」を見てみることにしよう。

このタイプの哲学者は本来正統派なバランスの取れた哲学の教育を受けており、本人的にはそこまで逸脱していないつもりなのだけど、思いと情熱ばかりが先走ってしまい、結果的に何を言いたいのかよく分からない文章になっているというパターンが多い。
そのため、文章の熱量だけはやけに高くて、本人の意気込みだけは伝わってくるのだが、当の哲学者の中では自明になっていることは説明せずにすっ飛ばしたり、独自の用語を使用したり(それも本人の中ではみんなが分かってくれているという認識になっている)していて、「哲学的に深淵な文章だ!」と評価する人と、「何を言いたいのか分からない悪文だ!」と貶す人の真っ二つに分かれてしまう。

しかもだいたいこのタイプは基本的な熱量が高いので、文章を書かせるとしっちゃかめっちゃかになってしまう割に、講義で喋らせると饒舌で、むしろ名講義として評判を呼んだりする。

さてそんな思いが溢れて伝えきれない哲学者の代表と言えば、
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770–1831)
マルティン・ハイデッガー(1889–1976)
の二人だろう。

二人とも本人が書いた「著作」と呼べるものは少なく、むしろ膨大な講義録が伝わっている。
とくにハイデッガーなんて全集が数十巻出ているけれど、ほとんどが講義録とか講演録とか、そんな感じだ。
ヘーゲルの場合は死後に講義ノートを切り貼りしたものが多く、精度にやや問題があるらしいけど、いまだに翻訳が出たりして(今また新全集用意しているんだっけ)、大御所の貫録充分である。
そして彼らが好き勝手、思う存分話した講義じゃなくて、紙に書き落とした著作の方を見てみると、彼らの両方とも熱量が先走り過ぎてしまい、「ちょっと読んでみようかな」と思った初心者たちを無情にも振り払ってしまっている。
しかしこれがまた不思議なもので、単なる悪文ではなく「思いに溢れた悪文」というのは、なぜか若者の心をガッシリと掴んで離さないようで、ハイデッガーは不動のモテ系哲学者だし、ヘーゲルだって、いまや古典系に分類されるだろうが、昔は多くの若者たちを熱狂させていたわけで、系統的には正統派のモテ系である。
これがウィルフリード・セラーズ(1912–1989)のように「単なる悪文」だと、一部のゴリゴリの分析哲学者だけを惹きつける、非モテ系、もしくはマニアモテ系になってしまう。(個人的にはセラーズに惹きつけられるくちではあるけど)
著作は意味不明で講義は明晰というと、ほかにジャック・ラカン(1901–1981)が挙げられるが、ラカンの場合は意味不明な著作も含めて計算づくでしている感じで、ちょっといけ好かない。

やっぱりモテ系になるためには、熱量の高さというのは重要なファクターなのかもしれない。
そう考えると、西田幾多郎なんかは「思いが溢れて伝えきれない系」なのか「単なる悪文」なのか気になるところではある…。
個人的には(同郷の誼もあり)、前者だと思いたいところはあるが、後者の恐れもある。あんまり西田の講義聞いて感動したって話聞かないしなぁ。しかし、一時期は京都を西田哲学が席捲したわけだし、西田も意外と情熱的だったのかもしれない。そう考えると西田のあのわけの分からない文章もひとつのモテ要素として立ちあがってくるわけだ。

とはいえ、思いが溢れて伝えきれず、結果的に悪文になっているというのは狙ってできるわけではなく、本人の溢れ出る哲学的情熱と、それに僅かながら届かない表現力がきわめて高いレベルで混ざり合ってはじめて成立するものであり、最初からこの境地を目指そうとすると悲惨なことになるであろうことは想像に難くない。

ハイデッガーやヘーゲルの文章に魅せられて、あの奇跡の産物のような文体を真似しようとする大学院生がだいたい大変なことになっているのは、理由のないことではないのだろう。

いわばこの手のタイプは最初から「直観的」な文章を書こうとしているのではなく、個人的には割と真面目に「論理的」なスタイルを採ろうと思っているのに、結果としてあんな感じになってしまっているだけなのだ。むしろ最初から「直観的」な文章を意図的に選んでいるような哲学者のスタイルの方が真似やすいかもしれない。

また、翻訳が紛糾したり、「原書で読んだ方が読みやすいよ」なんて言われるのも大体このタイプだろう。(『精神現象学』や『存在と時間』なんて、いったい何種類翻訳が出てるんだという。)そりゃ彼らは自分の思いのたけを自分自身の言葉にも上手く乗せられていないのだから、それをさらに日本語に翻訳してしまったら、余計分かりにくくなることは明らかである。
でも大丈夫、西田の文章を見ても分かるように、このタイプの文章は、原書で読んでも分からないから。

とはいえ、個人的にはこの「思いが溢れて伝えきれない哲学者」の文章、嫌いじゃない。そして、こういった哲学者はだいたい「ベシャリ」が上手いことが多いので、彼らの講義や講演録を読むのも結構好きである。

次回:論理を相対化しようとしている編

2016年9月4日日曜日

モテ系哲学者?非モテ系哲学者(マニアモテ系編)


前回までで、モテ系哲学者かつてモテ系だった哲学者非モテ系哲学者のあらましが明らかになったことと思う。

(第1回モテ系哲学者こちら、第2回かつてモテ系だった哲学者こちら、第3回非モテ系哲学者はこちら

これで残す分類はマイナー系古典系ということになるが、その前に、どの分野にも入りにくい、むしろどの分野にも微妙に被っている特殊ジャンル:マニアモテ系哲学者にも触れておかねばならないだろう…!

あぁ…!これが一番紛糾しそうだ…!

マニアモテ系は、一般的にはマイナー系古典系に分類される。しかしある特定のジャンル内部では、まるでモテ系のような熱量をもって愛されている哲学者のことである…!(非モテ系哲学者は、一般的にそういった熱量の高いモテ方をしないのだが、小さいジャンルのなかではマニアモテ系として愛されることがしばしばある。)

つまり、マニアモテ系は、そのジャンル以外の人たちにとっては大した知名度がないにもかかわらず、その業界内部では「それを知らないのはモグリ」扱いをされるという、初心者には非常に扱いの難しい物件なのだ。
どの業界にもこういったマニアモテ系はいる。音楽だと地下アイドルとかご当地アイドルとかがそうだし、ジャンル別の大御所だけど、ほかの分野ではほとんど知られていないアーティストなんてごまんといる。(ヒップホップとかソウル・ファンクとか。ジェームズ・ブラウンなんてソウル・ファンクのファン以外にとって、「ゲラッパのひと」ぐらいの認識があればマシといったところである。)
なのでいろんな分野におけるマニアモテ系哲学者を紹介出来ればと思うのだが、私の知識の偏りもあり、すべての分野を網羅することはできないこと、最初にご了承願いたい。

それでは、まず私が専門とする中世哲学の分野からいってみよう。
中世哲学は、そもそもジャンル全体が「マイナー系」に分類されてしまう危険性があるのだが、そのなかでもアイドル的な存在はいる。それは
ヒッポのアウグスティヌス(354–430)
トマス・アクィナス(1225–1274)
の二人である。
まぁどんなのが出てくるかと思いきや、中世哲学のことをまったく知らない人も、哲学をある程度知っていれば、少なくとも古典的なものとしての認識ぐらいはあるんじゃないだろうか。むしろ、「この二人って哲学者じゃなくて神学者じゃないの?」と疑問に思うかもしれないし、その疑問ももっともなのだけど、いろいろな理由により、西洋哲学の流れではアウグスティヌスとトマス・アクィナスは哲学者として扱われてきている。(ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の冒頭はアウグスティヌスの引用から始まり、ハイデッガーはトマス・アクィナスを何度も引用する。)
最近はそうでもなくなってきたが、一昔前まではアウグスティヌスとトマス・アクィナス関連の論文だけで中世哲学の学会誌『中世思想研究』の紙面が埋め尽くされるほど、この二人の影響力は強かった。もちろんそれだけの知名度、深みはあるんだけど、一旦業界内部に入り込むと、その影響力たるや凄まじいものがある。まるで「アウグスティヌスファン」「トマス・アクィナスファン」のような人が結構いるのだ。(非モテの帝王フッサールの助手をしていたエディット・シュタインはトマス・アクィナスファンに鞍替えした。)
若手がちょっと不用意な発言をすると、古参のトマス・アクィナスファンから「あんたトマスの何なのさ」といった叱責が飛び交うのは、なかなかの壮観である。こういう「愛が溢れてしまう」状態になるのには、中世哲学の研究家にクリスチャンが多いというのも少し関係するだろう。彼らの研究のモチベーションのなかには、信仰心が占める割合が高い場合もあり、そうなるとこういったマニアモテ的な扱いをしてしまうのだろう。
また中世哲学のジャンルでは「トマス」と言えば「トマス・アクィナス」のことを指すので、わざわざフルネームで言ったりしない。「トマス」だけで充分である。
自分なんかは意地悪く、「え?トマス・ネーゲルのことですか?」と思ったりしてしまうが(さすがに口に出しはしない)。

彼らの思想そのものを分類すると、主著が自伝的な『告白』であり、母親との微妙な関係、若いころの放蕩生活、劇的な回心、最後の古代人としてローマ帝国の終焉を目の当たりにするなど、哲学にも興味のない一般人にもバンバンアピールするアウグスティヌスは古典系のモテ系
ドミニコ会の修道士として生活し、教会内部のサムシングや教育生活以外にはあまり劇的なイベントがなく、主著の『神学大全』は翻訳が完了するまで数十年かかり、一般人がフと手に取ることを完全に拒絶しているトマス・アクィナスは古典系の非モテ系に分類されるだろう。

ちなみに私が専門にしているアヴィセンナ/イブン・シーナーについて一言申し添えておくと、そもそもアラビア語哲学というのがマイナーな中世哲学の更にマイナーなサブジャンル扱いな上に、アラビア語スコラとも称される彼の思想は普通に非モテ系である。(スフラワルディーやガザーリーの方がややモテ系の要素が強い。とはいえマニアモテだけど。)

また現象学、そのなかでも身体論関係においては
モーリス・メルロ=ポンティ(1908–1961)
がジャンル内限定のモテ方をしているだろう。
メルロ=ポンティ自身は主著の『知覚の現象学』がバカ高いみすず版か法政大学出版局版しかなく、哲学の内容そのものも非モテの帝王フッサールを乗り越えたと勝手に喧伝しているモテ系の雄ハイデッガーに対抗し、「フッサールはホントはこういうことを言っていたんだ」という、まぁ非モテの正統後継者みたいなところがあるのだけど、彼の取り扱われ方はそれとはちょっと違う。
かなりガチガチの知性中心主義だったフッサール(後期は知らん)に対し、身体性やパースペクティブという要素を追加したメルポンことメルロ=ポンティの思想は、身体論、美術論、芸術論、なかでも演劇論をやっている人たちから好まれ、この手のことをやっている人が哲学に触れるさいに、少なからずアイドル的な扱いを受けることがある。
まぁこれには鷲田清一という偉大な紹介者の果たした役割も小さくないかもしれない。(モテ系になるためには、偉大な紹介者の存在が結構大きいことはすでに述べた。)
ここまでくれば普通にオールジャンルのモテ系になってもいいと思うのだけど、いまひとつモテ系に躍り出ることが出来ていないのは、やはり主著の入手のしにくさに尽きるだろう。
あとは、ある程度「~論」をやっている人たちに「理論が好まれる」わけであって、アフォリズム的なカッコよさに欠けるという部分も、若者へのアピールの弱さとして響いてきているのかもしれない。(上でも述べたように、そもそもメルポンの哲学自体は非モテ系に近い。)
マニアモテに限定せず、普通にモテ系に躍り出るポテンシャルはもっているだろうに、「高価な主著」「地味な文章」が邪魔して、局地的なマニア受けで終わっているというのが、非常にもったいないところではある。(フランス系の例に漏れず、本人がモテそうではあるが。)

それじゃあ分析哲学だとどうかというと、そもそも分析哲学自体が「巨大な非モテ空間」のようなものなので、あまりモテとは結びつかないのが悲しいところではある。いきなり分析哲学から入門する高校生は少ないだろうし、最初に手に取った哲学書が分析系だった場合、途中で挫折する可能性が高いだろう。
その中で、ジャンル内限定でアイドル的な扱いを受けている哲学者を探すのは割と難しいが(そもそも分析哲学の研究者自体、全体的な熱量が低い)、その中でも敢えて挙げるとすれば
ドナルド・デイヴィドソン(1917–2003)
ソール・クリプキ(1940–)
あたりだろうか。
分析哲学がなぜ「巨大な非モテ空間」というインナー・サークルを形成しているかという理由のひとつに、文庫化されている作品が少なく、だいたいの原典が割と高いハードカバーだというのがあるだろう。そもそも手に入りやすい文庫本がない時点で、一般人に対するハードルはかなり高い。デイヴィッドソンもクリプキもその例に漏れず、著作はハードカバーのものしかない。
しかしクリプキの場合、普通に読むだけならば『名指しと必然性』だけで充分なので、なかでもとっつきやすい方だと言えるだろう。それに、論理記号でいっぱいだったりして読みにくい分析哲学のなかでも、普通に読みやすく、その意味では魅力的な文章というモテ系の要素を割と備えているクリプキは、ジャンル外から分析哲学に入ってきた人にとっつきやすい人物である。ただ、分析哲学を学び始めた人たちがひとまず手に取る作品として選ばれやすいというだけであって、分析哲学の研究者たちからモテているかというと、そこは微妙なところなので、もしかしたらマニアモテとは言い切れないかもしれない。
逆にデイヴィドソンは普通に分析哲学者からモテている印象である。確かに彼の書く文章は良く分からなくて、読んでもさっぱり理解した気になれないのだけど、何度も繰り返し挑戦しようという気を起こさせる、不思議な魅力がある。大きなモノグラフというのがなく、著作は基本的に論文集という、哲学者としては軽量級の傾向にあるデイヴィドソンだけど、基本的に現在刊行されている著作はぜんぶ和訳されているのではないだろうか。(初期の二作品が抄訳ではあるけど。)そういう意味では、原典の翻訳にかんして、恵まれているのか恵まれていないのか(ぜんぶ結構高いハードカバー)、よく分からない哲学者ではある。行為論、意味論、認識論、真理論など著作のジャンルも多岐にわたるため、分析哲学的な理論を求めていくとデイヴィドソンに行きつくことはしばしばあるかもしれない。
まぁ分析哲学の研究者は基本的に誰かをアイドル的に信奉したりしにくい印象があるが、クリプキとデイヴィドソンの二人をとりあえずのマニアモテ系とさせて戴いた。(クリプキは普通に文庫化されたらモテ系になる要素はいっぱいあると思う。デイヴィドソンは知らん。でもあの何度も挑戦したくさせる感じも、どちらかというとモテ系だろうか。産業図書と勁草書房と春秋社はいますぐクリプキとデイヴィドソンの文庫化を検討するべきだ。)

ほかにも教育関係だと
ジョン・デューイ(1859–1952)
がいる。
ここで普通の哲学愛好者は「え?デューイ?誰だっけ?」と思っただろう。現象学や分析哲学をやっている学生とかも、「ん?デューイ?」と一瞬考えるかもしれない。それぐらい一般の哲学史におけるデューイの知名度は微妙である。まぁプラグマティズムの分野ではパース、ジェームズ、デューイと三人並べられるので、こっちの世界ではビッグネームではあるが。(ローティはデューイのことをやけに高く評価しているが、ローティも一般的にはあまりモテ系とは言えないかもしれない。)
しかしこれが教育関係になるとガラッと様相が変わってくる。
なぜか教育関係者が哲学に興味があると言うと、だいたいデューイの名前を出してくるのだ。
「はいはい、哲学…え、デューイ?」てなもんである。
個人的にはこの体験が強烈過ぎて、「デューイ=教育思想」というイメージが付いてしまっているが、これは彼の教育学的側面以外を研究しているデューイ研究者からしてみると少し困ったことなのかもしれない。

まとめ

マニアモテ系哲学者とは、なにか共通の要素をもった哲学者の分類ではなく、一般的にはモテ系でないのに、特定のジャンル内ではあたかもモテ系の如く扱われているという現象を基にした分類であるため、それを明確に定義することは難しい。しかし、芸術関係におけるメルロ=ポンティや教育関係におけるデューイなどの場合を考えると、その特定の分野に対する何か特別なアピールをもっていると考えることができるだろう。またトマス・アクィナスやアウグスティヌスの場合は、そのジャンルが独自の世界観や評価基準をもっているため、一般的なモテ・非モテとは別の尺度が用意されているということだろう。分析哲学は全体的に熱量が低いのであまりマニアモテ的な哲学者がいないのだが、そもそも「非モテ」である分析哲学においてモテ系の要素をかなり備えた哲学者が出てくると、やはりある程度ジャンル限定でモテるということが起きるのかもしれない。以上をまとめると
・哲学以外の分野に対するアピールをもっている
・そのジャンルが独自の評価基準をもっており、それに合致する
・全体的に非モテなジャンルにおいてモテ系の要素をもっている
などの哲学者で、一般的なアピールをあまり獲得できていない場合、それはマニアモテ系哲学者となるのではないだろうか。

あなたが哲学に興味のある一般人だったら、マニアモテ系哲学者から入るのが良い場合と悪い場合がある。あなたがその特定の分野、たとえば芸術や演劇、教育やキリスト教などに興味があるかすでに学んでおり、そこから哲学にも手を出したい場合、こういった分野限定でアイドル的な扱いを受けているマニアモテ系哲学者から入るというのは良いことだろう。何しろあなたは、その哲学者が論じているテーマにもともと興味があるのだし、周りには同好の士も多いだろうから。逆にあなたが、そのマニアモテ系哲学者の分野に興味がない場合、その哲学者から入ることは余りお勧めできない。教育に興味がないのにデューイを読む、キリスト教に興味がないのにトマス・アクィナスを読むのは、無駄とは言わないが、それならば自分の興味にあったジャンルのマニアモテ系哲学者を読むか、いっそのこと普通にモテ系哲学者を読んだ方が良いだろう。

あなたが哲学専攻の学生だった場合、こういったマニアモテ系哲学者を学ぶのは楽しいことだろう。少なくともあなたが所属する研究コミュニティにおいて、その哲学者はまるでモテ系のような扱いを受けており、ちょっとしたメインストリーム気分にも浸れるからだ。その分、そのジャンル内での研究の蓄積は厚いため、思ったよりもやるべきことは多く、ただのマイナー系哲学者を研究するのとは違った大変さがあるだろう。また、あなたが専門にしている哲学者は、あなたの研究コミュニティにおいては一見モテているような扱いを受けているが、一般的には別にモテていないことを(そういうところにいると忘れがちだが)、できるだけ忘れないようにしよう。その謙虚さがあれば大丈夫。あなたの努力次第によっては、その哲学者をモテ系に押し上げることが可能かもしれない。

次回は…とくに決めていない

モテ系哲学者?非モテ系哲学者?(非モテ系編)


モテとか非モテとか、最初に言い出したのは誰なんじゃろうなぁ…。

この世に生を受けた以上、いつかは垣間見てみたい、モテの向こう側。

しかし世の中には、「非モテ」になることを運命づけられた者たちも少なからずいて、それは哲学者であっても例外ではない。

哲学者や哲学専攻の学生は、どちらかというと非モテ系に親近感があるかもしれないが、かつてモテていたフランス現代思想系のように、「本人がモテている感」がハンパないというパターンもある。

第3回目となる今回は、ついに登場した「非モテ系哲学者」!

(第1回「モテ系哲学者」はこちら。第2回「かつてモテ系だった哲学者」はこちら。)

本論に入る前に、今一度整理しておこう。
一般人や哲学をあまり知らない人が哲学に触れるきっかけを与えてくれるような、キャッチーな言葉と絶妙な分かりやすさと難解さを併せ持った、いわば中二達の永遠の伝道者が「モテ系哲学者」。ニーチェとウィトゲンシュタインのツートップはおそらくしばらく不動だろう。かつてはそのような立場にあったにもかかわらず、いまは影響力が落ちていたり、微妙に「ダサい」扱いを受けているのが「かつてモテ系だった哲学者」。サルトルを筆頭に、フランス現代思想の面々はいまや概ねここに入るだろう。
そして、一般人にはどうにもアピールしないけど、専門家からだけはやけに高く評価されているのが「非モテ系哲学者」である。これを「専門家からだけモテている」と表現することも可能だけど、気を付けないといけないのが、専門家からのモテとは、一般人からのようなアイドル的なモテとは違い、「○○は重要だよね」といったモテ方である。なかには狭いジャンル限定でアイドル的な人気を誇る哲学者もいて、そういうのは特殊ジャンル:「マニアモテ系哲学者」に分類される。このマニアモテ系はたんなる「マイナー系」のこともあるし、一般的な認識は「古典系」だったりすることもある。しかし一旦そのジャンルに踏み込むと、まるで「モテ系」であるかのような扱いを受け、一般人や初心者は困惑することが多い。

今回紹介するような非モテ系は、そういった地下アイドルのようなモテ方をすることもなく、ただひたすら一般人からは「そんなひといたっけ?」とか言われ続け、専門家からは「○○は重要だよね」と熱量の低いモテ方をしている、非常にストイックな哲学者たちのことである!

なので、非モテ系哲学者が悩める高校生のための、哲学への登竜門になることは極めて稀である。ここに挙げられているような哲学者に憧れて哲学に目覚めたという高校生(かつての高校生)がいたなら、その人は相当の変わり者だと思った方が良い。

さて、そんな非モテ系だが、個人的にはこの哲学者を筆頭に推すことにしたい。
それは
エドムント・フッサール(1859–1938)
である。
フッサールほど、一般人の認識と専門家の認識が違う哲学者も珍しいのではないか。
現象学という学問を創設し、そこからはハイデッガーというモテ系の雄を輩出し、ほかにもサルトル、メルロポンティといった華やかな面々がフッサールの哲学に私淑している。また「かつてモテ系だった」の大先輩マックス・シェーラーを同僚とし、助手には女性哲学者エディット・シュタインが控えている。(彼女は後にトマス・アクィナスファンになってしまうが。)
しかし本人は至って地味である。
そもそも現象学者であっても、フッサール研究者以外はフッサールの著作をまともに読んでいない可能性が高い。(いや専門家は読めよ!と思うが。)
なぜフッサールが非モテなのかというと、いろいろ理由は考えられると思う。
まずモテ系の弟子と訣別してしまったが故に、大量にいるハイデッガーファンの方々が「フッサールの野郎はハイデッガー様に乗り越えられた」という認識を持ちやすいということ。(専門家はさすがにそこまで思わないだろうけど、あくまで一般的な認識、ね。)
また、著作がしっちゃかめっちゃかで、あまり体系的にまとまっていると言えず、しかも死後刊行の遺稿が大量にあること。まずこの「遺稿がいっぱい」という時点で、ちょっとした専門家も怯んでしまうのに充分だ。「え、フッサールについて何か言う場合は、あの大量の遺稿も読まなきゃダメなの?」と。
そして、まぁ日本的な理由としては、主著である『論理学研究』と『イデーン』に文庫版がなく、入手が難しいこと。『イデーン』がI-1, I-2, II-1, II-2, IIIというわけのわからない刊行形態になているため、初心者を無用にまごつかせていることが挙げられると思う。
それでも、フッサールが哲学史的に(現象学というジャンルを離れると幾分割り引かれるが)とても重要な仕事をしたことは、専門家であれば誰もが認めるところである。(ハイデッガー研究者でさえも。)
個人的な感覚としては、フッサールのとくに『イデーンI』なんかは、きわめて正統な西洋哲学の後継者であり、言うほど難解なイメージは受けないのだけど、やはり20世紀にも入って、これからは科学技術だなんだと言われている時代にあれは、相当地味だったんじゃないかと思われる。
とりあえず現状文庫で手に入るフッサールの著作が『デカルト的省察』と『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』という最晩年のもの、それに遺稿集『間主観性の現象学』というのをどうにかした方が良い。(もちろん文庫化されたからといって、フッサールがモテ系に変貌するかと言えば、その可能性は極めて低いが。)

ほかに非モテ系として挙げられるのは
ゴットロープ・フレーゲ(1848–1925)
チャールズ・サンダース・パース(1839–1914)
などであろうか。
フレーゲにしろパースにしろ、それぞれ分析哲学やプラグマティズムの創始者と言っても過言ではないのに、そもそも専門家以外からは見向きもされない。そもそも専門家も「フレーゲは大事だよね」「パースは大事だよね」と言いながら、フレーゲ研究者やパース研究者以外はあまりまともにとりあっていない、いわば敬して遠ざけている印象がある。

そうか、そもそもあるジャンルの創始者というのは、得てして非モテ系になりやすい傾向にあるのかもしれない。
フレーゲの場合はラッセル、パースの場合はジェームズというモテ系の傾向性を備えた弟子や紹介者をもち(この場合は二人とも弟子ではないが)、彼らの思想を一生懸命紹介しようとするのだけど、むしろモテ系の素養をもつラッセルやジェームズといった人たちの方が一般的にはモテて、本人たちは専門家から高い評価を受けるだけという状況が続いてしまう。
しかしラッセルにしろジェームズにしろ、そしてハイデッガーにしろ、偉大なる非モテ系の思想を世間に一生懸命広めようとしたはずだ。(ハイデッガーとフッサールの場合は「オメーの解釈は間違ってるんだよ!」の言い合いによって訣別してしまったが)

なぜフレーゲやパースはモテ系になることができなかったのだろうか?
この二人の場合、人格的にやや問題があったというのがあるが、人格的な問題ならウィトゲンシュタインの方がよっぽど問題あったし、ハイデッガー、ニーチェのような強烈なキャラがモテ系になっているわけだから、人格的な問題はモテ・非モテにあまり影響を与えないのかもしれない。(むしろ人格円満より、適度に人格破綻していた方が、悩める若者にヒットするかもしれない。)
まず挙げられるのは、フッサールの場合と同じように、著作全体の全貌が掴みにくいというのがあるかもしれない。フレーゲについてはまぁちょっと遺稿集が出ているぐらいだけど、みんな論文「意義と意味について」は参照するくせに、フレーゲの専門家以外はそれ以外の著作についてあまり知らなかったりする。パースも似たようなもので、『連続性の哲学』が岩波文庫に入っていたけど、それ以外の著作はアンソロジー『パース著作集』か最近出た『プラグマティズム古典集成』に当たるしかない。またパースの場合はフッサールと同じように、遺稿が大量にあって、いまだにちゃんと整理されていないというのも大きい。
フレーゲの場合、逆に「意義と意味について」ばかりが有名になりすぎて、他の著作が隠れてしまったという弊害があるかもしれない。余りにもひとつの著作や論文が有名になりすぎると、それ以外は見向きもされなくなるパターンだ。面白いのがバートランド・ラッセルで、彼は一般的には「かつてモテていた系」になると思うのだけど(イギリス本国での話)、分析哲学の研究者たちは「指示について」ばかりを参照していて、まるでフレーゲと同じような非モテ系の取り扱いをしていることだ。
まぁそもそも分析哲学というジャンル自体が、専門家による同好会、いわば一種の「巨大な非モテ空間」と言えないこともないが。(ラッセル、ウィトゲンシュタインといったモテの香りのする師弟コンビは、分析哲学の中では微妙に傍流だったりする。)

最後にもう一人、特殊なモテ方をしている哲学者を紹介しておこう。
それは
アレクサンドル・コジェーヴ(1902–1968)
である。
この人、世間的にはまったくの無名である。コジェーヴを読んで哲学に目覚めたという学生がいたら、その人は割と真剣に自分の置かれた環境と頭の状況を心配した方が良い。また、専門家たちも口をそろえて「コジェーヴは大事だよね」と言っているわけではない。20世紀初頭のフランスにおけるヘーゲル受容に興味のある研究者が注目しているぐらいである。あと、政治哲学なんかの研究者には割と注目されている。つまり、べつに研究者にも、そんなにモテていないのである。それではただの「マイナー系」かと思いきや、単純にそうとも言い切れないところがある。
なんとこの人、哲学者本人たちにモテているのである。
彼の主著と言えば『ヘーゲル読解入門――『精神現象学』を読む』である。
何ともパッとしない題名である。『論理哲学論考』!とか『ツァラツストラかく語りき』!とか『存在と時間』!のような強烈なインパクトがない。
題名を聞いても「あっ、ふーん」てなもんである。
しかし彼の講義には、後の20世紀フランス思想を彩る哲学者・思想家・文学者たちが出席していたのである。その名前を挙げると:レイモン・クノー、ジョルジュ・バタイユ、モーリス・メルロポンティ、アンドレ・ブルトン、ジャック・ラカン、レイモン・アーロン、ロジェ・カイヨワ、ミシェル・レリス、アンリ・コルバン、ジャン・イポリットなど。
もう20世紀の大スターたちである。
そんなモテ系スターたちにモテまくっていたのに、一般的には知名度が皆無に等しいし、専門家からもそれほど注目されているとは言い難い。
20世紀のヘーゲル受容にマルクス主義的な方向性を与え、戦後におけるフランスの左翼的思想潮流の流れにかなり強力な影響を与えたはずなのに、アーティスツ・アーティストみたいな存在。
そんなコジェーヴ、専門家のなかででも、もうちょっとモテて良いんじゃないかと思うけど、「このまま、違いが分かる人にだけひっそりと愛されるのも良いかな」なんて気持ちもちょっとあることは否めない。

まとめ

非モテ系哲学者は、一般人からほとんど注目されていないが、専門家からは「○○は大事だよね」といった、熱量の低いモテ方をしている。しかし専門家が口をそろえて大事だと言うからにはその根拠があるわけで、実際に哲学史的にはむちゃくちゃ重要だったりする。しかし何らかの理由により、その大事さにもかかわらず、一般にはあまり浸透していない、そんな無骨で骨太な哲学者たちが非モテ系なのである。
彼らの特徴をいくつか挙げるとすると、
・著作が厖大、未整理、遺稿が多いなど、全貌が掴みにくい
・しばしば各ジャンルの創始者だったりする
・弟子や紹介者にモテ系がいて、そっちの方にばかり注目がいく
・著作の日本語が少ないか、あってもハードカバーでバカ高い
などであろうか。
他にも悪文、文章が無味乾燥といったところがあるが、古典系の大御所にもそういう要素をもったのは割といて、そういう人たちは当時から非モテ系だったのかというと、逆に若者のハートをがっちりわしづかみにしていたパターンもあり、正直なところ悪文であるからといって非モテ系に分類されるとは限らない。(ヘーゲルなんて、当時の若者にはモテまくっていた。)

もしあなたが哲学好きな一般人だったなら、非モテ系哲学者から入るというのは少し勇気がいることだろう。そもそもこの手の哲学者の原典は翻訳が少ないか、あってもバカ高いハードカバーばかりで、「もし面白くなかったらどうしよう」とか、「相性が合わなかったらどうしよう」という心配がある人にお勧めしにくいのは確かである。但し専門家には熱量の低いモテ方をしているので、本格的な入門書、解説書は豊富にあったりする。また、高価な原典、無骨な文体、専門的な内容といった諸々の(決して低くない)ハードルをクリアしていくことができたなら、そもそも彼らの内容は哲学的に素晴らしいわけで、あなたの思考力をきわめてクリアに研ぎ澄ましてくれるだろう。とはいえ、そこまでして苦行僧のように読み進める読書体験が、すべての哲学愛好者に合うとは思わないので、精神的マゾヒストの人にだけお勧めする。遭難の危険性が高い、雪山登山のようなものだと思って戴ければ良い。途中で死ぬ可能性も高いが、昇り切った後の景色の素晴らしさは保証する。

もしあなたが哲学専攻の学生の場合、こういった非モテ系哲学者を選択するのは、ひとつの選択肢としてアリだろう。むしろ、こういう無骨な哲学者をガチガチに勉強するのは哲学的基礎体力の向上にも役立つし、モテ系哲学者を専門にしている奴らに、「フッ、お前らが神の如く崇めている哲学者も、しょせんはフッサールの手のうちで踊っているに過ぎん…」と密かな優越感を抱くことができる。但し、そういう奴らに「乗り越えられた」と反論された場合の反駁パターンはいくつか用意しておく必要がある。また場合によるが、非モテ系哲学者の場合、大量の遺稿が残っていたり、著作の翻訳が古かったりする割に研究者の数はそれほど多くないので、「遺稿の整理」「著作の校訂」「主著の和訳」など、研究者としてかなり本格的な仕事に携われる可能性が高い。非モテ系哲学者たちは、一般人へのアピールは弱いかもしれないが、専門家へのアピールは充分なわけで、噛めば噛むほど面白くなっていくことは保証できる。とはいえ、一般人に自分の専門を説明する際に、自分の期待したほどの反応が返ってこないことに耐えられるだけの平常心は鍛えておかないといけない。しかし心配する必要はない。こういった哲学者を専門に選ぶということは、あなたにも非モテ系の素養が充分にある可能性が高いので、一般人から「えー、誰それ?いたっけ?」といった反応をされても、「えぇ、まぁ、一般的には知名度ないんですけど、哲学史的には重要なんですよ」といった、熱量の低い弁明は難なく返せるであろうことを期待している。

次回は特殊ジャンル:マニアモテ系

2016年9月3日土曜日

モテ系哲学者?非モテ系哲学者?(かつてモテ系だった編)


祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす

思わず『平家物語』の冒頭を口ずさんでしまうほど、人間の世の中は儚いものである。
真理は永遠だと言いながら、それを探求する我々人類は、どうあがいても百年ぽっち。
かように人の世の移り変わりは激しいもの。
それがモテ・非モテともなると、その激しさは言うまでもない…。

モテ系・非モテ系哲学者第2回はかつてモテ系だった哲学者編である。
(第1回モテ系哲学者編はこちら

かつてモテていた…。世の中にこれほど空しい言葉があるだろうか。
飲み会でおじさんがかつてモテていた自慢を始めたとしたら、その結果は話を聞くまでもなく明らかである。場の空気がおかしくなって終わりである。

しかし今回は、その古傷を敢えて掘り起こすことにしよう…!
かつてモテていた…!
あぁ、これほど悲しい言葉があるだろうか!
一度もモテたことがないのに比べればマシと言われるかもしれないが、落差があるだけかつてモテていた方が悲惨度は高い。)

ここにおけるモテ系非モテ系の言葉の使い方については、第1回を参照してほしい。

さて、それでは始めようか…。

やはりかつてモテ系だった哲学者の筆頭は
ジャン・ポール・サルトル(1905–1980)
を措いてほかにいないだろう。
何しろ早瀬優香子のデビューシングル名は『サルトルで眠れない』(作詞:秋元康、86年)である。まぁ時代的にサルトルがもてはやされた全盛期は過ぎているけど(没後だし)、これまでアイドルのシングルのタイトルにまでなった哲学者がいただろうか…?(もちろんここでは揶揄的な意味が強いんだろうけど)

かつて大学生たちは分かりもしないサルトルをこれみよがしに鞄にいれておくのがオシャレだったというが、そのなかで果たして読破した人はどれくらいいたのだろうか…?
いまは文庫化されて入手のハードルがさがったとはいえ、主著『存在と無』の分厚さったらない。あれは見ているだけで読む気をどんどん削いでいく。
さすがに大学生たちが鞄に入れていたのは『存在と無』じゃなくて『嘔吐』とか『実存主義とは何か』あたりだろうか。
しかし現在の状況を見てみると、どうだろうか?
サルトルを読みたい!という若者は当時に比べてガクンと減ったと言わざるをえないだろう。
(いないとまでは言わないけど)

それでは、なぜサルトル人気がここまで凋落したのか?
思うに、サルトルの人気は、その著作というよりも、キャラ人気に依存していたところが大きかったのではないだろうか?
あの強烈な押し出しの顔面は、一度見たら忘れられない強力な印象を残すだろう。(ちなみにサルトルは一般的に言えば不細工だろうけど、アーティスト系の女性のなかには(しかも美人)、「私は彼の外見じゃなくて才能に惚れてるの」とアピールするために、こういう才能のある不細工とくっつく人が少なからずいるように思われる。実際サルトルもモテていたようだ。以上邪推。)
さらにボーヴォワールとの奇妙な事実婚。ボーヴォワールに関連したイメージもすべてサルトルに紐付けられるから、いやがおうにもサルトルの印象は強くなる。

また、第二次世界大戦後の時代の空気とも合致していたように思われる。
左翼の潮流が世界中で主流になっていたとき、アンガージュマンを叫んで活動する哲学者として、なかば運動家のようになっていたサルトルは、まさに「時代に愛された」と言えるだろう。
日本においても、60年代の大学生たちの左翼的空気を考えれば、サルトルの芸風(?)はベストマッチしていたのではないだろうか。

しかし、まぁ主著があの『存在と無』。
手許に置くだけでゴンゴン読む気が削がれていく『存在と無』。
結局サルトルという強烈なキャラがいなくなってしまうと、彼の思想そのものは若者たちを惹きつけるには難解すぎたということなのだろうか。
あと、時代と寝過ぎたために、その次の世代の若者からは「ダサい」と思われてしまったということもあるかもしれない。

まぁサルトルがかつてモテ系だった哲学者であることに異論のある人は少ないだろうけど、次のリストアップには反論のある人も多いのではないかと思われる。
それは
ジル・ドゥルーズ(1925–1995)
ミシェル・フーコー(1926–1984)
ジャック・デリダ(1930–2004)
の三人である。
デリダはいまでもモテてるぞー!と言う人もいるかもしれないが、やはり一時期の、デリダを良くしらない人も「脱構築」とか言っていた時期に比べると、プレゼンスはガクンと減ってしまったと考えて「かつてモテ系だった枠」に移ってもらった。
もちろんドゥルーズ、フーコー、デリダはモテていた時期が最近であるため、いまだに現役の研究者も多く、そのため関連本はいまでも多く出版されているけれど、じゃあいまでもモテてるかと言うと、ニーチェウィトゲンシュタインのように、悩める高校生の心をわしづかみにすることは少なくなってきたのではないか。

この三人が「かつてモテ系だった枠」に移ってしまった原因のひとつとして、フランス現代思想のブームがひと段落したということもあるだろう。(フランス現代思想はいまでもモテてるぞー!という声はひとまず無視)
浅田彰が『構造と力』を書いたのが1983年。バブル直前のこの時代から始まったフランス現代思想のブームが、ようやく30年ほどたって落ち着いてきたということだろうか。
そう考えると、モテ系として一般人にアピールし続けるためには、分かりやすい入門書や啓蒙書の存在も必要不可欠なのかもしれない。ウィトゲンシュタインだって最近の高校生人気は永井均経由だったりするパターンが多いので、もしかしたら千葉雅也の本を読んでドゥルーズに興味もつ高校生が今後でてこないとも限らない。
そうなると、逆に言葉の迫力だけで若者のハートをがっちり掴み続けているニーチェってホントにすごいな…。

さて、デリダはまだ現役でモテていると言う人がいるかもと上で書いたけど、この枠にはもう一方の境界線がある。
それは「かつてモテ系だったとすら言えないぐらい古くなった」パターンである。
たとえば戦前の学生たちの「デカンショ」の語源になった「デカルト」「カント」「ショーペンハウアー」なんかは(諸説ある)、もはや「かつてモテ系だった」とも言えないだろう。
個人的な判断では、デカルトとカントは「古典系」、ショーペンハウアーはいちおう「マイナーな古典系」に振り分けられる。(かつては一世を風靡した新カント派はほとんどが文句なしの「マイナー系」になってしまったし、ドイツ観念論もかなり怪しい。)
そう、「モテ系」の哲学者はその後「かつてモテ系だった枠」に移り、その移行期間を経たのちに「古典系」になるか、ただの「マイナー系」になるかが分かれるのである。(非モテ系はそれとは別の流れを辿ることになる。)
そう考えると、サルトルやフランス現代思想の面々は、今後古典系にいくかマイナー系にいくかの試験期間に入ったと言えるだろう。(我々が生きているあいだはまだ「かつてモテ系だった枠」に留まり続けるかもしれないが。)

もちろんかつてはモテていた哲学者たち、ほかにもいっぱいいると思われる。
日本だと吉本隆明や浅田彰がそうだろう。柄谷行人は…どうだろうか?
また、日本ではそもそもモテていたかどうか怪しいが、イギリスにおけるバートランド・ラッセルなんかはこの枠に入るんじゃないだろうか。

まとめ

かつてモテ系だった哲学者は、やはり一度はモテ系だったこともあるため、基本的にはモテ系の要素を満たしていることが多い。しかし彼らがモテ系に留まることができなかったのにも、いくつか理由があるはずだ。
考えられるものとして、
・キャラ人気が先行し過ぎた。
・時代の空気とあまりにもピッタリ合致し過ぎた。
・優秀な紹介者がいなくなった。
などの理由が考えられるだろう。
三つ目は地味に大きな役割を果たしているのかもしれない。

もしあなたが哲学好きな一般人だったら、かつてモテ系だった哲学者から入るのもいいだろう。とにかく一度はモテていたわけで、その分関連書籍なども多く、いろんな入口が用意されているからだ。しかしあなたが高校生や大学生などの若年であれば、少し気を付けた方が良い。かつてモテ系だった哲学者には、もれなく「口うるさいオールドファン」がくっついているため、必然的に彼らの相手をする機会が多くなるからだ。でも安心して欲しい。そういうオールドファンの大半も、ブームに乗っかって彼らをかじっていただけで、ちゃんと読了し、しかも理解している人となると意外と少ないからだ。若いあなたが本気出して読めば、彼らがテキトーなことを言っていることはすぐ分かるだろう。とはいえそういうオールドファンの偉そうな口ぶりの裏には屈折した愛情が隠れているため、出来る限り優しくしてあげて欲しい。

もしあなたがかつてモテ系だった哲学者のオールドファンだったなら、これと逆のことに気を付ければいいだけだ。かつては高価だった原典も、いまは文庫化されて手に入りやすくなっていることが多い。あのときはサッパリ分からなくて、カッコいいキーワードだけで友達と議論していたかもしれないが、いまのあなたには経験も分別も加わっているはずだ。もう一度原典をひも解いてみると、かつては気付かなかった彼らの魅力を再発見できるかもしれない。かつての青春の思い出が、ビリー・バンバンの曲とともに(またはH2Oの曲とともに)蘇ってくるだろう。

もしあなたが哲学専攻の学生の場合、こういうかつてモテ系だった哲学者を自分から選ぶパターンと、自分の指導教官がその哲学者の専門家のパターンがあるだろう。
どちらの場合も先行の文献が多く、はたしてどれを読めばいいか分からなくなることがあるかもしれない。しかも大学院に入り学会発表などする場合、あなたが対峙しなければならない「口うるさいオールドファン」は遥かに手ごわい。なにしろプロのオールドファンなのだ。しかし彼らも、「いまどきサルトルなんてやる学生いないよ?」なんて言いながら、実は心のどこかで喜んでいたりする。「ケッ!オメーの解釈は古いんだよ!」などと思わずに、有り難く教えを乞うのがいいだろう。何事もあらまほしきは先達である。
指導教官が専門家の場合は、すこし事情が複雑になる。きっちり指導教官のもとでその哲学者を学ぶのであれば、最高の教育環境が提示されるだろうが、なかには自分の解釈以外の路線を学生が採ることを嫌う先生もいる。その場合は、完全に指導教官に屈するか、口では従っておきながらテキトーに流しておくか(論文審査で大惨事になるかもしれないが)、大げんかするか、研究室を変えるか、そもそも違う哲学者に専門を変えるかという選択肢がある。
しかしまぁ最近はそんな徒弟制度のような大学院も減ってきているので、たいていはかつてモテ系だった哲学者の専門家として、よきアドバイスをくれるだろう。(その解釈が古くても、笑顔を絶やさないように!)

2016年9月2日金曜日

モテ系哲学者?非モテ系哲学者?(モテ系編)


みなさん、もうお気づきのことかと思うが…。

この世には、モテ系と非モテ系が存在する。(つまり排中律だ。)

あっ!現実から目を背けないで!

なんだかんだ言ってもモテ・非モテの構図は大きく、哲学の世界にもこの分類を当てはめることができると、私はつねづね考えていた。
そう、真理とか深淵とか言っている哲学者たちもモテ・非モテの構図から自由にはなっていないのだ…!

今回は哲学者のなかでもモテ系非モテ系な奴らを紹介してみようと思う。

第一回目はモテ系哲学者編だ!

注意書き
しかし断っておかないといけないが、ここで言う「モテ系」とは、その哲学者が実生活においてどの程度異性(や同性)にモテていたかという意味ではない。
哲学をまったく知らない一般人が「おー、哲学って面白そうだな」とか「この人の本を読むために大学で哲学を学んでみたい」と思わせるような魅力をもっている哲学者を私は「モテ系哲学者」と定義する。しかし時代の流れとは恐ろしいもので、この世には「かつてモテ系だった哲学者」というのも大量に存在する。そのなかには、いまでもそれなりにモテる要素が理解できる哲学者と、なんであんなに熱狂されていたのかさっぱり分からない哲学者もいる…。
逆に「非モテ系」とは、一般人にほどんどアピールせず、もっぱら専門家にばっかりモテている哲学者のことで、彼らのことを「非モテ系哲学者」と定義する。なので、誰にも注目されない(専門家にすら)哲学者のことは指さない。それはモテ・非モテのフィールドにすら上がれない、ただの「マイナー哲学者」である。(とはいえ、専門家からのモテは、一般人からの「キャー!」というモテと違って、「○○は重要だよね」といった風なモテ方である。たまに各ジャンル内限定でモテているという、特殊ジャンル「マニアモテ系哲学者」もいて、この辺りの取り扱いは注意しなければならない。)ほかにも、もはやモテ・非モテすら超越した「古典系哲学者」もいる。ここまでくれば大丈夫、あとは歴史があなたを愛してくれる。

能書きも垂れたところで、さぁはじめようか…!

やはりモテ系哲学者といえば、この二人を挙げなければならないだろう。

フリードリヒ・ニーチェ(1844–1900)
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889–1951)

いまだに「ニーチェ読んで哲学科に来ました」とか「ウィトゲンシュタインにハマって世界について考えるようになりました」とか言う大学生がいるらしいというのですごい。
そして実際にそういう高校生にも何人も会ってきている。
(ただし、ウィトゲンシュタインにハマる学生の半分以上は永井均経由だったりする)

しかも女子学生の比率も結構高いという。
非モテ系の研究者からすると、ちょっと信じられない話じゃないだろうか。
このアピール具合はやはり侮れない。

やはり二人とも、アフォリズム的な言い切りの魅力があるのだろう。思うにこの「モテ系」に入れるかどうかは、「言い切りのカッコよさ」があるかどうかが大きな要素になっているのではないか。
やはり「神は死んだ!」なんて言われると、高校生あたりは「そうだぜ!神は死んだぜ!」と思っちゃうのだろうか。
はたして『ツァラツストラかく語りき』なんていったい何回訳されてるんだ?
個人的には『ツァラツストラ』よりも『喜ばしき智慧』の方が好きではあるが。
しかしニーチェはそもそも24歳で西洋古典学の教授になるぐらい、もともと「ゴリゴリ」の人なので、フリーダム(フライハイト?)になってからのニーチェに惹かれていきなりニーチェの真似をしようとすると、結構大けがする可能性が高い。
基礎をがっちりやってきた達人が「基礎なんてくだらねーぜ!インプロだぜ!自分の情熱にしたがえ!」と言ってるのを真に受けちゃう初心者、みたいな。

ウィトゲンシュタインも『論理哲学論考』の切り詰めた現代芸術のような緊張感と、『哲学探究』のアフォリズムの魅力と、「モテ系」になるための条件をキッチリ備えている人なのだけど、その分奥が深いというか難しいというか、学生が生半可に手を出すと焼死してしまう可能性が高い。
しかも『論理哲学論考』で「哲学は最終的に解決した!」と大見得を切っておきながら、「ぜんぶ間違っていた」と言って出戻ってくる辺り(べつに謝ったりしないところがミソ)、ウィトゲンシュタインのファンからすると萌えポイントなのだろう。
ウィトゲンシュタインは前期と後期でまったく言っていることが違うので、研究者は前期と後期の違いとかを云々するけど、哲学愛好家であればそういうことは気にせず、『論理哲学論考』も『哲学探究』もアフォリズム的に楽しんでしまって問題ないだろう。

個人的には両雄とも甲乙つけがたしなのだけど、本屋での関連書籍の量からするとニーチェに軍配が上がるのだろうか。

しかしこの二人がもっともモテ系ということは、やはり哲学者というのは「こじらせてナンボ」なところあるのだろうか。
冷静に論理的に論証するスタイル、初心者受けは悪いか。
やはり寝技で地味に相手を攻略していくより、打撃で派手にやる方が初心者的にも入りやすいのと同じか。

次点として
マルティン・ハイデッガー(1889–1976)
が挙げられるだろう。
ハイデッガーの魅力もその文体だと思うが、ハイデッガーの場合、アフォリズムによる言い切りの魅力というより、ものすごく粘度の高く、まるでトルコアイスのようにくっついて離れない粘着質の文章がむしろ魅力になっていると思われる。
またハイデッガーが凄いのは、主著とされる『存在と時間』が難解なゴシック建築だとしたら、彼の講演録はまるで流れる名調子を聞いているかのような名文だということだろう。
逆に考えると、あれだけ明晰なことを講義で言える人が、いざ文章を書こうとするとぜんぜん書けなくなってしまうというのも不思議ではあるけど…。(『現象学の根本問題』、『形而上学入門』など、やっぱりねちっこいんだけど、素晴らしい。)
ハイデッガーのすごいところは、最初に壮大な計画を提出して、その詳細な見取図をみんなに見せてワクワクさせておきながら、途中で「やっぱ続きやーめた」とすることだろう。(しかも常習犯)
普通はこれで「ふざけんな!」となるもんだけど、ハイデッガーの場合はそうならない。『存在と時間』なんて前半の1/3ぐらいしか書かれてないのに「未完の大著」扱いしてくれる。ほかの哲学者が同じことやったら「構想倒れ」とか言われるよ?(まぁハイデッガーも言われてるけど)
やってることは『ハンターハンター』や『ファイブスター物語』と同じである。

しかしハイデッガーも、哲学をやろうとする学生は気を付けないといけない。ハイデッガーを専攻する学生はなぜかハイデッガーのような文章を書き始めて、ひとりで袋小路に入るというパターンが…。
またこの人は、現実世界でもモテ系だった。(余談だが)

ほかにもモテ系哲学者を挙げることはできるだろう。(社会学分野でのハンナ・アーレントとか、日本だと永井均、池田晶子とか?但し個人的に池田晶子にはそこまで「深み」は感じないが。)
ただし、ニーチェ、ウィトゲンシュタインを超える哲学者はしばらく現れないだろう。

まとめ

モテ系哲学者はその定義通り、哲学に詳しくない一般人や学生を惹きつけるだけの魅力を備えた存在であるが、逆に哲学を専門に学ぼうとする学生にとっては底なし沼、いわばズルズルと哲学者の魅力だけにはまり込んで、そのまま思索の海に溺れてしまう危険性が非常に高い、とてもリスキーな存在であると言えよう。
そしてモテ系になるために必要な要素として

・アフォリズム的な言い切りがカッコいい
・文章が美しいor難解である(何度も読みたくなる)
・分からない、分からないようなモヤモヤとした気にさせる。
・既存の哲学を破壊・再構築しようとしている(とくに破壊に重点を置いている)

辺りが挙げられるだろう。これらの要素のうちいくつかをもっていれば、モテ系になる資格はある!

もしあなたが哲学好きな一般人であれば、モテ系哲学者から入るというのはひとつの選択肢としてアリだろう。(むしろそれ以外の非モテ系や古典系から入ると、途中で挫折する可能性が高いので、ある意味「哲学愛好者にとっては」もっとも安全な入口と言えるかもしれない。)
なにしろモテ系哲学者は読んでいて面白いし、それだけの深みがあるからだ。関連書籍も多いので、原典、研究書、解説書、入門書に困ることはないだろう。

逆にあなたが哲学専攻の学生の場合、もしあなたが学部で終えるつもりなら、モテ系哲学者たちはあなたの若い情熱を正面から受け止めてくれるだろう。若き思索の衝動にまかせて書きなぐった卒論は、いつかあなたの青春の思い出として、美しくあなたの記憶の1ぺージにおさまってくれるだろう。
もしあなたが大学院に進んで、その哲学者を専門に研究しようとするなら、モテ系哲学者には注意せよ。将来「哲学者」になるつもりならまだしも、大学院に進むということは「哲学研究者」としての修業も積まないといけないということだ。あなたは「哲学」をしたかったのであって、「哲学研究」をしたかったわけではないと思うかもしれないが、大学院に進むというのは、初期衝動とサヨナラするということでもある。速やかに「哲学研究」も進めないと、神じゃなくて自分が死ぬ可能性がある。しかしモテ系哲学者は何だかんだいって、哲学に興味のなかった人を惹きつける魅力があるわけだし、最後まで到達することができたなら、その頂きからの眺めはきっと素晴らしいことだろう。(そのとき、モテ系哲学者という梯子は不要になり、あなた自身がモテ系哲学者になるのだ。)

2016年9月1日木曜日

イブン・シーナーが読んでいたと思われる註釈の状況

イブン・シーナー/アヴィセンナといえば、一昔まえまでは「アリストテレスの註釈を書いた」なんて書かれることも多かった。

この「註釈」という言葉、いろいろ定義は細かいので今回は省くけれども、あくまでも基となるテキストがあって、それにコメントを付ける(何しろcommentaryというのだから)というスタイルだと考えてもらえれば問題ない。

アリストテレス(BC322歿)からイブン・シーナー(980生まれ)に至るまでのだいたい1300年のあいだに、それはもうたくさんの註釈が書かれてきた。

なんとなく、現代の価値観だとオリジナルを書くのが一流で、註釈、コメントは二流というイメージがあるかもしれないけれど、それは現代人の早とちり。むしろ伝統にしっかり依拠しているかどうかというのがとても大事だったりする。

現代の研究論文だって、「完全にオリジナル」な文章はなかなか受け入れられなくて、「出典」「引用」を付けて根拠を示さないと、論文として認められにくいけど、それと同じかもしれない。

じゃあイブン・シーナーはどんな註釈を読んでいたかということだけど、これは完全には分からない。但し、当時のアラビア語世界で流布していたものや、彼自身がコメントで書いているものなどから、ある程度まで絞り込むことができる。

以下では、彼が読んでいたと思われるアリストテレスの『魂について』への註釈が、とりわけアラビア語にかんしてどうなっているか、概観してみたいと思う。(最初に言い忘れていたけれど、中世のアラビア語哲学において、註釈がこんなに大量に書かれたのは『魂について』がダントツじゃなかろうか。そして私は『魂について』以外の状況については余り詳しくないのだ。)

・アフロディシアスのアレクサンドロス(200頃)
彼については、そもそも『魂について』の註釈がギリシア語で現存していないという問題がある。註釈ではなく、彼のオリジナルの『魂について』はギリシア語で現存しているが、こちらのアラビア語訳は現存しない。むしろ『魂について補遺』とでも言うべきMantissaの一部を抜粋した『知性論』が流布し、こちらはアラビア語訳が現存する。イスハーク・イブン・フナイン訳。校訂者Finneganによると、この『知性論』、西方イスラーム世界に比べて東方ではあまり流布していなかったんじゃないかと言っているが、そうでもないようだ。しかし、イブン・シーナーによるアレクサンドロスへの言及などを吟味してみると、アレクサンドロスの意見じゃないものも混じったりしているようで、その全体像が綺麗に伝わっていたかどうかは疑わしいかも。
ほかにも、ギリシア語では散逸してアラビア語でのみ残っている作品も多く、アレクサンドロスを研究しようとする人たち(いるのか?)にとっては、結構うっとうしい存在であると言える。

・テミスティオス(317–390頃)
彼の『魂について』註釈はほぼ完全なアラビア語翻訳が残っている。イスハーク・イブン・フナイン訳。アレクサンドロスの『知性論』なんかに比べて量も多く、ある意味アリストテレス『魂について』の副読本としても読まれていたと考えていいのではないか。それぐらいアラビア語世界では重要。イブン・シーナーもかなりテミスティオスを下敷きにしていると思われる。
そもそもアリストテレスの『魂について』のアラビア語訳自体がいろいろ問題含みなので、「アリストテレスの代わりに教科書的に読まれた」「乗り越えられるべきドグマとしていろいろ批判される」など、ラテン語世界におけるイブン・シーナーの『治癒の書』と同じような読まれ方をされたのかも。
とはいえ、テミスティオスは能動知性内在説で、あれだけアラビア語世界で読まれた割には能動知性内在説を採る人が少ないのは不思議ではある。

・ヨハネス・フィロポノス(490–570)
この辺りからこんがらかってくる。
まずフィロポノス『魂について』註釈は、そもそもギリシア語がおかしなことになっている。テキストは現存しているのだけど、第3巻(表象や知性を論じる、中世ではいちばん重要なところ)のギリシア語として現存しているのは、じつはフィロポノスの弟子ステファノスによるものだとされていて、フィロポノス本人のテキストは、ラテン語訳でのみ現存しているのだという。
しかしこのフィロポノス『知性論』(De Intellectu)は第3巻の第4章から第8章までの翻訳なので、第3巻の第1章から第3章、第9章から第13章までのフィロポノスのオリジナルは散逸してしまっているということになる。(つまりフィロポノスの表象論は散逸しているということ。)
そしてこのフィロポノス『魂について』註釈のアラビア語訳は存在しない。かつて存在したのに散逸したのか、そもそも翻訳されなかったのかも定かではない。とはいえ、イブン・シーナーはフィロポノスの名を挙げているし、彼の議論を見ると、明らかにフィロポノスを知っていた、そしておそらく読んでいたことは確かである。

・アレクサンドリアのステファノス(6世紀から7世紀)
もうここまで来ると、普通のひとには「誰だこいつ?」といったところだろう。
ステファノス自身の名前を冠している註釈としては、アリストテレスの『命題論』への註釈があるが(これもアラビア語世界に影響を与えている)、上にも述べたように、フィロポノスのものとして伝わっている『魂について註釈』のギリシア語テキストの第3巻は、このステファノスのものだという。なんともややこしい。しかもややこしいことに、アラビア語世界には、こちらの、いわば「擬フィロポノス=ステファノス」のテキストも伝わっていたと考えられる。しかも、こちらもアラビア語訳は現存しない。
形はゼロなのに影響ばかりあるとか言われてもどうするんだと思うけれど、伝わってしまっているから仕方ない。なのでイブン・シーナー(に限らず当時のアラビア語世界の人)が「フィロポノス」と言っているときは、フィロポノス本人のことを言っているのか、ステファノスの方を言っているのか気を付けないといけない。
この頃になると後期古代のアレクサンドリアの栄光はだいぶ翳りが見えてきて、641年には新興のイスラーム帝国の手に陥落する。Charltonによればステファノスの文章はきわめて保守的で、そこからは激動の時代に背を向け、古典の世界にのみ生きる絶滅危惧種の朴訥な教師像が浮かび上がってくる。ステファノス自身はキリスト教徒だったらしいが、註釈では同時代の出来事には全くと言っていいほど触れられておらず、まさに象牙の塔に籠りきっていたのかもしれない。

2016年7月22日金曜日

本当の自分はすっぱだか?

提唱者:イブン・シーナー

テキスト:『治癒の書』「魂について」

本当の「自分」って何だろう?

「私」の範囲をどこに設定するかというのは、昔の哲学者にとっても大きな問題だった。

「私」=「自分」=「私そのもの」だとすれば、私がいつも着ているお気に入りのシャツは私に含まれるのだろうか?いつも履いている靴は?

いつも眼メガネをかけている人にとって、メガネは自分を構成する要素と言えるかもしれない。

しかし、イブン・シーナーはその範囲をかなり狭く設定する。

これらの肢部(=手足のような身体器官)は、実際には衣服のようにして我々にそなわるにすぎないのに、つねに我々に付着しているため、我々から見ると、我々の部分のようになっている。我々が自分自身を想像するとき、裸体で想像することはなく、身にまとう物体をともなった姿で想像する。その原因は恒常的な付着だが、しかし衣服については、肢体にあっては慣れていない剥ぎ取りや脱ぎ捨てに我々が慣れているため、肢体は我々の部分だという考えの方が、衣服は我々の部分だという考えよりも強固なのである。
イブン・シーナー『魂について 治癒の書 自然学第六篇』(木下雄介訳)知泉書館、2012, p. 294.

 つまり、イブン・シーナーによれば、私たちは普段「私」を想像するときに、服を着た姿で想像する。これは、(大抵の場合、)通常人間は服を着ているからであるが、それでも私たちはその服が自分自身ではないことを分かっている。
それと同じように、私たちに備わっている身体の器官も、本当は私じゃないのに、身体がつねに私に付着しているため、あたかもそれが「絶対に脱げない服」のようになっており、身体が私たちの本質に含まれると勘違いしてしまうのだ。

イブン・シーナーはこれを、空中人間説という独特な思考実験によって説明しようとする。

彼によると、人間の本質とは「魂」(現代的な言い方をすれば心)であり、身体の方は、いわば絶対に脱げない服のようなものであり、私を構成する本質の一部ではないのだ。

だから、本当の自分はすっぱだかどころか、身体をまったくもたないのだ。

これは一見すると理に適っているように思われるかもしれないけど、現代人からすると、ちょっと納得のいかない部分も多いだろう。

たとえば、メイクを日常的にしている人からすれば、メイクをした顔の方が本当の顔のように思えるだろうし、身体が変化することによって「自分」も刻一刻と変化していってるように思えるんじゃないだろうか。

風邪をひいたとき、体調の良いときで、「私」は違うように感じられるだろうし、落ち込んでいるときと嬉しいときではまるっきり別人になっているように思われるだろう。

10歳のときの自分と20歳のときの自分、30歳のときの自分は同じだろうか?

なんとなくイブン・シーナーの言っている「私」の説明は違うように思えないだろうか?

そう思うのは、彼が考える「自分」と、私たちが考える「自分」が違っているからだろう。

イブン・シーナーは基本的に「個物」に関心がない。彼が哲学的考察の対象とするのは、あくまでも一般概念である。

だから、ここでイブン・シーナーが問題にしているのは、いまここにいる私やあなたではなく、あくまでも「人間」一般なのである。

あなたが嬉しかろうか悲しかろうが、10歳だろうが80歳だろうが、「人間」としてのあなたは変わりないはずだ。

事故にあって片足を失ったら、たしかにそれ以前とそれ以降の私の自己認識は変わるだろうけど、あくまでも「人間」として見た場合、手足がなくなろうとも、目が見えなくなろうとも、「人間」であることには変わりない。

そういった意味で、イブン・シーナーは「私たち」の本質は身体にない、と言ったのである。

だから、個々の私やあなたの、唯一無二の身体性を伴った「私」が、身体の変化に連動して変化することそのものを、イブン・シーナーは否定しないだろう。
ただ、そこで感じられている「私」は、彼にとって学問の対象ではなく、あくまでも「人間」一般こそが論じられるべきだというのだろう。

こういう態度は、個々人のケーススタディをする学問を知っている現代人からすると奇妙なものに思われるかもしれないけれど、あくまでも「普遍学」こそが学問だという、イブン・シーナーのある意味「科学的」な態度も、個人的にはなかなか悪くないように思ってしまうのだ。

2016年7月14日木曜日

アッバース朝における論理学vs文法学

提唱者:アブー・サイード・シーラーフィー、アブー・ビシュル・マッター


「哲学」とは何だろうか?

私たちはそれが、じつは「ギリシア」に端を発するもので、一般的に我々が哲学と言って思い浮かべるものが、明治期になるまで日本とまったく関係ないところで発展してきたものだという事実に、しばしば気付かない。

たぶん、西周が作り出した「哲学」(本来は「希哲学」)という訳語が余りにも日本語としてしっくりきてしまったというのもあるだろう。

私はこの、日本における「哲学」の立ち位置を考えるとき、いつも思い浮かべるのが、ヒジュラ暦320年にバグダードにて、アッバース朝の大臣アブールファトフ・フラートのもとで開催された、アラビア語文法家アブー・サイード・シーラーフィーと論理学者アブー・ビシュル・マッター・イブン・ユーヌスとのあいだの討論である。

これはアブー・ハイヤーンによって報告されており、果たして「正確に」そのようなことが話されたのかはやや疑問の残るところだけど、なかなか迫真の内容が伝わっている。
(内容についても、いつか機会があれば紹介したいと思う。)

アブールファトフは320年第二ラービウ月(932年4月16日~)からズールカダァ月(~932年12月7日)に就任していたことは確かなので、この討論は932年の4月から12月のあいだに行われたことになる。
討論の場に居合わせた人物にかんしては、幾人かはその場にいなかったのではという疑問も呈されているが、おおむね「本当にこの討論が行われた」としても問題のない面子が出席していたようだ。

ことの発端は、アブー・ビシュル・マッターが大臣に、正しい知識を知るためには論理学を知らなければならないと主張し、大臣が居並ぶ廷臣たちに、アブー・ビシュル・マッターの言い分に反論してみよと命じたことである。

アブー・ビシュル・マッターは名前からも分かるように(分からないか?)、「マタイ」であり、シリア人のキリスト教徒である。イブン・ユーヌスも「ヨナの息子」なので、「ヨナの息子マタイ」である。

このように、10世紀ごろまでのアラビア語哲学の形成には、ギリシア語やシリア語の資料へのアクセスが可能なキリスト教徒たちがかなり重要な役割を果たしていた。

で、討論はどうだったのかというと、結論から言うと、アブー・サイード・シーラーフィーの勝利ということになったようだ。

まずアブー・ビシュル・マッターへの援護をしておくと、彼はひどい吃音の癖があり、さらにアラビア語があまり得意でなかったようだ。その上で居並ぶ敵対的な群衆の前で(いまほどでもないが、当時のバグダードでもキリスト教徒はマイノリティーだった)公開討論を行うというプレッシャーは相当なものだったに違いない。

ものすごく簡単に言ってしまうと、アラビア語文法家たちの言い分としては、哲学者、論理学者が主張している「論理学」なるものは、いわばギリシア語文法に過ぎず、アラビア語には適用できない、つまり各々の民族は各々の言語、論理、思考法をもっており、アラブ人にはアラビア語、ギリシア人にはギリシア語の思考が合っているだけで、べつにアラブ人がギリシア人の作った「ギリシア語文法」を、さも普遍的な思考のように有り難がる必要はない、というものだった。

でも、これはものすごく良く分かる。

イブン・シーナーも『治癒の書』の論理学の項目を見ていると、アラビア語とギリシア語の違いを何とか説明しようとしているし、より言語に堪能だったキンディーは、個別言語の違いにとても敏感だった。

たとえば、アリストテレスの論理学は、ギリシア語の思考法を基準にしているから、論理学で取り扱うのは現在形であり、未来と過去は取り扱わないとしている。
しかし、アラビア語の動詞は完了と未完了の二種類しかなく、そもそも「現在・過去・未来」という分け方をしない。

たしかにそういうところを見れば、当時のアラブ人たちが「なーんだ、お前たちが普遍的とか言ってるものは、ギリシア語でしか通用しないじゃん!」と思ったのも当然だよなぁと思ってしまう。

だから、哲学を人工言語派か自然言語派(or日常言語派)かで分ければ、ある時期までのアラビア語哲学は断然人工言語派である。

表面的な言葉尻の世界では、ギリシア語とアラビア語はまったく違う。
だから、アリストテレスの論理学がアラビア語でも成立するためには、哲学的に調整された言語を使用するしかなかったのだ。

もちろんその後、アラビア語やペルシア語での著作が増えてくると、自らの言語でのみ表現することのできる哲学が構築されてゆき、そういう12世紀以降の時代こそがアラビア語哲学の「黄金期」であるとされるのだけど、私が専門としている10世紀から11世紀辺りは、まだ「翻訳哲学」としての要素がかなり強かった。(その意味でも、イブン・シーナーは「翻訳哲学」から、真の意味での「アラビア語哲学」への転換点だったと言えるだろう。)

一方でラテン語の世界ではこういう齟齬が起きなかったのかは気になるところだけど、そもそもギリシア語に合うようにラテン語文法までも変えてしまったのだから、ラテン語とギリシア語は地続きという感覚が強かったのだろうか。
気になるところではある。

じゃあ果たして日本では?
たしかに自分も、「あんなの西洋語の言葉遊びでしか成り立たないじゃんか!」と思うことはしばしばあるし、何となくそれに納得がいかないこともある。
もちろんそれが魅力だったりもするんだけど。

個人的には人工言語派なんだけど、一見して魅力があるように映るのは自然言語派なんだよなぁ。
人間は、自分の母語を離れた普遍的言語で思考することは可能なのか?記号論理学を完全にものにした人たちや数学者は、日本語を離れて完全に人工の言語で思考しているのかなぁ。

2016年7月11日月曜日

「すべての始原は水である」と「水!」


提唱者:タレス、アリストテレス、イブン・シーナー、井上忠

テキスト:『形而上学』、『治癒の書』「入門篇」、『根拠よりの挑戦』

日本を代表する哲学者のひとり(?)、井上忠、通称イノチュウは独特の言語感覚をもっており、彼の著作はどれもが「読むドラッグ」とでも言うような酩酊感を引き起こすものだけれど、初期の代表作『根拠よりの挑戦』の冒頭の論考において、彼は以下のように言っている。

こうした空寂の裡に、突然、
「タレス、このかような意味での哲学(ピロソピア)の創始者(アルケゴス)は、水だ、と言う」
との宣言が炸裂する。この言葉が、ただこの一句が、アリストテレス全著作、ひいては全西洋哲学史を貫いて、哲学の開落を告げている。それはあたかも、タレスの水の叫びが、体系めく理論の姿も、説明も纏わず、ただ一つの言葉として、アリストテレスの愛智探求の途に突如響交いわたった驚異の瞬間を、まざまざと示す如く、一瞬のうちにタレスの不動の位置を決定したものである。(……)
万有の始原・原理は何か、との問いがまずあったのであろうか。万有の原理という、この思想が、「水!」以前にあったのであろうか。アリストテレスの筆の運びは明らかに、「万有の存するはそれからであり、すべてがそれから生じ来る第一なるものであり、また終にはそれへと消滅しゆく窮極なるそれ(そこではそれが本当に有ることの所以〔その実体〕は、そのままそれらすべての基(もと)に〔基体として〕とどまっていて、ただそれの受ける様々な様態(パトス)においてのみその転化すなわちその生滅変化が現れる)、こうしたそれを、ひとびとはものの構成要素(ストイケイオン)であり始原(原理)(アルケ)であると言う」と述べたあとを承けて、このそれが水なのだという解釈を示している。勿論これは「講義」のための手法であり、かれ自身の体系構成の方法からの説明である。(……)
実に、タレスの「水!」の発語は、かれの筆持つことへの怠惰の故でも、文献の不足や伝承の疎漏の故にでもなく、初めてあれに、万有の蔭に完全犯罪を遂行して止まぬあいつに、人間が突然出遭ったときの、驚畏と緊張の異様な沈黙のさ中に発せられた一語であったが故に、かく厳しく孤立するのである。
井上忠「プラトンへの挑戦――質料論序論――」『根拠よりの挑戦 ギリシア哲学究攻』東京大学出版会、1974, p. 11–16.
(原文のルビは丸括弧にて指示、傍点は太字とした)

何とも不思議な文章だけれども、これはアリストテレス『形而上学』の記述を下敷きにしている。

しかし、こうした原理(アルケー)の数や種類に関しては、必ずしもかれらのすべてが同じことを言っているわけではなくて、タレスは、あの知恵の愛求〔哲学〕の始祖であるが、「水」(ヒードル)がそれであると言っている、(それゆえに大地も水のうえにあると唱えた、)そしてかれがこの見解をいだくに至ったのは、おそらく、すべてのものの養分が水気のあるものであり、熱そのものさえもこれから生じまたこれによって生存しているのを見てであろう、しかるに、すべてのものがそれから生成するところのそれこそは、すべてのものの原理(アルケー)〔始まり・もと〕だから、というのであろう。たしかにこうした理由でこの見解をいだくに至ったのであろうが、さらにまた、すべてのものの種子は水気のある自然性(フィシス)をもち、そして水こそは水気のあるものにとってその自然の原理であるという理由からでもあろう。
アリストテレス『形而上学 上』(出隆訳)岩波文庫、1959, p. 32–33.
(原文のルビは丸括弧にて指示、傍点は太字とした)

ここでアリストテレスは、原理=始原(アルケー)がどうなっているかについて過去の学説を紹介し、それをひとつずつ検討してゆく。そしてタレスはそれが「水」であると言ったとしている。

たしかにここから「すべての始原は水である」という命題を読み取るのは簡単だし、アリストテレスの文章がそうした命題的な文章への傾向性をもつことは確かだと思う。

でも、そこにイノチュウは待ったをかける。ここでタレスが言ったのは、

「水!」

の叫びじゃないといけない。

「すべての始原は水である」みたいに間延びした命題じゃあない。
哲学のはじまりが「驚き」なのであれば、まさにイノチュウの指摘は、哲学の始まりが何であるかについての厳しい洞察であると言えるんじゃないだろうか。

ここで私はイブン・シーナーによる「概念化」と「承認」という二つの考えに行きあたる。

彼は『治癒の書』「入門篇」第1巻第3章で以下のように言っている:

また事物はふたつの面から知られる:
ひとつ目は、概念化される(=思い浮かべられる)だけであり、それが名前を持っていて発話されたとき、精神のうちにその意味を、真も偽もなしに思い浮かべた場合。たとえば「人間」と言われたり、「私はこのようなことを行う」と言われたり。なぜならあなたは、それによって話されていることの意味を理解したら、それを概念化する(=思い浮かべる)だろうから。
ふたつ目は、概念化と共に承認が生じる場合である。たとえば「あらゆる白さは付帯性である」と言われたとき、これによってあなたに、この言説の意味の概念化が生じるだけでなく、あなたはそれがそうであると承認する。それがそうであるかそうでないかを疑っていても、あなたは言われたことをすでに概念化している。というのもあなたは、あなたが概念化していなかったり理解していなかったりするものを疑っているのではなく、それをまだ承認していないだけなのだから。あらゆる承認は概念化と共にあるが、逆は成り立たない。
Ibn Sīnā, Kitāb al-Shifā’: al-Madkhal, ed. A. Qanawātī, M. Al-Khuḍairī, F. Al-Ahwānī, Cairo: al-Idārah al-ʻāmmah li-l-taqāfah, 1952, p. 18

彼によれば、「人間」とだけ言われるのは概念化であり、「人間は理性的動物である」と言われるのが承認である。
概念化の場合、ただその概念が頭に思い浮かんでいるだけであり、それについて真も偽もまだ言われない。
それが分節化されて、文章になってはじめて論理学的な命題になるのだ。

これはまさに、「水!」という叫びから「すべての始原は水である」への分節化に対応していないだろうか。

もちろんこの概念化は真偽が定かでないのだから、命題的な文章こそを哲学的探求の題材にするペリパトス派的な視点からすると、「哲学以前」の叫びに過ぎないかもしれない。

しかし、承認可能な命題も、かならず概念化されたものから構築されなければならない。

そういった意味では、「水!」の叫びこそが哲学の始まりなのだというイノチュウの指摘と、哲学的命題以前に真偽の定まらない概念化の段階があるとしたイブン・シーナーの主張は、結構似ているのでないかとも思ったりするのだ。

2016年7月9日土曜日

哲学的な文とは命題的な文のことである


提唱者:アリストテレス、アンモニオス、イブン・シーナー

テキスト:『命題論』『命題論註解』『治癒の書』「命題論」

哲学的な文ってなんだろう?

とっても難しい気がする。

たぶん倫理の教科書とかでは、「すべての根源(アルケー)は水である」とか、そんな文章を読んだことがあるかもしれない。

でも、アリストテレスによれば、哲学的な文とそうでない文の違いは明確だ。

アリストテレスは『命題論』第4章で以下のように言う。

言表はすべて対象を表示するものだが、道具のようにではなく、すでに述べられたように、取り決めによって表示するものである。またすべての言表が命題的であるわけではなく、真または偽である言表が命題的である。例えば祈りの言葉は言表であるが、真でも偽でもないように、すべての言表が真であったり偽であったりするわけではない。しかしこういった他の種類の言表は考察対象から除外することにしよう。そうした言表の考察は現在の研究よりも弁論や詩作の研究で行われるものなのだから。そして命題的言表が現在の考察対象である。
アリストテレス「命題論」『アリストテレス全集1』(早瀬篤訳)岩波書店、2013, p. 118–119.

つまり、アリストテレスによれば、命題的で、真か偽か決定できるものだけが、『命題論』での考察の対象なのである。

それ以外のものは、たとえば『詩学』や『弁論術』で取り扱うべきだという。まぁアリストテレスの言いたいことは分かる。たしかに『命題論』で扱うのは(ギリシア語の原題だと『解釈について』だけど)、命題的な文章で、詩的な文章や修辞的な文章はほかのところで取り扱うんだよ、というのはとても理に適っている。

でも、これがアリストテレスの註釈家の時代になっていくともう少し細かく分析されるようになる。五世紀頃の註釈家アンモニオス・ヘルメイウは『命題論註解』の冒頭でこのように言っている。

文章には五つの種類がある。つまり(1)呼びかけ文、たとえば「ああ幸せなる者アトレウスの息子よ」のような。(2)命令文、たとえば「行け!疾く離れよイリス!」のような。(3)疑問文、たとえば「お前は誰でどこから来たのだ?」のような。(4)祈願文、たとえば「ああせめて、父なるゼウスよ…」のような。そして最後に(5)断言文で、これによって我々はあらゆるものに対する断言をおこなうのである。たとえば「しかし神はすべてを知っているのだ」、「あらゆる魂は不死である」など。アリストテレスはこの講座において、すべての単純な文でなく、断言文のみにかんする教授をおこなっている――それには理由がある。というのもこのタイプの文章のみが真偽を受け入れるのであり、哲学者(=アリストテレス)は論証のために論理学の講座全体を編んだのであり、それはこのタイプに分類されるのだから。
Ammonius, On Aristotle's On Interpretation 1–8, trans. David Blank, Ithaca, New York: Cornell University Press, 1996, p. 12.

アリストテレスによると真でも偽でもない言表があるよね、それは命題的ではないから論理学では扱わないよ、という程度だったものを、アンモニオスは文をぜんぶで五種類に分類する。
そして、呼びかけ、命令、疑問、祈願といったものは哲学では取り扱わないと宣言する。(ここで引っ張ってきている例文がホメロスからなのが、いちいち後期古代の教養を見せつけている)

命題的な(真か偽である)文のみを取り扱うのが論理学だけなのか、それとも哲学全体なのかという問題はあるだろうけど(アラビア語に翻訳される段階で『弁論術』と『詩学』は論理学(オルガノン)に含まれてしまうのでまた面倒な話になるんだけど)、アンモニオスのニュアンスでは「哲学的な文章=命題的な文章」と理解しても問題ないんじゃないかなぁ。

そしてもっと時代がくだってイブン・シーナーになるとどうなるかと言うと、彼は『治癒の書』「命題論」で、次のようなことを言っている。(ちょっと長いけど)

言説は、その一部がほかの一部を制限することによって、定義や描写のやり方で組み合わせられうる。また言説の諸部分のあいだに「~なもの」という発話が述べられるのは妥当である。たとえば「理性的で定命の動物」という文のように。というのも、それが「理性的なものであり、定命のものである動物」と言われるのは妥当なのだから。
 またべつの仕方でも組み合わされうる。というのも言説に必要なのは、魂のうちにあるものへの指示であり、指示は、それ自体によって意図されるか、会話内容によってそれに由来するものが生じると予測されるほかのものによって意図されるかである。
(1)それ自体によって意図される指示は述語で、本来的に指示されたものか、祈願や驚嘆などの転化のような、屈折されたものかである。なぜならそれらはすべて述語に還元されるのだから。
(2)会話内容から見出されるものによって意図されるものは、それも指示であるか、指示でなく活動であるかである。もし指示が意図されたなら、会話は調査や質問である。そして指示以外の何らかの行為や活動が意図されたとき、同等からのものは依頼、上からのものは命令や禁止、下からのものは嘆願や請求と言われる。
しかし学問において有益なのは、制限という仕方での組み合わせか(それは定義や描写やそれに類したものによる概念化の獲得にかかわる)、または述語にしたがった組み合わせ(それは推論やそれに類したものによる承認の獲得にかかわる)のどちらかである。そしてこのような仕方の組み合わせから、断言的と呼ばれる種類の言説が生じるのである。
断言的言説はすべてが真か偽であると言われる。そしてほかのいかなる[種類の]言説も、真か偽かと言われないように、断言的だと言われない。よって、それらにかんする考察は、弁論術や詩の規則にかんする考察により相応しい。
Ibn Sīnā, Kitāb al-Shifā’: al-ʻIbārah, ed. M. El-Khodeiri, S. Zāyid et al. Cairo: Dār al-Kātib al-ʻArabī, 1970, p. 31–32.

イブン・シーナーはアンモニオスほど細かく文章の種類を分類していないけど、ちょっと面白いのは、文の種類のなかには「行為を誘発するような文」があると指摘していることだ。でもやっぱり哲学的な文章というのは命題的な文章ということになる。(彼はそれを概念化と承認という二種類に分類する)
イブン・シーナーがちょろっと紹介している、この「行為を誘発するような文」は、いわゆる現代の言語行為論につながっていくものなのだろうけど、彼はそこをちょっと紹介しただけで素通りしてしまう。
やっぱりアリストテレス的な「真か偽である文」という規定がとっても強く支配していたことが分かる。
(言語行為論がオースティンなどに至るまで存在していなかったかというと、古代の教父たちが祈りにかんする考察をしているという主張もあるけれど、個人的にそれほど詳しくないし、彼らの考察が「哲学」かというとちょっと疑問もあるので、ここでは深く立ち入らない。)

おそらく、より文学的な傾向や神秘主義的な傾向をもった哲学や思想は、このアリストテレス的な「真か偽か判断できる命題的な文のみを哲学で取り扱う」という、割と限定的な規定を嫌い、いわばそれを「乗り越え」ていこうとするんだろうけど、たぶんそういった人たちの思想も、究極的な首長が「乗り越え」ているだけで、そこに至るまでの道筋は命題的だと思う。
もしそうじゃなければ、それは神秘哲学じゃなくて神秘主義ってことになるんじゃないかな。イブン・シーナーの、論理を安易に否定する「神秘野郎」への拒否感は、おそらくペリパトス派の典型的な考え方なんじゃないかと思う。

現代の哲学に慣れ親しんだ人からすると、この規定はいかにも窮屈に感じるかもしれないし、哲学の原初の姿勢は命題以前の驚きの叫びなのだという意見もあるだろうけれど、真とも偽とも言えないものを排除しようという姿勢は、改めてアリストテレスが「学問の祖」であることを思い出させてくれる。

2016年7月7日木曜日

名詞中心言語観と動物の言語

提唱者:アリストテレス、ステファノス

テキスト:『命題論』、『命題論註解』

アリストテレスは命題論を以下のような文章で始める。

最初に名詞とは何であるのか、そして動詞とは何であるのかを見定めなければならない。次に否定言明と肯定言明と命題と言表が何であるのかを見定めなければならない。
アリストテレス「命題論」『アリストテレス全集1』(早瀬篤訳)岩波書店、2013, 16a1, p. 112.

ふーん、と思うのだけど、古代の註釈家たちは、ここで名詞が最初に来ていることに注目した。
アンモニオスやステファノスといった註釈家たちは、アリストテレスが動詞よりも名詞を先に解説していることを、理にかなったことだと考えた。
なぜなら、名詞は「事物の存在」を指示しているけれど、動詞は「事物の行為」を指示しており、存在の方が行為より先なのだから。

この「名詞」中心主義的な言語観は古代に限らず、私たちも多かれ少なかれ共有しているように思う。

言語の中には名詞だって動詞だって、それ以外の小辞(前置詞や冠詞など)もあるのに、たとえば日本語をどれか挙げてみてって言われて、「山」や「川」じゃなくて、「走る」や「食べる」、さらには「だろう」や「と」を挙げる人は結構変わってる人だと思う。
(ウィトゲンシュタインが『哲学探究』でアウグスティヌスの『告白』を引用しながら批判したのは、まさにこういう名詞中心の言語観だと思うのだけど、ひとまず我々は古典的な言語観の味方ということにしておきたい。)

アリストテレスは名詞を次のように説明している。

さて、名詞とは対象となる思考内容あるいは事物・事象を表示する音声であり、取り決めによって成立するもので、時制をもたないものである。そして名詞の部分は、全体から切り離された状態では何も表示しない。
アリストテレス「命題論」p. 114.

アリストテレスにとって、名詞というのは人々の合意によって成り立つもので、言霊に基づいてそれぞれの言葉が決定されているものじゃない。

そして、かならず意味に時間が付け加えられてしまう動詞と異なり、時制をもたない。
(「山」に「過去」がくっついていたら怖い。ただ、「昨日」という名詞は時間を指すだろうという指摘もあり、これには註釈家の人たちがいろいろ答えている。)

そして、「イスラーム」という言葉の「イ」と「スラーム」がそれぞれ「イスラーム」がもつ意味の一部を担っているわけではない。
(「哲学」は「哲」と「学」でも意味があるし、「哲学」の意味の部分を指示してない?っていう指摘はたしかにあって、これもいろいろ説明されている。但し、アリストテレスのこの名詞観は漢字のように表意文字を使う文化圏にはそのまま適応しにくいかもしれない。)

以上がペリパトス派による、基本的な名詞の理解である。

もちろんアリストテレスがここで想定しているのは、人間であって、たとえば動物の鳴き声も何らかの意味をもっているだろうけれど、それはあくまで取り決めにしたがっていないため、言語ではないのだ。

 動物の鳴き声が言葉と言えないことを、アレクサンドリアのステファノスは『命題論註解』のなかで以下のようにまとめている。

 「意味をもつ」以下の部分を、彼は構成的種差として使用している。それはこの種の発話音を、分節化されまいがされようが、無意味な発話音から、また分節化されないが意味をもつ音(たとえば書かれない音や、犬の吠え声など)から区別するためである。分節化されるものは、たとえば「山羊鹿」や「ブリトュリ」のようなものである。彼は「合意による」を、「策定による」の代わりに使っている。というのもエジプト人たちは、事物をこれらの名前で呼ぶことに、ギリシア人たちはあれらの名前で、そしてほかの者たちは、同様に、ほかの名前で呼ぶことに合意しているのだから。これは、それらを、ほかの動物たちに作られた音、たとえば犬の吠え声と対比して区別するために言われたのである。というのも犬の吠え声は意味をもつ発話音であるが(というのもそれは友人や異邦人がいることを意味するのだから)、合意によらないのだから;というのも犬は「異邦人が現れたときに我々は吠えます」ということを合意していないのだから。
Stephanus, On Aristotle's On Interpretation, trans. Wiiliam Charlton, Ithaca, New York: Cornell University Press, 2000, 124.

まぁたしかに、犬が吠えるのは飼い主と合意しているわけじゃないか…。

でも、果たしてそれって不可能だろうか?

たとえば犬を訓練して、友達が来たときは二回吠えて、知らない人が来たときは三回吠えるようにしつけたとしたら、その犬はそういう「吠え声使用」をすることを飼い主と合意していることにならないだろうか?

手話で話せるゴリラのココなんかは、手話という、分節化されて合意によって作られた人間の人工言語を使いこなしているんだから、言葉を使用しているということにならないだろうか?

そう考えると、日本の犬と外国の犬の会話って通じるんだろうか…。

何となくだけど、普通にコミュニケーションが取れそうな気もする…。

そうなると、たとえ犬と飼い主のあいだに「合意に基づく」何らかの言語的なものは形成できるとしても、犬の吠え声そのものはやはり(合意じゃなくて本性に基づいているため)言語じゃないってことなのかなぁ。

無矛盾律を否定する奴はとりあえず殴っとけ!


提唱者:アリストテレス、イブン・シーナー

テキスト:『分析論後書』、『治癒の書』「形而上学」

 アリストテレスは『分析論後書』で次のように言っている。

矛盾対立とはその対立それ自身に中間のない対立である。
アリストテレス「分析論後書」『アリストテレス全集2』(高橋究一郎訳)岩波書店、2014, 72a12–14, p. 345.

 つまり、お互いに矛盾しているふたつのものの間には、その中間のものはない、という原則で、これは排中律などとも呼ばれている。(つまり、その「中」間のものを「排」除する「律」ということ。)
論理学の記号で書くとP⋁¬Pということになる。Pまたは非P。
たしかに、そりゃそうだよなぁという気もする。
実際、この排中律は最近に至るまで論理学の大前提のひとつだった。(論理学が発展するにつれて、これが成り立たない世界も出てくるらしいのだけど、そこは手が負えないので…。)

但し、こういった法則は、たしかに哲学の世界では大前提になっていたりするのだけれど、宗教家や神秘主義者は平気で排中律を無視したりする。

ペリパトス派の論理学には、これと並んで同一律、無矛盾律などが基本的な概念になってゆく。

同一律とは、A=Aとなることで、「人間は人間である」し、「馬は馬である」。
これが成り立たなかったら、ちょっとわけの分からないことになってしまう。

また無矛盾律とは、同じものが同時にAでありかつ非Aであることはできないことを言う。
たしかに、「A」と「非A」を同時に満たすようなものがあったら、そりゃすごいよな。

とくに神秘主義なんかは、論理の世界を超えた存在を探求したりするわけだから、こういった論理学の規定なんて、格好のオモチャとも言えるかもしれない。

俺の体験した超越者は、論理的世界なんて軽々と越えてしまってるんだぜ~!と。
(そんな風に言うと怒られるかもしれないけど…。)

でも、イブン・シーナー/アヴィセンナはそういう「神秘主義野郎」をものすごーく嫌う。
たとえば彼が紹介する詭弁には「あなたは同じものを二度見ることはできない。むしろ一度すら見ることができない」とか「事物はそれ自体においてでなく、関係性においてのみ存在をもつ」といったものがある。

たぶん彼が念頭に置いていたのは、神学者や神秘主義者たちなんだろうなぁ。
とはいえ、彼が挙げている詭弁は、たしかに詭弁じみているけれど、こういった物言いが好きな人も多いのは事実だよなぁ。むしろ、こういう言い方でしか真理は語れないのだ!なんて人もいる。

私が思うところ、彼はやはり徹頭徹尾「ペリパトス派理論」の人で、知性で割り切れることを好んだ人なんだろう。彼にとって哲学とは、あくまでも命題的な文の積み重ねである

だから、そういう禅問答みたいなことを言って初心者をけむに巻くような輩を徹底的に批判している。彼は『治癒の書』「形而上学」第1巻第8章で、以下のように言う。(ここの冒頭は真理について語っており、その流れでの議論。)

名詞がたとえば「人間」のようにひとつのものを指示するとき、「非・人間」、つまり人間と相反するものを、その名詞はいかなる面からも指示しない。よって「人間」という名詞が指示するものは、「非・人間」が指示するものではない。もし「人間」が「非・人間」を指示するなら、人間も、石も、ボートも、象も、かならず同じものになってしまう;むしろそれは白いもの、黒いもの、重いもの、軽いもの、「人間」という名詞が指示するものの外部にあるすべてのものを指示するだろう。これらの発話の概念の状態も同様である。よって、以上のことから、それがあらゆるものであること、それ自体がいかなるものでもないこと、そして議論が概念をもたないことが帰結する。
Avicenna, The Metaphysics of The Healing, trans. Michael E. Marmura, Provo, Utah: Brigham Young University Press, 2005, p. 42.(拙訳)

 イブン・シーナーによれば、もし「人間」という名詞があって、それが「非・人間」で指示するのと同じものを指示するなら(つまりP⋀¬P)、「人間」という名詞が指す対象には、石、ボート、象、さらには白いもの、黒いもの、重いもの、軽いものなど、「人間」以外のあらゆるものが含まれてしまう。これはあらゆる名詞に当てはまる。(石と非・石、ボートと非・ボートなど)
そうなると、あらゆる名詞はあらゆるものをさすわけで、結局名詞や、それから組み合わされる議論などはすべて無意味になってしまう。

おそらくこれにかんしては、いろいろ反論することもできるだろうが(たとえば宗教家は、神においてのみ論理法則は破られるのであり、地上においてはそれは保たれるとか言うかもしれない)、こういった輩に対するイブン・シーナーの対処法がなかなかすごい。

頑迷な者には、火を付けてやらねばならない。というのも「火」と「非・火」は同じなのだから。また殴って痛めつけなければならない。というのも「痛み」と「非・痛み」は同じなのだから。また飲食を妨げなければならない。というのも飲み食いするのとそれらをしないのは同じなのだから。
Avicenna, The Metaphysics, p. 43.

うーん、それでいいの?

お前らの理論だと熱いも熱くないも同じになるから、燃やしてやるぜー!って…。
なかなか激しい。
とりあえず殴る!ってお前は承太郎か!と思ってしまうが…。

しかしまぁ、理論を愛し、神秘主義的な「曖昧な物言い」を嫌ったイブン・シーナーっぽい割り切った考え方と、波乱万丈な人生を送った彼の、意外と行動派なところがよく現れてる文章だなぁと感じて、結構好き。
(こういう詭弁を弄するやつには、とりあえず蹴る、みたいなエピソード自体は、たしか古代ギリシアにまで遡るはず。)

Aと非Aは同じ、と言う輩には、「とりあえず殴る!」
みなさんも実践してみては?(もちろん結果に責任はもてないけど…)