2016年9月2日金曜日

モテ系哲学者?非モテ系哲学者?(モテ系編)


みなさん、もうお気づきのことかと思うが…。

この世には、モテ系と非モテ系が存在する。(つまり排中律だ。)

あっ!現実から目を背けないで!

なんだかんだ言ってもモテ・非モテの構図は大きく、哲学の世界にもこの分類を当てはめることができると、私はつねづね考えていた。
そう、真理とか深淵とか言っている哲学者たちもモテ・非モテの構図から自由にはなっていないのだ…!

今回は哲学者のなかでもモテ系非モテ系な奴らを紹介してみようと思う。

第一回目はモテ系哲学者編だ!

注意書き
しかし断っておかないといけないが、ここで言う「モテ系」とは、その哲学者が実生活においてどの程度異性(や同性)にモテていたかという意味ではない。
哲学をまったく知らない一般人が「おー、哲学って面白そうだな」とか「この人の本を読むために大学で哲学を学んでみたい」と思わせるような魅力をもっている哲学者を私は「モテ系哲学者」と定義する。しかし時代の流れとは恐ろしいもので、この世には「かつてモテ系だった哲学者」というのも大量に存在する。そのなかには、いまでもそれなりにモテる要素が理解できる哲学者と、なんであんなに熱狂されていたのかさっぱり分からない哲学者もいる…。
逆に「非モテ系」とは、一般人にほどんどアピールせず、もっぱら専門家にばっかりモテている哲学者のことで、彼らのことを「非モテ系哲学者」と定義する。なので、誰にも注目されない(専門家にすら)哲学者のことは指さない。それはモテ・非モテのフィールドにすら上がれない、ただの「マイナー哲学者」である。(とはいえ、専門家からのモテは、一般人からの「キャー!」というモテと違って、「○○は重要だよね」といった風なモテ方である。たまに各ジャンル内限定でモテているという、特殊ジャンル「マニアモテ系哲学者」もいて、この辺りの取り扱いは注意しなければならない。)ほかにも、もはやモテ・非モテすら超越した「古典系哲学者」もいる。ここまでくれば大丈夫、あとは歴史があなたを愛してくれる。

能書きも垂れたところで、さぁはじめようか…!

やはりモテ系哲学者といえば、この二人を挙げなければならないだろう。

フリードリヒ・ニーチェ(1844–1900)
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889–1951)

いまだに「ニーチェ読んで哲学科に来ました」とか「ウィトゲンシュタインにハマって世界について考えるようになりました」とか言う大学生がいるらしいというのですごい。
そして実際にそういう高校生にも何人も会ってきている。
(ただし、ウィトゲンシュタインにハマる学生の半分以上は永井均経由だったりする)

しかも女子学生の比率も結構高いという。
非モテ系の研究者からすると、ちょっと信じられない話じゃないだろうか。
このアピール具合はやはり侮れない。

やはり二人とも、アフォリズム的な言い切りの魅力があるのだろう。思うにこの「モテ系」に入れるかどうかは、「言い切りのカッコよさ」があるかどうかが大きな要素になっているのではないか。
やはり「神は死んだ!」なんて言われると、高校生あたりは「そうだぜ!神は死んだぜ!」と思っちゃうのだろうか。
はたして『ツァラツストラかく語りき』なんていったい何回訳されてるんだ?
個人的には『ツァラツストラ』よりも『喜ばしき智慧』の方が好きではあるが。
しかしニーチェはそもそも24歳で西洋古典学の教授になるぐらい、もともと「ゴリゴリ」の人なので、フリーダム(フライハイト?)になってからのニーチェに惹かれていきなりニーチェの真似をしようとすると、結構大けがする可能性が高い。
基礎をがっちりやってきた達人が「基礎なんてくだらねーぜ!インプロだぜ!自分の情熱にしたがえ!」と言ってるのを真に受けちゃう初心者、みたいな。

ウィトゲンシュタインも『論理哲学論考』の切り詰めた現代芸術のような緊張感と、『哲学探究』のアフォリズムの魅力と、「モテ系」になるための条件をキッチリ備えている人なのだけど、その分奥が深いというか難しいというか、学生が生半可に手を出すと焼死してしまう可能性が高い。
しかも『論理哲学論考』で「哲学は最終的に解決した!」と大見得を切っておきながら、「ぜんぶ間違っていた」と言って出戻ってくる辺り(べつに謝ったりしないところがミソ)、ウィトゲンシュタインのファンからすると萌えポイントなのだろう。
ウィトゲンシュタインは前期と後期でまったく言っていることが違うので、研究者は前期と後期の違いとかを云々するけど、哲学愛好家であればそういうことは気にせず、『論理哲学論考』も『哲学探究』もアフォリズム的に楽しんでしまって問題ないだろう。

個人的には両雄とも甲乙つけがたしなのだけど、本屋での関連書籍の量からするとニーチェに軍配が上がるのだろうか。

しかしこの二人がもっともモテ系ということは、やはり哲学者というのは「こじらせてナンボ」なところあるのだろうか。
冷静に論理的に論証するスタイル、初心者受けは悪いか。
やはり寝技で地味に相手を攻略していくより、打撃で派手にやる方が初心者的にも入りやすいのと同じか。

次点として
マルティン・ハイデッガー(1889–1976)
が挙げられるだろう。
ハイデッガーの魅力もその文体だと思うが、ハイデッガーの場合、アフォリズムによる言い切りの魅力というより、ものすごく粘度の高く、まるでトルコアイスのようにくっついて離れない粘着質の文章がむしろ魅力になっていると思われる。
またハイデッガーが凄いのは、主著とされる『存在と時間』が難解なゴシック建築だとしたら、彼の講演録はまるで流れる名調子を聞いているかのような名文だということだろう。
逆に考えると、あれだけ明晰なことを講義で言える人が、いざ文章を書こうとするとぜんぜん書けなくなってしまうというのも不思議ではあるけど…。(『現象学の根本問題』、『形而上学入門』など、やっぱりねちっこいんだけど、素晴らしい。)
ハイデッガーのすごいところは、最初に壮大な計画を提出して、その詳細な見取図をみんなに見せてワクワクさせておきながら、途中で「やっぱ続きやーめた」とすることだろう。(しかも常習犯)
普通はこれで「ふざけんな!」となるもんだけど、ハイデッガーの場合はそうならない。『存在と時間』なんて前半の1/3ぐらいしか書かれてないのに「未完の大著」扱いしてくれる。ほかの哲学者が同じことやったら「構想倒れ」とか言われるよ?(まぁハイデッガーも言われてるけど)
やってることは『ハンターハンター』や『ファイブスター物語』と同じである。

しかしハイデッガーも、哲学をやろうとする学生は気を付けないといけない。ハイデッガーを専攻する学生はなぜかハイデッガーのような文章を書き始めて、ひとりで袋小路に入るというパターンが…。
またこの人は、現実世界でもモテ系だった。(余談だが)

ほかにもモテ系哲学者を挙げることはできるだろう。(社会学分野でのハンナ・アーレントとか、日本だと永井均、池田晶子とか?但し個人的に池田晶子にはそこまで「深み」は感じないが。)
ただし、ニーチェ、ウィトゲンシュタインを超える哲学者はしばらく現れないだろう。

まとめ

モテ系哲学者はその定義通り、哲学に詳しくない一般人や学生を惹きつけるだけの魅力を備えた存在であるが、逆に哲学を専門に学ぼうとする学生にとっては底なし沼、いわばズルズルと哲学者の魅力だけにはまり込んで、そのまま思索の海に溺れてしまう危険性が非常に高い、とてもリスキーな存在であると言えよう。
そしてモテ系になるために必要な要素として

・アフォリズム的な言い切りがカッコいい
・文章が美しいor難解である(何度も読みたくなる)
・分からない、分からないようなモヤモヤとした気にさせる。
・既存の哲学を破壊・再構築しようとしている(とくに破壊に重点を置いている)

辺りが挙げられるだろう。これらの要素のうちいくつかをもっていれば、モテ系になる資格はある!

もしあなたが哲学好きな一般人であれば、モテ系哲学者から入るというのはひとつの選択肢としてアリだろう。(むしろそれ以外の非モテ系や古典系から入ると、途中で挫折する可能性が高いので、ある意味「哲学愛好者にとっては」もっとも安全な入口と言えるかもしれない。)
なにしろモテ系哲学者は読んでいて面白いし、それだけの深みがあるからだ。関連書籍も多いので、原典、研究書、解説書、入門書に困ることはないだろう。

逆にあなたが哲学専攻の学生の場合、もしあなたが学部で終えるつもりなら、モテ系哲学者たちはあなたの若い情熱を正面から受け止めてくれるだろう。若き思索の衝動にまかせて書きなぐった卒論は、いつかあなたの青春の思い出として、美しくあなたの記憶の1ぺージにおさまってくれるだろう。
もしあなたが大学院に進んで、その哲学者を専門に研究しようとするなら、モテ系哲学者には注意せよ。将来「哲学者」になるつもりならまだしも、大学院に進むということは「哲学研究者」としての修業も積まないといけないということだ。あなたは「哲学」をしたかったのであって、「哲学研究」をしたかったわけではないと思うかもしれないが、大学院に進むというのは、初期衝動とサヨナラするということでもある。速やかに「哲学研究」も進めないと、神じゃなくて自分が死ぬ可能性がある。しかしモテ系哲学者は何だかんだいって、哲学に興味のなかった人を惹きつける魅力があるわけだし、最後まで到達することができたなら、その頂きからの眺めはきっと素晴らしいことだろう。(そのとき、モテ系哲学者という梯子は不要になり、あなた自身がモテ系哲学者になるのだ。)

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