2016年11月9日水曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】【コラム】質料と形相

   【コラム】質料と形相

 さて、アリストテレス哲学を成り立たせるふたつの要素が「質料」と「形相」です。質料はギリシア語でヒューレー、形相はエイドスと呼ばれます。(質料は最近「素材」と訳されることもあり、その訳の方が分かりやすいとも思いますが、ここでは私も慣れ親しんだ「質料」という訳語を使うことにします。)また英語では質料をmaterial、形相をformと言います。
 この質料と形相、いったい何なのでしょうか?
 一旦日本語から離れて、ちょっと英語で考えてみましょう。materialは「材料」や「素材」のことですね。「物質」という風にも訳せるでしょうか。formはとても広い意味ですが「形」や「姿」といった意味から「形式」といった風にも訳せます。アリストテレスの哲学では、このmaterialとformが組み合わさることによって存在ができあがります。つまり、「物質」と「形式」が組み合わさるのですね。

 だから、私たち人間は、人間の「形相」と、それを受け入れる「質料」から組み合わさっているわけです。この質料というものについて勘違いしてはいけないのは、「質料=モノ」ではないということです。どいういうことかと言いますと、良く分からないけど「何か」がそこにある。それが「質料」だろう。なにしろ「質料」は「物質」なのだから。これは違います。そこにちゃんと何らかのモノとして存在している以上、それは何らかの形相を受け入れているわけです。だから、形相のない質料だけ、言ってみればむき出しの質料のようなものは、私たちの生きているこの世界には存在しないわけです。だから、アリストテレス哲学の場合、ヒューレーを「物質」と訳してしまうと、少し誤解が生じてしまうかもしれないのですね。この質料は四元素(火・水・空気・土)の組み合わせからできていて、この組み合わせが精妙な質料ほど優れた形相を受け入れいることができて、組み合わせが粗雑だと、石ころや草木といったものの形相しか受け入れることができません。
 一方で、人間の「形相」とは一体何だと言うと、これも目に見えない、「人間という種」の設計図のようなものです。こちらも勘違いしていけないのが、私の形相は「私の設計図」ではないということです。これを書いている私は人間で、これを読んでいるあなたもおそらく人間でしょう。その場合、私とあなたの形相は基本的に同じなのです。つまり形相はあくまでも「人間という種」を成り立たせるための設計図なのです。(人間を成り立たせるためのDNAのようなものをイメージすると、現代人には分かりやすいかもしれません。とはいえ、DNAの方は個人間で僅かに差異があるので、正確には対応しませんが…。)

 それじゃあ、アリストテレスの哲学では、私とあなたの区別は付けられないってこと?いえ、そんなことはありません。私は背が高くて、あなたは背が低い、鼻が高い、目が大きい、指が太いといった個人的な特徴はすべて、付帯性(シュンベベーコス)と呼ばれます。ですから、人間としては「質料+形相」で同じ。個々人の違いは付帯性によって区別されるのです。この「質料+形相」をアリストテレスはウーシアと呼びました。これは「本質」とも「実体」とも訳されます。実体が何を指すかは難しいのですが、現に存在しているもの、ぐらいの意味だと考えてもらって大丈夫です。しかし「本質」と「実体」、どうも日本語にするとずいぶん意味が違うように思えないでしょうか?「本質」というと、どちらかというと先に説明した「形相」に近いもののように思えるでしょうし、「実体」というと現に存在しているものですから、「質料+形相」のようにも思えます。つまり、アリストテレスが言うウーシアというのはとても広い意味をもつものだったのですが、そのうちの「本質」と「実体」という意味が段々と分離していくことになります。これは後に「存在と本質」の問題として成立するのですが、いまは何やらウーシアという言葉にただならぬ気配があるということだけ感じてもらえれば結構です。

 ちなみにもっと東に目を向けると、中国の儒教のひとつ朱子学では、この世にあるものすべてを理と気のふたつで説明します。そして、この説明がアリストテレスの質料と形相の説明とそっくりなのです!朱子学の開祖朱熹によれば、この世のものは目に見えない(形而上)法則のような「理」と、それを受け入れて現実化する(形而下)「気」の組み合わせからできていて、この気には陰陽の性質があり、陰陽のバランスがととのった気ほど優れた理を受け入れることができるのです。どうですか?アリストテレス哲学にとても良く似ていないでしょうか?もちろんこの類似性には昔の日本人も気付いており、明治時代の哲学者、井上哲次郎は「存在」や「本質」について考える分野Metaphysicsの訳語として「形而上学」という言葉を作り出したのです。(「形而上」「形而下」という言葉そのものはもっと古い『易経』に由来します。)
 朱熹にたいしてアリストテレス哲学の直接的な影響があったかどうかは分かりませんが、洋の東西でこんなに似た考え方があるというのも面白いものですね。

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