2016年11月9日水曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】3-2後期古代の註釈家たち

 ――後期古代の註釈家たち

 それでは、アッバース朝の翻訳運動のおかげでアラビア語でアリストテレスを読めるようになったアラブ人たちは、現代の私たちが読むのと同じようにアリストテレスを読んだのでしょうか?それは違います。後でお話するように、アリストテレスのアラビア語への翻訳にはいくつもの要素がからみついてきて、彼らが理解したアリストテレス哲学は、私たちが理解するものとはかなり異なるものになっていました。その原因のふたつが「註釈」と「新プラトン主義」です。新プラトン主義については後で詳しく説明しますが、古代ローマ時代に生きたプロティノスが作った、かなり独創的な思想大系です。この新プラトン主義は次第に勢力を増し、いつの間にかアリストテレスの解釈にも新プラトン主義の要素が取り入れられることになります。

 ここではまず「註釈」についてお話しますが、みなさんは「註釈」と聞いて何をイメージしますか?まず「註釈」という言葉がよく分からない人の方が多いと思います。英語では「註釈」のことをcommentaryと言いますが、コメンタリーというと、DVDなどに付いている副音声のオーディオ・コメンタリーを連想する人もいるかもしれません。オーディオ・コメンタリーでは監督や俳優などが映画のシーンについて解説したり裏話を披露したりしますが、あれは制作者自身によるコメンタリーです。
 哲学の世界における註釈は、本人によって書かれることもありますが、大抵はもっと後の時代の、著者以外の人によって書かれます。つまり註釈とは、哲学的に重要な作品(たとえばアリストテレスの『形而上学』、『魂について』、『カテゴリー論』には多くの註釈が書かれました)に対して、その後の哲学者たちが独自の解釈を加えて解説したもののことを言うのです。言ってみれば「解説本」のようなものですが、誤解していけないのは、現代ですと誰かの本の「解説」を書くより、自分自身のオリジナルな作品を書く方が偉いというイメージがあるかもしれませんが、かなりの時代になるまで、「註釈」は必ずしもランクの低い本だとはみなされなかったということです。むしろ「註釈」という形式をしっかり守って、そのなかで自分のオリジナルな思想を展開するというのがスタンダードな書き方だったのです。だから近世以前の哲学について「註釈という形式主義が主流でオリジナルな思想は展開されなかった」というのは、「オリジナルなものを書くのが一流」という現代的な見方による一面的な評価に過ぎなくて、むしろそういった考え方にとらわれている方が形式主義と言えるかもしれません。

 さて紀元前に活躍したアリストテレスですが、彼の作品にすぐさま註釈が書かれるようになったわけではありません。何とアリストテレスの作品はしばらくのあいだ世間から忘れ去られてしまうのです。その後ロードスのアンドロニコスという人の手によって現在伝わっている形へとまとめられます。アリストテレスの研究が盛んになったのは、それからです。
 現代にまで伝わるアリストテレスの註釈家としてもっとも古いのはアフロディシアスのアレクサンドロスです。(彼以前にも註釈家はいますが、現在ではほとんど顧みられていません。)彼は3世紀ごろのローマ帝国の人で、アフロディシアスはいまのトルコ領内にありますが、当時はギリシア人が数多く住んでいました。アレクサンドロスは数多くのアリストテレスの作品に註釈を書いたのですが、彼の考えでもっとも有名なのが「能動知性」という考え方でしょう。これはアリストテレス『魂について』第3巻第5章にある記述がもとになっています。アリストテレスはそこで知性について語っているのですが、知性を「肉体の死と一緒に滅んでしまう知性」と「死後も消滅しない知性」のふたつに分けました。アレクサンドロスはそこに書かれている「死後も消滅しない知性」のことを「神」だと考えました。アリストテレス自身はそんなにはっきりと書いていないので、いろいろな解釈ができるのですが、アレクサンドロスはそこに彼自身のオリジナルな思想を入れ込みます。これによってアリストテレスの解釈にぐっと幅がでてきます。

 ほかには東ローマの皇帝に仕えたテミスティオスがいます。彼もアリストテレスの註釈をおこないますが、「能動知性」について、アレクサンドロスとまったく違った解釈をおこないます。彼によれば、能動知性は神のような人間の外側にある何か「超越的な存在」ではなく、あくまでも人間のなかにある知性の一側面だといいます。つまり、アリストテレス自身においてまったく問題となっていなかった能動知性という問題が立てられ、それがとてもホットな話題として取り扱われているのです。テミスティオスの書いた、アリストテレス『魂について』の註釈はほぼ完全な形でアラビア語に翻訳され、中世アラビア語哲学にとても大きな影響を与えました。(その割に、中世アラビア語哲学では能動知性にかんしてアレクサンドロス寄りの解釈が主流でした)

 もうひとり重要な註釈家を挙げるとすれば、ヨハネス・フィロポノスがいるでしょう。彼の名「フィロポノス」は「フィロ=好き」と「ポノス=仕事」から組み合わされていて、「勤勉」という意味です。とても真面目な響きのする名前ですね。(ちなみに第二次世界大戦が終わるまで日本で販売されていた「ヒロポン」という薬は、この「フィロポノス」と同じ意味です。ヒロポンがどういう薬か分からない人は、おじいちゃんに聞くといいでしょう。)フィロポノスは6世紀ごろのアレクサンドリアで活躍したキリスト教徒です。彼はキリスト教徒だったので、アリストテレスの註釈を書きながら、キリスト教の教えと合わない部分をどうにか解釈しようとします。フィロポノスの註釈はとても細かくて、ほとんどアリストテレスの作品の一字一句に対して註釈をしています。彼の註釈もアラビア語に翻訳されたことが分かっているのですが、なぜかフィロポノスの作品のアラビア語訳はひとつも現存していません。それではまったく影響を与えなかったのかというとそうでもなく、イブン・シーナーの哲学などには、明らかにフィロポノスの影響を見ることができます。

 ほかにもシュリアノス、オリュンピオドーロス、シンプリキオスなどの註釈家がいますが、中世アラビア語哲学に与えた影響を考えて、とくにアレクサンドロス、テミスティオス、フィロポノスの三人について軽く触れてみました。
 ふつうの哲学史の教科書では完全に飛ばされてしまう分野だと思いますが、一見地味な「註釈」というスタイルのなかに、とんでもないオリジナリティが潜んでいることが分かってもらえたのであれば、いまはそれで充分です。

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【高校生のための中世アラビア語哲学入門】【コラム】質料と形相

   【コラム】質料と形相

 さて、アリストテレス哲学を成り立たせるふたつの要素が「質料」と「形相」です。質料はギリシア語でヒューレー、形相はエイドスと呼ばれます。(質料は最近「素材」と訳されることもあり、その訳の方が分かりやすいとも思いますが、ここでは私も慣れ親しんだ「質料」という訳語を使うことにします。)また英語では質料をmaterial、形相をformと言います。
 この質料と形相、いったい何なのでしょうか?
 一旦日本語から離れて、ちょっと英語で考えてみましょう。materialは「材料」や「素材」のことですね。「物質」という風にも訳せるでしょうか。formはとても広い意味ですが「形」や「姿」といった意味から「形式」といった風にも訳せます。アリストテレスの哲学では、このmaterialとformが組み合わさることによって存在ができあがります。つまり、「物質」と「形式」が組み合わさるのですね。

 だから、私たち人間は、人間の「形相」と、それを受け入れる「質料」から組み合わさっているわけです。この質料というものについて勘違いしてはいけないのは、「質料=モノ」ではないということです。どいういうことかと言いますと、良く分からないけど「何か」がそこにある。それが「質料」だろう。なにしろ「質料」は「物質」なのだから。これは違います。そこにちゃんと何らかのモノとして存在している以上、それは何らかの形相を受け入れているわけです。だから、形相のない質料だけ、言ってみればむき出しの質料のようなものは、私たちの生きているこの世界には存在しないわけです。だから、アリストテレス哲学の場合、ヒューレーを「物質」と訳してしまうと、少し誤解が生じてしまうかもしれないのですね。この質料は四元素(火・水・空気・土)の組み合わせからできていて、この組み合わせが精妙な質料ほど優れた形相を受け入れいることができて、組み合わせが粗雑だと、石ころや草木といったものの形相しか受け入れることができません。
 一方で、人間の「形相」とは一体何だと言うと、これも目に見えない、「人間という種」の設計図のようなものです。こちらも勘違いしていけないのが、私の形相は「私の設計図」ではないということです。これを書いている私は人間で、これを読んでいるあなたもおそらく人間でしょう。その場合、私とあなたの形相は基本的に同じなのです。つまり形相はあくまでも「人間という種」を成り立たせるための設計図なのです。(人間を成り立たせるためのDNAのようなものをイメージすると、現代人には分かりやすいかもしれません。とはいえ、DNAの方は個人間で僅かに差異があるので、正確には対応しませんが…。)

 それじゃあ、アリストテレスの哲学では、私とあなたの区別は付けられないってこと?いえ、そんなことはありません。私は背が高くて、あなたは背が低い、鼻が高い、目が大きい、指が太いといった個人的な特徴はすべて、付帯性(シュンベベーコス)と呼ばれます。ですから、人間としては「質料+形相」で同じ。個々人の違いは付帯性によって区別されるのです。この「質料+形相」をアリストテレスはウーシアと呼びました。これは「本質」とも「実体」とも訳されます。実体が何を指すかは難しいのですが、現に存在しているもの、ぐらいの意味だと考えてもらって大丈夫です。しかし「本質」と「実体」、どうも日本語にするとずいぶん意味が違うように思えないでしょうか?「本質」というと、どちらかというと先に説明した「形相」に近いもののように思えるでしょうし、「実体」というと現に存在しているものですから、「質料+形相」のようにも思えます。つまり、アリストテレスが言うウーシアというのはとても広い意味をもつものだったのですが、そのうちの「本質」と「実体」という意味が段々と分離していくことになります。これは後に「存在と本質」の問題として成立するのですが、いまは何やらウーシアという言葉にただならぬ気配があるということだけ感じてもらえれば結構です。

 ちなみにもっと東に目を向けると、中国の儒教のひとつ朱子学では、この世にあるものすべてを理と気のふたつで説明します。そして、この説明がアリストテレスの質料と形相の説明とそっくりなのです!朱子学の開祖朱熹によれば、この世のものは目に見えない(形而上)法則のような「理」と、それを受け入れて現実化する(形而下)「気」の組み合わせからできていて、この気には陰陽の性質があり、陰陽のバランスがととのった気ほど優れた理を受け入れることができるのです。どうですか?アリストテレス哲学にとても良く似ていないでしょうか?もちろんこの類似性には昔の日本人も気付いており、明治時代の哲学者、井上哲次郎は「存在」や「本質」について考える分野Metaphysicsの訳語として「形而上学」という言葉を作り出したのです。(「形而上」「形而下」という言葉そのものはもっと古い『易経』に由来します。)
 朱熹にたいしてアリストテレス哲学の直接的な影響があったかどうかは分かりませんが、洋の東西でこんなに似た考え方があるというのも面白いものですね。

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【高校生のための中世アラビア語哲学入門】3-1アリストテレス哲学

第三章 思想的な流れ

 ――アリストテレス哲学

 前章までで、中世アラビア語哲学をめぐるおもに歴史的な背景についてお話しましたので、ここでは逆に思想的な背景について説明することにしましょう。20世紀のイギリスの数学者、哲学者であったアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは西洋哲学を「プラトンの註釈の集まりからできあがっている」と言いましたが、少なくとも中世アラビア語については当てはまりません。むしろ「中世アラビア語哲学は、アリストテレスの註釈の集まりからできあがっている」と言った方が正確でしょう。(もちろんホワイトヘッドはそのアリストテレスすらプラトンの註釈であるという意味を込めているのでしょうが。)
 これはいったいどういうことでしょうか?

 以前もお話したように、中世アラビア語哲学が形成されるきっかけのひとつとして、アッバース朝の時代における大規模な翻訳運動があり、それには「先進的なギリシアの学問を取り入れる」という動機がありました。ですからなによりも哲学は「学問」、当時の最先端の「科学」として導入されたのです。そのため、これは重要なことなのですが、ギリシア語からアラビア語に翻訳された文献のなかに「文学作品」はほとんど含まれていません。ホメロスの叙事詩やソフォクレスの悲劇、アリストファネスの喜劇など、古典ギリシアの膨大な文学作品に、アラブ人たちはほとんど興味を示さなかったのです。
 そして、現存するプラトンの作品は、偽書だとされているいくつかの書簡を除けばすべて「対話篇」、つまり演劇のシナリオのような、ある意味「文学的」なものなのです。ですから文学的な香りのするプラトンよりも、キッチリとした論文形式のアリストテレスの方が好まれたということは言えるでしょう。9世紀ごろから開始されたアリストテレスのアラビア語翻訳はものすごい勢いで進められ、だいたい10世紀の前半にはほぼすべてのアリストテレスの作品がアラビア語で読めるようになります。このように、中世アラビア語哲学の骨格はアリストテレス哲学でできあがっているため、彼らは敬意を込めてアリストテレスのことを「第一の師」と呼びます。

 それでは、「第一の師」アリストテレスは、どのような生涯を送ったのでしょうか?
 アリストテレスは紀元前384年、マケドニアに生まれます。マケドニアとはギリシアのすぐ北に位置する国で、民族的にはギリシア人が作った国ですが、都市国家のアテネやスパルタと違って、王が支配する王国でした。彼はそのマケドニアのスタゲイラで生まれたため、「スタゲイラのアリストテレス」と呼ばれることもあります。青年になってからアテネにある哲学の学園アカデメイアで学びます。ここはプラトンが作った学園で、アリストテレスはここで20年ほど勉強します。その後プラトンが亡くなると故郷のマケドニアに帰り、王子のアレクサンドロスの教育を引き受けます。このアレクサンドロスこそ、後の有名なアレクサンドロス大王、つまりアレクサンドロス三世です。アリストテレスがアレクサンドロスに教えたのは彼が即位するまでの6年ほどのあいだだったと言います。その後アリストテレスはアテネに戻り、自らの学園リュケイオンを建て、そこで哲学を教えます。アレクサンドロス大王はインドに到達するほどの大帝国を建設しますが、遠征途上病に倒れ、帝国は瓦解します。当然ながらその間マケドニアに抑圧されていたアテネでは反マケドニアの空気が生まれます。アリストテレスもマケドニア人だったため、迫害を逃れるために亡命しますが、紀元前322年、亡命先で亡くなります。62歳でした。

 そんな彼の哲学はとても広範囲にわたります。日本で出版されているアリストテレス全集や岩波文庫の本などを見てもらえば分かりますが、『形而上学』や『魂について』といった「いかにも哲学的」な本以外にも、『動物誌』や『天について』など博物学的な本、『カテゴリー論』や『命題論』のような論理学的な本も書いています。そしてこれらがすべてまとめて「哲学」と呼ばれていたのです。アリストテレス哲学はこのように幅広い分野をカバーしているので、彼の哲学についてひとことで言うのは難しいのですが、もしひとつだけ言うなら、それはプラトンの哲学に比べて「経験主義的」な面をもっているということです。(プラトンの哲学については後で説明します。)
「アリストテレスの提灯」という言葉があります。これは何のことでしょうか?アリストテレスが発明した灯りのことでしょうか?じつはこれ、ウニの口のところにあるクチバシのような部分のことなのです。アリストテレスはウニを観察して、このクチバシが提灯に似ていると書き記したので、後の人びとはこの部分を「アリストテレスの提灯」と呼ぶようになったのです。
もちろんアリストテレスの哲学は観察や経験だけを取り扱うのではなく、経験に左右されない絶対的な真理のようなものも取扱います。しかしアリストテレスは「真理に近いもの」と「我々に近いもの」は別だと考えます。そして、私たち人間は「我々に近いもの」、つまり経験からしか出発できないのですから、まずは経験から思考を出発させなければならないと言います。

 また、アリストテレスの作品にはたいてい、彼以前の哲学者たちの考えがまとめられています。つまり、ほかの哲学者はこのように考えていたのだけど、彼らの意見はこのような理由によって不充分である、だから私はこのように主張する、という風に書くのです。これは現代では「先行研究」の検討といって、論文など学術的なものを書くときには必ずやることです。これは文系、理系にかかわらずやらなければならないことです。これを最初に始めたのがアリストテレスなのです。だから、その意味でもアリストテレスは今日にまで続く「学問」のフォーマットを作った人と言えるかもしれません。

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2016年11月6日日曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学】2-2正統カリフたちの時代

 ――正統カリフたちの時代

 ムハンマドが632年に亡くなると、ムスリムの有力な長老たちはすぐに会議を開きます。ムハンマドの盟友であり、男性では最初にムスリムになったアブー・バクルムハンマドに下された啓示を守りイスラームを信じてゆくことを主張しましたが、少なくない族長たちが、「自分はムハンマドに従ったわけであって、イスラームに心から改宗したわけではない、だからムハンマドが死んだ今、契約は無効になった」などと主張して、イスラームから離反しようとします。結局アブー・バクルが初代のカリフとなりイスラームという宗教は存続しますが、アブー・バクルのカリフとしての2年ほどという短い期間は(アブー・バクルムハンマドよりも年上でした)、ほぼこの離反(リッダ)を鎮圧することに費やされました。
 ここでいま「カリフ」と言いましたが、これはアラビア語の発音に近づけると「ハリーファ」または「カリーファ」となり、「代理人」という意味です。つまりアブー・バクル以下のカリフは、「神の使徒(ムハンマド)の代理人」としてイスラームの共同体を指導していくということなのですね。

 アブー・バクルの次はウマル・イブン・ハッターブがカリフになります。ウマルは豪傑として知られた人物であり、最初の男性ムスリムでムハンマドの年上の友人だったアブー・バクルの次の人選として、みなが納得するものでした。ウマルは最初「神の使徒の代理人の代理人」と名乗っていたようですが、のちに「信徒たちの指揮官」(アミール・アルムウミニーン)と名乗るようになります。これはカリフの別名としてその後も定着してゆきます。(もし「神の使徒の代理人の代理人」が定着していたら、その次は「神の使徒の代理人の代理人の代理人」となり、大変なことになるところでした。)
 アブー・バクルの時代にアラビア半島の離反(リッダ)は鎮圧できたので、ウマルの時代はまさにイスラームの大躍進でした。メソポタミア地方、エジプトを次々と征服してゆき、642年にはニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを破り、400年続いたササン朝ペルシア帝国を壊滅状態に追い込みます。(ササン朝の滅亡がいつになるかは意見が分かれるところですが、ニハーヴァンドの戦いの642年とする見方もあれば、再起を図って落ち延びていたヤズデギルド3世が殺された651年とする見方もあります。)
 このようにイスラームの大躍進を果たしたウマルでしたが、644年、彼に恨みをもった異教徒の奴隷に暗殺されてしまいます。

 第三代目のカリフにはウスマーンが選ばれましたが、彼の時代に特筆すべきなのは、イスラームの聖典『コーラン』がまとめられたことです。それまでも預言者ムハンマドの啓示を書き記すことはされていたそうなのですが、基本的に啓示は口伝えで信者にくだされ、ムハンマドから直接啓示を聞いた者たちは教友(サハーバ)と呼ばれ、啓示は基本的に彼らの頭のなかに記憶されていました。ところがそれだと記憶違いも出てくるし、なにより度重なる戦争でこの教友たちの数が少なくなっていきます。そのためウスマーンは預言者の啓示を正しい形で残すことを命令し、彼の時代に『コーラン』がまとめられたのです。ですから現存する『コーラン』はウスマーン版とも呼ばれます。『コーラン』をアラビア語で発音すると『クルアーン』の方が近いのですが、ここでは一般に広まっている『コーラン』という呼び方を使うことにします。「クルアーン」とは「朗誦するもの」という意味です。
 キリスト教やユダヤ教の聖書が基本的には数多く残っている写本同士をつきあわせて作り出されたテキストなのに対して、『コーラン』はこのようにかなり早い時期(ムハンマドの死後17年ほど)に決められたので、「異読」というものが基本的にありません。さいきんはウスマーン版よりも古いコーランの写本が見つかったりしていますが、基本的には現行のものと同じ(または異読があっても僅か)ということのようです。
 またカリフはこれまでムハンマドの出身部族、クライシュ族から選ばれていたのですが、ウスマーンはクライシュ族のなかのウマイヤ家の出身です。世界史を習った方は「ウマイヤ」という言葉、聞いたことがありませんか?そう、正統カリフの後に最初のアラブ人の王朝となった「ウマイヤ朝」です。ウマイヤ朝は同じくウマイヤ家の出身でウスマーンの親戚でもあったムアーウィヤによって開かれます。
 軍事的にはウマルの拡張路線の後始末に翻弄されていまひとつだったウスマーンですが、彼も暗殺されてしまいます。しかもウマルの場合は異教徒の奴隷だったのですが、ウスマーンの場合は彼に不満をもったムスリムたちに暗殺されてしまいます。ウスマーン自身は穏やかで謙虚な人物だったと言われますが、彼にいろいろと便宜を頼むウマイヤ家の押しに負けて、ウマイヤ家重視の政策をとってしまい、ほかのクライシュ族の恨みをかったのが原因でした。

 第四代のカリフには、アリーが選ばれます。アリーの父親は未成年のムハンマドの後見人となったアブー・ターリブですので、アリームハンマドのいとこということになります。(アリーの方がずっと年下ですが。)彼が第四代目にして最後の正統カリフになります。
 アリーのカリフ就任は最初から問題含みでした。彼のカリフ就任には、ウスマーンの親戚で当時ダマスカス総督をしていたムアーウィヤと、ムハンマドの妻にしてアブー・バクルの娘であるアーイシャが反対します。アリーはまずアーイシャとその賛同者の軍勢を蹴散らします。(この戦いではアーイシャ自らがラクダに乗って出陣したことからラクダの戦いと呼ばれます。)ここにおいてはじめて、ムスリム同士が大きな戦いをおこなったということで、イスラーム内部での最初の「内戦」と言えるかもしれません。残る敵はムアーウィヤなのですが、ムアーウィヤは第三代カリフ、ウスマーン暗殺の首謀者はアリーだとして、血の復讐を主張します。本当のところはどうか分かりませんが、ウスマーン暗殺の動機はウマイヤ家優遇政策なわけですから、言ってみればウマイヤ家以外のクライシュ族全員に動機があるともいえます。ところでアリーは剛毅、直情径行な豪傑として知られ、その武勇は有名でした。一方でムアーウィヤは「私の鞭が仕えるなら私の剣は使わず、私の舌が仕えるなら私の鞭は使わない」という言葉も残っている人物で、どちらかというと策略家タイプの冷静沈着な人物でした。もちろんアリーと直接正面からぶつかって勝てるわけがありません。彼はお得意の策をめぐらしアリーと和睦します。すると、ムアーウィヤには「アリーと引き分けた実力者」という評判がつき、アリーには「武勇に優れたカリフなのに文弱なムアーウィヤを和睦を結んだ腰砕け」という評価がくだされます。これは一部のアリー支持者にとって衝撃的なことで、彼らは熱心なアリーの味方だっただけに、ムアーウィヤの口車に乗せられたアリーに失望し、悲しみ、怒ります。彼らを「ハワーリジュ派」(離脱者)と呼び、彼らは歴史上イスラームで最初の分派となります。ハワーリジュ派たちはムアーウィヤアリーの両方に刺客を送ります。そのあいだにムアーウィヤはダマスカスから勝手に「カリフ」を名乗り始めます。しかし一度腰砕けの評価がくだされてしまったアリーはまず味方の動揺を納めなければならず、そうこうしているうちにハワーリジュ派の刺客に暗殺されてしまいます。一方で何事にも慎重だったムアーウィヤは暗殺を警戒していたので暗殺を逃れることができました。
 これで正統カリフ四人のうち、三人までもが暗殺という最期を遂げたことになります。

 それでは次のカリフは誰か?
 もちろんすでにダマスカスでカリフを自称していたムアーウィヤが一番の候補者ということになります。彼なら名声、実力ともに申し分ありません。しかしおさまらないのがアリーの支持者たちです。彼らは長老たちの合議でなく、実力で勝手にカリフを名乗ったムアーウィヤを認めず、アリーの息子、ハサンフサインと担ぎ出します。これが「アリー派」(シーア・アリー)です。日本語ではシーア派と呼ばれていますが、シーアとはアラビア語で「派閥」という意味なので、シーア派だと「派派」になってしまうのですね。
 とはいえ大半のムスリムはムアーウィヤのカリフを認めます。そこで彼らは「慣行」(スンナ)に従った人々ということで「スンナ派」と呼ばれます。

 ムアーウィヤのカリフ即位により正統カリフの時代は終わりをつげ、ムアーウィヤの出身部族ウマイヤ家の名を冠した「ウマイヤ朝」が最初のアラブ人の作った王朝として成立します。661年、ムハンマドが亡くなってから27年後のことでした。

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2016年11月2日水曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学】2-1イスラームの誕生

第二章 歴史的な流れ

 ――イスラームの誕生

 第二章と第三章では、中世アラビア語哲学が形成されるまでの流れを、歴史的、思想史的な観点から見ていきたいと思います。まず第二章では歴史的な側面に目を向けてみることにしましょう。
 中世アラビア語哲学には、「イスラーム哲学」と違って宗教色が希薄です。哲学者たちは必ずしも反宗教的な姿勢を示したわけではありませんし、(哲学者がムスリムの場合)大抵の人たちは自らを敬虔なムスリムだと考えていました。しかし、ギリシアから輸入された「哲学」という外来の学問と、土着の宗教であるイスラームが馴染みにくかったというのは否定できません。
 とはいえ、彼らは主にイスラームを信奉する王朝に仕えていましたし、彼らが活躍したのはムスリムが多数派を占める地域であったというのもまた事実です。ですから、第二章はこの「イスラーム」という宗教の成り立ちを簡単に振り返ることから始めたいと思います。

 イスラームというと、ときどき中東=メソポタミアという連想からか、ユダヤ教やキリスト教の元になったと思っている人がいますが、これは大きな誤解であり、これら三つの宗教のなかではもっとも新しいものです。ユダヤ教がもっとも古く、ユダヤ王国を盛り上げたダビデ王の戴冠は紀元前1000年だと言われています。とはいえ、ユダヤ教の聖典『旧約聖書』がそのころに存在していたわけではなく、いまの聖書の核になるようなものが集まり出してきたのは紀元前5世紀以降だとされています。その後、現在のパレスチナに住んでいたユダヤ人のなかからイエスという男が現れ、ローマ帝国によって処刑された彼を神の子だとする「キリスト教」運動が、彼の弟子たちのあいだで次第に盛んになっていきました。キリスト教の聖典「新約聖書」が書かれたのは、もっとも古いとされるパウロの手紙が50年ごろ、もっとも新しいヨハネ福音書が100年ごろとされています。(ちなみに、教団としてのキリスト教の成立に深くかかわったパウロは生前のイエスに一度も会ったことがありません。)そして、イスラームは預言者ムハンマドがメッカからメディナに逃れた(聖遷=ヒジュラ)622年を元年としていますから、キリスト教よりも600年ほど新しいということになります。日本に目を向けてみると、聖徳太子が亡くなったとされるのが622年だと言えば、イメージがわくでしょうか。

 イスラームの預言者ムハンマドはメッカの豪族クライシュ族に生まれます。ただし彼の父親は彼が生まれる前に亡くなっているので、部族では叔父のアブー・ターリブの庇護を受けていました。成人したムハンマドはほかのクライシュ族の男子と同じように交易商になり、25歳のころ15歳年上の裕福な未亡人ハディージャと結婚します。その後ハディージャと力を合わせながら商売をおこなっていったムハンマドですが、40歳になったころ、突然心のなかに言い知れない悩みが沸き起こり、メッカ郊外にあるヒラー山の洞窟にこもって瞑想をおこなうようになります。若いころから交易商として一生懸命はたらいて、40歳になってひと段落したとき、ふと何か心に感じるものがあったのでしょうか。(当時の40歳は、現在の60歳ぐらいの感覚だと思えば分かりやすいです。)
 あるとき、いつものように瞑想をおこなっていると、突如ムハンマドの耳に「読め!」という声が聞こえます。これが天使ジブリールで、彼に神からの啓示を伝えます。ジブリールとはキリスト教でいうところの天使ガブリエルのアラビア語風発音で、マリアイエスの受胎を伝えたのもガブリエルだとされています。メッセンジャー的な役割を担う天使なのですね。突然の啓示にうろたえているムハンマドを励まし、最初にイスラームに改宗したのも妻のハディージャです。
 その後も断続的に啓示は下され、神の教えを伝えるムハンマドのもとに人々は集まってきますが、当然ながらメッカに住む住民の多くはイスラームにたいして懐疑的であり、ムハンマドのもとに集まる集団はわけのわからない新興宗教として危険視されます。これはイエスのもとに集まった集団が当時のユダヤ教から危険視されたのと同じであり、現在は長い歴史をもつ宗教であっても、それが成立したときには「新興宗教」だったということがよく分かります。
 迫害を受けながらも教団を維持していたムハンマドですが、619年に叔父のアブー・ターリブと妻のハディージャが亡くなり、メッカ住民からの迫害はさらに激しくなります。迫害がひどくなって、このままでは命の危険もあるかもしれないというとき、ヤスリブという街の住民から部族間の抗争の調停者としてムハンマドが呼ばれます。部族の対立を無関係の第三者に収めてもらうためということですが、こういった役割にムハンマドが選ばれるということは、ヤスリブの住民から彼がメッカの有力者のひとりとみなされていたことが分かります。ムハンマドは親友のアブー・バクルと共に、夜陰にまぎれてメッカを脱出します。メッカ側はムハンマドに刺客を差し向けましたが、なんとか無事にヤスリブに到着します。これが622年、聖遷(=ヒジュラ)と呼ばれるものです。
 ムハンマドを迎えたヤスリブはその後「預言者の街」(マディーナ・アンナビー)と呼ばれるようになります。このマディーナが訛ったものがメディナです。だから、メディナだけだと「街」という意味になってしまいます。ヤスリブ=メディナに拠点を移したムハンマドはその後もどんどん勢力を拡大していき、ムハンマド率いるメディナとメッカは何度も戦いを繰り広げます。攻防は一進一退でしたが、ついに630年、ムハンマドはメッカに無血入城します。当時のメッカでは多神教が信じられており、カアバ神殿には数々の神様の像(偶像)がまつられていました。メッカに入城したムハンマドはまず、このカアバ神殿にあった神様の像をすべて破壊しました。イスラームでは唯一の神様(アラビア語ではアッラーと言います)のみを信仰するべきで、数多くの神様を信じたり、神様の像を拝んだりすることは禁止されているからです。もちろんこれはユダヤ教でもキリスト教でも同じですが、キリスト教の場合、とくにカトリックはイエスの像やマリアの像が教会にあったりしますから、少し違いますね。(キリスト教でもプロテスタントにはカトリックのこういった態度を良く思わない人もいます。)
 その後632年にムハンマドはメッカに巡礼をおこなったさいに亡くなりますが、その後継問題を巡って、ふたたび大問題が生じてしまいます。
 ムハンマドに下された啓示は聖遷を境にして前半をメッカ期、後半をメディナ期と呼ばれます。メッカ期の啓示は一般的に短く、畳み掛けるような調子で、非常に緊張感の強いものが多く、内容もこの世の終わりなど、いわゆる「終末論」的な雰囲気のものが目立ちます。かわりにメディナ期の啓示はひとつひとつが長く、内容も共同体の決まりごとについてなどが多くなっていきます。これはイスラームという共同体がそのときどきに必要としている啓示が、そのときに応じて下されていったということなのでしょう。
 また、日本人などはときに褒める気持ちからも『コーラン』の(とくにメッカ期の)啓示を「詩のようだ」と言いますが、これはムスリムからするととんでもない言葉であるということは知っておいた方がいいでしょう。なぜなら詩とは、あくまでも人間や精霊などが作り出すもので、神が直接くだす啓示とはまったく別物だからです。実際ムハンマドも当時は「詩人」と呼ばれることがあり、これにたいして「もしこの神の啓示を詩と言うなら、詩人たちはこれに匹敵するぐらいのものを作ってみせろ」と返しています。

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2016年11月1日火曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】1-5なにが論じられていた?

 ――なにが論じられていた?

 それでは、このようなエリート哲学者たちが熱心に学んでいた「哲学」の中身はいったいどういうものだったのでしょうか?当時の哲学者たちが学んでいたものは、一般的にアリストテレスの流れを汲む哲学であり、ペリパトス派とも呼ばれています。ペリパトスとは「歩きまわる」という意味なので(アリストテレスは自らの学園リュケイオンで仲間たちと散歩しながら議論を交わしたといいます)、日本では別名「逍遥学派」ともいいます。これをアラビア語では「マッシャーイー」といいます。
 ではマッシャーイーたちが学んでいたのは、アリストテレスの哲学だったのでしょうか?このような質問は奇妙に聞こえるでしょうか?マッシャーイー=ペリパトス派はアリストテレス学派という意味なのだから、そこで学ばれているのはアリストテレスの哲学、当然でしょう?と。
 それが違うんです。これは「アリストテレス以外の学問も含まれている」という意味と、「アリストテレス哲学のなかに違う要素が入り込んでいる」という意味の、ふたつの意味で違います。
 それではためしに、中世アラビア語哲学最大の巨人、イブン・シーナーの主著『治癒の書』の構成を見てみることにしましょう。この作品はイブン・シーナーの弟子ジューズジャーニーの報告によると、日々の政務で弟子たちに講義をする時間のなかったイブン・シーナーが、当時のペリパトス派の議論をすべて網羅した本を書くから、弟子たちはこれを学んで彼の政務の邪魔をしないようにとの目的で書かれたということです。ですから『治癒の書』では、イブン・シーナーが考える、ペリパトス派の学問体系がすべて網羅されているということになります。(とはいえ結果的に『治癒の書』の内容そのものは「教科書」というよりもイブン・シーナーの独自色の強いものになってしまったので、ジューズジャーニーは『治癒の書』冒頭に弁解じみた序文を書いているのですが。)

 『治癒の書』は以下のような四部構成になっています。

 第一部:論理学
 (1)入門篇(エイサゴーゲー)、(2)カテゴリー論、(3)命題論、(4)分析論前書、(5)分析論後書、(6)ソフィスト反駁、(7)トピカ、(8)弁論術、(9)詩学
 第二部:自然学
 (1)自然学講義、(2)天について、(3)生成消滅論、(4)鉱物論、(5)気象論、(6)魂について、(7)植物論、(8)動物論
 第三部:数学
 (1)幾何学、(2)天文学、(3)算術、(4)音楽
 第四部:形而上学

 どうでしょうか?アリストテレスの学問体系について少し詳しい人なら、「あれ?」と思うはずです。
 まず論理学ですが、最初に入っている「入門篇」(エイサーゴーゲー)は、アリストテレス自身の作品ではなく、新プラトン主義者のポルフュリオスが書いた「カテゴリー論」への入門書『エイサゴーゲー』をもとにしています。その後は古代において「オルガノン」(=道具)と呼ばれた論理学の本が続くのですが、通常は論理学に含まれない「弁論術」と「詩学」もここに含まれています。この並べ方は、後期古代のアレクサンドリア学派の学問分類が影響を与えていると言われています。
 第二部の自然学についてはそれほど問題がないかもしれません。アリストテレスの「植物論」は聞いたことがないかもしれませんが、これは現在ギリシア語では残っていないのですが、アラビア語の翻訳は残っています。ですから、自然学はおおむねアリストテレスの学問体系をなぞったものと言えるでしょうか。
 第三部の数学がまた困りものです。このなかには、アリストテレスの学問はひとつも含まれていません。たとえば「幾何学」はもちろんエウクレイデス(=ユークリッド)の『原論』をもとにしていますし、「天文学」はプトレマイオスの『アルマゲスト』です。「算術」はニコマコスの『入門書』、「音楽」はプトレマイオスの『ハルモニア論』をもとにしています。そもそも天文学や音楽を数学に含めるのは、現代人の目からすると奇妙に思えるかもしれませんが、天文学は天体の運動法則、音楽は音階の比例を取り扱うということで、数学の一分野とみなされていました。
 第四部の「形而上学」はもちろんアリストテレスの『形而上学』がもとになっており、これだけ一冊でひとつの部を構成しています。

 アリストテレスの学問をもとにしながら、そこに不足しているもの(おもに数学など)は別のところから引っ張ってきていることが分かります。これが「アリストテレス以外の学問も含まれている」という意味です。
 それでは、「アリストテレス哲学のなかに違う要素が入り込んでいる」とはどういう意味でしょうか?それについては「新プラトン主義」という要素を抜きにしては語れないのですが、ここでは長くなってしまうため、また後で詳しく説明することにします。

 ところで、上のリストを見て、奇妙に思った人はいませんか?当時の哲学者には医者が多かったというのに、このなかに「医学」が含まれていません。当時の医学はローマ時代の医者ガレノスの体系を引き継いでいたのですが、実は医学は「実践的な学問」として、哲学よりも下に置かれていたのです。そして人間の仕組みについて、心や認識、知性の分野は「魂について」、身体の構造については「動物論」で論じられているのです。この区別は、中世アラビア語哲学にとって、とても重要な意味をもっています。上で挙げられた『治癒の書』に含まれている学問はすべて「思弁的・観想的な学問」で一般法則を扱うものです。当時はこれこそが学問だと思われていました。逆に「医学」や「工学」といった「実学」は、それぞれのケースによって法則が当てはまることもあり、当てはまらないこともあるため、「実践的な学問」として学問的な価値の低いものとみなされていたのです。この「思弁的・観想的な学問>実践的な学問」という構図は、実学重視、役に立つものこそ学ぶべき価値があるという現代社会に生きている私たちからすると、少し奇妙に思えるかもしれません。しかし当時の人たちにとって、法則性があるものこそが尊いのであり、その意味では「基礎数学」や「基礎物理学」の重要性を訴える現代の数学者や理論物理学者たちと近い考え方をしていると言えるでしょう。
 また忘れてはならないのは、この時代「医学」や「工学」や「光学」といった実践的な学問もまた大きく発展したということです。権力者たちには、哲学者のもつ「実践家」としての側面も大いに期待されていたでしょうし、彼ら自身もその期待に応えています。ただし、現代の言葉を使っていえば、「基礎科学」と「応用科学」のうち、「基礎科学」こそを徹底して学ぶべきであり、「応用科学」はあくまでもその「応用」に過ぎない、というのが中世アラビア語哲学を通じての基本姿勢だったように思われます。
 超絶エリートたちが学ぶ、一般法則にかんする学問の体系(論理学、自然学、数学、形而上学)を総称して「哲学」と呼んでいたのです。(そしてそのサブカテゴリーに「医学」や「工学」などの実践的学問が含まれます。)

 中世アラビア語哲学がどのような時代のもので、どのような地域のもので、そして誰がそれを担い、どういったことが論じられていたか、だいたいのことは分かってきたでしょうか?とても複雑ですので、すぐには分からなくて結構です。しかし、これ以降を読み進めるうちに、少しずついろいろな情報がつながっていくのではないかと思います。分からないときは立ち止まって考えるのもいいですし、そのまま読み飛ばして後で戻ってくればいいや、というのでもかまいません。良くないのは「何がなんでも分からなきゃ」という気持ちです。ゆっくり進んでいきましょう。
 それでは第二章では、中世アラビア語哲学を取り巻く歴史的な背景を、もう少し詳しく見ていくことにしましょう。

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【高校生のための中世アラビア語哲学入門】1-4誰によって担われていた?

 ――誰によって担われていた?

 みなさんは「哲学者」と聞いてどのような人を思いうかべますか?図書館や研究所にこもって、カビのはえた古文書をめくっている老人でしょうか?それとも、山奥や沙漠に隠れ住んで、世間の喧騒から離れて真理について思いを巡らせる修行僧のような人でしょうか?もちろん、そういった哲学者たちがいたのは事実ですし、少なくとも最近の哲学者となると、サルトルなど少数の例外を除けば、大学の先生をしていますから(これは日本でも外国でもだいたい同じです)、「世間知らず」といったイメージがつきまとうのは、ある意味当然のことかもしれません。
 しかし、そういったイメージを中世アラビア語哲学に当てはめるのは間違っています。この時代、哲学をおこなっていた人たちの代表的な職業を挙げれば、「政治家」、「医者」、「翻訳家」、「科学者」といった人たちになります。そして、これは重要なところなのですが、「宗教家」や「神学者」はひとりもいません。ヨーロッパのスコラ哲学が主に修道院に所属するキリスト教の神学者たちによって担われたのとは対照的です。(もちろん「アラビア語哲学」に限っての話です。「イスラーム哲学」の担い手には、神学者もいっぱいいます。)

 現代の日本において、哲学を勉強すると言えば、少なくとも就職とはまったく関係のないことを学ぶということであり、医学や科学とはまったく関係ないものとみなされています。でもこの時代、「哲学」を学ぶのは、きわめて特権的なエリートだけだったのです。
 なぜ、そのようなことが起こったのでしょうか?
 先ほども述べたように、アッバース朝の時代になって社会が安定すると、ギリシアなどの先進的な地域の学問をアラビア語に翻訳する運動が盛んになります。そして、カリフや有力者などは先進的な学問を取り入れるために、こういった翻訳活動に莫大な予算を付けて、こぞってギリシア語の文献を翻訳させます。そこで活躍したのが、ギリシア語にも堪能なキリスト教徒たちでした。そして、こういったギリシアの先進的な知識の頂点に輝いていたのが「哲学」だったのです。当時はまだ「科学」というものが独立して立てられていたわけではなく、現代の私たちが「サイエンス・自然科学」として思いうかべる内容は、哲学の一分野「自然学」で学ばれていました。(余談ですが、「サイエンス」とはもともと「知識・学問」といった程度の意味しかありません。それが今では「自然科学=サイエンス」とみなされています。それ以外の学問はサイエンスではないのでしょうか?)
 ですから、当時のエリートたちにとって、「哲学を学ぶこと」といえば、「ギリシアの学問を学ぶこと」とほぼ同じ意味だったのです。彼らは大抵の場合、権力者の庇護を受け、大臣や医者、ほかにも法学者などの立場で王様などに助言をする立場でした。現代から見ると、哲学者が文部科学大臣や厚生労働大臣に就任しているようなものです。不思議な感じがしますか?でも、もとをたどれば「哲学」はつねに政治と隣り合わせでした。ソクラテスは若者の扇動者として政治的な理由で裁判にかけられ、プラトンはシチリアの若い独裁者を教育して理想国家を作ろうとしました。また、アリストテレスアレクサンドロス大王の家庭教師をしていました。その流れを考えると、中世アラビア語哲学の担い手たちが政治にきわめて近い位置にいたのも、まったく不思議ではありません。むしろその後の哲学者たちがだんだん政治から離れていったのは、本来の哲学の姿からすると奇妙な変化なのかもしれません。

 以上のように、中世アラビア語哲学を盛り上げた哲学者たちは、大抵が政治の中枢にいるエリートたちでした。そのため中世アラビア語哲学は権力者と非常に近い立場を得ることができたのです。でも、これには思わぬ副作用もありました。当然といえば当然なのですが、当時の一般庶民からすると「哲学者」というのは「権力者のそばでよくわからないギリシア(=異教徒)の学問を講義しているいけすかない奴ら」というイメージです。そして哲学者たちの方も、自分たちがエリートであることを隠そうとしません。この亀裂に神学者たちが割って入り、民衆の側について、「哲学のような有害な学問は追放すべきだ!」と反対運動をするということもしょっちゅうありました。「アラビア語哲学」が「イスラーム哲学」に形を変えざるをえなかった理由のひとつに、このようなエリート主義も関係しているかもしれませんね。

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