2016年10月31日月曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】【コラム】「東方哲学」とはいったいなにか?

  【コラム】「東方哲学」とはいったいなにか?

 さきにも述べたように、「東方哲学」とはイブン・シーナーが考え出した用語で、晩年の彼は自らの哲学を「東方哲学」と呼んでいます。これは現在の研究によると、「西方哲学」つまり「バグダード学派」に対抗するために自らの哲学をそう呼んだのではないかと言われています。(イブン・シーナーが生きていた時代、まだアンダルシアに哲学は興っていませんから、彼にとって西方とはバグダード学派のことでした。)
 つまり、彼の提唱した「東方哲学」とは、純粋に地理的な要素によって名付けられたものだったということです。実際にイブン・シーナーの哲学とバグダード学派の哲学を見てみても、それほど極端に違うということはありません。それに彼はバグダード学派のひとりファーラービーからも強い影響を受けていますから、まったく別ものになるわけがありません。

 しかし、これまでこの「東方哲学」という言葉の意味をめぐって、少なからず論争がなされてきたのも事実です。それは、アンリ・コルバンに代表される、そしてもっとさかのぼれば19世紀のアウグスト・フェルディナンド・メーレンにまで行きつく、イブン・シーナーと神秘主義を結び付ける考え方に端を発します。コルバンはドイツの哲学者ハイデガーの『形而上学とは何か?』を最初にフランス語に翻訳した人物でもあり、彼自身とても優れた思想家だったのですが、彼はイラン的な神秘哲学を熱心に研究していました。そのためイラン的な神秘哲学を最終的な到達地点にあらかじめ設定して、そこに行きつくまでの筋道を組み立てるという手法を取ったのです。
 イブン・シーナーの晩年の著作に『示唆と暗示』というものがあるのですが、メーレンはその著作の後半が神秘主義(スーフィズム)であると主張したのです。コルバンはそれに乗っかる形で、イブン・シーナーは晩年に至って神秘主義に目覚め、イラン的な神秘哲学の第一歩を踏み出したとしたのです。つまり、イブン・シーナーの哲学は基本的に新プラトン主義的なアリストテレス哲学であり、それはコルバンから見るとギリシア哲学の借り物に過ぎません。しかし彼が晩年になって編み出した彼独自の「東方哲学」こそ、イラン的な、真にオリジナルな哲学の萌芽ということになります。(イブン・シーナーはペルシア(=イラン)系の出自です。)
 ですからコルバンは彼の「東方哲学」に神秘的な意味を込めようとします。それは西洋に対するオリエントでもあり、「光出づる地」の神秘的な哲学でもあります。

 イブン・シーナーより後にシリアのアレッポで処刑されたペルシア系の哲学者にスフラワルディーという人物がいます。彼の主著は『照明叡智学』などと呼ばれますが、コルバンはこれを『東方神智学』と訳します。どういうことかというと、スフラワルディーがここで使用している「照明」(イシュラーク)というのは、「東方」(マシュリク)と同じ語根の言葉で、アラビア語においてふたつの言葉は割と入れ替え可能なのです。そこでコルバンスフラワルディーのなかに、イラン的な「東方哲学」の流れを見出して、イシュラークを「東方、オリエント」と読んだのです。またコルバンスフラワルディーの「照明哲学」のなかに、光の宗教ゾロアスター教のモチーフを積極的に見つけ出そうとします。(もちろんスフラワルディー自身もこういったイメージを意識的に使っています。)但し、スフラワルディーのこの「光」のイメージは、現在ではむしろプラトン主義とのつながりが注目されています。(プラトンにおいて、善のイデアは太陽、つまり光なのです。)

 「東方」という言葉は、使う人によってかくも特別な意味が込められる言葉なのだということは、少し気を付けておいた方がいいかもしれませんね。

つぎへ

「もくじ」へ戻る

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】1-3どんな地域の哲学?

 ――どんな地域の哲学?

 それでは、中世アラビア語哲学がおこなわれていたのは、どのような地域なのでしょうか?
 もちろん、アラビア語が文章語として使用されている地域であり、それはこの時代、ほとんどイスラームという宗教の範囲と重なります。しかしイスラームという宗教を信仰していても、日常的には自分たちの言葉を話しているという地域も多いです。たとえばこの時代でも、ペルシア系の人々が住む地域(現在のイランよりも広い)では、人びとは日常的にはペルシア語を話し、文章を書くときだけアラビア語を使用しました。
 また、イスラームが信仰されている地域とだいたい重なりますが、そこには数多くのキリスト教徒やユダヤ教徒など、ムスリム(=イスラム教徒)以外の人びとも住んでいました。このように、中世アラビア語哲学がおこなわれていたのは、きわめて多種多様な人びとが暮らす、広大な地域なのです。

 もう少し具体的にお話しましょう。中世アラビア語哲学がこのようにとても広い範囲でおこなわれていたとはいえ、そこには大きく分けてふたつのグループがあります。ひとつは現在のイラクやイラン以東などを中心とした「東方哲学」のグループ。もうひとつはアンダルシア(現在のスペイン)を中心とした「西方哲学」のグループです。そして「東方哲学」はさらに、バグダードを中心とした「バグダード学派」と、ホラーサーン(現在のイラン東部からアフガニスタン)、トランスオクシアナ(現在の中央アジア)などさらに東で栄えた「東方哲学」があります。「東方哲学」という言葉がふたつも出てきてまぎらわしいですが、ここでは今後、狭義の「東方哲学」、つまりホラーサーンやトランスオクシアナで興隆した哲学のことを「東方哲学」と呼ぶことにします。

 それでは、それぞれの地域の哲学がどのようなものか、簡単に見ていくことにしましょう。
 まずはこのなかで「バグダード学派」が時代的にはもっとも古いです。しかしそれ以前のキンディーなどはバグダードで活躍したにもかかわらず、一般的にはバグダード学派とみなされることはありません。バグダード学派は名前の通りバグダードを中心として栄えたのですが、本当のことを言うと「学派」と言うほどまとまったグループではなく、もっとゆるやかな傾向をもった哲学者の集まりです。彼らに共通する要素を言うと、論理学をとても重視したということです。また、バグダード学派にはキリスト教徒がとても多かったことも特徴です。ただし、ファーラービーのようなムスリムもバグダード学派だとみなされます。

 その後、バグダードで発展した哲学は東の地域へと伝わります。具体的にはさきに述べたホラーサーンやトランスオクシアナといった、当時のイスラーム世界からすると「辺境」や「周縁地域」と言って良い場所です。どうやらこの地域出身の人たちがバグダードなどに留学し、そこで哲学を学んで生まれ故郷にもちかえったことにより、こういった東の果てでも哲学というギリシアの学問が学ばれることになったようです。東方哲学の中でももっとも重要なのがイブン・シーナーです。むしろ「東方哲学」とは、バグダード学派など「西」の哲学に対抗するためにイブン・シーナーが呼び始めた名前ですので、本当のことを言うとイブン・シーナー以前のこの地域の哲学にたいして東方哲学と言うのはおかしいのですが、ここではイブン・シーナー以前も含めることにします。東方哲学の特徴はアリストテレス新プラトン主義折衷主義ですが、これはキンディーにも見られる特徴で、東方に哲学をもち帰った哲学者たちには、バグダード学派と同じくキンディー学派の影響も強かったことが分かります。

 時代的にはもっとも遅く成立したのが「西方哲学」です。西方哲学がおこなわれたのは現代のスペインやモロッコなどですが、この辺りは当時イスラームを信奉する王朝が支配していました。西方哲学の最初の哲学者とされるのがイブン・バーッジャですが、彼は政治家としての業務に忙殺されて、それほどまとまった作品を残していません。その後の哲学者イブン・トゥファイルによる哲学小説『ヤクザーンの子ハイイ』(これは『ロビンソン・クルーソー』に影響を与えたと言われています)、純粋アリストテレス主義を提唱し、イスラームよりもスコラ哲学に多大な影響を与えたイブン・ルシュドなど、西方哲学を支えた哲学者たちはとても個性が強いです。またこの地域ではユダヤ人コミュニティがそれ以外の地域よりも発達していたため、西方哲学の地域ではユダヤ哲学も盛んでした。(但し、両者に交流があったかどうかは分かりません。)

 時代に沿ってそれぞれの地域の影響関係を見ていくと、バグダード学派から東方哲学に、そしてバグダード学派と東方哲学から西方哲学にという流れになります。そして私たちが取り扱うイブン・ルシュドの死によって、ひとまず「中世アラビア語哲学」のフェーズは終わりを迎えますが、その後は東方で哲学がまったく滅びていくかというとそういうわけではなく、よりイスラームと親和的な形をとって、むしろ「イスラーム哲学」とでも呼ぶべき形で続いていくことになります。

 以上が中世アラビア語哲学がおこなわれた地域にかんする大まかな流れになります。もちろんエジプトやシリアなど、当時の先進的な地域でも哲学はおこなわれていましたし、それらの地域を無視することはできないのですが、まずは大まかに「バグダード学派」、「東方哲学」、「西方哲学」という三つのグループを覚えてもらえば大丈夫です。

つぎへ

「もくじ」へ戻る

2016年10月30日日曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】【コラム】「アラビア語哲学」?「イスラーム哲学」?

【コラム】「アラビア語哲学」?「イスラーム哲学」?

 さて、それではなぜ「アラビア語哲学」と「イスラーム哲学」なのでしょうか?それぞれの呼び名にはどんな意味があるのでしょうか?
 まず、私がここで使っている「アラビア語哲学」という呼び名は、先ほども言いましたように英語でのArabic Philosophyの訳語であり、ちょっと日本語として馴染のない言葉です。でもなぜそんな不自然な言葉を使うかというと、「アラビア語哲学」の担い手たちが特定の宗教や民族に限定できないからなのです。
 歴史についてお話しするところでもう少し詳しく説明しますが、とくに成立初期のアラビア語哲学は、キリスト教徒たちの力を無視しては語れません。彼らの大半はネストリウス派やヤコブ派など、単性論と言われ西方の教会では異端とされた人たちで、東方に移り住んでいました。とくにアッバース朝は先行のウマイヤ朝と違って異民族の人材も積極的に活用したため、バグダードなどの大都市にはキリスト教徒が大勢いました。彼らの聖典である『新約聖書』はギリシア語で書かれているため、(もちろん個々人での能力の差はあったでしょうが)キリスト教徒たちはギリシア語を操ることができました。そしてこういった人たちが、アッバース朝におけるギリシアの先進的な文明のアラビア語への翻訳活動を牽引してきたのです。フナイン・イブン・イスハークイスハーク・イブン・フナインの親子による翻訳は有名で、とりわけ息子のイスハーク・イブン・フナインは数々のアリストテレスの著作をアラビア語に翻訳しました。また翻訳家以外にも、アブー・ビシュル・マッターヤフヤー・イブン・アディーなどの哲学者もキリスト教徒でした。(ユダヤ教徒の哲学者もいたのですが、彼らはキリスト教徒たちほどイスラームと積極的に交流せず、当時のユダヤ人哲学者からのアラビア語哲学への影響というのは意外と少ないものです。)
 そして民族的なことについて言いますと、実はアラビア語哲学を担った哲学者のなかでアラブ人というのは余りいないのです。最初のアラブ人の哲学者と言われるキンディーが有名ですが、それ以外となると有名な哲学者にはペルシア系の人が多いのです。ですから、アラブ人による「アラブ哲学」というのはまったく成り立たない呼び方になります。
 宗教についても「イスラーム哲学」は成り立たない。とても多種多様な人材が集まって哲学をおこなっていた、でもそこで共通していたのは「アラビア語という言葉を使う」ということ。そこで、アラビア語という言語による「アラビア語哲学」という呼び名が必要になってくるわけです。

 じゃあ、「イスラーム哲学」という呼び名は当てはまらないのでしょうか?実はそうではありません。先ほど述べた13世紀以降になると、今度は「アラビア語哲学」という呼び名が当てはまらなくなります。この頃になるとペルシア人の哲学者たちはペルシア語で著作をおこなうことが増えてきます。またオスマン帝国が成立した後は、トルコ系のオスマン語で書かれた作品も登場します。必ずしも哲学をおこなうためにアラビア語を使う必要がなくなってくるのですね。
 そして時代を経るごとにキリスト教徒たちの役割も小さくなってゆき、哲学はだんだんとイスラーム的な要素を強く前面に押し出してくることになります。イスラームの神学者が哲学書に註釈をおこなうといった、以前だったら考えられないようなことも普通に行われていくことになります。つまり、哲学がギリシア臭いといって宗教家から嫌われていた時代にあった、「哲学者vs神学者」という構図も成り立たなくなっていくのです。
 これは、ヨーロッパのスコラ哲学に比べると分かりやすいかもしれません。13世紀以降の「イスラーム哲学」は、スコラ哲学と同じく、宗教と哲学が融和して、混じり合っていくのですね。逆にアラビア語哲学は「哲学」の要素が強すぎて、宗教的なものとは対立することが多いのです。
 著名なイスラーム哲学の研究家アンリ・コルバンは「イスラーム哲学」という呼び方を好みますが、それは彼がイランの神秘主義を熱心に研究していたからです。イランの神秘主義は主にペルシア語で書かれていましたし、「アラビア語哲学」ではどうにも都合が悪いのです。それにコルバンが研究していた時代の哲学はほとんど哲学の担い手はムスリム(イスラム教徒)でしたし、「イスラーム哲学」という呼び名がピッタリ来ます。

 「イスラーム哲学」という呼び名を好む人たちからすると、「アラビア語哲学」というのはギリシアからの輸入哲学に過ぎず、そこに真に独創的なものはないように見えるかもしれません。逆に「アラビア語哲学」という呼び名を好む人たちからすると、「イスラーム哲学」の名のもとで展開されている思想を何の譲歩もなしに「哲学」と呼ぶことに躊躇があるかもしれません。それは「神学」の一分野、または「宗教哲学」であって、純粋な「哲学」のように見えないかもしれません。(もちろんキリスト教の神学者であったトマス・アクィナスのスコラ哲学が「哲学」であるのと同じ程度には哲学と呼べるでしょう。)
 同じ地続きのひとつながりの哲学なのに、前半は「アラビア語哲学」、後半は「イスラーム哲学」と呼んだ方がいいという理由、なんとなく分かってきたでしょうか。

つぎへ

「もくじ」に戻る

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】1-2どんな時代の哲学?

――どんな時代の哲学?

 「中世アラビア語哲学」という言葉の指す意味が少し明らかになったところで、もう少し詳しく見てみることにしましょう。
 まずは、中世アラビア語哲学がどんな時代の哲学なのかということです。先ほども書きましたように、ここでは大まかに言って、キンディーが生まれたとされる800年前後から、イブン・ルシュドが亡くなる1198年までの時代に展開された哲学的思想のことを指します。
 そして、この期間の「いつから」についてはあまり論争がないのですが、「いつまで」をどの時点に設定するかによって、その人が中世アラビア語哲学に何を含めようとしているか、ある程度分かってきます。
 じつは、中世アラビア語哲学の期間を「イブン・ルシュドが亡くなるまで」とする見方は、むしろとても伝統的なものなのです。そして、逆に「13世紀以降こそがイスラーム哲学の黄金期である」という見解もあります。
 これはいったいどういうことでしょうか?
 その答えは、「アラビア語哲学」と呼ぶか「イスラーム哲学」と呼ぶかということにもかかわってきます。

 まず、イブン・ルシュドが亡くなるまでが中世アラビア語哲学の絶頂期であるとする見方は、ものすごく大きく言うと、ヨーロッパ中心史観に基づいているという解釈もできます。この考え方では、中世アラビア語哲学というのはギリシア哲学のコピーであり、その遺産はいくらか捻じ曲げられた形でヨーロッパに伝わり(つまり、本来ギリシア(=ヨーロッパ!)の財産だったものを、正当な持ち主のもとに返してもらったということです)、それ以降の中東には、いわば哲学の搾りかすしか残っていないという考え方です。
 これは、中世ヨーロッパの哲学思想、いわゆるスコラ哲学(ギリシア語のスコレー(=余暇)に由来し、主にキリスト教の宗教家によって担われた哲学思想です)を中心に見た場合、とてもしっくりくる見方です。そこにおいて、イブン・シーナーイブン・ルシュドといった哲学者たちは、そのラテン語名アヴィセンナアヴェロエスとしてのみ意味をもちます。こういった単純な見方は、現代の世界的な研究においてはほとんどなくなってきましたが、ふつうの人はそもそも中世アラビア語哲学のことをあまり知らないし、そもそもスコラ哲学研究者のあいだでも、この歴史観は(若い人には少なくなりましたが)、まだまだ健在なように思われます。

 それでは逆に、13世紀以降こそがイスラーム哲学の黄金期だという見方についてはどうでしょうか?これは先ほどのヨーロッパ中心史観とはまったく逆の考え方です。確かにイブン・ルシュドが亡くなって以降も、中東地域から哲学が消えたわけではありませんでした。ただし、それはここで取り扱おうとしているものとは少し違った形になります。私の考えでは、イブン・ルシュドが亡くなるまでは「アラビア語哲学」であり、むしろそれ以降は「イスラーム哲学」と呼ぶのが相応しいと思われます。これについてはもう少し後で詳しく説明しますが、とにかく、この頃を境にこの地域で展開される哲学の性格が変わっていくということには注意しておきましょう。
 もちろん「アラビア語哲学」はきわめてギリシア的要素の強いものであり、この時代の哲学はあくまでも「借りものの哲学」だという批判は成り立つでしょうし、真にイスラーム的な形でオリジナリティをもって展開されていくのはそれ以降の哲学なのだという主張はまさにその通りだと思います。
 しかし一方で、「アラビア語哲学」と「イスラーム哲学」はクッキリと二分割できるものでもないし、その必要もありません。イブン・シーナーに代表される東方のアラビア語哲学を批判した神学者のガザーリーは、マドラサ(宗教学校)の教育に哲学的な「論理学」を導入します。それに、表面的な表現形式はイスラーム色が強くなったとはいえ、その骨格は「アラビア語哲学」期に形成された体系を利用しています。ですから、このふたつは本当のところ地続きであり、別にふたつの別の哲学体系があるわけでもないのです。
 ただ、中世の中東地域で展開された哲学を大きく分けるとそれぞれ「アラビア語哲学」、「イスラーム哲学」とでも呼ぶことの出来るようなふたつの時代があり、私たちがここで学ぼうとしているのはその前半、「アラビア語哲学」と呼ぶべき哲学思想だということさえ分かれば、それで問題ありません。

つぎへ

「もくじ」に戻る

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】1-1はじめに

「もくじ」へ戻る

第1章 はじめに

 これからみなさんと一緒に、「中世アラビア語哲学」について学んでいきたいと思います。
 「中世アラビア語哲学」と聞いて、いったい何を思いうかべましたか?「中世」も「アラビア語」も「哲学」も、ふつうの人にはあまり縁のない言葉なのに、それが三つも並ぶと、まったく訳が分からなく感じてしまうかもしれません。それも無理のないことです。ですから、第1章の「はじめに」では、みなさんとこれから学んでいく予定の「中世アラビア語哲学」がいったいどんなものなのか、だいたいの輪郭だけでもつかんでおきたいと思います。

――「中世」?「アラビア語」?「哲学」?

 「中世」、「アラビア語」、「哲学」という三つの言葉ですが、まずは「中世」から見てみることにしましょう。

 「中世」というのはとても曖昧な言葉です。英語で言えばMiddle Agesとなりますが、みなさんはこの言葉を聞いて、どんなものを思いうかべますか?中世ヨーロッパの剣と魔法の物語、『指輪物語』(映画『ロードオブザリング』)のようなものを思いうかべますか?世界史が好きな人なら、もう少し具体的な内容、たとえばカノッサの屈辱や十字軍などを連想するかもしれません。でも、一般的に「中世」と聞いてアラブのことを思いうかべる人は少ないのではないかと思います。それもそのはずで、中世というのはローマ帝国の滅亡(4から5世紀ごろ)からルネサンス(14世紀ごろ)までの約1000年間の期間を指すために、後になってから発明された言葉だからです。この1000年ほどの間、ヨーロッパでは古代ローマの古典の知識や活き活きとした芸術の感覚が失われ、ルネサンスになってやっと「再生」(ルネサンスとは「再び生まれる」という意味です)したと言われています。ここにはある種の真実もあるのですが、大抵が後世の人たちによる「レッテル貼り」に過ぎません。そんな言葉を中東に当てはめるのですから、どだい無理があります。ここで言う「中世」というのも、かなり限定的な意味になってしまいます。具体的に言えば、キンディーの生まれた頃(800年ごろ)からイブン・ルシュドの死(1198年)ぐらいまでの400年ほどの期間を指します。(この期間の「開始年」はいいとして、「終了年」については議論が分かれるのですが、それについては後で説明します。)

 「アラビア語」というのは、まさにそのままの意味で、アラビア語を使って書かれた哲学を取り扱うということです。これはちょっと奇妙な分類のように思われるかもしれません。なるほど、「ドイツ哲学」や「フランス哲学」といった言い方はしますし、これはほとんど「ドイツ語哲学」や「フランス語哲学」と同じ意味です。「ギリシア哲学」だってそうですね。ですから、「アラビア哲学」という言い方でもいいのですが、「アラビア」だと「アラビア半島」を指してしまう可能性もあるので、「言語」による分類であることを強調するために「アラビア語哲学」という言い方をしているのです。たしかにこれは、とても不細工な言葉で、日本語としてあまりこなれていません。ですから、ほかのもっと良い呼び名があれば、そちらを採用したいと思います。実際、英語ではさいきんこの分野をArabic Philosophy、まさに「アラビア語哲学」と呼ぶことが優勢になってきています。「アラビア語哲学」という不細工な日本語を使わずに、「イスラーム哲学」や「アラブ哲学」ではダメなのかと思う人もいるかもしれません。もちろん「イスラーム哲学」という呼び名にも根拠はあります。(「アラブ哲学」はダメです。)でも、ここでは「イスラーム哲学」ではなく、「アラビア語哲学」という呼び名を使います。その理由についても後で説明します。

 最後に「哲学」ですが、これはみなさんも何となく分かるのではないでしょうか。そもそも「中世アラビア語哲学」に興味があるのですから、まずは「哲学」に興味がある人がほとんどでしょう。しかし、この時代の「哲学」という言葉には、とても特殊な意味があります。哲学のことをアラビア語で「ファルサファ」と言います。英語のPhilosophyに似ていませんか?それもそのはずです。両方とも、ギリシア語のフィロソフィアという言葉が元になっているからです。つまり、アラビア語で哲学(ファルサファ)というと、ギリシアから輸入された学問であるということが大前提になっているのです。私たちが取り扱う時代の後半になると、「ファルサファ」という、いかにも外来語の言葉ではなく、「ヒクマ」というアラビア語由来の言葉が使われ始めますが、それもこれも、「哲学」というものに付きまとう「ギリシア臭」を消し去ろうという努力の現れだと言えるでしょう。ギリシア以外のヨーロッパ人にとっても「フィロソフィア」というのはギリシアからの借り物なのですが、彼らはギリシア文明を自分たちの祖先だと考え、ギリシアから「哲学」という学問を取り入れることに何の疑問も抱きませんでした。でも中東においては違います。ギリシアというのは、ハッキリと「他者」でした。そして、私たちが取り扱うのは、まさにこの「ファルサファ」、彼らからするととても「ギリシア臭」の漂う学問なのです。

 以上の駆け足の説明で、「中世」、「アラビア語」、「哲学」という三つの言葉がそれぞれどういう意味で使われているか、ぼんやりとでもわかったでしょうか?それでは、もう少し具体的に、中世アラビア語哲学がどんな時代の、どんな地域の、どんな内容の学問なのか、見てみることにしましょう。

つぎへ

「もくじ」に戻る

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】もくじ

高校生のための中世アラビア語哲学入門

もくじ

第一章 はじめに
 ――「中世」?「アラビア語」?「哲学」?
 ――どんな時代の哲学?
   【コラム】「アラビア語哲学」?「イスラーム哲学」?
 ――どんな地域の哲学?
   【コラム】「東方哲学」とはいったいなにか?
 ――誰によって担われていた?
 ――なにが論じられていた?

第二章 歴史的な流れ
 ――イスラームの誕生
 ――正統カリフたちの時代
   【コラム】シーア派
 ――アッバース朝の興隆
 ――分裂と混迷
 ――西方世界

第三章 思想的な流れ
 ――アリストテレス哲学
   【コラム】質料と形相
 ――後期古代の註釈家たち
 ――プラトンとプラトン主義
 ――哲学史の裏の顔・新プラトン主義
   【コラム】偽装された新プラトン主義
 ――折衷主義哲学の成立

第四章 社会とのつながり
 ――権力者たちとのつながり
 ――神学者たちとのつながり
 ――大衆とのつながり

第五章 その後に与えた影響

第六章 代表的人物

第七章 中世アラビア語哲学の特徴

第八章 中心的なテーマ

第九章 おわりに