2016年11月1日火曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】1-4誰によって担われていた?

 ――誰によって担われていた?

 みなさんは「哲学者」と聞いてどのような人を思いうかべますか?図書館や研究所にこもって、カビのはえた古文書をめくっている老人でしょうか?それとも、山奥や沙漠に隠れ住んで、世間の喧騒から離れて真理について思いを巡らせる修行僧のような人でしょうか?もちろん、そういった哲学者たちがいたのは事実ですし、少なくとも最近の哲学者となると、サルトルなど少数の例外を除けば、大学の先生をしていますから(これは日本でも外国でもだいたい同じです)、「世間知らず」といったイメージがつきまとうのは、ある意味当然のことかもしれません。
 しかし、そういったイメージを中世アラビア語哲学に当てはめるのは間違っています。この時代、哲学をおこなっていた人たちの代表的な職業を挙げれば、「政治家」、「医者」、「翻訳家」、「科学者」といった人たちになります。そして、これは重要なところなのですが、「宗教家」や「神学者」はひとりもいません。ヨーロッパのスコラ哲学が主に修道院に所属するキリスト教の神学者たちによって担われたのとは対照的です。(もちろん「アラビア語哲学」に限っての話です。「イスラーム哲学」の担い手には、神学者もいっぱいいます。)

 現代の日本において、哲学を勉強すると言えば、少なくとも就職とはまったく関係のないことを学ぶということであり、医学や科学とはまったく関係ないものとみなされています。でもこの時代、「哲学」を学ぶのは、きわめて特権的なエリートだけだったのです。
 なぜ、そのようなことが起こったのでしょうか?
 先ほども述べたように、アッバース朝の時代になって社会が安定すると、ギリシアなどの先進的な地域の学問をアラビア語に翻訳する運動が盛んになります。そして、カリフや有力者などは先進的な学問を取り入れるために、こういった翻訳活動に莫大な予算を付けて、こぞってギリシア語の文献を翻訳させます。そこで活躍したのが、ギリシア語にも堪能なキリスト教徒たちでした。そして、こういったギリシアの先進的な知識の頂点に輝いていたのが「哲学」だったのです。当時はまだ「科学」というものが独立して立てられていたわけではなく、現代の私たちが「サイエンス・自然科学」として思いうかべる内容は、哲学の一分野「自然学」で学ばれていました。(余談ですが、「サイエンス」とはもともと「知識・学問」といった程度の意味しかありません。それが今では「自然科学=サイエンス」とみなされています。それ以外の学問はサイエンスではないのでしょうか?)
 ですから、当時のエリートたちにとって、「哲学を学ぶこと」といえば、「ギリシアの学問を学ぶこと」とほぼ同じ意味だったのです。彼らは大抵の場合、権力者の庇護を受け、大臣や医者、ほかにも法学者などの立場で王様などに助言をする立場でした。現代から見ると、哲学者が文部科学大臣や厚生労働大臣に就任しているようなものです。不思議な感じがしますか?でも、もとをたどれば「哲学」はつねに政治と隣り合わせでした。ソクラテスは若者の扇動者として政治的な理由で裁判にかけられ、プラトンはシチリアの若い独裁者を教育して理想国家を作ろうとしました。また、アリストテレスアレクサンドロス大王の家庭教師をしていました。その流れを考えると、中世アラビア語哲学の担い手たちが政治にきわめて近い位置にいたのも、まったく不思議ではありません。むしろその後の哲学者たちがだんだん政治から離れていったのは、本来の哲学の姿からすると奇妙な変化なのかもしれません。

 以上のように、中世アラビア語哲学を盛り上げた哲学者たちは、大抵が政治の中枢にいるエリートたちでした。そのため中世アラビア語哲学は権力者と非常に近い立場を得ることができたのです。でも、これには思わぬ副作用もありました。当然といえば当然なのですが、当時の一般庶民からすると「哲学者」というのは「権力者のそばでよくわからないギリシア(=異教徒)の学問を講義しているいけすかない奴ら」というイメージです。そして哲学者たちの方も、自分たちがエリートであることを隠そうとしません。この亀裂に神学者たちが割って入り、民衆の側について、「哲学のような有害な学問は追放すべきだ!」と反対運動をするということもしょっちゅうありました。「アラビア語哲学」が「イスラーム哲学」に形を変えざるをえなかった理由のひとつに、このようなエリート主義も関係しているかもしれませんね。

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