2016年7月22日金曜日

本当の自分はすっぱだか?

提唱者:イブン・シーナー

テキスト:『治癒の書』「魂について」

本当の「自分」って何だろう?

「私」の範囲をどこに設定するかというのは、昔の哲学者にとっても大きな問題だった。

「私」=「自分」=「私そのもの」だとすれば、私がいつも着ているお気に入りのシャツは私に含まれるのだろうか?いつも履いている靴は?

いつも眼メガネをかけている人にとって、メガネは自分を構成する要素と言えるかもしれない。

しかし、イブン・シーナーはその範囲をかなり狭く設定する。

これらの肢部(=手足のような身体器官)は、実際には衣服のようにして我々にそなわるにすぎないのに、つねに我々に付着しているため、我々から見ると、我々の部分のようになっている。我々が自分自身を想像するとき、裸体で想像することはなく、身にまとう物体をともなった姿で想像する。その原因は恒常的な付着だが、しかし衣服については、肢体にあっては慣れていない剥ぎ取りや脱ぎ捨てに我々が慣れているため、肢体は我々の部分だという考えの方が、衣服は我々の部分だという考えよりも強固なのである。
イブン・シーナー『魂について 治癒の書 自然学第六篇』(木下雄介訳)知泉書館、2012, p. 294.

 つまり、イブン・シーナーによれば、私たちは普段「私」を想像するときに、服を着た姿で想像する。これは、(大抵の場合、)通常人間は服を着ているからであるが、それでも私たちはその服が自分自身ではないことを分かっている。
それと同じように、私たちに備わっている身体の器官も、本当は私じゃないのに、身体がつねに私に付着しているため、あたかもそれが「絶対に脱げない服」のようになっており、身体が私たちの本質に含まれると勘違いしてしまうのだ。

イブン・シーナーはこれを、空中人間説という独特な思考実験によって説明しようとする。

彼によると、人間の本質とは「魂」(現代的な言い方をすれば心)であり、身体の方は、いわば絶対に脱げない服のようなものであり、私を構成する本質の一部ではないのだ。

だから、本当の自分はすっぱだかどころか、身体をまったくもたないのだ。

これは一見すると理に適っているように思われるかもしれないけど、現代人からすると、ちょっと納得のいかない部分も多いだろう。

たとえば、メイクを日常的にしている人からすれば、メイクをした顔の方が本当の顔のように思えるだろうし、身体が変化することによって「自分」も刻一刻と変化していってるように思えるんじゃないだろうか。

風邪をひいたとき、体調の良いときで、「私」は違うように感じられるだろうし、落ち込んでいるときと嬉しいときではまるっきり別人になっているように思われるだろう。

10歳のときの自分と20歳のときの自分、30歳のときの自分は同じだろうか?

なんとなくイブン・シーナーの言っている「私」の説明は違うように思えないだろうか?

そう思うのは、彼が考える「自分」と、私たちが考える「自分」が違っているからだろう。

イブン・シーナーは基本的に「個物」に関心がない。彼が哲学的考察の対象とするのは、あくまでも一般概念である。

だから、ここでイブン・シーナーが問題にしているのは、いまここにいる私やあなたではなく、あくまでも「人間」一般なのである。

あなたが嬉しかろうか悲しかろうが、10歳だろうが80歳だろうが、「人間」としてのあなたは変わりないはずだ。

事故にあって片足を失ったら、たしかにそれ以前とそれ以降の私の自己認識は変わるだろうけど、あくまでも「人間」として見た場合、手足がなくなろうとも、目が見えなくなろうとも、「人間」であることには変わりない。

そういった意味で、イブン・シーナーは「私たち」の本質は身体にない、と言ったのである。

だから、個々の私やあなたの、唯一無二の身体性を伴った「私」が、身体の変化に連動して変化することそのものを、イブン・シーナーは否定しないだろう。
ただ、そこで感じられている「私」は、彼にとって学問の対象ではなく、あくまでも「人間」一般こそが論じられるべきだというのだろう。

こういう態度は、個々人のケーススタディをする学問を知っている現代人からすると奇妙なものに思われるかもしれないけれど、あくまでも「普遍学」こそが学問だという、イブン・シーナーのある意味「科学的」な態度も、個人的にはなかなか悪くないように思ってしまうのだ。

2016年7月14日木曜日

アッバース朝における論理学vs文法学

提唱者:アブー・サイード・シーラーフィー、アブー・ビシュル・マッター


「哲学」とは何だろうか?

私たちはそれが、じつは「ギリシア」に端を発するもので、一般的に我々が哲学と言って思い浮かべるものが、明治期になるまで日本とまったく関係ないところで発展してきたものだという事実に、しばしば気付かない。

たぶん、西周が作り出した「哲学」(本来は「希哲学」)という訳語が余りにも日本語としてしっくりきてしまったというのもあるだろう。

私はこの、日本における「哲学」の立ち位置を考えるとき、いつも思い浮かべるのが、ヒジュラ暦320年にバグダードにて、アッバース朝の大臣アブールファトフ・フラートのもとで開催された、アラビア語文法家アブー・サイード・シーラーフィーと論理学者アブー・ビシュル・マッター・イブン・ユーヌスとのあいだの討論である。

これはアブー・ハイヤーンによって報告されており、果たして「正確に」そのようなことが話されたのかはやや疑問の残るところだけど、なかなか迫真の内容が伝わっている。
(内容についても、いつか機会があれば紹介したいと思う。)

アブールファトフは320年第二ラービウ月(932年4月16日~)からズールカダァ月(~932年12月7日)に就任していたことは確かなので、この討論は932年の4月から12月のあいだに行われたことになる。
討論の場に居合わせた人物にかんしては、幾人かはその場にいなかったのではという疑問も呈されているが、おおむね「本当にこの討論が行われた」としても問題のない面子が出席していたようだ。

ことの発端は、アブー・ビシュル・マッターが大臣に、正しい知識を知るためには論理学を知らなければならないと主張し、大臣が居並ぶ廷臣たちに、アブー・ビシュル・マッターの言い分に反論してみよと命じたことである。

アブー・ビシュル・マッターは名前からも分かるように(分からないか?)、「マタイ」であり、シリア人のキリスト教徒である。イブン・ユーヌスも「ヨナの息子」なので、「ヨナの息子マタイ」である。

このように、10世紀ごろまでのアラビア語哲学の形成には、ギリシア語やシリア語の資料へのアクセスが可能なキリスト教徒たちがかなり重要な役割を果たしていた。

で、討論はどうだったのかというと、結論から言うと、アブー・サイード・シーラーフィーの勝利ということになったようだ。

まずアブー・ビシュル・マッターへの援護をしておくと、彼はひどい吃音の癖があり、さらにアラビア語があまり得意でなかったようだ。その上で居並ぶ敵対的な群衆の前で(いまほどでもないが、当時のバグダードでもキリスト教徒はマイノリティーだった)公開討論を行うというプレッシャーは相当なものだったに違いない。

ものすごく簡単に言ってしまうと、アラビア語文法家たちの言い分としては、哲学者、論理学者が主張している「論理学」なるものは、いわばギリシア語文法に過ぎず、アラビア語には適用できない、つまり各々の民族は各々の言語、論理、思考法をもっており、アラブ人にはアラビア語、ギリシア人にはギリシア語の思考が合っているだけで、べつにアラブ人がギリシア人の作った「ギリシア語文法」を、さも普遍的な思考のように有り難がる必要はない、というものだった。

でも、これはものすごく良く分かる。

イブン・シーナーも『治癒の書』の論理学の項目を見ていると、アラビア語とギリシア語の違いを何とか説明しようとしているし、より言語に堪能だったキンディーは、個別言語の違いにとても敏感だった。

たとえば、アリストテレスの論理学は、ギリシア語の思考法を基準にしているから、論理学で取り扱うのは現在形であり、未来と過去は取り扱わないとしている。
しかし、アラビア語の動詞は完了と未完了の二種類しかなく、そもそも「現在・過去・未来」という分け方をしない。

たしかにそういうところを見れば、当時のアラブ人たちが「なーんだ、お前たちが普遍的とか言ってるものは、ギリシア語でしか通用しないじゃん!」と思ったのも当然だよなぁと思ってしまう。

だから、哲学を人工言語派か自然言語派(or日常言語派)かで分ければ、ある時期までのアラビア語哲学は断然人工言語派である。

表面的な言葉尻の世界では、ギリシア語とアラビア語はまったく違う。
だから、アリストテレスの論理学がアラビア語でも成立するためには、哲学的に調整された言語を使用するしかなかったのだ。

もちろんその後、アラビア語やペルシア語での著作が増えてくると、自らの言語でのみ表現することのできる哲学が構築されてゆき、そういう12世紀以降の時代こそがアラビア語哲学の「黄金期」であるとされるのだけど、私が専門としている10世紀から11世紀辺りは、まだ「翻訳哲学」としての要素がかなり強かった。(その意味でも、イブン・シーナーは「翻訳哲学」から、真の意味での「アラビア語哲学」への転換点だったと言えるだろう。)

一方でラテン語の世界ではこういう齟齬が起きなかったのかは気になるところだけど、そもそもギリシア語に合うようにラテン語文法までも変えてしまったのだから、ラテン語とギリシア語は地続きという感覚が強かったのだろうか。
気になるところではある。

じゃあ果たして日本では?
たしかに自分も、「あんなの西洋語の言葉遊びでしか成り立たないじゃんか!」と思うことはしばしばあるし、何となくそれに納得がいかないこともある。
もちろんそれが魅力だったりもするんだけど。

個人的には人工言語派なんだけど、一見して魅力があるように映るのは自然言語派なんだよなぁ。
人間は、自分の母語を離れた普遍的言語で思考することは可能なのか?記号論理学を完全にものにした人たちや数学者は、日本語を離れて完全に人工の言語で思考しているのかなぁ。

2016年7月11日月曜日

「すべての始原は水である」と「水!」


提唱者:タレス、アリストテレス、イブン・シーナー、井上忠

テキスト:『形而上学』、『治癒の書』「入門篇」、『根拠よりの挑戦』

日本を代表する哲学者のひとり(?)、井上忠、通称イノチュウは独特の言語感覚をもっており、彼の著作はどれもが「読むドラッグ」とでも言うような酩酊感を引き起こすものだけれど、初期の代表作『根拠よりの挑戦』の冒頭の論考において、彼は以下のように言っている。

こうした空寂の裡に、突然、
「タレス、このかような意味での哲学(ピロソピア)の創始者(アルケゴス)は、水だ、と言う」
との宣言が炸裂する。この言葉が、ただこの一句が、アリストテレス全著作、ひいては全西洋哲学史を貫いて、哲学の開落を告げている。それはあたかも、タレスの水の叫びが、体系めく理論の姿も、説明も纏わず、ただ一つの言葉として、アリストテレスの愛智探求の途に突如響交いわたった驚異の瞬間を、まざまざと示す如く、一瞬のうちにタレスの不動の位置を決定したものである。(……)
万有の始原・原理は何か、との問いがまずあったのであろうか。万有の原理という、この思想が、「水!」以前にあったのであろうか。アリストテレスの筆の運びは明らかに、「万有の存するはそれからであり、すべてがそれから生じ来る第一なるものであり、また終にはそれへと消滅しゆく窮極なるそれ(そこではそれが本当に有ることの所以〔その実体〕は、そのままそれらすべての基(もと)に〔基体として〕とどまっていて、ただそれの受ける様々な様態(パトス)においてのみその転化すなわちその生滅変化が現れる)、こうしたそれを、ひとびとはものの構成要素(ストイケイオン)であり始原(原理)(アルケ)であると言う」と述べたあとを承けて、このそれが水なのだという解釈を示している。勿論これは「講義」のための手法であり、かれ自身の体系構成の方法からの説明である。(……)
実に、タレスの「水!」の発語は、かれの筆持つことへの怠惰の故でも、文献の不足や伝承の疎漏の故にでもなく、初めてあれに、万有の蔭に完全犯罪を遂行して止まぬあいつに、人間が突然出遭ったときの、驚畏と緊張の異様な沈黙のさ中に発せられた一語であったが故に、かく厳しく孤立するのである。
井上忠「プラトンへの挑戦――質料論序論――」『根拠よりの挑戦 ギリシア哲学究攻』東京大学出版会、1974, p. 11–16.
(原文のルビは丸括弧にて指示、傍点は太字とした)

何とも不思議な文章だけれども、これはアリストテレス『形而上学』の記述を下敷きにしている。

しかし、こうした原理(アルケー)の数や種類に関しては、必ずしもかれらのすべてが同じことを言っているわけではなくて、タレスは、あの知恵の愛求〔哲学〕の始祖であるが、「水」(ヒードル)がそれであると言っている、(それゆえに大地も水のうえにあると唱えた、)そしてかれがこの見解をいだくに至ったのは、おそらく、すべてのものの養分が水気のあるものであり、熱そのものさえもこれから生じまたこれによって生存しているのを見てであろう、しかるに、すべてのものがそれから生成するところのそれこそは、すべてのものの原理(アルケー)〔始まり・もと〕だから、というのであろう。たしかにこうした理由でこの見解をいだくに至ったのであろうが、さらにまた、すべてのものの種子は水気のある自然性(フィシス)をもち、そして水こそは水気のあるものにとってその自然の原理であるという理由からでもあろう。
アリストテレス『形而上学 上』(出隆訳)岩波文庫、1959, p. 32–33.
(原文のルビは丸括弧にて指示、傍点は太字とした)

ここでアリストテレスは、原理=始原(アルケー)がどうなっているかについて過去の学説を紹介し、それをひとつずつ検討してゆく。そしてタレスはそれが「水」であると言ったとしている。

たしかにここから「すべての始原は水である」という命題を読み取るのは簡単だし、アリストテレスの文章がそうした命題的な文章への傾向性をもつことは確かだと思う。

でも、そこにイノチュウは待ったをかける。ここでタレスが言ったのは、

「水!」

の叫びじゃないといけない。

「すべての始原は水である」みたいに間延びした命題じゃあない。
哲学のはじまりが「驚き」なのであれば、まさにイノチュウの指摘は、哲学の始まりが何であるかについての厳しい洞察であると言えるんじゃないだろうか。

ここで私はイブン・シーナーによる「概念化」と「承認」という二つの考えに行きあたる。

彼は『治癒の書』「入門篇」第1巻第3章で以下のように言っている:

また事物はふたつの面から知られる:
ひとつ目は、概念化される(=思い浮かべられる)だけであり、それが名前を持っていて発話されたとき、精神のうちにその意味を、真も偽もなしに思い浮かべた場合。たとえば「人間」と言われたり、「私はこのようなことを行う」と言われたり。なぜならあなたは、それによって話されていることの意味を理解したら、それを概念化する(=思い浮かべる)だろうから。
ふたつ目は、概念化と共に承認が生じる場合である。たとえば「あらゆる白さは付帯性である」と言われたとき、これによってあなたに、この言説の意味の概念化が生じるだけでなく、あなたはそれがそうであると承認する。それがそうであるかそうでないかを疑っていても、あなたは言われたことをすでに概念化している。というのもあなたは、あなたが概念化していなかったり理解していなかったりするものを疑っているのではなく、それをまだ承認していないだけなのだから。あらゆる承認は概念化と共にあるが、逆は成り立たない。
Ibn Sīnā, Kitāb al-Shifā’: al-Madkhal, ed. A. Qanawātī, M. Al-Khuḍairī, F. Al-Ahwānī, Cairo: al-Idārah al-ʻāmmah li-l-taqāfah, 1952, p. 18

彼によれば、「人間」とだけ言われるのは概念化であり、「人間は理性的動物である」と言われるのが承認である。
概念化の場合、ただその概念が頭に思い浮かんでいるだけであり、それについて真も偽もまだ言われない。
それが分節化されて、文章になってはじめて論理学的な命題になるのだ。

これはまさに、「水!」という叫びから「すべての始原は水である」への分節化に対応していないだろうか。

もちろんこの概念化は真偽が定かでないのだから、命題的な文章こそを哲学的探求の題材にするペリパトス派的な視点からすると、「哲学以前」の叫びに過ぎないかもしれない。

しかし、承認可能な命題も、かならず概念化されたものから構築されなければならない。

そういった意味では、「水!」の叫びこそが哲学の始まりなのだというイノチュウの指摘と、哲学的命題以前に真偽の定まらない概念化の段階があるとしたイブン・シーナーの主張は、結構似ているのでないかとも思ったりするのだ。

2016年7月9日土曜日

哲学的な文とは命題的な文のことである


提唱者:アリストテレス、アンモニオス、イブン・シーナー

テキスト:『命題論』『命題論註解』『治癒の書』「命題論」

哲学的な文ってなんだろう?

とっても難しい気がする。

たぶん倫理の教科書とかでは、「すべての根源(アルケー)は水である」とか、そんな文章を読んだことがあるかもしれない。

でも、アリストテレスによれば、哲学的な文とそうでない文の違いは明確だ。

アリストテレスは『命題論』第4章で以下のように言う。

言表はすべて対象を表示するものだが、道具のようにではなく、すでに述べられたように、取り決めによって表示するものである。またすべての言表が命題的であるわけではなく、真または偽である言表が命題的である。例えば祈りの言葉は言表であるが、真でも偽でもないように、すべての言表が真であったり偽であったりするわけではない。しかしこういった他の種類の言表は考察対象から除外することにしよう。そうした言表の考察は現在の研究よりも弁論や詩作の研究で行われるものなのだから。そして命題的言表が現在の考察対象である。
アリストテレス「命題論」『アリストテレス全集1』(早瀬篤訳)岩波書店、2013, p. 118–119.

つまり、アリストテレスによれば、命題的で、真か偽か決定できるものだけが、『命題論』での考察の対象なのである。

それ以外のものは、たとえば『詩学』や『弁論術』で取り扱うべきだという。まぁアリストテレスの言いたいことは分かる。たしかに『命題論』で扱うのは(ギリシア語の原題だと『解釈について』だけど)、命題的な文章で、詩的な文章や修辞的な文章はほかのところで取り扱うんだよ、というのはとても理に適っている。

でも、これがアリストテレスの註釈家の時代になっていくともう少し細かく分析されるようになる。五世紀頃の註釈家アンモニオス・ヘルメイウは『命題論註解』の冒頭でこのように言っている。

文章には五つの種類がある。つまり(1)呼びかけ文、たとえば「ああ幸せなる者アトレウスの息子よ」のような。(2)命令文、たとえば「行け!疾く離れよイリス!」のような。(3)疑問文、たとえば「お前は誰でどこから来たのだ?」のような。(4)祈願文、たとえば「ああせめて、父なるゼウスよ…」のような。そして最後に(5)断言文で、これによって我々はあらゆるものに対する断言をおこなうのである。たとえば「しかし神はすべてを知っているのだ」、「あらゆる魂は不死である」など。アリストテレスはこの講座において、すべての単純な文でなく、断言文のみにかんする教授をおこなっている――それには理由がある。というのもこのタイプの文章のみが真偽を受け入れるのであり、哲学者(=アリストテレス)は論証のために論理学の講座全体を編んだのであり、それはこのタイプに分類されるのだから。
Ammonius, On Aristotle's On Interpretation 1–8, trans. David Blank, Ithaca, New York: Cornell University Press, 1996, p. 12.

アリストテレスによると真でも偽でもない言表があるよね、それは命題的ではないから論理学では扱わないよ、という程度だったものを、アンモニオスは文をぜんぶで五種類に分類する。
そして、呼びかけ、命令、疑問、祈願といったものは哲学では取り扱わないと宣言する。(ここで引っ張ってきている例文がホメロスからなのが、いちいち後期古代の教養を見せつけている)

命題的な(真か偽である)文のみを取り扱うのが論理学だけなのか、それとも哲学全体なのかという問題はあるだろうけど(アラビア語に翻訳される段階で『弁論術』と『詩学』は論理学(オルガノン)に含まれてしまうのでまた面倒な話になるんだけど)、アンモニオスのニュアンスでは「哲学的な文章=命題的な文章」と理解しても問題ないんじゃないかなぁ。

そしてもっと時代がくだってイブン・シーナーになるとどうなるかと言うと、彼は『治癒の書』「命題論」で、次のようなことを言っている。(ちょっと長いけど)

言説は、その一部がほかの一部を制限することによって、定義や描写のやり方で組み合わせられうる。また言説の諸部分のあいだに「~なもの」という発話が述べられるのは妥当である。たとえば「理性的で定命の動物」という文のように。というのも、それが「理性的なものであり、定命のものである動物」と言われるのは妥当なのだから。
 またべつの仕方でも組み合わされうる。というのも言説に必要なのは、魂のうちにあるものへの指示であり、指示は、それ自体によって意図されるか、会話内容によってそれに由来するものが生じると予測されるほかのものによって意図されるかである。
(1)それ自体によって意図される指示は述語で、本来的に指示されたものか、祈願や驚嘆などの転化のような、屈折されたものかである。なぜならそれらはすべて述語に還元されるのだから。
(2)会話内容から見出されるものによって意図されるものは、それも指示であるか、指示でなく活動であるかである。もし指示が意図されたなら、会話は調査や質問である。そして指示以外の何らかの行為や活動が意図されたとき、同等からのものは依頼、上からのものは命令や禁止、下からのものは嘆願や請求と言われる。
しかし学問において有益なのは、制限という仕方での組み合わせか(それは定義や描写やそれに類したものによる概念化の獲得にかかわる)、または述語にしたがった組み合わせ(それは推論やそれに類したものによる承認の獲得にかかわる)のどちらかである。そしてこのような仕方の組み合わせから、断言的と呼ばれる種類の言説が生じるのである。
断言的言説はすべてが真か偽であると言われる。そしてほかのいかなる[種類の]言説も、真か偽かと言われないように、断言的だと言われない。よって、それらにかんする考察は、弁論術や詩の規則にかんする考察により相応しい。
Ibn Sīnā, Kitāb al-Shifā’: al-ʻIbārah, ed. M. El-Khodeiri, S. Zāyid et al. Cairo: Dār al-Kātib al-ʻArabī, 1970, p. 31–32.

イブン・シーナーはアンモニオスほど細かく文章の種類を分類していないけど、ちょっと面白いのは、文の種類のなかには「行為を誘発するような文」があると指摘していることだ。でもやっぱり哲学的な文章というのは命題的な文章ということになる。(彼はそれを概念化と承認という二種類に分類する)
イブン・シーナーがちょろっと紹介している、この「行為を誘発するような文」は、いわゆる現代の言語行為論につながっていくものなのだろうけど、彼はそこをちょっと紹介しただけで素通りしてしまう。
やっぱりアリストテレス的な「真か偽である文」という規定がとっても強く支配していたことが分かる。
(言語行為論がオースティンなどに至るまで存在していなかったかというと、古代の教父たちが祈りにかんする考察をしているという主張もあるけれど、個人的にそれほど詳しくないし、彼らの考察が「哲学」かというとちょっと疑問もあるので、ここでは深く立ち入らない。)

おそらく、より文学的な傾向や神秘主義的な傾向をもった哲学や思想は、このアリストテレス的な「真か偽か判断できる命題的な文のみを哲学で取り扱う」という、割と限定的な規定を嫌い、いわばそれを「乗り越え」ていこうとするんだろうけど、たぶんそういった人たちの思想も、究極的な首長が「乗り越え」ているだけで、そこに至るまでの道筋は命題的だと思う。
もしそうじゃなければ、それは神秘哲学じゃなくて神秘主義ってことになるんじゃないかな。イブン・シーナーの、論理を安易に否定する「神秘野郎」への拒否感は、おそらくペリパトス派の典型的な考え方なんじゃないかと思う。

現代の哲学に慣れ親しんだ人からすると、この規定はいかにも窮屈に感じるかもしれないし、哲学の原初の姿勢は命題以前の驚きの叫びなのだという意見もあるだろうけれど、真とも偽とも言えないものを排除しようという姿勢は、改めてアリストテレスが「学問の祖」であることを思い出させてくれる。

2016年7月7日木曜日

名詞中心言語観と動物の言語

提唱者:アリストテレス、ステファノス

テキスト:『命題論』、『命題論註解』

アリストテレスは命題論を以下のような文章で始める。

最初に名詞とは何であるのか、そして動詞とは何であるのかを見定めなければならない。次に否定言明と肯定言明と命題と言表が何であるのかを見定めなければならない。
アリストテレス「命題論」『アリストテレス全集1』(早瀬篤訳)岩波書店、2013, 16a1, p. 112.

ふーん、と思うのだけど、古代の註釈家たちは、ここで名詞が最初に来ていることに注目した。
アンモニオスやステファノスといった註釈家たちは、アリストテレスが動詞よりも名詞を先に解説していることを、理にかなったことだと考えた。
なぜなら、名詞は「事物の存在」を指示しているけれど、動詞は「事物の行為」を指示しており、存在の方が行為より先なのだから。

この「名詞」中心主義的な言語観は古代に限らず、私たちも多かれ少なかれ共有しているように思う。

言語の中には名詞だって動詞だって、それ以外の小辞(前置詞や冠詞など)もあるのに、たとえば日本語をどれか挙げてみてって言われて、「山」や「川」じゃなくて、「走る」や「食べる」、さらには「だろう」や「と」を挙げる人は結構変わってる人だと思う。
(ウィトゲンシュタインが『哲学探究』でアウグスティヌスの『告白』を引用しながら批判したのは、まさにこういう名詞中心の言語観だと思うのだけど、ひとまず我々は古典的な言語観の味方ということにしておきたい。)

アリストテレスは名詞を次のように説明している。

さて、名詞とは対象となる思考内容あるいは事物・事象を表示する音声であり、取り決めによって成立するもので、時制をもたないものである。そして名詞の部分は、全体から切り離された状態では何も表示しない。
アリストテレス「命題論」p. 114.

アリストテレスにとって、名詞というのは人々の合意によって成り立つもので、言霊に基づいてそれぞれの言葉が決定されているものじゃない。

そして、かならず意味に時間が付け加えられてしまう動詞と異なり、時制をもたない。
(「山」に「過去」がくっついていたら怖い。ただ、「昨日」という名詞は時間を指すだろうという指摘もあり、これには註釈家の人たちがいろいろ答えている。)

そして、「イスラーム」という言葉の「イ」と「スラーム」がそれぞれ「イスラーム」がもつ意味の一部を担っているわけではない。
(「哲学」は「哲」と「学」でも意味があるし、「哲学」の意味の部分を指示してない?っていう指摘はたしかにあって、これもいろいろ説明されている。但し、アリストテレスのこの名詞観は漢字のように表意文字を使う文化圏にはそのまま適応しにくいかもしれない。)

以上がペリパトス派による、基本的な名詞の理解である。

もちろんアリストテレスがここで想定しているのは、人間であって、たとえば動物の鳴き声も何らかの意味をもっているだろうけれど、それはあくまで取り決めにしたがっていないため、言語ではないのだ。

 動物の鳴き声が言葉と言えないことを、アレクサンドリアのステファノスは『命題論註解』のなかで以下のようにまとめている。

 「意味をもつ」以下の部分を、彼は構成的種差として使用している。それはこの種の発話音を、分節化されまいがされようが、無意味な発話音から、また分節化されないが意味をもつ音(たとえば書かれない音や、犬の吠え声など)から区別するためである。分節化されるものは、たとえば「山羊鹿」や「ブリトュリ」のようなものである。彼は「合意による」を、「策定による」の代わりに使っている。というのもエジプト人たちは、事物をこれらの名前で呼ぶことに、ギリシア人たちはあれらの名前で、そしてほかの者たちは、同様に、ほかの名前で呼ぶことに合意しているのだから。これは、それらを、ほかの動物たちに作られた音、たとえば犬の吠え声と対比して区別するために言われたのである。というのも犬の吠え声は意味をもつ発話音であるが(というのもそれは友人や異邦人がいることを意味するのだから)、合意によらないのだから;というのも犬は「異邦人が現れたときに我々は吠えます」ということを合意していないのだから。
Stephanus, On Aristotle's On Interpretation, trans. Wiiliam Charlton, Ithaca, New York: Cornell University Press, 2000, 124.

まぁたしかに、犬が吠えるのは飼い主と合意しているわけじゃないか…。

でも、果たしてそれって不可能だろうか?

たとえば犬を訓練して、友達が来たときは二回吠えて、知らない人が来たときは三回吠えるようにしつけたとしたら、その犬はそういう「吠え声使用」をすることを飼い主と合意していることにならないだろうか?

手話で話せるゴリラのココなんかは、手話という、分節化されて合意によって作られた人間の人工言語を使いこなしているんだから、言葉を使用しているということにならないだろうか?

そう考えると、日本の犬と外国の犬の会話って通じるんだろうか…。

何となくだけど、普通にコミュニケーションが取れそうな気もする…。

そうなると、たとえ犬と飼い主のあいだに「合意に基づく」何らかの言語的なものは形成できるとしても、犬の吠え声そのものはやはり(合意じゃなくて本性に基づいているため)言語じゃないってことなのかなぁ。

無矛盾律を否定する奴はとりあえず殴っとけ!


提唱者:アリストテレス、イブン・シーナー

テキスト:『分析論後書』、『治癒の書』「形而上学」

 アリストテレスは『分析論後書』で次のように言っている。

矛盾対立とはその対立それ自身に中間のない対立である。
アリストテレス「分析論後書」『アリストテレス全集2』(高橋究一郎訳)岩波書店、2014, 72a12–14, p. 345.

 つまり、お互いに矛盾しているふたつのものの間には、その中間のものはない、という原則で、これは排中律などとも呼ばれている。(つまり、その「中」間のものを「排」除する「律」ということ。)
論理学の記号で書くとP⋁¬Pということになる。Pまたは非P。
たしかに、そりゃそうだよなぁという気もする。
実際、この排中律は最近に至るまで論理学の大前提のひとつだった。(論理学が発展するにつれて、これが成り立たない世界も出てくるらしいのだけど、そこは手が負えないので…。)

但し、こういった法則は、たしかに哲学の世界では大前提になっていたりするのだけれど、宗教家や神秘主義者は平気で排中律を無視したりする。

ペリパトス派の論理学には、これと並んで同一律、無矛盾律などが基本的な概念になってゆく。

同一律とは、A=Aとなることで、「人間は人間である」し、「馬は馬である」。
これが成り立たなかったら、ちょっとわけの分からないことになってしまう。

また無矛盾律とは、同じものが同時にAでありかつ非Aであることはできないことを言う。
たしかに、「A」と「非A」を同時に満たすようなものがあったら、そりゃすごいよな。

とくに神秘主義なんかは、論理の世界を超えた存在を探求したりするわけだから、こういった論理学の規定なんて、格好のオモチャとも言えるかもしれない。

俺の体験した超越者は、論理的世界なんて軽々と越えてしまってるんだぜ~!と。
(そんな風に言うと怒られるかもしれないけど…。)

でも、イブン・シーナー/アヴィセンナはそういう「神秘主義野郎」をものすごーく嫌う。
たとえば彼が紹介する詭弁には「あなたは同じものを二度見ることはできない。むしろ一度すら見ることができない」とか「事物はそれ自体においてでなく、関係性においてのみ存在をもつ」といったものがある。

たぶん彼が念頭に置いていたのは、神学者や神秘主義者たちなんだろうなぁ。
とはいえ、彼が挙げている詭弁は、たしかに詭弁じみているけれど、こういった物言いが好きな人も多いのは事実だよなぁ。むしろ、こういう言い方でしか真理は語れないのだ!なんて人もいる。

私が思うところ、彼はやはり徹頭徹尾「ペリパトス派理論」の人で、知性で割り切れることを好んだ人なんだろう。彼にとって哲学とは、あくまでも命題的な文の積み重ねである

だから、そういう禅問答みたいなことを言って初心者をけむに巻くような輩を徹底的に批判している。彼は『治癒の書』「形而上学」第1巻第8章で、以下のように言う。(ここの冒頭は真理について語っており、その流れでの議論。)

名詞がたとえば「人間」のようにひとつのものを指示するとき、「非・人間」、つまり人間と相反するものを、その名詞はいかなる面からも指示しない。よって「人間」という名詞が指示するものは、「非・人間」が指示するものではない。もし「人間」が「非・人間」を指示するなら、人間も、石も、ボートも、象も、かならず同じものになってしまう;むしろそれは白いもの、黒いもの、重いもの、軽いもの、「人間」という名詞が指示するものの外部にあるすべてのものを指示するだろう。これらの発話の概念の状態も同様である。よって、以上のことから、それがあらゆるものであること、それ自体がいかなるものでもないこと、そして議論が概念をもたないことが帰結する。
Avicenna, The Metaphysics of The Healing, trans. Michael E. Marmura, Provo, Utah: Brigham Young University Press, 2005, p. 42.(拙訳)

 イブン・シーナーによれば、もし「人間」という名詞があって、それが「非・人間」で指示するのと同じものを指示するなら(つまりP⋀¬P)、「人間」という名詞が指す対象には、石、ボート、象、さらには白いもの、黒いもの、重いもの、軽いものなど、「人間」以外のあらゆるものが含まれてしまう。これはあらゆる名詞に当てはまる。(石と非・石、ボートと非・ボートなど)
そうなると、あらゆる名詞はあらゆるものをさすわけで、結局名詞や、それから組み合わされる議論などはすべて無意味になってしまう。

おそらくこれにかんしては、いろいろ反論することもできるだろうが(たとえば宗教家は、神においてのみ論理法則は破られるのであり、地上においてはそれは保たれるとか言うかもしれない)、こういった輩に対するイブン・シーナーの対処法がなかなかすごい。

頑迷な者には、火を付けてやらねばならない。というのも「火」と「非・火」は同じなのだから。また殴って痛めつけなければならない。というのも「痛み」と「非・痛み」は同じなのだから。また飲食を妨げなければならない。というのも飲み食いするのとそれらをしないのは同じなのだから。
Avicenna, The Metaphysics, p. 43.

うーん、それでいいの?

お前らの理論だと熱いも熱くないも同じになるから、燃やしてやるぜー!って…。
なかなか激しい。
とりあえず殴る!ってお前は承太郎か!と思ってしまうが…。

しかしまぁ、理論を愛し、神秘主義的な「曖昧な物言い」を嫌ったイブン・シーナーっぽい割り切った考え方と、波乱万丈な人生を送った彼の、意外と行動派なところがよく現れてる文章だなぁと感じて、結構好き。
(こういう詭弁を弄するやつには、とりあえず蹴る、みたいなエピソード自体は、たしか古代ギリシアにまで遡るはず。)

Aと非Aは同じ、と言う輩には、「とりあえず殴る!」
みなさんも実践してみては?(もちろん結果に責任はもてないけど…)

2016年7月5日火曜日

実在しないものもある?


提唱者:マイノング

テキスト:『対象論について』

個人的にとっても興味のある哲学者がいる。
それがアレクシウス・マイノングである。
ブレンターノの弟子のひとりであり、つまりフッサールの兄弟子ということになる。

現代の哲学史ではそれほど注目されていないのだけど(最近はマイノング主義の再評価もなされているみたいだけど)、もっとみんな注目しないかなぁと目論んでいる。

そして、マイノングの悪名高いテーゼが、「実在しないものも在る」というものである。
(基本的に哲学史でマイノングの名前が出てくるときは、ラッセルやクワインによる、この「マイノング主義」批判の文脈で出てくるので、ちょっと分析哲学を知っている人は「あぁ、ラッセルに批判された人でしょ?」と考えるんじゃないかなぁ。)

ん?

どういうこと?

ないものはないでしょ?

と思うかもしれない。

でも、マイノングは、「みんな現実世界を贔屓しすぎ!」と言うのだ。

現実世界って貧しくない?

と。

現実世界に実在しているものを全部ひっくるめたって、我々が思い浮かべたり、考えたりすることのできるものの集合に比べると全然少ない。
そりゃそうだ。

だから、実在しないものしか取り扱わないってのは、おかしいでしょ!と。
彼によると、我々の精神的活動の大半は、「何かについて」であり、何らかの対象をもっている。(このあたり、ブレンターノの影響を受けまくっていると思われる。)

そして、たとえば「数」は決して実在しない。

現実世界に実在しているのは、あくまでも「一本の人参」や「二足のサンダル」であって、そこに「一」や「二」といった数そのものがあるわけではない。
じゃあ、数は実在しないから、存在しないのか?
実存しないものはすべて無であれば、無意味なわけで、ってことは数学って無意味な学問?

マイノングはそこで、「~として在る」(Sosein)という考え方を持ち込む。

つまり、人参にしろサンダルにしろ、「~として在る」という在り方はもっている。
また、一や二といった数も、「~として在る」ことが可能だ。
さらにマイノングは「黄金の山」のように、現実には存在しえないものや、「丸い四角」のように矛盾をはらんだものまで「~として在る」ことができると言う。(たぶん、語義矛盾しているものまで存在のなかに含めてしまっていることも、ラッセルやクワインのような人たちに攻撃される理由じゃないかなぁ)

そして、こういった種類の「~として在る」は、たとえ実在じゃなかったとしても、ある意味では大きな「存在」の一様態なわけだから、存在していると言える。マイノングはそういったものが「存立」していると表現する。

そしてあらゆるものについて否定するとき、たとえば「丸い四角は無い!」と主張するとき、円い四角の「~として在る」が存在していないと、そもそも「丸い四角」を否定することなどできない。
まぁたしかに、「丸い四角は無い!」と考えるときに、頭の中でなんとかして丸い四角を思いうかべようとはしてるよなぁ。
(みんな、丸い四角を思いうかべることができるんだろうか?黄金の山なら問題なくできるだろうけど…。)

そしてマイノングによると、この「~として在る」は、外界の実在や不在とはまったく無関係だというのだ。
つまり、外界に実在するかとか、外界にいまだかつて存在したことがないし、将来も絶対無理!ということは(黄金の山は将来的に作ることができるかもしれないけど、丸い四角を作った人は絶対に精神崩壊すると思う)、それの「~として在る」に全然影響を与えることはなく、外界の状況がどうなろうとも、それの「~として在る」は相変わらず存立し続けるのだという。

フッサールの言う「エポケー」、存在のカッコ入れ、スイッチの一時断線、判断停止というのと、意外と近いんじゃないかという気もするんだけど、フッサールの研究している人たちは「違う!」と言うんだろうなぁ。

もちろん、認識の構造を明らかにするために「方法的に」エポケーを行うフッサールと、存在の判断を超えたところに「~として在る」を設定して、そこに存立を与えようとするマイノングでは、動機がまったく違うし、目指しているところも違うんだけど、これが同じくブレンターノの影響のもとから出てきたというのは、個人的にはとっても興味深い。(フッサールの数々の現象学的道具のなかにもブレンターノから借りて来たものがあるのかな?)

上でも言ったように、マイノングは「現実世界に実在するもの」よりも「頭の中で考え出されたもの」の方がよっぽど豊かだと考えている。
たしかに、もし我々が真面目に考える価値があるものが「実在するもの」だけなんだったら、数や「関係性」や「同等」、「差異」といった概念も外界には実在しないわけで、抽象的な思考、ひいては学問の大半が無意味ってことになってしまう。
もっとも頭の中の世界にも目を向けようよ!頭の中の世界にも権利を!というのがマイノングの主張だったと考えると、何だかとっても面白いし、とても意味のあることなんじゃないかなぁと思えてくる。

もちろん、「存在」をあらゆるものに適用させてしまうと、結局「すべて存在している」のは「すべて存在していない」のと同じであり、ほとんど何も言っていないに等しくなってしまうという危険性はあるんだけど、マイノングの意図は、そことはちょっと違うんだろう。

こんな素晴らしいマイノングなんだけど、ひとつ難点がある。
それは、和訳が手に入りにくいということである。
じつは戦前に岩波書店から『對象論に就いて』が三宅實訳で出ている(1930年)のだけど、もちろん絶版。
私も東大本郷の総合図書館の書庫のなかから見つけ出した。(廣松渉教授寄贈というハンコが押してあって、中にいくつか書き込みがあったけど、廣松渉が書いたのだろうか…。)
さすがにこの訳は古いので(「アンティポデスが在ることは正しい」es ist wahr, daß es Antipoden gibtという例文を「地球の反対面に人が存在すると云う事は正しい」と訳しているし)、現代語に訳した新訳が出ないかなぁ。

そしたらみんなもっとマイノングに触れることが出来るのに。

2016年7月2日土曜日

多様な言葉とひとつの意味

提唱者:ソシュール、アリストテレス、プラトン

テキスト:『命題論』

近代言語学の父とも呼ばれるフェルディナンド・ド・ソシュールは、言語の恣意性を指摘した。
つまり、我々がイヌと呼ぶものは、英語だとdogだし、フランス語だとchienだし、ドイツ語だとHundだし、中国語だと狗だし、アラビア語だとكلبだし…。
じゃあ、もっともイヌという動物に相応しい名前はどれだろうか?
というと、ソシュールは、それは人間が勝手に決めたことだ、と指摘するのだ。

イヌという名前と、「あの動物」との結び付きは、実は日本語を話す我々が勝手に決めたことであって、dogやchienよりも「あの動物」に相応しいということはないのだ。(もちろん逆もまたしかりである。)

「恣意」なんて日常の会話で使わないのでびっくりするかもしれないけれど、自由気まま、勝手とかいったような意味だ。(日常で「恣意的に物事を決めるなよな!」なんて言うやつがいたら、それはそれで面白いけど)

つまり、我々がイヌと呼ぶあの動物には、それぞれの言語によっていろんな名前が付いているし、それらの名前のどれがイヌにより相応しいということもなく、むしろその名前は、我々が勝手に決めたものなのだという。

よく哲学史や現代思想の教科書だと、これが近代思想へのひとつのおおきな潮流のひとつ、みたいな紹介のされ方をしている。

しかし、じつはこれと同じようなことはすでに古代ギリシアの頃から言われてきた。
アリストテレスは『命題論』の冒頭で以下のように言っている。

声に出して話される言葉は、魂において受動的に起こっているものの符号であり、書かれている言葉は、声に出して話される言葉の符号である。そして文字がすべての人にとって同じではないように、音声もすべての人にとって同じではない。これに対して、音声は第一に、魂がもつ受動的なものの記号であるが、この受動的なものはもとよりすべての人にとって同じものである。また魂がもつ受動的なものは事物・事態の類似物であるが、事物・事態はもとよりすべての人にとって同じものである。
アリストテレス「命題論」『アリストテレス全集 1』(早瀬篤訳)岩波書店、2013, p. 112.

ちょっと分かりにくと思うので図にしてみると、下のようになるだろう。

  • 事物・事態(我々が認識するモノ)=すべての人にとって同じ
  • 魂のうちの受動的なもの(我々が認識したモノの概念)=すべての人にとって同じ
  • 音声=人によって違う
  • 文字=人によって違う

上にいくほど源流に近くて、下にいけばそれらの符号になってゆく。

つまり、我々がイヌを見るとき、その当の犬はいついかなるときにも同じである。
もし見る人によって犬が違っていたら変な話になる。(もちろんここにパースペクティブなどを持ち込んでくると話は変わってくるが)

その犬を見たとき、頭のなかに思い浮かべる概念は(アリストテレスは「魂のうちに受動するもの」という表現を使っているけど)、どの国、どの時代の人が見ても同じはずである。

じゃあ、その犬のイメージを口に出すとき、我々は「イヌ」と言って、イギリス人は「ドッグ」と言い、フランス人は「シエン」と言い、ドイツ人は「フント」と言い、中国人は「ゴウ」と言い、アラブ人は「カルブ」と言う。

さらにそれを文字に書き写す段階になると、もっと多様になるかもしれない。(日本だけでも「いぬ」「イヌ」「犬」「狗」「戌」など、色々な表記法がある)

我々がコミュニケーションをする場合、どうしても音声や文字によってお互いの考えていることを伝える必要がある。でもアリストテレスによれば、音声や文字は人によって異なっている可能性があるのだ。(よく漫画とかで、外国人や異星人とテレパシーで会話するシーンがあるけれど、これは第二段階、イメージの段階で情報の伝達をおこなっているから、言葉が分からなくても通じるってことなんだろう。)

さらにアリストテレスは名詞を定義して、以下のように言っている。

名詞とは対象となる思考内容あるいは事物・事態を表示する音声であり、取り決めによって成立するもので、時制をもたないものである。<……>また名詞が取り決めによって成立すると言ったのは、どんな名詞も自然において成立しているのではなくて、それが符号となるときに成立するからだ。もちろん、例えば動物の鳴き声のように、文字にならない音も何かを明らかにすることはある。しかしこのようなものはどれも名詞ではない。
アリストテレス『命題論』p. 114.

つまり、名詞は自然に決定されているのではなくて、我々人間の「取り決め」によって決定するのだ。これは、まさにソシュールの言うところの「恣意性」を2000年以上先取りしていると言うこともできないだろうか。

でもなんでアリストテレスがこんなことを言うかというと、これは彼の師匠、プラトンへの反論でもある。

プラトンはどちらかというと、日本の言霊信仰に近い考えをもっていて、ものの名前(名詞)はその本性を反映していると考えていた。
だから「つよし」君は強いわけだし、「さとし」君はかしこいわけだ。自分の名前は「優太」なので、えーと、優しくて、太い(?)、のかなぁ…。

アリストテレスは師匠のその説明に、「そんなわけあるかい!」と思ったに違いない。
(但しプラトン(本名アリストクレス)はレスリングの名手で、プラトン(ギリシア語ではプラトーン)とは「幅が広い」という意味なので、その点にかんしてはプラトンの言霊説も合っているんだけど…。本名じゃないしね…。)

たしかに、強くない「つよし」君だって、頭の悪い「さとし」君だって、あまりゲフンゲフン…な「みすず」ちゃんだっているかもしれない。

ただ、個人の名前は後から付けることができるので別としても、普通の名詞の場合はどうだろう?

ひよこは「ぴよぴよ」鳴くから「ぴよこ」で、それが変化して「ひよこ」になったらしい。
蝶々も「てふてふ」と飛ぶからだし、いわゆる「擬音語」「擬態語」が名詞になった例は多い。

その場合、「ひよこ」はひよこの本性をとてもよく表しているとは言えないだろうか?
でも、だからとって「ひよこ」がchickよりもひよこの本性に即しているかと言うと、そうは言えない、というのがアリストテレスやソシュールの考え方だ。

もし「ひよこ」がひよこの本性をもっともよく表しているなら、どこの国の人が聞いても、「なるほど!「ひよこ」だよね!」と思うはずだけど、果たしてそうだろうか?
それに「ひよこ」は「ぴよこ」が変化したものなので、もしそれが本性にピッタリなら、変化してしまうことなんてあるだろうか?

言語の恣意性は、ソシュールの独創性が強調されるけれど、ペリパトス派は実のところ、2000年以上前から「言語は恣意的だ」と考えていたのだ。

でも、彼らは逆に、その手前にある「概念」の同一性は固く信じている。
現代の哲学では、この辺りがつつかれたりしているんだけど、ペリパトス派が論理学で取り扱おうとしていたのは、個体の概念でなく、基本的に普遍概念(個々の犬ではなく、種としての犬)なので、概念の多様性という問題には直面しなくて済んだんじゃないかと思われる。
(もちろん、類+種差というペリパトス派的な定義論にはいろいろ反論もあるのだけど。)

とにかく、「「ひよこ」はひよこの本性を一番よく言い表している!」と主張しても、アリストテレスは苦笑いして、「それは日本人がそう決めたからそう感じるだけさ」と答えるだろう。

2016年7月1日金曜日

哲学と言葉遊び


提唱者:ハイデガー、レヴィナス、和辻哲郎

テキスト:『存在と時間』、『実存から実存者へ』、『人間の学としての倫理学』

哲学者のなかには言葉遊びが好きな人がいる。
言葉との戯れ、なんて表現するとカッコいいかもしれないけれど、要は「ダジャレ」である。

ダジャレ、なんて言うと怒られるかもしれないけれど、まぁこの辺りは、言葉遊びにどういうスタンスを取るかで変わってくるだろう。

そして、言葉遊びとかダジャレとかの語句で惑わされるかもしれないけれど、これはじつは、「哲学は自然言語に依存するか」という、とーっても深い問題にまで行きつく。(中世アラビア語哲学のような「翻訳哲学」は、つねにこの問題に付きまとわれていた。)

で、言葉遊びについてだけど、哲学者のなかで言葉遊び大好き人間といえば、もうこれはハイデガーをおいてほかにいないだろう。

ハイデガーの言葉遊びで有名なのは、「真理」についてだろう。
「真理」はギリシア語でἀλήθεια(アレーテイア)という。これは(ちゃんとした語源学的に正しいのかどうか知らないけれど、)否定辞のἀ-(ア)とλήθεια(レーテイア)に分離できる。
レーテイアの部分は、さらにさかのぼると、ギリシア神話に出てくる、この世とあの世を分ける川、レーテーの川に到達する。
このレーテーの川の水を飲むと、これまでの人生の記憶がなくなって、また生まれ変わるときに前世のことを忘れてしまうという、そういう水なのだ。
つまりレーテーは忘却・隠蔽である。
真理は「ア・レーテイア」なわけだから、これは「非隠蔽性」のことなのだ!

「な、なんだってー!!!」

…という言葉が聞こえてきそうなくらい(古い)、強引な解釈。(キバヤシはハイデガー好きだと思う)
まぁこの、真理は忘却していないこと、開示されていることだという考え方、スフラワルディーと通ずるところがあるんじゃないかとも思うんだけど。

さて、ハイデガーがどれだけ言葉遊び好きか分かったところで(いまのでわかったかなぁ?)

今度は「存在」についての証拠をお見せしよう。

現存在は、開示態によって構成されているかぎり、本質上、真理の内にある。開示態は、現存在の本質的存在様相である。真理は、現存在が存在しているかぎり、かつその間だけ、《与えられている》(《es gibt》)。
ハイデガー『存在と時間 上』(細谷貞雄訳)ちくま学芸文庫、1963, 1994, p. 468.

うん…。

分からない…。

何言っているのか分からないよ!

でも、ここで重要なのは、上の和訳では《与えられている》「es gibt」。
これはドイツ語におけるthere isのようなもので、「~がある」といった、とくになんてことはない、普通の言葉だ。

ハイデガーはそこに、es gibtが本来もつ、「与えられている」という意味を読み込んでいるのだ。

またもやハイデガーマジック!
みんなこれで納得したのかな?

しかしそこに噛みついた猛者がいた!
ユダヤ人の哲学者、エマニュエル・レヴィナスである。

彼は「~がある」を、以下のように解釈する。

この存在とは、いかなる存在者も自分がそれだとは主張しない無名の存在、個々の存在者ないし存在者たちを欠いた存在であり、ブランショの比喩を借りていえば絶え間ない「騒動」であり、「雨が降る(il pleut)」とか「夜になる(il fait nuit)」といった表現と同様に非人称の<ある(il y a)>である。この語はハイデガーの「ある(es gibt)」とは根本的に異なっている。<ある=イリヤ>はけっして、このドイツ語表現や、そこに含まれている豊饒さや気前よさといった含意の、翻訳でもなければそれを下敷きにしたものでもなかった。
エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』(西谷修訳)ちくま学芸文庫、1987, 2005, p. 11.

レヴィナスによれば、存在はハイデガーが言うように「与えられている」、気前のいいものじゃない。もっと酷薄な、奪うものだのだ。
(この辺りは、彼のユダヤ人としての収容所の体験も関係しているだろうし、彼自身そういったことを書いている。)
それを彼は、フランス語のil y aから解釈する。
フランス語のil y aも、これもまた何の変哲もない「~がある」という言葉なのだけれど、aはavoir(もつ)の変化であり、つまり「~をもつ/取る」という意味が隠れているのだ。

『実存から実存者へ』の該当の箇所には、このes gibtとil y aをめぐる論争(言い争い?)にかんして西谷が註を付けているので、興味のある方はそちらを見ていただくとして…。

何というか…。

とっても肩の力が抜けてしまう。

そのダジャレ、ドイツ語とフランス語でしか成り立たなくない?
そもそも英語だとthere isだから、与えも奪いもしないよね?たしかに非人称的ではあるけど。
もっと言えば日本語だと「~がある」に非人称表現をしないから、日本人にはまったく関係なかったりする。

たしかにこういうのは、ネイティブはものすごく感動するんだろうけど…。

でも日本人には、こういうのいないよなぁ、と思っていたら、いた!
和辻哲郎である!

和辻哲郎は「人間」という語がそもそもは「よのなか」や「世間」を意味しており、そこから「人」の意味へと「誤解」によって転じた例を挙げてから、こう解釈する。

しかしこの「誤解」は単に誤解と呼ばれるにはあまりに重大な意義を持っている。なぜならそれは数世紀にわたる日本人の歴史的生活において、無自覚的にではあるがしかも人間に対する直接の理解にもとづいて、社会的に起こった事件なのだからである。この歴史的な事実は、「世の中」を意味する「人間」という言葉が、単に「人」の意にも解せられ得るということを実証している。そうしてこのことは我々に対してきわめて深い示唆を与えるのである。もし「人」が人間関係から全然抽離して把捉し得られるものであるならば、Menschをdas Zwischenmenschlicheから峻別するのが正しいであろう。しかし人が人間関係においてのみ初めて人であり、従って人としてはすでにその全体性を、すなわち人間関係を表している、と見てよいならば、人間が人の意に解せられるのもまた正しいのである。だから我々は「よのなか」を意味する人間という言葉が人の意に転化するという歴史的全体において、人間が社会であるとともにまた個人であるということの直接の理解を見いだし得ると思う。
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波文庫、1934, 2007, p. 19–20

うーん…。これもまた日本語でしか成り立たなくない?
いわゆる和辻の有名な「間柄」ってことなんだろうけど…。

内容的には、アリストテレスの「人間はポリス的動物である」というのを、日本語の言葉遊びで解説したようなものなんだろうけど、やっぱり何というか…。

個人的には、「哲学が自然言語に依存する」という立場から少し距離を取りたいので、こういったハイデガースクール(レヴィナスも和辻もハイデガーの影響受けまくっている)の言葉遊びに出くわしたときには、面白いと思いながらも、少し眉毛に唾をつけてしまうのだけど…。
(逆にペリパトス派は普遍言語による、ひとつの意味による哲学を目指して行った。)

でも、たしかに我々は日常生活を自然言語を使用しながら営んでいるわけで、そこから完全に乖離した人工言語での哲学って、果たして可能なのだろうか?という疑問ももっともだと思う。

この辺りは、それぞれの人が、どういった哲学を好むかという問題なんだろう。

とはいえ、こういった言葉遊びは必ずしも現象学のなかだけの出来事でもなく、フランス現代思想なんかはre=presentation「再=提示」みたいなダブルミーニングをよく使うので、ここしばらくの流行りみたいなものなのかもしれない。

まぁそれは良いんだけど、でも戦争責任論などで、責任とはresponsibility、つまりresponse「応答」+ability「可能性」であり、他者への応答可能性、相手の問いかけにつねに応答しようとしていく態度こそが「責任を取る」ということなのだ、なんて説明には、ちょっと白けてしまうのも確か。

それって、英語やフランス語でしか成り立たなくない?
ドイツ語だとVerantwortungで意味は同じか…。

でも、こういったヨーロッパ言語に依存した言葉遊びを、まったく言語体系の違う日本人がそこに全乗っかりしてしまっていいのだろうか、という疑問はどうにも拭い去れないんだよなぁ。

ハイデガー『存在と時間』におけるアヴィセンナへの誤解


提唱者:ハイデガー、トマス・アクィナス

テキスト:『存在と時間』『真理論』

ハイデガーは若いころイエズス会士になろうとしていたぐらいで、哲学史に詳しい。
これは面白い話で、ハイデガーの師匠のフッサールは余り哲学史に興味がない。晩年の講演『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でも、デカルト、ロック、ヒューム、カントと、いわゆる近世以降の哲学に興味が向いている。

一方でハイデガーは中世哲学への関心が強い。『現象学の根本問題』でも、スアレスとかを出してきて、当時の一般的なドイツ人の哲学史理解とはちょっと違ったところを見せ付けてくれる。

さらにフッサールの師匠のブレンターノは元々カトリックの出家だったということもあり、中世哲学に詳しい。個人的にはブレンターノにすごく興味があり、彼が中世哲学の墓場から掘り起こしてきた「志向性」は、究極的にはアヴィセンナ/イブン・シーナーに淵源すると考えている。(もちろん直接的な影響関係はないだろうけど。)

神学がベースのブレンターノ、ハイデガーと、数学がベースのフッサールのあいだを分ける興味深い特徴かなぁと思う。

で、その歴史に詳しいハイデガーだけど、彼は『存在と時間』のなかでアヴィセンナ/イブン・シーナーに言及している。第一編第六章第四十四節「現存在、開示態および真理性」(a)「伝統的な真理概念とその存在論的基礎」のところだ。
そこで彼はこう言っている。

アリストテレスは、παθήματα τῆς φυχῆς τῶν πραγμάτῶν ὁμοιῳματα、すなわち、心の「体験」たるνοήματα(「表象」)は、事物への同化である、と述べている。この言明は、決して真理の明示的な本質定義として提出されたものではないが、これがたまたま機縁ともなって、後世に真理の本質をadaequatio intellectus et rei(知性と事物との同化)として表明する方式が形成されることになった。トマス・アクィナスはこの定義の典拠としてアヴィセンナを指示しているが、アヴィセンナ自身はこれをイサク・イスラエリの『定義の書』(十世紀)から踏襲しているのであって、トマスはadaequatio(同化)という代わりにまたcorrespondentia(対応)とかconvenientia(合致)とかいう用語をも用いている。

ハイデガー『存在と時間 上』(細谷貞雄訳)ちくま学芸文庫、1966,1994, p.446–447.
(人名表記を修正)

つまりハイデガーによれば、認識の構図「知性と事物との同化」はトマスが『真理論』で提示しているのだけど、これはアヴィセンナに遡り、さらにアヴィセンナ自身はイサク・イスラエリから取っているという。

ふーん。でも、イサク・イスラエリなんて、アヴィセンナに影響与えてたかな?たしかにイサク・イスラエリ(855頃–955)がアヴィセンナ(980–1037)に影響を与えることは可能だけど…。

 じゃあ実際トマスはどう言っているかというと、彼は『真理論』第一項「真理とは何か」の「主文」でこう言っている。

或る定義は、真理の概念に先行し<真>の基盤をなすものに着眼して下される。アウグスティヌスが『独白』のなかで「<真>とは『現るがままのものごと』である」とし、アヴィセンナがその著『形而上学』のなかで「おのおのの事物の真理はその事物に内蔵される存在の特性である」とし、また或る学者が「<真>とは、存在とその存在を容れるものとの統一である」とするのはかかる見地に立つものである。
 また別の定義は、<真>の概念の点睛をなすものに着眼して(secundum id quod formaliter rationem veri perficit)下される。イサクが「真理とは事物と知性との合致である」(Veritas est adaequatio rei et intellectus)とし、アンセルムスがその著『真理論』のなかで、「真理とはただ精神だけで把握可能な正しさである」(Veritas est rectitudo sola mente perceptibilis)とするのも――いうところの「正しさ」とは何らかの合致を意味する――、この見地に立つものである。

トマス・アクィナス『真理論』(花井一典訳)哲学書房、1990年, p. 29–30.
(人名およびいくつかの用語を修正)

とくにアヴィセンナとイサクの関係性は言っていないなぁ…。
但し、やはり「事物と知性の合致」はイサク・イスラエリの主張だとしている。但し、『真理論』訳者の花井はここに註を付けていて、この文章はイサク・イスラエリの『定義集』には見出されず、むしろアヴィセンナの『形而上学』第1巻第8章の文章と同じ趣旨なのではないかと述べている。

そうなのか…?

すると、Stanford Encyclopedia of PhilosophyのIsaac Israeliの項目(Leonard Levin, R. David Walker執筆)に、以下のような記述を見つけた。

イスラエリの哲学的作品はキリスト教とユダヤ教の思想家たちにかなりの影響を与えたが、ムスリムの知識人たちのあいだではそれほどの影響をもたなかった。12世紀以降続くキリスト教徒によるスペインの再征服運動において、トレドのある学者グループが科学と哲学にかんする数多くのアラビア語作品をラテン語に翻訳した。この文化センターに移住した翻訳者のひとりにクレモナのゲラルドゥスがいる。彼はイスラエリの『定義の書』や『元素にかんする書』をラテン語に翻訳した。イスラエリの作品は数多くのキリスト教徒の思想家に引用され、敷衍された。そこには、グンディッサリーヌス、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、ボーヴェのヴァンサン、ボナヴェントゥラ、ロジャー・ベーコン、クーザのニコラスが含まれる(Altmann and Stern, Isaac Israeli, pp. xiii-xiv; Julius Guttmann, Die Scholastik des 13. Jahrhunderts in irhen Beziehungen zum Judentum und zur judische Literatur, pp. 55–60, 129–30,150 and 172; またGuttmann, Das Verhaltniss des Thomas von Aquino zum Judentum und zur judischen Literatur, pp. 55–60を見よ)。
(拙訳) 

なるほど。

さらには、『定義の書』にかんしても、以下のように説明されていた。ちょっと長いが引用しよう。

元々はアラビア語で書かれたこの作品はふたつのラテン語訳(Liber de Definicionibus/Definitionibus)とふたつのヘブライ語訳(Sefer ha-Gvulim)で現存しているが、元々のアラビア語版(Kitab al-Hudud)は断片でしか現存しない。この本がキリスト教徒のスコラ哲学者に広く読まれたことは、トマス・アクィナスやアルベルトゥス・マグヌスが真理にかんするアヴィセンナの定義をイサクの『定義の書』に誤って帰したことから明らかである(Altmann & Stern, Isaac Israeli, p. 59を見よ)。この本は57の定義集であり、その大半はキンディーの様々な文章からの(しばしば出典なしの)敷衍や引用である。いくつかの例で彼は「哲学者」を引用し、これはアリストテレスを意味していると理解されるだろうが、彼が実際に敷衍しているのはキンディーである。キンディーはしばしば、アリストテレスが特定の主題について書いた内容を解説すると主張している。時たま、彼の定義はほかの可能な資料、たとえばクスター・イブン・ルーカー(835–912年に生きた医者、数学者、科学者、翻訳家)、アレクサンドロスのアンモニオス・ヘルメイウー(5世紀)、ヨハネス・フィロポノス(490–570頃)から取られている。この作品に現れるいくつかの考えは、いかなる既知の資料にも裏付けがない。とはいえ、この本がキンディーにかなり依拠していることから、Sternは、これらの逸脱はしばしば、散逸したキンディーの定義集からの引用か、キンディーの誤読ではないかと仮説を立てている。奥付のひとつは、この作品が「コレクション」であると記しており、これはおそらく、資料がオリジナルでないことを示し、そういうものとして読まれないようにという意図であろう。ほかの写本では、イサク・イスラエリがそれを書いたと主張しているが、この同じ奥付は偽の情報を含んでいる――イサク・イスラエリはスペインに生まれて、彼の子どもたちがこれを学ぶように望んだなど(Altmann & Stern, Isaac Israeli, p. 78)、 よって、この作品が完全にイスラエリのオリジナルな作品だという主張は本当のものと見做されるべきではない。
(拙訳)

なるほど!
つまり、トマスやアルベルトゥスといった中世スコラの学者たちはイサク・イスラエリの書物をかなり読んでおり、アヴィセンナの言説も実はイスラエリに淵源する、みたいなことを言っていたんだろう。

たぶんこれは、自分たちが典拠にしているものがイスラームから発しているのではなく、(名前からも分かる通り)ユダヤ人のイサク・イスラエリからなんだと考えた方が精神安定上良かったということもあるんじゃなかろうか。(深読みしすぎ?)

でも、そのイサク・イスラエリの『定義の書』の内容の大半が、じつはアラブ人の哲学者キンディーの切り貼りから出来ていたなんて、こんなことトマスが知ったら卒倒しそうだな…。

まぁ何はともあれ、トマスが(知ってか知らずか)アヴィセンナの概念をイサク・イスラエリに帰していたということはこれで明らかになった!

ということは、ハイデガーが「アヴィセンナ自身はこれをイサク・イスラエリの『定義の書』(十世紀)から踏襲しているのであって」と言っているのは、トマスが書いている内容をそのまんま信じ込んでしまっている、ということか!

ハイデガーは確かに中世哲学にかんする知識を多くもっているのだけど、その知識もやはり古くて、スアレスを中心にした16世紀の哲学史観だという指摘も聞いたことがある。

やはりハイデガーも時代的制約を受けているのかぁ。というお話。