2014年4月18日金曜日

イブン・シーナー『救済の書』「論理学」(4)本質的言表と付帯的言表

イブン・シーナーIbn Sīnā980–1037)の『救済の書』Kitāb al-Najāh「論理学」第7章と第8章。

7.本質的なもの(dhātī)について

個別的[言表]は放っておいて、普遍的[言表]に集中することにしよう。
あらゆる普遍的[言表]は、本質的(dhātī)か付帯的(ʻaraḍī)である。本質的[言表]は、それについて言われているものの本質(māhiyyah)を規定する。本質的[言表]の定義において、「その意味が離存しないものである」と言われるのでは不十分である。というのも本質的でない多くのものも離存しないのだから。
また「その意味が存在において離存しておらず、想像においても離存が出来ず、もし[その意味が]想像においてすら取り除かれても、それによって描写対象が存在を止めるようなもの」と言われても不十分である。本質的でない多くのものは、この属性(ṣifah)を備えている。
たとえば三角形の角度の和が二直角に等しいことのように。というのもこれはあらゆる三角形の属性であり、存在において離存せず、想像において除去されず、「もし我々が想像においてそれを除去したなら、三角形は存在しないと判断しなければならない」とすら言われるが、[三角形の]本質的[言表]ではないのだから。また描写対象に属するその(=その属性)存在は、必然的附随物であることに加え、明確ではない。というのも、事物の本質が確定した後に附随するその附随物の多くは、明確にその附随物なのだから。
むしろ本質的[言表]は、もしその意味が理解されて、心に浮かび、それの持つ本質的[言表]の意味が理解されて、それと同時に心に浮かんだなら、その意味をまず理解してしまったのでなければ、描写対象の本質を理解することは出来ない。
 たとえば、「人間」と「動物」のように。というのもあなたが、動物が何であるか理解し、人間が何であるか理解する場合、まず人間が動物であることを理解したのでなければ、人間を理解することはないのだから。
 本質的でないものについて言えば、あなたはそれなしで、描写対象の本質を抽象的に理解するかもしれない。そして[本質的でないものが]理解されるとき、しばしばその存在がそれに属するのだと理解されることが必然的に伴う。たとえば点(al-nuqṭah)が[必然的に]位置(al-muḥādhāh)を持つように。
または三角形において角度が二直角に等しいことのように、調査と観想によって理解される。
または、黒人の黒さのように、存在において除去されないが、想像で除去が可能である。
または、消え去るのが遅いものの場合は「若さ」や、消え去るのが早いものの場合は「座っていること」のように、存在でも想像でも除去される。

8. 付帯的なもの(al-ʻaraḍī)について

付帯的[言表]について言えば、それは本質的ではないもののなかで、我々が数え上げるすべてのものである。ある者はそれについて間違いを犯し、それは実体(al-jawhar)に対する付帯性(al-ʻaraḍ)であると思いなすかもしれない。これら二つ(=実体と付帯性)については後で述べよう。しかしこれはそうでない。というのも付帯的[言表]は、「白いもの(al-abyaḍ)」のように実体であり得るのだから。しかし付帯性、たとえば「白さ(al-bayāḍ)」は実体でない。
Dāneshpazhūh版、pp. 11–12.
Ahmed訳、pp. 6–8.

 第6章で個別的言表について説明し、それがいわば固有名詞のようなものであることは言われたが、イブン・シーナーの論理学では、基本的に固有名詞は取り扱わない。すべて一般名詞である。とりわけ命題を取り扱う箇所で「ザイドは~~する」といった例文は多く登場するが、これも固有名詞的に使われているのではなく、日本語における「太郎は~~する」といった文章と同じように、不特定多数の主語を仮に表しているだけに過ぎない。だから彼は第7章の冒頭で、普遍的言表に集中すると宣言する。
 普遍的言表には本質的なものと付帯的なものがある。
 本質的言表とは、その対象の本質を規定するものであり、いわば定義にかかわる。「人間は理性的動物である」がそれにあたる。これを説明するために、「その意味が離存しない」というのでは不十分だと言う。人間から「理性的動物である」という意味は離存しないが、それ以外にも「笑う」や「二本足である」や「頭がひとつ」といったものも離存しないからである。
また「実際に離存しないし、離存していると想像することも出来ないし、もしそれがなくなったらその事物の存在が持続出来ないようなもの」というのも不十分である。先の人間の例でも、「笑う」や「二本足」や「頭がひとつ」など、それらの特徴が無くなったら人間という存在がなくなってしまうようなものは多い。「三角形の内角の和は二直線と等しい」というのも同様である。しかしこれらはすべて定義にかかわらない、つまり本質を規定しない。三角形の本質を規定するのは、「三つの角を持つ(または、三直線に囲まれている)図形」ということである。この辺りは、類、種、種差、付帯性、特性ともかかわってくるだろう。
「人間」と「動物」を理解するとき、人間が動物であることを理解していないと、人間を理解することが出来ないというのが、ひとつの指針にもなるだろう。現代人の感覚からすると、人間と動物は別の概念なのだし、べつに人間を理解するために動物という概念を理解している必要はないと思うかもしれないが、イブン・シーナーにとって、人間を理解するとは、人間の定義を理解することであり、それは「人間は理性的・動物である」というものであった。よって、人間の定義に含まれる概念「動物」を最初に理解しておく必要があるのだ。
翻って、三角形の場合、内角の和が二直線であることを理解していなくても、三角形を理解することは出来る。なぜなら三角形の定義に、内角の和が二直線であることは含まれないからである。
本質的言表以外はすべて付帯的言表であるが、それらにも濃淡がある。必ずその対象に付帯するため、それが理解されると必然的にその存在が含意されるものから(ユークリッド幾何学によれば、「点は部分を持たず、位置を持つ」)、一時的に付帯するが素早く消えてしまうもの(一時的に立ったり座っている状態)まで幅広い。
一方で、付帯的言表は付帯性のことではない。太郎の肌が白かった場合、太郎を「白いヤツ」という付帯的言表で呼ぶことが出来る(英語だとthe whiteで名詞的に使われるし、アラビア語も形容詞を名詞的に使うことが出来る)。
ここで言われている「白いヤツ」は実体である。

しかし、太郎のなかに付帯している「白さ」は、実体でなく付帯性に過ぎない。

2014年4月17日木曜日

イブン・シーナー『救済の書』「論理学」(3)言表の種類

イブン・シーナーIbn Sīnā980–1037)『救済の書』Kitāb al-Najāh「論理学」第3章から第6章まで。

3. 単独言表(al-alfāẓ al-mufradah)について

観想的会話は複合言表(alfāẓ mu’allafah)によって生じ、知的思考は複合知的言説(aqwāl)によって生じ、そして単独なものは複合したものに先行するのだから、我々はまず単独言表について話さなければならない。
さて我々は言う。単独言表(al-lafẓ al-mufrad)は意味(al-maʻnā)を指示するものであるが、その[単独言表の]いかなる部分も、本質的に、その意味のいかなる部分を指示することもない。
たとえば我々の言説「人間(al-insān)」、これによってある意味が確かに指示されている。さてその二つの部分――それらを「in」と「sān」にしてみよう――はいかなる意味も指示されていないか、「al-insān」の意味の二つの部分ではない、二つの部分を指示しているかである。
もし「in」が、たとえば魂を指示し、「sān」が肉体を指示するということが偶然あったとしても、我々の言説「insān」全体における「in」と「sān」によって、両者による指示(=「in」が魂で「sān」が肉体という指示)は意図されていない。よって両者が「insān」の二つの部分として受け取られたとき、それらは何も指示していないようなものである。

4. 複合言表(al-lafẓ al-murakkab)について

複合的(murakkab)、もしくは構築された(muallaf)言説は、何らかの意味を指示しており、それらからその聴覚情報(masmūʻ)が合成され、それらの意味から全体の意味が合成される諸部分を持っている。たとえば我々の言説「人間が歩いている(al-insān yamshī)」や「石の投擲手(rāmī al-ḥijārah)」のように。

5. 普遍的(al-kullī)単独言表について

普遍的単独言表は、ひとつの一致する意味によって、多数のものを指示する。[多数のものとは、]たとえば人間のように、存在において[実際に]多数であるか、たとえば太陽のように、想像(tawahhum)の可能性において多数である[が実際にはひとつである]かである。要するに普遍的なものは、多数のものがその意味を共有することがその概念(nafs mafhūm)によって妨げられない言表である。もし何ものかがそれを妨げるなら、それはその概念以外のものである。

6. 個別的(al-juz’ī)単独言表について

個別的な単独言表は、そのひとつの意味が、存在においても想像によっても、ひとつ以上のものに当てはめることが出来ず、むしろ前述のようにその概念がそれを妨げるものである。たとえば我々の言説「ザイド(Zayd)」のように。
というのも「ザイド」の意味は、ひとつの意味として受け取られたならば、それは唯一なザイドの本質(dhāt)なのだから。それは、存在においても想像においても、唯一なザイドの本質以外のなにものかであることは不可能である。つまり、指示表示(al-ishārah)がこれを妨げているのである。よってもしあなたが「この太陽(hādhihi al-shams)」とか「この人間(hādhā al-insān)」と言ったなら、それ以外のものがそれを分有することは妨げられている。
Dāneshpazhūh版、pp. 9–11.
Ahmed訳、5–6.

 ここでイブン・シーナーは単独言表、複合言表、そして普遍的単独言表と個別的単独言表を提示している。ここで彼が言うlafẓとは、アリストテレスἈριστοτέληςBC384–322)が『命題論』Περὶ Ἑρμημείας4章で言うλόγοςのことだろうか。

言表(λόγος)とは意味表示する音声(φωνὴ σημαντική)のことであり、その諸部分のうちのあるものは、全体から切り離された状態でも意味表示する――とはいえ肯定命題(κατάφασις)としてでなく、発話(φάσις)としてであるが。私が言っているのは、例えば「人(ἄνθρωπος)」は、それがあるのかあらぬのかを言わずに何かを意味表示する。(しかし何かが付加されたら、肯定命題か否定命題(ἀπόφασις)になるだろう。)ただし「人」の音節(συλλαβή)が、それひとつで何かを意味表示はしない。というのも鼠(μῦς)におけるυςすら[豚(ὗς)を]意味表示せず、この場合は単なる音声なのだから。しかし既に述べられたように、二つの語[の合成語]において、[その部分は]意味表示するが、それ自体においてではないのである。
アリストテレス『アリストテレス全集I カテゴリー論 命題論』早瀬篤訳, 東京: 岩波書店, 2013, p. 118.
Aristoteles, Categoriae et Liber de Interpretatione, ed. L. Minio-Paluello, Oxford: Oxford University Press, 1949, 16b26–33.

『命題論』第2章で言われる名詞(ὅνομα)も含まれているだろうが、イブン・シーナーにおいてlafẓは「人間が歩く」という、主語=述語構造を持つ文章も含むので、名詞よりも広い概念であろう。単純言表はアリストテレスの例で言われる「人」の音節の例をアラビア語訳して説明したものである。「にんげん」の「にん」と「げん」はそれぞれ独自の意味を持っているわけでないし、もし持っていたとしても「にん」の意味と「げん」の意味を合わせたものが「にんげん」の意味になるわけではない。一方で複合言表はその部分がそれぞれ独自で意味を持つ。アリストテレスは『命題論』第2章で「海賊艇」ἐπακτροκέκηςの例を挙げる。しかしここで気を付けたいのは、イブン・シーナーにとって複合言表は、複合名詞ではないということだ。「人間が歩いている」など、「文章」に分類できるようなものも、複合言表には含まれる。
 また、普遍的単独言表と個別的単独言表であるが、これはほぼ「普通名詞」と「固有名詞」に対応する。普通名詞は多数のものに対応し、たとえば太陽のように、実際には対応物がひとつしか存在しなくても、「太陽」という語義そのもののうちに「多数に当てはまる」ことを拒否する要素は含まれていない。もし実際に太陽がひとつしか存在していないとすれば、それは太陽の語義そのものが原因でなく、それ以外の外的な要素が原因である。実際、現代人である我々はSFなどの文脈において、「太陽系」以外の星系にある「太陽」のことを語ったりする。

 逆に固有名詞は単一のものを意味する言葉として使用されている以上、単一のものしか指し示さない。我々が「太郎」という言葉を「「太郎」という名前を共有する多数の者に当てはめられ得る名前の音」として使用するとき、それは普通名詞的に、つまり普遍的単独言表的に使用される。しかしそれが、ある特定の太郎を指すものとして使用されるとき、その語義には「この太郎」の本質が含まれ、それ以外の太郎に適用することは不可能である。アラビア語の例において、こういった固有名はザイドとアムルである。太郎と花子のようなものである。また必ずしも名詞そのものが固有名詞でなくても、「この太陽」や「この人間」と言った場合も、同様なものと見做される。

イブン・シーナー『救済の書』「論理学」(2)論理学の利点

イブン・シーナーIbn Sīnā980–1037)『救済の書』Kitāb al-Najāh「論理学」から、第2章。

2. 論理学の利点について

論理学は、いかなる形相と質料からも、真に定義と呼ばれる正しい定義と、論証(burhān)と呼ばれる正しい推論が生じることをあなたに説明する観想的技術(ṣināʻa naẓariyya)である。
またいかなる形相と質料からも、記述(rasm)と呼ばれる説得力のある(iqnāʻī)定義が生じることを、あなたに説明する。
またいかなる形相と質料からも、[普通の推論よりも]強力なものと呼ばれ、確信に類似している弁証的(jadalī)な承認を生じさせる、説得力のある推論が生じることを、あなたに説明する。
また修辞的(khaṭābī)で圧倒的な思いなしを生じさせる、弱い種類[の推論が生じることを、あなたに説明する]。
またいかなる形相と質料からも誤った定義が生じるし、いかなる形相と質料からも詭弁的(mughāliṭī)やソフィスト的(sūfisṭā’ī)と呼ばれる誤った推論――それは一見すると論証的や弁証的のように見えるが、実はそうでない――が生じることが[論理学によって]知られる。
またいかなる形相と質料からも、決して承認を生じさせず、むしろ魂にある事物を欲求させたり、拒否させたり、嫌悪させたり、喜ばせたり、落胆させたりする表象(takhyīl)を生じさせる類論が生じ、これは詩的推論(al-qiyās al-shiʻrī)と呼ばれることが[論理学によって知られる]。

以上が論理学の技術の利点である。その熟慮への関係性は、文法(al-naḥw)の会話(al-kalām)への、韻律学(al-ʻarūḍ)の詩(al-shiʻr)への関係性[に似て]いる。
しかし健全な本性や健全な感性(al-dhawq)は、しばしば文法や韻律学の学習を必要としない。しかしいかなる人間的な本性も、熟慮に使用に際し、この道具(=論理学)の事前の準備を必要としない者はいない。さもなければ、[論理学を必要としない者は]至高なる神の加護を受けた人間である。
Dāneshpazhūh版、pp. 8–9.
Ahmed訳、pp. 4–5.

 イブン・シーナーによれば、様々な形相と質料を組み合わせによって、定義や推論が生じることを明らかにするのが論理学の利点である。しかしこの組み合わせによって生じる定義や推論には、正しいものもあれば間違っているものもあるし、また承認を発生させず、詩的な感情を発生させるような種類のものもある。「アポロンよ高くあれ!」や「汝には復讐が為されよ!」といった宣言文や感嘆文は、元来ペリパトス派論理学では、命題に含まれなかった。アンモニオスἈμμώνιος ὁ Ἑρμείου440–520頃)は『命題論註解』Ὑπόμνημα εἰς το περί ἑρμηνείαςにおいて、以下のように述べている。

しかし文章には五つの種類がある、つまり(1)呼びかけ文(ὁ κλητικός)、たとえば
「ああ幸せなる者アトレウスの息子よ(ὦ μάκαρ Ἀτρείδη)」のような。
2)命令文(ὁ προστακτικός)、たとえば
「行け!疾く離れよイリス!(βάσκ’ ἴθι, Ἶρι ταχεῖα)」のような。
3)疑問文(ὁ ἐρωτηματικός)、たとえば
「お前は誰でどこから来たのだ?(τίς πόθεν εἶς ἀνδρῶν)」のような。
4)祈願文(ὁ εὐκτικός)、たとえば
「ああせめて、父なるゼウスよ…(αἲ γάρ, Ζεῦ τε πάτερ)」のような。
そして最後に(5)断言文(ὁ ἀποφαντικός)で、これによって我々はあらゆるものに対する断言をおこなうのである。たとえば
「しかし神はすべてを知っているのだ(θεοὶ δέ τε πάντα ἴσασι)」
「あらゆる魂は不死である(πᾶσα ψυχὴ ἀθάνατος)」など。アリストテレスはこの講座において、すべての単純な文でなく、断言文のみにかんする教授をおこなっている――そしてそうするには理由がある。というのもこの種の文章のみが真偽を受け入れるのであり、哲学者が論理学の講座全体を編んだ理由である論証は、この種のもとに分類されるのだから。
Ammonius, In Aristotelis De Interpretatione Commentarius, ed. Adolf Busse, Berlin: Typis et Impensis Georgii Reimeri,1897, p.2.9–25.
Ammonius, On Aristotle’s On Interpretation 1–8, trans. David Blank, Ithaca, New York: Cornell University Press, 1996, p. 12.

 つまり、本来論理学の範疇に含まれる文章は極めて限定的だったのである。イブン・シーナーも基本的にこの形式を踏襲しており、彼の論理学が取り扱うのは、「概念化」と「承認」という二本柱から外れない範囲内の文章である。
 また、文法を学べば会話が出来、韻律学を学べば詩を作れるようになるのと同じく、論理学を学べば熟慮を働かせることが出来るようになる。しかし文法を学ばなくても会話が出来たり、韻律学を学ばなくても詩を作れることがあるが、論理学の場合はそうはいかない。もし論理学を学ばないのに熟慮を働かせることの出来る者がいたなら、それは神の加護を受けた者だとイブン・シーナーは言うが、これは預言者や一部の賢者などを念頭に置いているのだろう。


2014年4月16日水曜日

イブン・シーナー『救済の書』「論理学」(1)taṣawwurとtaṣdīq

イブン・シーナーIbn Sīnā9801037)による哲学全書のひとつ、『救済の書』Kitāb al-Najāhは、論理学、自然学、数学、形而上学という、割かし標準的な構成になっている。
『救済の書』はイブン・シーナーの中でも割と後期の作品であり、時期的には彼の円熟期の作品になるのだが、実際には古い作品からの寄せ集めであり、それほど新しい記述は含まれていない。Gutasによれば、彼は実質新しい文章をひとつも書くことなく『救済の書』を仕上げたという。いわばコピペによる再編集版、またはベストアルバムみたいなものだ。
イブン・シーナーに限らず、当時のイスラーム地域の哲学者たちはだいたいが実務家であり、思索に専念できる環境で活動できたわけではなかった。イブン・シーナーの場合、イスファハーンのカークーヤ朝を支配するアラーウッダウラの宮廷に行って以降はかなり安定した身分だったと思われるが、それでも昼間は宮廷に出仕し、ときには遠征に同行したりと、気の休まる暇はそれほどなかった。この点、修道院や教会を中心に展開された西洋ラテン世界のスコラ哲学とはずいぶん趣を異にする。
 それで、彼の『救済の書』、論理学部分だが、2011年にAsad Q. Ahmedによる英訳(Avicenna’s Deliverance: Logic, trans. Asad. Q. Ahmed, Oxford: Oxford University Press, 2011)が出版されたため、アラビア語が読めない人にも手を出しやしやすくなった。

 『救済の書』「論理学」はtaawwurtadīqについての記述で始まっている。

taawwurtadīq、両者の手法について

あらゆる知恵(maʻrifa)と知識(ʻilm) は、taawwurであるか、tadīqである。
taawwurが第一の知識であり 、定義(ḥadd)やそれに類したものによって獲得される。たとえば、人間の本質(māhiyya)にかんする、我々のtaawwurのように。
tadīqは、推論(qiyās)やそれに類したものによってのみ獲得される。たとえば、「普遍はひとつの始原を持つ(li-l-kulli mabda’unidun)」ということに関する我々のtadīqのように。
定義と推論という二つの道具によって我々は、[かつては]未知であったが熟慮(rawiyah)によって既知になる諸々の知識(maʻlūmāt)を獲得する。両者それぞれには、(1)真実のもの(ḥaqīqī)、(2)真実でないが、それ自体において何か有益なもの、(3)真実のものに類似している偽のものがある。多くの場合、人間の本性(fiṭrah insāniyyah)はこれらの種類[の定義や推論]を識別するのに十分[な能力を持って]いない。もしそうでなければ、賢人たちの[意見の]あいだにいかなる相違もないだろうし、それに関する意見のうちに、いかなる矛盾もなかっただろう。

推論と定義は両方とも、確定された構築様式によって、思惟された諸概念(maʻānin maʻqūlah)から作られ、構成されている。両者とも、そこから[定義や推論が]構築される質料(mādda)と、それによってその構築が完成する形相(ṣūrah)を持っている。
また、[偶然]生じた任意の質料から家や椅子が作り上げられるのではなく、そして[偶然]生じた任意の形相[と組み合わされること]によって家の質料から家が、椅子の質料から椅子が完成するのではなく、むしろあらゆるものは、それに特有の質料と、本質的にそれに特有の形相を持っているように、熟慮によって知られる知識はすべて、それに特有の質料と、それに特有の形相を持っており、両者によって真理に到達するのである。また、家の建築に関する消滅(al-fasād)が、たとえ形相が正しくても質料のせいで生じ得るし、たとえ質料がしっかりしていても、形相のせいで生じ得るし、またはそれら両方のせいで生じ得る。それと同じように、熟慮に関する消滅は、たとえ形相が正しくても質料のせいで生じ得るし、たとえ質料がしっかりしていても、形相のせいで生じ得るし、またはそれら両方のせいで生じ得る。
Dāneshpazhūhp. 8
Ahmed訳、p. 3–4

イブン・シーナーによれば、taawwurとは事物の定義、tadīqは物事の正誤判断である。
つまり、人間という事物に対する「理性的・動物」という定義付けがtaawwurで、「全体は部分より大きい」や「3角形の内角の和は180度である」という判断がtadīqである。
taawwurには「はい」と「いいえ」の判断が生じ得ない。「理性的・動物」とだけ言われたからと言って、それは只の定義に過ぎず、推論を構成していないからだ。しかしそれが「人間は理性的・動物である」という命題にまで膨らめば、そこに正誤判断が入るため、taṣdīqになる。
 但しイブン・シーナーによれば、こういった定義や推論には正しいものだけでなく、間違っているけれど有益なものや、一見正しいけれど間違っているものがあるという。そして何も訓練を受けていない野良の状態の人間の本性はこれらを区別することが出来ない。だから、様々な哲学者たちは真理にかんして今まで好き勝手様々な意見を言ってきたというわけだ。これは宗教家が哲学者に対して言う批判への反論でもあるだろう。曰く、「この世に唯一の真理があり、哲学と言うものはこの唯一の真理を探究するものであるならば、なぜ哲学者同士の意見が斯くも食い違っているのか?」と。イブン・シーナーはこれにこう反論する「真理は確かに存在する。しかし人間の知性にも段階があり、それほど知性的に彫琢されていない数多くの人間は、誤った判断と真理を区別できないため、結果として世の中には真理に見せ掛けた誤りの理論が数多く氾濫することになってしまったのだ。」

 後半部分はつまり、家という事物が生じるためには、家に相応しい質料と、家に相応しい形相が組み合わされる必要があるのと同じく、定義や推論も同様のものから組み合わされていなければならないという意味であろう。人間という種は「理性的」という種差と「動物」という類から成る。これはそれぞれ人間の定義を構成する要素であり、そこに任意の種差と類、たとえば「空を飛ぶ・穀物」なんかが組み合わさっても意味をなさない。これについては、どちらかが片方が正しくても、もう片方が間違っていれば成立しない。もちろん両方が間違っていてもダメである。

 イブン・シーナーの論理学の最小構成要素がtaṣawwurtaṣdīqであり、これら二つを組み合わせることによってあらゆる知識が成り立ってゆく。その点において、これら二つを理解するのはイブン・シーナー論理学の最も初歩として重要である。
ちなみに、Ahmedtaṣawwurconceptualization, taṣdīqassentingと訳している。taṣawwurṣ-w-rV形動名詞で「形相、概念、映像にすること」、taṣdīqṣ-d-qII形動名詞で「信じること」であり、それぞれ「概念化」と「承認」であろうか。