2016年9月3日土曜日

モテ系哲学者?非モテ系哲学者?(かつてモテ系だった編)


祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす

思わず『平家物語』の冒頭を口ずさんでしまうほど、人間の世の中は儚いものである。
真理は永遠だと言いながら、それを探求する我々人類は、どうあがいても百年ぽっち。
かように人の世の移り変わりは激しいもの。
それがモテ・非モテともなると、その激しさは言うまでもない…。

モテ系・非モテ系哲学者第2回はかつてモテ系だった哲学者編である。
(第1回モテ系哲学者編はこちら

かつてモテていた…。世の中にこれほど空しい言葉があるだろうか。
飲み会でおじさんがかつてモテていた自慢を始めたとしたら、その結果は話を聞くまでもなく明らかである。場の空気がおかしくなって終わりである。

しかし今回は、その古傷を敢えて掘り起こすことにしよう…!
かつてモテていた…!
あぁ、これほど悲しい言葉があるだろうか!
一度もモテたことがないのに比べればマシと言われるかもしれないが、落差があるだけかつてモテていた方が悲惨度は高い。)

ここにおけるモテ系非モテ系の言葉の使い方については、第1回を参照してほしい。

さて、それでは始めようか…。

やはりかつてモテ系だった哲学者の筆頭は
ジャン・ポール・サルトル(1905–1980)
を措いてほかにいないだろう。
何しろ早瀬優香子のデビューシングル名は『サルトルで眠れない』(作詞:秋元康、86年)である。まぁ時代的にサルトルがもてはやされた全盛期は過ぎているけど(没後だし)、これまでアイドルのシングルのタイトルにまでなった哲学者がいただろうか…?(もちろんここでは揶揄的な意味が強いんだろうけど)

かつて大学生たちは分かりもしないサルトルをこれみよがしに鞄にいれておくのがオシャレだったというが、そのなかで果たして読破した人はどれくらいいたのだろうか…?
いまは文庫化されて入手のハードルがさがったとはいえ、主著『存在と無』の分厚さったらない。あれは見ているだけで読む気をどんどん削いでいく。
さすがに大学生たちが鞄に入れていたのは『存在と無』じゃなくて『嘔吐』とか『実存主義とは何か』あたりだろうか。
しかし現在の状況を見てみると、どうだろうか?
サルトルを読みたい!という若者は当時に比べてガクンと減ったと言わざるをえないだろう。
(いないとまでは言わないけど)

それでは、なぜサルトル人気がここまで凋落したのか?
思うに、サルトルの人気は、その著作というよりも、キャラ人気に依存していたところが大きかったのではないだろうか?
あの強烈な押し出しの顔面は、一度見たら忘れられない強力な印象を残すだろう。(ちなみにサルトルは一般的に言えば不細工だろうけど、アーティスト系の女性のなかには(しかも美人)、「私は彼の外見じゃなくて才能に惚れてるの」とアピールするために、こういう才能のある不細工とくっつく人が少なからずいるように思われる。実際サルトルもモテていたようだ。以上邪推。)
さらにボーヴォワールとの奇妙な事実婚。ボーヴォワールに関連したイメージもすべてサルトルに紐付けられるから、いやがおうにもサルトルの印象は強くなる。

また、第二次世界大戦後の時代の空気とも合致していたように思われる。
左翼の潮流が世界中で主流になっていたとき、アンガージュマンを叫んで活動する哲学者として、なかば運動家のようになっていたサルトルは、まさに「時代に愛された」と言えるだろう。
日本においても、60年代の大学生たちの左翼的空気を考えれば、サルトルの芸風(?)はベストマッチしていたのではないだろうか。

しかし、まぁ主著があの『存在と無』。
手許に置くだけでゴンゴン読む気が削がれていく『存在と無』。
結局サルトルという強烈なキャラがいなくなってしまうと、彼の思想そのものは若者たちを惹きつけるには難解すぎたということなのだろうか。
あと、時代と寝過ぎたために、その次の世代の若者からは「ダサい」と思われてしまったということもあるかもしれない。

まぁサルトルがかつてモテ系だった哲学者であることに異論のある人は少ないだろうけど、次のリストアップには反論のある人も多いのではないかと思われる。
それは
ジル・ドゥルーズ(1925–1995)
ミシェル・フーコー(1926–1984)
ジャック・デリダ(1930–2004)
の三人である。
デリダはいまでもモテてるぞー!と言う人もいるかもしれないが、やはり一時期の、デリダを良くしらない人も「脱構築」とか言っていた時期に比べると、プレゼンスはガクンと減ってしまったと考えて「かつてモテ系だった枠」に移ってもらった。
もちろんドゥルーズ、フーコー、デリダはモテていた時期が最近であるため、いまだに現役の研究者も多く、そのため関連本はいまでも多く出版されているけれど、じゃあいまでもモテてるかと言うと、ニーチェウィトゲンシュタインのように、悩める高校生の心をわしづかみにすることは少なくなってきたのではないか。

この三人が「かつてモテ系だった枠」に移ってしまった原因のひとつとして、フランス現代思想のブームがひと段落したということもあるだろう。(フランス現代思想はいまでもモテてるぞー!という声はひとまず無視)
浅田彰が『構造と力』を書いたのが1983年。バブル直前のこの時代から始まったフランス現代思想のブームが、ようやく30年ほどたって落ち着いてきたということだろうか。
そう考えると、モテ系として一般人にアピールし続けるためには、分かりやすい入門書や啓蒙書の存在も必要不可欠なのかもしれない。ウィトゲンシュタインだって最近の高校生人気は永井均経由だったりするパターンが多いので、もしかしたら千葉雅也の本を読んでドゥルーズに興味もつ高校生が今後でてこないとも限らない。
そうなると、逆に言葉の迫力だけで若者のハートをがっちり掴み続けているニーチェってホントにすごいな…。

さて、デリダはまだ現役でモテていると言う人がいるかもと上で書いたけど、この枠にはもう一方の境界線がある。
それは「かつてモテ系だったとすら言えないぐらい古くなった」パターンである。
たとえば戦前の学生たちの「デカンショ」の語源になった「デカルト」「カント」「ショーペンハウアー」なんかは(諸説ある)、もはや「かつてモテ系だった」とも言えないだろう。
個人的な判断では、デカルトとカントは「古典系」、ショーペンハウアーはいちおう「マイナーな古典系」に振り分けられる。(かつては一世を風靡した新カント派はほとんどが文句なしの「マイナー系」になってしまったし、ドイツ観念論もかなり怪しい。)
そう、「モテ系」の哲学者はその後「かつてモテ系だった枠」に移り、その移行期間を経たのちに「古典系」になるか、ただの「マイナー系」になるかが分かれるのである。(非モテ系はそれとは別の流れを辿ることになる。)
そう考えると、サルトルやフランス現代思想の面々は、今後古典系にいくかマイナー系にいくかの試験期間に入ったと言えるだろう。(我々が生きているあいだはまだ「かつてモテ系だった枠」に留まり続けるかもしれないが。)

もちろんかつてはモテていた哲学者たち、ほかにもいっぱいいると思われる。
日本だと吉本隆明や浅田彰がそうだろう。柄谷行人は…どうだろうか?
また、日本ではそもそもモテていたかどうか怪しいが、イギリスにおけるバートランド・ラッセルなんかはこの枠に入るんじゃないだろうか。

まとめ

かつてモテ系だった哲学者は、やはり一度はモテ系だったこともあるため、基本的にはモテ系の要素を満たしていることが多い。しかし彼らがモテ系に留まることができなかったのにも、いくつか理由があるはずだ。
考えられるものとして、
・キャラ人気が先行し過ぎた。
・時代の空気とあまりにもピッタリ合致し過ぎた。
・優秀な紹介者がいなくなった。
などの理由が考えられるだろう。
三つ目は地味に大きな役割を果たしているのかもしれない。

もしあなたが哲学好きな一般人だったら、かつてモテ系だった哲学者から入るのもいいだろう。とにかく一度はモテていたわけで、その分関連書籍なども多く、いろんな入口が用意されているからだ。しかしあなたが高校生や大学生などの若年であれば、少し気を付けた方が良い。かつてモテ系だった哲学者には、もれなく「口うるさいオールドファン」がくっついているため、必然的に彼らの相手をする機会が多くなるからだ。でも安心して欲しい。そういうオールドファンの大半も、ブームに乗っかって彼らをかじっていただけで、ちゃんと読了し、しかも理解している人となると意外と少ないからだ。若いあなたが本気出して読めば、彼らがテキトーなことを言っていることはすぐ分かるだろう。とはいえそういうオールドファンの偉そうな口ぶりの裏には屈折した愛情が隠れているため、出来る限り優しくしてあげて欲しい。

もしあなたがかつてモテ系だった哲学者のオールドファンだったなら、これと逆のことに気を付ければいいだけだ。かつては高価だった原典も、いまは文庫化されて手に入りやすくなっていることが多い。あのときはサッパリ分からなくて、カッコいいキーワードだけで友達と議論していたかもしれないが、いまのあなたには経験も分別も加わっているはずだ。もう一度原典をひも解いてみると、かつては気付かなかった彼らの魅力を再発見できるかもしれない。かつての青春の思い出が、ビリー・バンバンの曲とともに(またはH2Oの曲とともに)蘇ってくるだろう。

もしあなたが哲学専攻の学生の場合、こういうかつてモテ系だった哲学者を自分から選ぶパターンと、自分の指導教官がその哲学者の専門家のパターンがあるだろう。
どちらの場合も先行の文献が多く、はたしてどれを読めばいいか分からなくなることがあるかもしれない。しかも大学院に入り学会発表などする場合、あなたが対峙しなければならない「口うるさいオールドファン」は遥かに手ごわい。なにしろプロのオールドファンなのだ。しかし彼らも、「いまどきサルトルなんてやる学生いないよ?」なんて言いながら、実は心のどこかで喜んでいたりする。「ケッ!オメーの解釈は古いんだよ!」などと思わずに、有り難く教えを乞うのがいいだろう。何事もあらまほしきは先達である。
指導教官が専門家の場合は、すこし事情が複雑になる。きっちり指導教官のもとでその哲学者を学ぶのであれば、最高の教育環境が提示されるだろうが、なかには自分の解釈以外の路線を学生が採ることを嫌う先生もいる。その場合は、完全に指導教官に屈するか、口では従っておきながらテキトーに流しておくか(論文審査で大惨事になるかもしれないが)、大げんかするか、研究室を変えるか、そもそも違う哲学者に専門を変えるかという選択肢がある。
しかしまぁ最近はそんな徒弟制度のような大学院も減ってきているので、たいていはかつてモテ系だった哲学者の専門家として、よきアドバイスをくれるだろう。(その解釈が古くても、笑顔を絶やさないように!)

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