2016年11月1日火曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】1-5なにが論じられていた?

 ――なにが論じられていた?

 それでは、このようなエリート哲学者たちが熱心に学んでいた「哲学」の中身はいったいどういうものだったのでしょうか?当時の哲学者たちが学んでいたものは、一般的にアリストテレスの流れを汲む哲学であり、ペリパトス派とも呼ばれています。ペリパトスとは「歩きまわる」という意味なので(アリストテレスは自らの学園リュケイオンで仲間たちと散歩しながら議論を交わしたといいます)、日本では別名「逍遥学派」ともいいます。これをアラビア語では「マッシャーイー」といいます。
 ではマッシャーイーたちが学んでいたのは、アリストテレスの哲学だったのでしょうか?このような質問は奇妙に聞こえるでしょうか?マッシャーイー=ペリパトス派はアリストテレス学派という意味なのだから、そこで学ばれているのはアリストテレスの哲学、当然でしょう?と。
 それが違うんです。これは「アリストテレス以外の学問も含まれている」という意味と、「アリストテレス哲学のなかに違う要素が入り込んでいる」という意味の、ふたつの意味で違います。
 それではためしに、中世アラビア語哲学最大の巨人、イブン・シーナーの主著『治癒の書』の構成を見てみることにしましょう。この作品はイブン・シーナーの弟子ジューズジャーニーの報告によると、日々の政務で弟子たちに講義をする時間のなかったイブン・シーナーが、当時のペリパトス派の議論をすべて網羅した本を書くから、弟子たちはこれを学んで彼の政務の邪魔をしないようにとの目的で書かれたということです。ですから『治癒の書』では、イブン・シーナーが考える、ペリパトス派の学問体系がすべて網羅されているということになります。(とはいえ結果的に『治癒の書』の内容そのものは「教科書」というよりもイブン・シーナーの独自色の強いものになってしまったので、ジューズジャーニーは『治癒の書』冒頭に弁解じみた序文を書いているのですが。)

 『治癒の書』は以下のような四部構成になっています。

 第一部:論理学
 (1)入門篇(エイサゴーゲー)、(2)カテゴリー論、(3)命題論、(4)分析論前書、(5)分析論後書、(6)ソフィスト反駁、(7)トピカ、(8)弁論術、(9)詩学
 第二部:自然学
 (1)自然学講義、(2)天について、(3)生成消滅論、(4)鉱物論、(5)気象論、(6)魂について、(7)植物論、(8)動物論
 第三部:数学
 (1)幾何学、(2)天文学、(3)算術、(4)音楽
 第四部:形而上学

 どうでしょうか?アリストテレスの学問体系について少し詳しい人なら、「あれ?」と思うはずです。
 まず論理学ですが、最初に入っている「入門篇」(エイサーゴーゲー)は、アリストテレス自身の作品ではなく、新プラトン主義者のポルフュリオスが書いた「カテゴリー論」への入門書『エイサゴーゲー』をもとにしています。その後は古代において「オルガノン」(=道具)と呼ばれた論理学の本が続くのですが、通常は論理学に含まれない「弁論術」と「詩学」もここに含まれています。この並べ方は、後期古代のアレクサンドリア学派の学問分類が影響を与えていると言われています。
 第二部の自然学についてはそれほど問題がないかもしれません。アリストテレスの「植物論」は聞いたことがないかもしれませんが、これは現在ギリシア語では残っていないのですが、アラビア語の翻訳は残っています。ですから、自然学はおおむねアリストテレスの学問体系をなぞったものと言えるでしょうか。
 第三部の数学がまた困りものです。このなかには、アリストテレスの学問はひとつも含まれていません。たとえば「幾何学」はもちろんエウクレイデス(=ユークリッド)の『原論』をもとにしていますし、「天文学」はプトレマイオスの『アルマゲスト』です。「算術」はニコマコスの『入門書』、「音楽」はプトレマイオスの『ハルモニア論』をもとにしています。そもそも天文学や音楽を数学に含めるのは、現代人の目からすると奇妙に思えるかもしれませんが、天文学は天体の運動法則、音楽は音階の比例を取り扱うということで、数学の一分野とみなされていました。
 第四部の「形而上学」はもちろんアリストテレスの『形而上学』がもとになっており、これだけ一冊でひとつの部を構成しています。

 アリストテレスの学問をもとにしながら、そこに不足しているもの(おもに数学など)は別のところから引っ張ってきていることが分かります。これが「アリストテレス以外の学問も含まれている」という意味です。
 それでは、「アリストテレス哲学のなかに違う要素が入り込んでいる」とはどういう意味でしょうか?それについては「新プラトン主義」という要素を抜きにしては語れないのですが、ここでは長くなってしまうため、また後で詳しく説明することにします。

 ところで、上のリストを見て、奇妙に思った人はいませんか?当時の哲学者には医者が多かったというのに、このなかに「医学」が含まれていません。当時の医学はローマ時代の医者ガレノスの体系を引き継いでいたのですが、実は医学は「実践的な学問」として、哲学よりも下に置かれていたのです。そして人間の仕組みについて、心や認識、知性の分野は「魂について」、身体の構造については「動物論」で論じられているのです。この区別は、中世アラビア語哲学にとって、とても重要な意味をもっています。上で挙げられた『治癒の書』に含まれている学問はすべて「思弁的・観想的な学問」で一般法則を扱うものです。当時はこれこそが学問だと思われていました。逆に「医学」や「工学」といった「実学」は、それぞれのケースによって法則が当てはまることもあり、当てはまらないこともあるため、「実践的な学問」として学問的な価値の低いものとみなされていたのです。この「思弁的・観想的な学問>実践的な学問」という構図は、実学重視、役に立つものこそ学ぶべき価値があるという現代社会に生きている私たちからすると、少し奇妙に思えるかもしれません。しかし当時の人たちにとって、法則性があるものこそが尊いのであり、その意味では「基礎数学」や「基礎物理学」の重要性を訴える現代の数学者や理論物理学者たちと近い考え方をしていると言えるでしょう。
 また忘れてはならないのは、この時代「医学」や「工学」や「光学」といった実践的な学問もまた大きく発展したということです。権力者たちには、哲学者のもつ「実践家」としての側面も大いに期待されていたでしょうし、彼ら自身もその期待に応えています。ただし、現代の言葉を使っていえば、「基礎科学」と「応用科学」のうち、「基礎科学」こそを徹底して学ぶべきであり、「応用科学」はあくまでもその「応用」に過ぎない、というのが中世アラビア語哲学を通じての基本姿勢だったように思われます。
 超絶エリートたちが学ぶ、一般法則にかんする学問の体系(論理学、自然学、数学、形而上学)を総称して「哲学」と呼んでいたのです。(そしてそのサブカテゴリーに「医学」や「工学」などの実践的学問が含まれます。)

 中世アラビア語哲学がどのような時代のもので、どのような地域のもので、そして誰がそれを担い、どういったことが論じられていたか、だいたいのことは分かってきたでしょうか?とても複雑ですので、すぐには分からなくて結構です。しかし、これ以降を読み進めるうちに、少しずついろいろな情報がつながっていくのではないかと思います。分からないときは立ち止まって考えるのもいいですし、そのまま読み飛ばして後で戻ってくればいいや、というのでもかまいません。良くないのは「何がなんでも分からなきゃ」という気持ちです。ゆっくり進んでいきましょう。
 それでは第二章では、中世アラビア語哲学を取り巻く歴史的な背景を、もう少し詳しく見ていくことにしましょう。

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