2016年11月6日日曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学】2-2正統カリフたちの時代

 ――正統カリフたちの時代

 ムハンマドが632年に亡くなると、ムスリムの有力な長老たちはすぐに会議を開きます。ムハンマドの盟友であり、男性では最初にムスリムになったアブー・バクルムハンマドに下された啓示を守りイスラームを信じてゆくことを主張しましたが、少なくない族長たちが、「自分はムハンマドに従ったわけであって、イスラームに心から改宗したわけではない、だからムハンマドが死んだ今、契約は無効になった」などと主張して、イスラームから離反しようとします。結局アブー・バクルが初代のカリフとなりイスラームという宗教は存続しますが、アブー・バクルのカリフとしての2年ほどという短い期間は(アブー・バクルムハンマドよりも年上でした)、ほぼこの離反(リッダ)を鎮圧することに費やされました。
 ここでいま「カリフ」と言いましたが、これはアラビア語の発音に近づけると「ハリーファ」または「カリーファ」となり、「代理人」という意味です。つまりアブー・バクル以下のカリフは、「神の使徒(ムハンマド)の代理人」としてイスラームの共同体を指導していくということなのですね。

 アブー・バクルの次はウマル・イブン・ハッターブがカリフになります。ウマルは豪傑として知られた人物であり、最初の男性ムスリムでムハンマドの年上の友人だったアブー・バクルの次の人選として、みなが納得するものでした。ウマルは最初「神の使徒の代理人の代理人」と名乗っていたようですが、のちに「信徒たちの指揮官」(アミール・アルムウミニーン)と名乗るようになります。これはカリフの別名としてその後も定着してゆきます。(もし「神の使徒の代理人の代理人」が定着していたら、その次は「神の使徒の代理人の代理人の代理人」となり、大変なことになるところでした。)
 アブー・バクルの時代にアラビア半島の離反(リッダ)は鎮圧できたので、ウマルの時代はまさにイスラームの大躍進でした。メソポタミア地方、エジプトを次々と征服してゆき、642年にはニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを破り、400年続いたササン朝ペルシア帝国を壊滅状態に追い込みます。(ササン朝の滅亡がいつになるかは意見が分かれるところですが、ニハーヴァンドの戦いの642年とする見方もあれば、再起を図って落ち延びていたヤズデギルド3世が殺された651年とする見方もあります。)
 このようにイスラームの大躍進を果たしたウマルでしたが、644年、彼に恨みをもった異教徒の奴隷に暗殺されてしまいます。

 第三代目のカリフにはウスマーンが選ばれましたが、彼の時代に特筆すべきなのは、イスラームの聖典『コーラン』がまとめられたことです。それまでも預言者ムハンマドの啓示を書き記すことはされていたそうなのですが、基本的に啓示は口伝えで信者にくだされ、ムハンマドから直接啓示を聞いた者たちは教友(サハーバ)と呼ばれ、啓示は基本的に彼らの頭のなかに記憶されていました。ところがそれだと記憶違いも出てくるし、なにより度重なる戦争でこの教友たちの数が少なくなっていきます。そのためウスマーンは預言者の啓示を正しい形で残すことを命令し、彼の時代に『コーラン』がまとめられたのです。ですから現存する『コーラン』はウスマーン版とも呼ばれます。『コーラン』をアラビア語で発音すると『クルアーン』の方が近いのですが、ここでは一般に広まっている『コーラン』という呼び方を使うことにします。「クルアーン」とは「朗誦するもの」という意味です。
 キリスト教やユダヤ教の聖書が基本的には数多く残っている写本同士をつきあわせて作り出されたテキストなのに対して、『コーラン』はこのようにかなり早い時期(ムハンマドの死後17年ほど)に決められたので、「異読」というものが基本的にありません。さいきんはウスマーン版よりも古いコーランの写本が見つかったりしていますが、基本的には現行のものと同じ(または異読があっても僅か)ということのようです。
 またカリフはこれまでムハンマドの出身部族、クライシュ族から選ばれていたのですが、ウスマーンはクライシュ族のなかのウマイヤ家の出身です。世界史を習った方は「ウマイヤ」という言葉、聞いたことがありませんか?そう、正統カリフの後に最初のアラブ人の王朝となった「ウマイヤ朝」です。ウマイヤ朝は同じくウマイヤ家の出身でウスマーンの親戚でもあったムアーウィヤによって開かれます。
 軍事的にはウマルの拡張路線の後始末に翻弄されていまひとつだったウスマーンですが、彼も暗殺されてしまいます。しかもウマルの場合は異教徒の奴隷だったのですが、ウスマーンの場合は彼に不満をもったムスリムたちに暗殺されてしまいます。ウスマーン自身は穏やかで謙虚な人物だったと言われますが、彼にいろいろと便宜を頼むウマイヤ家の押しに負けて、ウマイヤ家重視の政策をとってしまい、ほかのクライシュ族の恨みをかったのが原因でした。

 第四代のカリフには、アリーが選ばれます。アリーの父親は未成年のムハンマドの後見人となったアブー・ターリブですので、アリームハンマドのいとこということになります。(アリーの方がずっと年下ですが。)彼が第四代目にして最後の正統カリフになります。
 アリーのカリフ就任は最初から問題含みでした。彼のカリフ就任には、ウスマーンの親戚で当時ダマスカス総督をしていたムアーウィヤと、ムハンマドの妻にしてアブー・バクルの娘であるアーイシャが反対します。アリーはまずアーイシャとその賛同者の軍勢を蹴散らします。(この戦いではアーイシャ自らがラクダに乗って出陣したことからラクダの戦いと呼ばれます。)ここにおいてはじめて、ムスリム同士が大きな戦いをおこなったということで、イスラーム内部での最初の「内戦」と言えるかもしれません。残る敵はムアーウィヤなのですが、ムアーウィヤは第三代カリフ、ウスマーン暗殺の首謀者はアリーだとして、血の復讐を主張します。本当のところはどうか分かりませんが、ウスマーン暗殺の動機はウマイヤ家優遇政策なわけですから、言ってみればウマイヤ家以外のクライシュ族全員に動機があるともいえます。ところでアリーは剛毅、直情径行な豪傑として知られ、その武勇は有名でした。一方でムアーウィヤは「私の鞭が仕えるなら私の剣は使わず、私の舌が仕えるなら私の鞭は使わない」という言葉も残っている人物で、どちらかというと策略家タイプの冷静沈着な人物でした。もちろんアリーと直接正面からぶつかって勝てるわけがありません。彼はお得意の策をめぐらしアリーと和睦します。すると、ムアーウィヤには「アリーと引き分けた実力者」という評判がつき、アリーには「武勇に優れたカリフなのに文弱なムアーウィヤを和睦を結んだ腰砕け」という評価がくだされます。これは一部のアリー支持者にとって衝撃的なことで、彼らは熱心なアリーの味方だっただけに、ムアーウィヤの口車に乗せられたアリーに失望し、悲しみ、怒ります。彼らを「ハワーリジュ派」(離脱者)と呼び、彼らは歴史上イスラームで最初の分派となります。ハワーリジュ派たちはムアーウィヤアリーの両方に刺客を送ります。そのあいだにムアーウィヤはダマスカスから勝手に「カリフ」を名乗り始めます。しかし一度腰砕けの評価がくだされてしまったアリーはまず味方の動揺を納めなければならず、そうこうしているうちにハワーリジュ派の刺客に暗殺されてしまいます。一方で何事にも慎重だったムアーウィヤは暗殺を警戒していたので暗殺を逃れることができました。
 これで正統カリフ四人のうち、三人までもが暗殺という最期を遂げたことになります。

 それでは次のカリフは誰か?
 もちろんすでにダマスカスでカリフを自称していたムアーウィヤが一番の候補者ということになります。彼なら名声、実力ともに申し分ありません。しかしおさまらないのがアリーの支持者たちです。彼らは長老たちの合議でなく、実力で勝手にカリフを名乗ったムアーウィヤを認めず、アリーの息子、ハサンフサインと担ぎ出します。これが「アリー派」(シーア・アリー)です。日本語ではシーア派と呼ばれていますが、シーアとはアラビア語で「派閥」という意味なので、シーア派だと「派派」になってしまうのですね。
 とはいえ大半のムスリムはムアーウィヤのカリフを認めます。そこで彼らは「慣行」(スンナ)に従った人々ということで「スンナ派」と呼ばれます。

 ムアーウィヤのカリフ即位により正統カリフの時代は終わりをつげ、ムアーウィヤの出身部族ウマイヤ家の名を冠した「ウマイヤ朝」が最初のアラブ人の作った王朝として成立します。661年、ムハンマドが亡くなってから27年後のことでした。

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