2016年9月4日日曜日

モテ系哲学者?非モテ系哲学者?(非モテ系編)


モテとか非モテとか、最初に言い出したのは誰なんじゃろうなぁ…。

この世に生を受けた以上、いつかは垣間見てみたい、モテの向こう側。

しかし世の中には、「非モテ」になることを運命づけられた者たちも少なからずいて、それは哲学者であっても例外ではない。

哲学者や哲学専攻の学生は、どちらかというと非モテ系に親近感があるかもしれないが、かつてモテていたフランス現代思想系のように、「本人がモテている感」がハンパないというパターンもある。

第3回目となる今回は、ついに登場した「非モテ系哲学者」!

(第1回「モテ系哲学者」はこちら。第2回「かつてモテ系だった哲学者」はこちら。)

本論に入る前に、今一度整理しておこう。
一般人や哲学をあまり知らない人が哲学に触れるきっかけを与えてくれるような、キャッチーな言葉と絶妙な分かりやすさと難解さを併せ持った、いわば中二達の永遠の伝道者が「モテ系哲学者」。ニーチェとウィトゲンシュタインのツートップはおそらくしばらく不動だろう。かつてはそのような立場にあったにもかかわらず、いまは影響力が落ちていたり、微妙に「ダサい」扱いを受けているのが「かつてモテ系だった哲学者」。サルトルを筆頭に、フランス現代思想の面々はいまや概ねここに入るだろう。
そして、一般人にはどうにもアピールしないけど、専門家からだけはやけに高く評価されているのが「非モテ系哲学者」である。これを「専門家からだけモテている」と表現することも可能だけど、気を付けないといけないのが、専門家からのモテとは、一般人からのようなアイドル的なモテとは違い、「○○は重要だよね」といったモテ方である。なかには狭いジャンル限定でアイドル的な人気を誇る哲学者もいて、そういうのは特殊ジャンル:「マニアモテ系哲学者」に分類される。このマニアモテ系はたんなる「マイナー系」のこともあるし、一般的な認識は「古典系」だったりすることもある。しかし一旦そのジャンルに踏み込むと、まるで「モテ系」であるかのような扱いを受け、一般人や初心者は困惑することが多い。

今回紹介するような非モテ系は、そういった地下アイドルのようなモテ方をすることもなく、ただひたすら一般人からは「そんなひといたっけ?」とか言われ続け、専門家からは「○○は重要だよね」と熱量の低いモテ方をしている、非常にストイックな哲学者たちのことである!

なので、非モテ系哲学者が悩める高校生のための、哲学への登竜門になることは極めて稀である。ここに挙げられているような哲学者に憧れて哲学に目覚めたという高校生(かつての高校生)がいたなら、その人は相当の変わり者だと思った方が良い。

さて、そんな非モテ系だが、個人的にはこの哲学者を筆頭に推すことにしたい。
それは
エドムント・フッサール(1859–1938)
である。
フッサールほど、一般人の認識と専門家の認識が違う哲学者も珍しいのではないか。
現象学という学問を創設し、そこからはハイデッガーというモテ系の雄を輩出し、ほかにもサルトル、メルロポンティといった華やかな面々がフッサールの哲学に私淑している。また「かつてモテ系だった」の大先輩マックス・シェーラーを同僚とし、助手には女性哲学者エディット・シュタインが控えている。(彼女は後にトマス・アクィナスファンになってしまうが。)
しかし本人は至って地味である。
そもそも現象学者であっても、フッサール研究者以外はフッサールの著作をまともに読んでいない可能性が高い。(いや専門家は読めよ!と思うが。)
なぜフッサールが非モテなのかというと、いろいろ理由は考えられると思う。
まずモテ系の弟子と訣別してしまったが故に、大量にいるハイデッガーファンの方々が「フッサールの野郎はハイデッガー様に乗り越えられた」という認識を持ちやすいということ。(専門家はさすがにそこまで思わないだろうけど、あくまで一般的な認識、ね。)
また、著作がしっちゃかめっちゃかで、あまり体系的にまとまっていると言えず、しかも死後刊行の遺稿が大量にあること。まずこの「遺稿がいっぱい」という時点で、ちょっとした専門家も怯んでしまうのに充分だ。「え、フッサールについて何か言う場合は、あの大量の遺稿も読まなきゃダメなの?」と。
そして、まぁ日本的な理由としては、主著である『論理学研究』と『イデーン』に文庫版がなく、入手が難しいこと。『イデーン』がI-1, I-2, II-1, II-2, IIIというわけのわからない刊行形態になているため、初心者を無用にまごつかせていることが挙げられると思う。
それでも、フッサールが哲学史的に(現象学というジャンルを離れると幾分割り引かれるが)とても重要な仕事をしたことは、専門家であれば誰もが認めるところである。(ハイデッガー研究者でさえも。)
個人的な感覚としては、フッサールのとくに『イデーンI』なんかは、きわめて正統な西洋哲学の後継者であり、言うほど難解なイメージは受けないのだけど、やはり20世紀にも入って、これからは科学技術だなんだと言われている時代にあれは、相当地味だったんじゃないかと思われる。
とりあえず現状文庫で手に入るフッサールの著作が『デカルト的省察』と『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』という最晩年のもの、それに遺稿集『間主観性の現象学』というのをどうにかした方が良い。(もちろん文庫化されたからといって、フッサールがモテ系に変貌するかと言えば、その可能性は極めて低いが。)

ほかに非モテ系として挙げられるのは
ゴットロープ・フレーゲ(1848–1925)
チャールズ・サンダース・パース(1839–1914)
などであろうか。
フレーゲにしろパースにしろ、それぞれ分析哲学やプラグマティズムの創始者と言っても過言ではないのに、そもそも専門家以外からは見向きもされない。そもそも専門家も「フレーゲは大事だよね」「パースは大事だよね」と言いながら、フレーゲ研究者やパース研究者以外はあまりまともにとりあっていない、いわば敬して遠ざけている印象がある。

そうか、そもそもあるジャンルの創始者というのは、得てして非モテ系になりやすい傾向にあるのかもしれない。
フレーゲの場合はラッセル、パースの場合はジェームズというモテ系の傾向性を備えた弟子や紹介者をもち(この場合は二人とも弟子ではないが)、彼らの思想を一生懸命紹介しようとするのだけど、むしろモテ系の素養をもつラッセルやジェームズといった人たちの方が一般的にはモテて、本人たちは専門家から高い評価を受けるだけという状況が続いてしまう。
しかしラッセルにしろジェームズにしろ、そしてハイデッガーにしろ、偉大なる非モテ系の思想を世間に一生懸命広めようとしたはずだ。(ハイデッガーとフッサールの場合は「オメーの解釈は間違ってるんだよ!」の言い合いによって訣別してしまったが)

なぜフレーゲやパースはモテ系になることができなかったのだろうか?
この二人の場合、人格的にやや問題があったというのがあるが、人格的な問題ならウィトゲンシュタインの方がよっぽど問題あったし、ハイデッガー、ニーチェのような強烈なキャラがモテ系になっているわけだから、人格的な問題はモテ・非モテにあまり影響を与えないのかもしれない。(むしろ人格円満より、適度に人格破綻していた方が、悩める若者にヒットするかもしれない。)
まず挙げられるのは、フッサールの場合と同じように、著作全体の全貌が掴みにくいというのがあるかもしれない。フレーゲについてはまぁちょっと遺稿集が出ているぐらいだけど、みんな論文「意義と意味について」は参照するくせに、フレーゲの専門家以外はそれ以外の著作についてあまり知らなかったりする。パースも似たようなもので、『連続性の哲学』が岩波文庫に入っていたけど、それ以外の著作はアンソロジー『パース著作集』か最近出た『プラグマティズム古典集成』に当たるしかない。またパースの場合はフッサールと同じように、遺稿が大量にあって、いまだにちゃんと整理されていないというのも大きい。
フレーゲの場合、逆に「意義と意味について」ばかりが有名になりすぎて、他の著作が隠れてしまったという弊害があるかもしれない。余りにもひとつの著作や論文が有名になりすぎると、それ以外は見向きもされなくなるパターンだ。面白いのがバートランド・ラッセルで、彼は一般的には「かつてモテていた系」になると思うのだけど(イギリス本国での話)、分析哲学の研究者たちは「指示について」ばかりを参照していて、まるでフレーゲと同じような非モテ系の取り扱いをしていることだ。
まぁそもそも分析哲学というジャンル自体が、専門家による同好会、いわば一種の「巨大な非モテ空間」と言えないこともないが。(ラッセル、ウィトゲンシュタインといったモテの香りのする師弟コンビは、分析哲学の中では微妙に傍流だったりする。)

最後にもう一人、特殊なモテ方をしている哲学者を紹介しておこう。
それは
アレクサンドル・コジェーヴ(1902–1968)
である。
この人、世間的にはまったくの無名である。コジェーヴを読んで哲学に目覚めたという学生がいたら、その人は割と真剣に自分の置かれた環境と頭の状況を心配した方が良い。また、専門家たちも口をそろえて「コジェーヴは大事だよね」と言っているわけではない。20世紀初頭のフランスにおけるヘーゲル受容に興味のある研究者が注目しているぐらいである。あと、政治哲学なんかの研究者には割と注目されている。つまり、べつに研究者にも、そんなにモテていないのである。それではただの「マイナー系」かと思いきや、単純にそうとも言い切れないところがある。
なんとこの人、哲学者本人たちにモテているのである。
彼の主著と言えば『ヘーゲル読解入門――『精神現象学』を読む』である。
何ともパッとしない題名である。『論理哲学論考』!とか『ツァラツストラかく語りき』!とか『存在と時間』!のような強烈なインパクトがない。
題名を聞いても「あっ、ふーん」てなもんである。
しかし彼の講義には、後の20世紀フランス思想を彩る哲学者・思想家・文学者たちが出席していたのである。その名前を挙げると:レイモン・クノー、ジョルジュ・バタイユ、モーリス・メルロポンティ、アンドレ・ブルトン、ジャック・ラカン、レイモン・アーロン、ロジェ・カイヨワ、ミシェル・レリス、アンリ・コルバン、ジャン・イポリットなど。
もう20世紀の大スターたちである。
そんなモテ系スターたちにモテまくっていたのに、一般的には知名度が皆無に等しいし、専門家からもそれほど注目されているとは言い難い。
20世紀のヘーゲル受容にマルクス主義的な方向性を与え、戦後におけるフランスの左翼的思想潮流の流れにかなり強力な影響を与えたはずなのに、アーティスツ・アーティストみたいな存在。
そんなコジェーヴ、専門家のなかででも、もうちょっとモテて良いんじゃないかと思うけど、「このまま、違いが分かる人にだけひっそりと愛されるのも良いかな」なんて気持ちもちょっとあることは否めない。

まとめ

非モテ系哲学者は、一般人からほとんど注目されていないが、専門家からは「○○は大事だよね」といった、熱量の低いモテ方をしている。しかし専門家が口をそろえて大事だと言うからにはその根拠があるわけで、実際に哲学史的にはむちゃくちゃ重要だったりする。しかし何らかの理由により、その大事さにもかかわらず、一般にはあまり浸透していない、そんな無骨で骨太な哲学者たちが非モテ系なのである。
彼らの特徴をいくつか挙げるとすると、
・著作が厖大、未整理、遺稿が多いなど、全貌が掴みにくい
・しばしば各ジャンルの創始者だったりする
・弟子や紹介者にモテ系がいて、そっちの方にばかり注目がいく
・著作の日本語が少ないか、あってもハードカバーでバカ高い
などであろうか。
他にも悪文、文章が無味乾燥といったところがあるが、古典系の大御所にもそういう要素をもったのは割といて、そういう人たちは当時から非モテ系だったのかというと、逆に若者のハートをがっちりわしづかみにしていたパターンもあり、正直なところ悪文であるからといって非モテ系に分類されるとは限らない。(ヘーゲルなんて、当時の若者にはモテまくっていた。)

もしあなたが哲学好きな一般人だったなら、非モテ系哲学者から入るというのは少し勇気がいることだろう。そもそもこの手の哲学者の原典は翻訳が少ないか、あってもバカ高いハードカバーばかりで、「もし面白くなかったらどうしよう」とか、「相性が合わなかったらどうしよう」という心配がある人にお勧めしにくいのは確かである。但し専門家には熱量の低いモテ方をしているので、本格的な入門書、解説書は豊富にあったりする。また、高価な原典、無骨な文体、専門的な内容といった諸々の(決して低くない)ハードルをクリアしていくことができたなら、そもそも彼らの内容は哲学的に素晴らしいわけで、あなたの思考力をきわめてクリアに研ぎ澄ましてくれるだろう。とはいえ、そこまでして苦行僧のように読み進める読書体験が、すべての哲学愛好者に合うとは思わないので、精神的マゾヒストの人にだけお勧めする。遭難の危険性が高い、雪山登山のようなものだと思って戴ければ良い。途中で死ぬ可能性も高いが、昇り切った後の景色の素晴らしさは保証する。

もしあなたが哲学専攻の学生の場合、こういった非モテ系哲学者を選択するのは、ひとつの選択肢としてアリだろう。むしろ、こういう無骨な哲学者をガチガチに勉強するのは哲学的基礎体力の向上にも役立つし、モテ系哲学者を専門にしている奴らに、「フッ、お前らが神の如く崇めている哲学者も、しょせんはフッサールの手のうちで踊っているに過ぎん…」と密かな優越感を抱くことができる。但し、そういう奴らに「乗り越えられた」と反論された場合の反駁パターンはいくつか用意しておく必要がある。また場合によるが、非モテ系哲学者の場合、大量の遺稿が残っていたり、著作の翻訳が古かったりする割に研究者の数はそれほど多くないので、「遺稿の整理」「著作の校訂」「主著の和訳」など、研究者としてかなり本格的な仕事に携われる可能性が高い。非モテ系哲学者たちは、一般人へのアピールは弱いかもしれないが、専門家へのアピールは充分なわけで、噛めば噛むほど面白くなっていくことは保証できる。とはいえ、一般人に自分の専門を説明する際に、自分の期待したほどの反応が返ってこないことに耐えられるだけの平常心は鍛えておかないといけない。しかし心配する必要はない。こういった哲学者を専門に選ぶということは、あなたにも非モテ系の素養が充分にある可能性が高いので、一般人から「えー、誰それ?いたっけ?」といった反応をされても、「えぇ、まぁ、一般的には知名度ないんですけど、哲学史的には重要なんですよ」といった、熱量の低い弁明は難なく返せるであろうことを期待している。

次回は特殊ジャンル:マニアモテ系

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