2016年9月5日月曜日

あの哲学者は論理派?直観派?(思いが溢れて伝えきれない編)

モテ系・非モテ系にかんする考察を行っていくうちに、いろいろ浮かび上がってきた観点がある。
そのひとつに、哲学者が「推論」を重視するか(discursive)、「直観」を重視するか(intuitive)という点である。
もちろん本来哲学において推論と直観は論理の両輪であり、切っても切れない関係にあり、だいたいの哲学者はその両方をバランスよく使用しているのだが、中にはそのバランスが悪い、どちらかに振り切ってしまっている(もしくはそのように見える)、まるで呂布や張飛のような哲学者がいないこともない。

今回からはしばらく、この「論理」(正式には推論だがゴロが悪いので論理とさせてもらう)と「直観」がどちらかに振り切れている哲学者について見ていきたいと思う。

まずは直観重視派を見ていきたいが、そのなかでも「思いが溢れて伝えきれない哲学者」を見てみることにしよう。

このタイプの哲学者は本来正統派なバランスの取れた哲学の教育を受けており、本人的にはそこまで逸脱していないつもりなのだけど、思いと情熱ばかりが先走ってしまい、結果的に何を言いたいのかよく分からない文章になっているというパターンが多い。
そのため、文章の熱量だけはやけに高くて、本人の意気込みだけは伝わってくるのだが、当の哲学者の中では自明になっていることは説明せずにすっ飛ばしたり、独自の用語を使用したり(それも本人の中ではみんなが分かってくれているという認識になっている)していて、「哲学的に深淵な文章だ!」と評価する人と、「何を言いたいのか分からない悪文だ!」と貶す人の真っ二つに分かれてしまう。

しかもだいたいこのタイプは基本的な熱量が高いので、文章を書かせるとしっちゃかめっちゃかになってしまう割に、講義で喋らせると饒舌で、むしろ名講義として評判を呼んだりする。

さてそんな思いが溢れて伝えきれない哲学者の代表と言えば、
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770–1831)
マルティン・ハイデッガー(1889–1976)
の二人だろう。

二人とも本人が書いた「著作」と呼べるものは少なく、むしろ膨大な講義録が伝わっている。
とくにハイデッガーなんて全集が数十巻出ているけれど、ほとんどが講義録とか講演録とか、そんな感じだ。
ヘーゲルの場合は死後に講義ノートを切り貼りしたものが多く、精度にやや問題があるらしいけど、いまだに翻訳が出たりして(今また新全集用意しているんだっけ)、大御所の貫録充分である。
そして彼らが好き勝手、思う存分話した講義じゃなくて、紙に書き落とした著作の方を見てみると、彼らの両方とも熱量が先走り過ぎてしまい、「ちょっと読んでみようかな」と思った初心者たちを無情にも振り払ってしまっている。
しかしこれがまた不思議なもので、単なる悪文ではなく「思いに溢れた悪文」というのは、なぜか若者の心をガッシリと掴んで離さないようで、ハイデッガーは不動のモテ系哲学者だし、ヘーゲルだって、いまや古典系に分類されるだろうが、昔は多くの若者たちを熱狂させていたわけで、系統的には正統派のモテ系である。
これがウィルフリード・セラーズ(1912–1989)のように「単なる悪文」だと、一部のゴリゴリの分析哲学者だけを惹きつける、非モテ系、もしくはマニアモテ系になってしまう。(個人的にはセラーズに惹きつけられるくちではあるけど)
著作は意味不明で講義は明晰というと、ほかにジャック・ラカン(1901–1981)が挙げられるが、ラカンの場合は意味不明な著作も含めて計算づくでしている感じで、ちょっといけ好かない。

やっぱりモテ系になるためには、熱量の高さというのは重要なファクターなのかもしれない。
そう考えると、西田幾多郎なんかは「思いが溢れて伝えきれない系」なのか「単なる悪文」なのか気になるところではある…。
個人的には(同郷の誼もあり)、前者だと思いたいところはあるが、後者の恐れもある。あんまり西田の講義聞いて感動したって話聞かないしなぁ。しかし、一時期は京都を西田哲学が席捲したわけだし、西田も意外と情熱的だったのかもしれない。そう考えると西田のあのわけの分からない文章もひとつのモテ要素として立ちあがってくるわけだ。

とはいえ、思いが溢れて伝えきれず、結果的に悪文になっているというのは狙ってできるわけではなく、本人の溢れ出る哲学的情熱と、それに僅かながら届かない表現力がきわめて高いレベルで混ざり合ってはじめて成立するものであり、最初からこの境地を目指そうとすると悲惨なことになるであろうことは想像に難くない。

ハイデッガーやヘーゲルの文章に魅せられて、あの奇跡の産物のような文体を真似しようとする大学院生がだいたい大変なことになっているのは、理由のないことではないのだろう。

いわばこの手のタイプは最初から「直観的」な文章を書こうとしているのではなく、個人的には割と真面目に「論理的」なスタイルを採ろうと思っているのに、結果としてあんな感じになってしまっているだけなのだ。むしろ最初から「直観的」な文章を意図的に選んでいるような哲学者のスタイルの方が真似やすいかもしれない。

また、翻訳が紛糾したり、「原書で読んだ方が読みやすいよ」なんて言われるのも大体このタイプだろう。(『精神現象学』や『存在と時間』なんて、いったい何種類翻訳が出てるんだという。)そりゃ彼らは自分の思いのたけを自分自身の言葉にも上手く乗せられていないのだから、それをさらに日本語に翻訳してしまったら、余計分かりにくくなることは明らかである。
でも大丈夫、西田の文章を見ても分かるように、このタイプの文章は、原書で読んでも分からないから。

とはいえ、個人的にはこの「思いが溢れて伝えきれない哲学者」の文章、嫌いじゃない。そして、こういった哲学者はだいたい「ベシャリ」が上手いことが多いので、彼らの講義や講演録を読むのも結構好きである。

次回:論理を相対化しようとしている編

2016年9月4日日曜日

モテ系哲学者?非モテ系哲学者(マニアモテ系編)


前回までで、モテ系哲学者かつてモテ系だった哲学者非モテ系哲学者のあらましが明らかになったことと思う。

(第1回モテ系哲学者こちら、第2回かつてモテ系だった哲学者こちら、第3回非モテ系哲学者はこちら

これで残す分類はマイナー系古典系ということになるが、その前に、どの分野にも入りにくい、むしろどの分野にも微妙に被っている特殊ジャンル:マニアモテ系哲学者にも触れておかねばならないだろう…!

あぁ…!これが一番紛糾しそうだ…!

マニアモテ系は、一般的にはマイナー系古典系に分類される。しかしある特定のジャンル内部では、まるでモテ系のような熱量をもって愛されている哲学者のことである…!(非モテ系哲学者は、一般的にそういった熱量の高いモテ方をしないのだが、小さいジャンルのなかではマニアモテ系として愛されることがしばしばある。)

つまり、マニアモテ系は、そのジャンル以外の人たちにとっては大した知名度がないにもかかわらず、その業界内部では「それを知らないのはモグリ」扱いをされるという、初心者には非常に扱いの難しい物件なのだ。
どの業界にもこういったマニアモテ系はいる。音楽だと地下アイドルとかご当地アイドルとかがそうだし、ジャンル別の大御所だけど、ほかの分野ではほとんど知られていないアーティストなんてごまんといる。(ヒップホップとかソウル・ファンクとか。ジェームズ・ブラウンなんてソウル・ファンクのファン以外にとって、「ゲラッパのひと」ぐらいの認識があればマシといったところである。)
なのでいろんな分野におけるマニアモテ系哲学者を紹介出来ればと思うのだが、私の知識の偏りもあり、すべての分野を網羅することはできないこと、最初にご了承願いたい。

それでは、まず私が専門とする中世哲学の分野からいってみよう。
中世哲学は、そもそもジャンル全体が「マイナー系」に分類されてしまう危険性があるのだが、そのなかでもアイドル的な存在はいる。それは
ヒッポのアウグスティヌス(354–430)
トマス・アクィナス(1225–1274)
の二人である。
まぁどんなのが出てくるかと思いきや、中世哲学のことをまったく知らない人も、哲学をある程度知っていれば、少なくとも古典的なものとしての認識ぐらいはあるんじゃないだろうか。むしろ、「この二人って哲学者じゃなくて神学者じゃないの?」と疑問に思うかもしれないし、その疑問ももっともなのだけど、いろいろな理由により、西洋哲学の流れではアウグスティヌスとトマス・アクィナスは哲学者として扱われてきている。(ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の冒頭はアウグスティヌスの引用から始まり、ハイデッガーはトマス・アクィナスを何度も引用する。)
最近はそうでもなくなってきたが、一昔前まではアウグスティヌスとトマス・アクィナス関連の論文だけで中世哲学の学会誌『中世思想研究』の紙面が埋め尽くされるほど、この二人の影響力は強かった。もちろんそれだけの知名度、深みはあるんだけど、一旦業界内部に入り込むと、その影響力たるや凄まじいものがある。まるで「アウグスティヌスファン」「トマス・アクィナスファン」のような人が結構いるのだ。(非モテの帝王フッサールの助手をしていたエディット・シュタインはトマス・アクィナスファンに鞍替えした。)
若手がちょっと不用意な発言をすると、古参のトマス・アクィナスファンから「あんたトマスの何なのさ」といった叱責が飛び交うのは、なかなかの壮観である。こういう「愛が溢れてしまう」状態になるのには、中世哲学の研究家にクリスチャンが多いというのも少し関係するだろう。彼らの研究のモチベーションのなかには、信仰心が占める割合が高い場合もあり、そうなるとこういったマニアモテ的な扱いをしてしまうのだろう。
また中世哲学のジャンルでは「トマス」と言えば「トマス・アクィナス」のことを指すので、わざわざフルネームで言ったりしない。「トマス」だけで充分である。
自分なんかは意地悪く、「え?トマス・ネーゲルのことですか?」と思ったりしてしまうが(さすがに口に出しはしない)。

彼らの思想そのものを分類すると、主著が自伝的な『告白』であり、母親との微妙な関係、若いころの放蕩生活、劇的な回心、最後の古代人としてローマ帝国の終焉を目の当たりにするなど、哲学にも興味のない一般人にもバンバンアピールするアウグスティヌスは古典系のモテ系
ドミニコ会の修道士として生活し、教会内部のサムシングや教育生活以外にはあまり劇的なイベントがなく、主著の『神学大全』は翻訳が完了するまで数十年かかり、一般人がフと手に取ることを完全に拒絶しているトマス・アクィナスは古典系の非モテ系に分類されるだろう。

ちなみに私が専門にしているアヴィセンナ/イブン・シーナーについて一言申し添えておくと、そもそもアラビア語哲学というのがマイナーな中世哲学の更にマイナーなサブジャンル扱いな上に、アラビア語スコラとも称される彼の思想は普通に非モテ系である。(スフラワルディーやガザーリーの方がややモテ系の要素が強い。とはいえマニアモテだけど。)

また現象学、そのなかでも身体論関係においては
モーリス・メルロ=ポンティ(1908–1961)
がジャンル内限定のモテ方をしているだろう。
メルロ=ポンティ自身は主著の『知覚の現象学』がバカ高いみすず版か法政大学出版局版しかなく、哲学の内容そのものも非モテの帝王フッサールを乗り越えたと勝手に喧伝しているモテ系の雄ハイデッガーに対抗し、「フッサールはホントはこういうことを言っていたんだ」という、まぁ非モテの正統後継者みたいなところがあるのだけど、彼の取り扱われ方はそれとはちょっと違う。
かなりガチガチの知性中心主義だったフッサール(後期は知らん)に対し、身体性やパースペクティブという要素を追加したメルポンことメルロ=ポンティの思想は、身体論、美術論、芸術論、なかでも演劇論をやっている人たちから好まれ、この手のことをやっている人が哲学に触れるさいに、少なからずアイドル的な扱いを受けることがある。
まぁこれには鷲田清一という偉大な紹介者の果たした役割も小さくないかもしれない。(モテ系になるためには、偉大な紹介者の存在が結構大きいことはすでに述べた。)
ここまでくれば普通にオールジャンルのモテ系になってもいいと思うのだけど、いまひとつモテ系に躍り出ることが出来ていないのは、やはり主著の入手のしにくさに尽きるだろう。
あとは、ある程度「~論」をやっている人たちに「理論が好まれる」わけであって、アフォリズム的なカッコよさに欠けるという部分も、若者へのアピールの弱さとして響いてきているのかもしれない。(上でも述べたように、そもそもメルポンの哲学自体は非モテ系に近い。)
マニアモテに限定せず、普通にモテ系に躍り出るポテンシャルはもっているだろうに、「高価な主著」「地味な文章」が邪魔して、局地的なマニア受けで終わっているというのが、非常にもったいないところではある。(フランス系の例に漏れず、本人がモテそうではあるが。)

それじゃあ分析哲学だとどうかというと、そもそも分析哲学自体が「巨大な非モテ空間」のようなものなので、あまりモテとは結びつかないのが悲しいところではある。いきなり分析哲学から入門する高校生は少ないだろうし、最初に手に取った哲学書が分析系だった場合、途中で挫折する可能性が高いだろう。
その中で、ジャンル内限定でアイドル的な扱いを受けている哲学者を探すのは割と難しいが(そもそも分析哲学の研究者自体、全体的な熱量が低い)、その中でも敢えて挙げるとすれば
ドナルド・デイヴィドソン(1917–2003)
ソール・クリプキ(1940–)
あたりだろうか。
分析哲学がなぜ「巨大な非モテ空間」というインナー・サークルを形成しているかという理由のひとつに、文庫化されている作品が少なく、だいたいの原典が割と高いハードカバーだというのがあるだろう。そもそも手に入りやすい文庫本がない時点で、一般人に対するハードルはかなり高い。デイヴィッドソンもクリプキもその例に漏れず、著作はハードカバーのものしかない。
しかしクリプキの場合、普通に読むだけならば『名指しと必然性』だけで充分なので、なかでもとっつきやすい方だと言えるだろう。それに、論理記号でいっぱいだったりして読みにくい分析哲学のなかでも、普通に読みやすく、その意味では魅力的な文章というモテ系の要素を割と備えているクリプキは、ジャンル外から分析哲学に入ってきた人にとっつきやすい人物である。ただ、分析哲学を学び始めた人たちがひとまず手に取る作品として選ばれやすいというだけであって、分析哲学の研究者たちからモテているかというと、そこは微妙なところなので、もしかしたらマニアモテとは言い切れないかもしれない。
逆にデイヴィドソンは普通に分析哲学者からモテている印象である。確かに彼の書く文章は良く分からなくて、読んでもさっぱり理解した気になれないのだけど、何度も繰り返し挑戦しようという気を起こさせる、不思議な魅力がある。大きなモノグラフというのがなく、著作は基本的に論文集という、哲学者としては軽量級の傾向にあるデイヴィドソンだけど、基本的に現在刊行されている著作はぜんぶ和訳されているのではないだろうか。(初期の二作品が抄訳ではあるけど。)そういう意味では、原典の翻訳にかんして、恵まれているのか恵まれていないのか(ぜんぶ結構高いハードカバー)、よく分からない哲学者ではある。行為論、意味論、認識論、真理論など著作のジャンルも多岐にわたるため、分析哲学的な理論を求めていくとデイヴィドソンに行きつくことはしばしばあるかもしれない。
まぁ分析哲学の研究者は基本的に誰かをアイドル的に信奉したりしにくい印象があるが、クリプキとデイヴィドソンの二人をとりあえずのマニアモテ系とさせて戴いた。(クリプキは普通に文庫化されたらモテ系になる要素はいっぱいあると思う。デイヴィドソンは知らん。でもあの何度も挑戦したくさせる感じも、どちらかというとモテ系だろうか。産業図書と勁草書房と春秋社はいますぐクリプキとデイヴィドソンの文庫化を検討するべきだ。)

ほかにも教育関係だと
ジョン・デューイ(1859–1952)
がいる。
ここで普通の哲学愛好者は「え?デューイ?誰だっけ?」と思っただろう。現象学や分析哲学をやっている学生とかも、「ん?デューイ?」と一瞬考えるかもしれない。それぐらい一般の哲学史におけるデューイの知名度は微妙である。まぁプラグマティズムの分野ではパース、ジェームズ、デューイと三人並べられるので、こっちの世界ではビッグネームではあるが。(ローティはデューイのことをやけに高く評価しているが、ローティも一般的にはあまりモテ系とは言えないかもしれない。)
しかしこれが教育関係になるとガラッと様相が変わってくる。
なぜか教育関係者が哲学に興味があると言うと、だいたいデューイの名前を出してくるのだ。
「はいはい、哲学…え、デューイ?」てなもんである。
個人的にはこの体験が強烈過ぎて、「デューイ=教育思想」というイメージが付いてしまっているが、これは彼の教育学的側面以外を研究しているデューイ研究者からしてみると少し困ったことなのかもしれない。

まとめ

マニアモテ系哲学者とは、なにか共通の要素をもった哲学者の分類ではなく、一般的にはモテ系でないのに、特定のジャンル内ではあたかもモテ系の如く扱われているという現象を基にした分類であるため、それを明確に定義することは難しい。しかし、芸術関係におけるメルロ=ポンティや教育関係におけるデューイなどの場合を考えると、その特定の分野に対する何か特別なアピールをもっていると考えることができるだろう。またトマス・アクィナスやアウグスティヌスの場合は、そのジャンルが独自の世界観や評価基準をもっているため、一般的なモテ・非モテとは別の尺度が用意されているということだろう。分析哲学は全体的に熱量が低いのであまりマニアモテ的な哲学者がいないのだが、そもそも「非モテ」である分析哲学においてモテ系の要素をかなり備えた哲学者が出てくると、やはりある程度ジャンル限定でモテるということが起きるのかもしれない。以上をまとめると
・哲学以外の分野に対するアピールをもっている
・そのジャンルが独自の評価基準をもっており、それに合致する
・全体的に非モテなジャンルにおいてモテ系の要素をもっている
などの哲学者で、一般的なアピールをあまり獲得できていない場合、それはマニアモテ系哲学者となるのではないだろうか。

あなたが哲学に興味のある一般人だったら、マニアモテ系哲学者から入るのが良い場合と悪い場合がある。あなたがその特定の分野、たとえば芸術や演劇、教育やキリスト教などに興味があるかすでに学んでおり、そこから哲学にも手を出したい場合、こういった分野限定でアイドル的な扱いを受けているマニアモテ系哲学者から入るというのは良いことだろう。何しろあなたは、その哲学者が論じているテーマにもともと興味があるのだし、周りには同好の士も多いだろうから。逆にあなたが、そのマニアモテ系哲学者の分野に興味がない場合、その哲学者から入ることは余りお勧めできない。教育に興味がないのにデューイを読む、キリスト教に興味がないのにトマス・アクィナスを読むのは、無駄とは言わないが、それならば自分の興味にあったジャンルのマニアモテ系哲学者を読むか、いっそのこと普通にモテ系哲学者を読んだ方が良いだろう。

あなたが哲学専攻の学生だった場合、こういったマニアモテ系哲学者を学ぶのは楽しいことだろう。少なくともあなたが所属する研究コミュニティにおいて、その哲学者はまるでモテ系のような扱いを受けており、ちょっとしたメインストリーム気分にも浸れるからだ。その分、そのジャンル内での研究の蓄積は厚いため、思ったよりもやるべきことは多く、ただのマイナー系哲学者を研究するのとは違った大変さがあるだろう。また、あなたが専門にしている哲学者は、あなたの研究コミュニティにおいては一見モテているような扱いを受けているが、一般的には別にモテていないことを(そういうところにいると忘れがちだが)、できるだけ忘れないようにしよう。その謙虚さがあれば大丈夫。あなたの努力次第によっては、その哲学者をモテ系に押し上げることが可能かもしれない。

次回は…とくに決めていない

モテ系哲学者?非モテ系哲学者?(非モテ系編)


モテとか非モテとか、最初に言い出したのは誰なんじゃろうなぁ…。

この世に生を受けた以上、いつかは垣間見てみたい、モテの向こう側。

しかし世の中には、「非モテ」になることを運命づけられた者たちも少なからずいて、それは哲学者であっても例外ではない。

哲学者や哲学専攻の学生は、どちらかというと非モテ系に親近感があるかもしれないが、かつてモテていたフランス現代思想系のように、「本人がモテている感」がハンパないというパターンもある。

第3回目となる今回は、ついに登場した「非モテ系哲学者」!

(第1回「モテ系哲学者」はこちら。第2回「かつてモテ系だった哲学者」はこちら。)

本論に入る前に、今一度整理しておこう。
一般人や哲学をあまり知らない人が哲学に触れるきっかけを与えてくれるような、キャッチーな言葉と絶妙な分かりやすさと難解さを併せ持った、いわば中二達の永遠の伝道者が「モテ系哲学者」。ニーチェとウィトゲンシュタインのツートップはおそらくしばらく不動だろう。かつてはそのような立場にあったにもかかわらず、いまは影響力が落ちていたり、微妙に「ダサい」扱いを受けているのが「かつてモテ系だった哲学者」。サルトルを筆頭に、フランス現代思想の面々はいまや概ねここに入るだろう。
そして、一般人にはどうにもアピールしないけど、専門家からだけはやけに高く評価されているのが「非モテ系哲学者」である。これを「専門家からだけモテている」と表現することも可能だけど、気を付けないといけないのが、専門家からのモテとは、一般人からのようなアイドル的なモテとは違い、「○○は重要だよね」といったモテ方である。なかには狭いジャンル限定でアイドル的な人気を誇る哲学者もいて、そういうのは特殊ジャンル:「マニアモテ系哲学者」に分類される。このマニアモテ系はたんなる「マイナー系」のこともあるし、一般的な認識は「古典系」だったりすることもある。しかし一旦そのジャンルに踏み込むと、まるで「モテ系」であるかのような扱いを受け、一般人や初心者は困惑することが多い。

今回紹介するような非モテ系は、そういった地下アイドルのようなモテ方をすることもなく、ただひたすら一般人からは「そんなひといたっけ?」とか言われ続け、専門家からは「○○は重要だよね」と熱量の低いモテ方をしている、非常にストイックな哲学者たちのことである!

なので、非モテ系哲学者が悩める高校生のための、哲学への登竜門になることは極めて稀である。ここに挙げられているような哲学者に憧れて哲学に目覚めたという高校生(かつての高校生)がいたなら、その人は相当の変わり者だと思った方が良い。

さて、そんな非モテ系だが、個人的にはこの哲学者を筆頭に推すことにしたい。
それは
エドムント・フッサール(1859–1938)
である。
フッサールほど、一般人の認識と専門家の認識が違う哲学者も珍しいのではないか。
現象学という学問を創設し、そこからはハイデッガーというモテ系の雄を輩出し、ほかにもサルトル、メルロポンティといった華やかな面々がフッサールの哲学に私淑している。また「かつてモテ系だった」の大先輩マックス・シェーラーを同僚とし、助手には女性哲学者エディット・シュタインが控えている。(彼女は後にトマス・アクィナスファンになってしまうが。)
しかし本人は至って地味である。
そもそも現象学者であっても、フッサール研究者以外はフッサールの著作をまともに読んでいない可能性が高い。(いや専門家は読めよ!と思うが。)
なぜフッサールが非モテなのかというと、いろいろ理由は考えられると思う。
まずモテ系の弟子と訣別してしまったが故に、大量にいるハイデッガーファンの方々が「フッサールの野郎はハイデッガー様に乗り越えられた」という認識を持ちやすいということ。(専門家はさすがにそこまで思わないだろうけど、あくまで一般的な認識、ね。)
また、著作がしっちゃかめっちゃかで、あまり体系的にまとまっていると言えず、しかも死後刊行の遺稿が大量にあること。まずこの「遺稿がいっぱい」という時点で、ちょっとした専門家も怯んでしまうのに充分だ。「え、フッサールについて何か言う場合は、あの大量の遺稿も読まなきゃダメなの?」と。
そして、まぁ日本的な理由としては、主著である『論理学研究』と『イデーン』に文庫版がなく、入手が難しいこと。『イデーン』がI-1, I-2, II-1, II-2, IIIというわけのわからない刊行形態になているため、初心者を無用にまごつかせていることが挙げられると思う。
それでも、フッサールが哲学史的に(現象学というジャンルを離れると幾分割り引かれるが)とても重要な仕事をしたことは、専門家であれば誰もが認めるところである。(ハイデッガー研究者でさえも。)
個人的な感覚としては、フッサールのとくに『イデーンI』なんかは、きわめて正統な西洋哲学の後継者であり、言うほど難解なイメージは受けないのだけど、やはり20世紀にも入って、これからは科学技術だなんだと言われている時代にあれは、相当地味だったんじゃないかと思われる。
とりあえず現状文庫で手に入るフッサールの著作が『デカルト的省察』と『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』という最晩年のもの、それに遺稿集『間主観性の現象学』というのをどうにかした方が良い。(もちろん文庫化されたからといって、フッサールがモテ系に変貌するかと言えば、その可能性は極めて低いが。)

ほかに非モテ系として挙げられるのは
ゴットロープ・フレーゲ(1848–1925)
チャールズ・サンダース・パース(1839–1914)
などであろうか。
フレーゲにしろパースにしろ、それぞれ分析哲学やプラグマティズムの創始者と言っても過言ではないのに、そもそも専門家以外からは見向きもされない。そもそも専門家も「フレーゲは大事だよね」「パースは大事だよね」と言いながら、フレーゲ研究者やパース研究者以外はあまりまともにとりあっていない、いわば敬して遠ざけている印象がある。

そうか、そもそもあるジャンルの創始者というのは、得てして非モテ系になりやすい傾向にあるのかもしれない。
フレーゲの場合はラッセル、パースの場合はジェームズというモテ系の傾向性を備えた弟子や紹介者をもち(この場合は二人とも弟子ではないが)、彼らの思想を一生懸命紹介しようとするのだけど、むしろモテ系の素養をもつラッセルやジェームズといった人たちの方が一般的にはモテて、本人たちは専門家から高い評価を受けるだけという状況が続いてしまう。
しかしラッセルにしろジェームズにしろ、そしてハイデッガーにしろ、偉大なる非モテ系の思想を世間に一生懸命広めようとしたはずだ。(ハイデッガーとフッサールの場合は「オメーの解釈は間違ってるんだよ!」の言い合いによって訣別してしまったが)

なぜフレーゲやパースはモテ系になることができなかったのだろうか?
この二人の場合、人格的にやや問題があったというのがあるが、人格的な問題ならウィトゲンシュタインの方がよっぽど問題あったし、ハイデッガー、ニーチェのような強烈なキャラがモテ系になっているわけだから、人格的な問題はモテ・非モテにあまり影響を与えないのかもしれない。(むしろ人格円満より、適度に人格破綻していた方が、悩める若者にヒットするかもしれない。)
まず挙げられるのは、フッサールの場合と同じように、著作全体の全貌が掴みにくいというのがあるかもしれない。フレーゲについてはまぁちょっと遺稿集が出ているぐらいだけど、みんな論文「意義と意味について」は参照するくせに、フレーゲの専門家以外はそれ以外の著作についてあまり知らなかったりする。パースも似たようなもので、『連続性の哲学』が岩波文庫に入っていたけど、それ以外の著作はアンソロジー『パース著作集』か最近出た『プラグマティズム古典集成』に当たるしかない。またパースの場合はフッサールと同じように、遺稿が大量にあって、いまだにちゃんと整理されていないというのも大きい。
フレーゲの場合、逆に「意義と意味について」ばかりが有名になりすぎて、他の著作が隠れてしまったという弊害があるかもしれない。余りにもひとつの著作や論文が有名になりすぎると、それ以外は見向きもされなくなるパターンだ。面白いのがバートランド・ラッセルで、彼は一般的には「かつてモテていた系」になると思うのだけど(イギリス本国での話)、分析哲学の研究者たちは「指示について」ばかりを参照していて、まるでフレーゲと同じような非モテ系の取り扱いをしていることだ。
まぁそもそも分析哲学というジャンル自体が、専門家による同好会、いわば一種の「巨大な非モテ空間」と言えないこともないが。(ラッセル、ウィトゲンシュタインといったモテの香りのする師弟コンビは、分析哲学の中では微妙に傍流だったりする。)

最後にもう一人、特殊なモテ方をしている哲学者を紹介しておこう。
それは
アレクサンドル・コジェーヴ(1902–1968)
である。
この人、世間的にはまったくの無名である。コジェーヴを読んで哲学に目覚めたという学生がいたら、その人は割と真剣に自分の置かれた環境と頭の状況を心配した方が良い。また、専門家たちも口をそろえて「コジェーヴは大事だよね」と言っているわけではない。20世紀初頭のフランスにおけるヘーゲル受容に興味のある研究者が注目しているぐらいである。あと、政治哲学なんかの研究者には割と注目されている。つまり、べつに研究者にも、そんなにモテていないのである。それではただの「マイナー系」かと思いきや、単純にそうとも言い切れないところがある。
なんとこの人、哲学者本人たちにモテているのである。
彼の主著と言えば『ヘーゲル読解入門――『精神現象学』を読む』である。
何ともパッとしない題名である。『論理哲学論考』!とか『ツァラツストラかく語りき』!とか『存在と時間』!のような強烈なインパクトがない。
題名を聞いても「あっ、ふーん」てなもんである。
しかし彼の講義には、後の20世紀フランス思想を彩る哲学者・思想家・文学者たちが出席していたのである。その名前を挙げると:レイモン・クノー、ジョルジュ・バタイユ、モーリス・メルロポンティ、アンドレ・ブルトン、ジャック・ラカン、レイモン・アーロン、ロジェ・カイヨワ、ミシェル・レリス、アンリ・コルバン、ジャン・イポリットなど。
もう20世紀の大スターたちである。
そんなモテ系スターたちにモテまくっていたのに、一般的には知名度が皆無に等しいし、専門家からもそれほど注目されているとは言い難い。
20世紀のヘーゲル受容にマルクス主義的な方向性を与え、戦後におけるフランスの左翼的思想潮流の流れにかなり強力な影響を与えたはずなのに、アーティスツ・アーティストみたいな存在。
そんなコジェーヴ、専門家のなかででも、もうちょっとモテて良いんじゃないかと思うけど、「このまま、違いが分かる人にだけひっそりと愛されるのも良いかな」なんて気持ちもちょっとあることは否めない。

まとめ

非モテ系哲学者は、一般人からほとんど注目されていないが、専門家からは「○○は大事だよね」といった、熱量の低いモテ方をしている。しかし専門家が口をそろえて大事だと言うからにはその根拠があるわけで、実際に哲学史的にはむちゃくちゃ重要だったりする。しかし何らかの理由により、その大事さにもかかわらず、一般にはあまり浸透していない、そんな無骨で骨太な哲学者たちが非モテ系なのである。
彼らの特徴をいくつか挙げるとすると、
・著作が厖大、未整理、遺稿が多いなど、全貌が掴みにくい
・しばしば各ジャンルの創始者だったりする
・弟子や紹介者にモテ系がいて、そっちの方にばかり注目がいく
・著作の日本語が少ないか、あってもハードカバーでバカ高い
などであろうか。
他にも悪文、文章が無味乾燥といったところがあるが、古典系の大御所にもそういう要素をもったのは割といて、そういう人たちは当時から非モテ系だったのかというと、逆に若者のハートをがっちりわしづかみにしていたパターンもあり、正直なところ悪文であるからといって非モテ系に分類されるとは限らない。(ヘーゲルなんて、当時の若者にはモテまくっていた。)

もしあなたが哲学好きな一般人だったなら、非モテ系哲学者から入るというのは少し勇気がいることだろう。そもそもこの手の哲学者の原典は翻訳が少ないか、あってもバカ高いハードカバーばかりで、「もし面白くなかったらどうしよう」とか、「相性が合わなかったらどうしよう」という心配がある人にお勧めしにくいのは確かである。但し専門家には熱量の低いモテ方をしているので、本格的な入門書、解説書は豊富にあったりする。また、高価な原典、無骨な文体、専門的な内容といった諸々の(決して低くない)ハードルをクリアしていくことができたなら、そもそも彼らの内容は哲学的に素晴らしいわけで、あなたの思考力をきわめてクリアに研ぎ澄ましてくれるだろう。とはいえ、そこまでして苦行僧のように読み進める読書体験が、すべての哲学愛好者に合うとは思わないので、精神的マゾヒストの人にだけお勧めする。遭難の危険性が高い、雪山登山のようなものだと思って戴ければ良い。途中で死ぬ可能性も高いが、昇り切った後の景色の素晴らしさは保証する。

もしあなたが哲学専攻の学生の場合、こういった非モテ系哲学者を選択するのは、ひとつの選択肢としてアリだろう。むしろ、こういう無骨な哲学者をガチガチに勉強するのは哲学的基礎体力の向上にも役立つし、モテ系哲学者を専門にしている奴らに、「フッ、お前らが神の如く崇めている哲学者も、しょせんはフッサールの手のうちで踊っているに過ぎん…」と密かな優越感を抱くことができる。但し、そういう奴らに「乗り越えられた」と反論された場合の反駁パターンはいくつか用意しておく必要がある。また場合によるが、非モテ系哲学者の場合、大量の遺稿が残っていたり、著作の翻訳が古かったりする割に研究者の数はそれほど多くないので、「遺稿の整理」「著作の校訂」「主著の和訳」など、研究者としてかなり本格的な仕事に携われる可能性が高い。非モテ系哲学者たちは、一般人へのアピールは弱いかもしれないが、専門家へのアピールは充分なわけで、噛めば噛むほど面白くなっていくことは保証できる。とはいえ、一般人に自分の専門を説明する際に、自分の期待したほどの反応が返ってこないことに耐えられるだけの平常心は鍛えておかないといけない。しかし心配する必要はない。こういった哲学者を専門に選ぶということは、あなたにも非モテ系の素養が充分にある可能性が高いので、一般人から「えー、誰それ?いたっけ?」といった反応をされても、「えぇ、まぁ、一般的には知名度ないんですけど、哲学史的には重要なんですよ」といった、熱量の低い弁明は難なく返せるであろうことを期待している。

次回は特殊ジャンル:マニアモテ系

2016年9月3日土曜日

モテ系哲学者?非モテ系哲学者?(かつてモテ系だった編)


祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす

思わず『平家物語』の冒頭を口ずさんでしまうほど、人間の世の中は儚いものである。
真理は永遠だと言いながら、それを探求する我々人類は、どうあがいても百年ぽっち。
かように人の世の移り変わりは激しいもの。
それがモテ・非モテともなると、その激しさは言うまでもない…。

モテ系・非モテ系哲学者第2回はかつてモテ系だった哲学者編である。
(第1回モテ系哲学者編はこちら

かつてモテていた…。世の中にこれほど空しい言葉があるだろうか。
飲み会でおじさんがかつてモテていた自慢を始めたとしたら、その結果は話を聞くまでもなく明らかである。場の空気がおかしくなって終わりである。

しかし今回は、その古傷を敢えて掘り起こすことにしよう…!
かつてモテていた…!
あぁ、これほど悲しい言葉があるだろうか!
一度もモテたことがないのに比べればマシと言われるかもしれないが、落差があるだけかつてモテていた方が悲惨度は高い。)

ここにおけるモテ系非モテ系の言葉の使い方については、第1回を参照してほしい。

さて、それでは始めようか…。

やはりかつてモテ系だった哲学者の筆頭は
ジャン・ポール・サルトル(1905–1980)
を措いてほかにいないだろう。
何しろ早瀬優香子のデビューシングル名は『サルトルで眠れない』(作詞:秋元康、86年)である。まぁ時代的にサルトルがもてはやされた全盛期は過ぎているけど(没後だし)、これまでアイドルのシングルのタイトルにまでなった哲学者がいただろうか…?(もちろんここでは揶揄的な意味が強いんだろうけど)

かつて大学生たちは分かりもしないサルトルをこれみよがしに鞄にいれておくのがオシャレだったというが、そのなかで果たして読破した人はどれくらいいたのだろうか…?
いまは文庫化されて入手のハードルがさがったとはいえ、主著『存在と無』の分厚さったらない。あれは見ているだけで読む気をどんどん削いでいく。
さすがに大学生たちが鞄に入れていたのは『存在と無』じゃなくて『嘔吐』とか『実存主義とは何か』あたりだろうか。
しかし現在の状況を見てみると、どうだろうか?
サルトルを読みたい!という若者は当時に比べてガクンと減ったと言わざるをえないだろう。
(いないとまでは言わないけど)

それでは、なぜサルトル人気がここまで凋落したのか?
思うに、サルトルの人気は、その著作というよりも、キャラ人気に依存していたところが大きかったのではないだろうか?
あの強烈な押し出しの顔面は、一度見たら忘れられない強力な印象を残すだろう。(ちなみにサルトルは一般的に言えば不細工だろうけど、アーティスト系の女性のなかには(しかも美人)、「私は彼の外見じゃなくて才能に惚れてるの」とアピールするために、こういう才能のある不細工とくっつく人が少なからずいるように思われる。実際サルトルもモテていたようだ。以上邪推。)
さらにボーヴォワールとの奇妙な事実婚。ボーヴォワールに関連したイメージもすべてサルトルに紐付けられるから、いやがおうにもサルトルの印象は強くなる。

また、第二次世界大戦後の時代の空気とも合致していたように思われる。
左翼の潮流が世界中で主流になっていたとき、アンガージュマンを叫んで活動する哲学者として、なかば運動家のようになっていたサルトルは、まさに「時代に愛された」と言えるだろう。
日本においても、60年代の大学生たちの左翼的空気を考えれば、サルトルの芸風(?)はベストマッチしていたのではないだろうか。

しかし、まぁ主著があの『存在と無』。
手許に置くだけでゴンゴン読む気が削がれていく『存在と無』。
結局サルトルという強烈なキャラがいなくなってしまうと、彼の思想そのものは若者たちを惹きつけるには難解すぎたということなのだろうか。
あと、時代と寝過ぎたために、その次の世代の若者からは「ダサい」と思われてしまったということもあるかもしれない。

まぁサルトルがかつてモテ系だった哲学者であることに異論のある人は少ないだろうけど、次のリストアップには反論のある人も多いのではないかと思われる。
それは
ジル・ドゥルーズ(1925–1995)
ミシェル・フーコー(1926–1984)
ジャック・デリダ(1930–2004)
の三人である。
デリダはいまでもモテてるぞー!と言う人もいるかもしれないが、やはり一時期の、デリダを良くしらない人も「脱構築」とか言っていた時期に比べると、プレゼンスはガクンと減ってしまったと考えて「かつてモテ系だった枠」に移ってもらった。
もちろんドゥルーズ、フーコー、デリダはモテていた時期が最近であるため、いまだに現役の研究者も多く、そのため関連本はいまでも多く出版されているけれど、じゃあいまでもモテてるかと言うと、ニーチェウィトゲンシュタインのように、悩める高校生の心をわしづかみにすることは少なくなってきたのではないか。

この三人が「かつてモテ系だった枠」に移ってしまった原因のひとつとして、フランス現代思想のブームがひと段落したということもあるだろう。(フランス現代思想はいまでもモテてるぞー!という声はひとまず無視)
浅田彰が『構造と力』を書いたのが1983年。バブル直前のこの時代から始まったフランス現代思想のブームが、ようやく30年ほどたって落ち着いてきたということだろうか。
そう考えると、モテ系として一般人にアピールし続けるためには、分かりやすい入門書や啓蒙書の存在も必要不可欠なのかもしれない。ウィトゲンシュタインだって最近の高校生人気は永井均経由だったりするパターンが多いので、もしかしたら千葉雅也の本を読んでドゥルーズに興味もつ高校生が今後でてこないとも限らない。
そうなると、逆に言葉の迫力だけで若者のハートをがっちり掴み続けているニーチェってホントにすごいな…。

さて、デリダはまだ現役でモテていると言う人がいるかもと上で書いたけど、この枠にはもう一方の境界線がある。
それは「かつてモテ系だったとすら言えないぐらい古くなった」パターンである。
たとえば戦前の学生たちの「デカンショ」の語源になった「デカルト」「カント」「ショーペンハウアー」なんかは(諸説ある)、もはや「かつてモテ系だった」とも言えないだろう。
個人的な判断では、デカルトとカントは「古典系」、ショーペンハウアーはいちおう「マイナーな古典系」に振り分けられる。(かつては一世を風靡した新カント派はほとんどが文句なしの「マイナー系」になってしまったし、ドイツ観念論もかなり怪しい。)
そう、「モテ系」の哲学者はその後「かつてモテ系だった枠」に移り、その移行期間を経たのちに「古典系」になるか、ただの「マイナー系」になるかが分かれるのである。(非モテ系はそれとは別の流れを辿ることになる。)
そう考えると、サルトルやフランス現代思想の面々は、今後古典系にいくかマイナー系にいくかの試験期間に入ったと言えるだろう。(我々が生きているあいだはまだ「かつてモテ系だった枠」に留まり続けるかもしれないが。)

もちろんかつてはモテていた哲学者たち、ほかにもいっぱいいると思われる。
日本だと吉本隆明や浅田彰がそうだろう。柄谷行人は…どうだろうか?
また、日本ではそもそもモテていたかどうか怪しいが、イギリスにおけるバートランド・ラッセルなんかはこの枠に入るんじゃないだろうか。

まとめ

かつてモテ系だった哲学者は、やはり一度はモテ系だったこともあるため、基本的にはモテ系の要素を満たしていることが多い。しかし彼らがモテ系に留まることができなかったのにも、いくつか理由があるはずだ。
考えられるものとして、
・キャラ人気が先行し過ぎた。
・時代の空気とあまりにもピッタリ合致し過ぎた。
・優秀な紹介者がいなくなった。
などの理由が考えられるだろう。
三つ目は地味に大きな役割を果たしているのかもしれない。

もしあなたが哲学好きな一般人だったら、かつてモテ系だった哲学者から入るのもいいだろう。とにかく一度はモテていたわけで、その分関連書籍なども多く、いろんな入口が用意されているからだ。しかしあなたが高校生や大学生などの若年であれば、少し気を付けた方が良い。かつてモテ系だった哲学者には、もれなく「口うるさいオールドファン」がくっついているため、必然的に彼らの相手をする機会が多くなるからだ。でも安心して欲しい。そういうオールドファンの大半も、ブームに乗っかって彼らをかじっていただけで、ちゃんと読了し、しかも理解している人となると意外と少ないからだ。若いあなたが本気出して読めば、彼らがテキトーなことを言っていることはすぐ分かるだろう。とはいえそういうオールドファンの偉そうな口ぶりの裏には屈折した愛情が隠れているため、出来る限り優しくしてあげて欲しい。

もしあなたがかつてモテ系だった哲学者のオールドファンだったなら、これと逆のことに気を付ければいいだけだ。かつては高価だった原典も、いまは文庫化されて手に入りやすくなっていることが多い。あのときはサッパリ分からなくて、カッコいいキーワードだけで友達と議論していたかもしれないが、いまのあなたには経験も分別も加わっているはずだ。もう一度原典をひも解いてみると、かつては気付かなかった彼らの魅力を再発見できるかもしれない。かつての青春の思い出が、ビリー・バンバンの曲とともに(またはH2Oの曲とともに)蘇ってくるだろう。

もしあなたが哲学専攻の学生の場合、こういうかつてモテ系だった哲学者を自分から選ぶパターンと、自分の指導教官がその哲学者の専門家のパターンがあるだろう。
どちらの場合も先行の文献が多く、はたしてどれを読めばいいか分からなくなることがあるかもしれない。しかも大学院に入り学会発表などする場合、あなたが対峙しなければならない「口うるさいオールドファン」は遥かに手ごわい。なにしろプロのオールドファンなのだ。しかし彼らも、「いまどきサルトルなんてやる学生いないよ?」なんて言いながら、実は心のどこかで喜んでいたりする。「ケッ!オメーの解釈は古いんだよ!」などと思わずに、有り難く教えを乞うのがいいだろう。何事もあらまほしきは先達である。
指導教官が専門家の場合は、すこし事情が複雑になる。きっちり指導教官のもとでその哲学者を学ぶのであれば、最高の教育環境が提示されるだろうが、なかには自分の解釈以外の路線を学生が採ることを嫌う先生もいる。その場合は、完全に指導教官に屈するか、口では従っておきながらテキトーに流しておくか(論文審査で大惨事になるかもしれないが)、大げんかするか、研究室を変えるか、そもそも違う哲学者に専門を変えるかという選択肢がある。
しかしまぁ最近はそんな徒弟制度のような大学院も減ってきているので、たいていはかつてモテ系だった哲学者の専門家として、よきアドバイスをくれるだろう。(その解釈が古くても、笑顔を絶やさないように!)

2016年9月2日金曜日

モテ系哲学者?非モテ系哲学者?(モテ系編)


みなさん、もうお気づきのことかと思うが…。

この世には、モテ系と非モテ系が存在する。(つまり排中律だ。)

あっ!現実から目を背けないで!

なんだかんだ言ってもモテ・非モテの構図は大きく、哲学の世界にもこの分類を当てはめることができると、私はつねづね考えていた。
そう、真理とか深淵とか言っている哲学者たちもモテ・非モテの構図から自由にはなっていないのだ…!

今回は哲学者のなかでもモテ系非モテ系な奴らを紹介してみようと思う。

第一回目はモテ系哲学者編だ!

注意書き
しかし断っておかないといけないが、ここで言う「モテ系」とは、その哲学者が実生活においてどの程度異性(や同性)にモテていたかという意味ではない。
哲学をまったく知らない一般人が「おー、哲学って面白そうだな」とか「この人の本を読むために大学で哲学を学んでみたい」と思わせるような魅力をもっている哲学者を私は「モテ系哲学者」と定義する。しかし時代の流れとは恐ろしいもので、この世には「かつてモテ系だった哲学者」というのも大量に存在する。そのなかには、いまでもそれなりにモテる要素が理解できる哲学者と、なんであんなに熱狂されていたのかさっぱり分からない哲学者もいる…。
逆に「非モテ系」とは、一般人にほどんどアピールせず、もっぱら専門家にばっかりモテている哲学者のことで、彼らのことを「非モテ系哲学者」と定義する。なので、誰にも注目されない(専門家にすら)哲学者のことは指さない。それはモテ・非モテのフィールドにすら上がれない、ただの「マイナー哲学者」である。(とはいえ、専門家からのモテは、一般人からの「キャー!」というモテと違って、「○○は重要だよね」といった風なモテ方である。たまに各ジャンル内限定でモテているという、特殊ジャンル「マニアモテ系哲学者」もいて、この辺りの取り扱いは注意しなければならない。)ほかにも、もはやモテ・非モテすら超越した「古典系哲学者」もいる。ここまでくれば大丈夫、あとは歴史があなたを愛してくれる。

能書きも垂れたところで、さぁはじめようか…!

やはりモテ系哲学者といえば、この二人を挙げなければならないだろう。

フリードリヒ・ニーチェ(1844–1900)
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889–1951)

いまだに「ニーチェ読んで哲学科に来ました」とか「ウィトゲンシュタインにハマって世界について考えるようになりました」とか言う大学生がいるらしいというのですごい。
そして実際にそういう高校生にも何人も会ってきている。
(ただし、ウィトゲンシュタインにハマる学生の半分以上は永井均経由だったりする)

しかも女子学生の比率も結構高いという。
非モテ系の研究者からすると、ちょっと信じられない話じゃないだろうか。
このアピール具合はやはり侮れない。

やはり二人とも、アフォリズム的な言い切りの魅力があるのだろう。思うにこの「モテ系」に入れるかどうかは、「言い切りのカッコよさ」があるかどうかが大きな要素になっているのではないか。
やはり「神は死んだ!」なんて言われると、高校生あたりは「そうだぜ!神は死んだぜ!」と思っちゃうのだろうか。
はたして『ツァラツストラかく語りき』なんていったい何回訳されてるんだ?
個人的には『ツァラツストラ』よりも『喜ばしき智慧』の方が好きではあるが。
しかしニーチェはそもそも24歳で西洋古典学の教授になるぐらい、もともと「ゴリゴリ」の人なので、フリーダム(フライハイト?)になってからのニーチェに惹かれていきなりニーチェの真似をしようとすると、結構大けがする可能性が高い。
基礎をがっちりやってきた達人が「基礎なんてくだらねーぜ!インプロだぜ!自分の情熱にしたがえ!」と言ってるのを真に受けちゃう初心者、みたいな。

ウィトゲンシュタインも『論理哲学論考』の切り詰めた現代芸術のような緊張感と、『哲学探究』のアフォリズムの魅力と、「モテ系」になるための条件をキッチリ備えている人なのだけど、その分奥が深いというか難しいというか、学生が生半可に手を出すと焼死してしまう可能性が高い。
しかも『論理哲学論考』で「哲学は最終的に解決した!」と大見得を切っておきながら、「ぜんぶ間違っていた」と言って出戻ってくる辺り(べつに謝ったりしないところがミソ)、ウィトゲンシュタインのファンからすると萌えポイントなのだろう。
ウィトゲンシュタインは前期と後期でまったく言っていることが違うので、研究者は前期と後期の違いとかを云々するけど、哲学愛好家であればそういうことは気にせず、『論理哲学論考』も『哲学探究』もアフォリズム的に楽しんでしまって問題ないだろう。

個人的には両雄とも甲乙つけがたしなのだけど、本屋での関連書籍の量からするとニーチェに軍配が上がるのだろうか。

しかしこの二人がもっともモテ系ということは、やはり哲学者というのは「こじらせてナンボ」なところあるのだろうか。
冷静に論理的に論証するスタイル、初心者受けは悪いか。
やはり寝技で地味に相手を攻略していくより、打撃で派手にやる方が初心者的にも入りやすいのと同じか。

次点として
マルティン・ハイデッガー(1889–1976)
が挙げられるだろう。
ハイデッガーの魅力もその文体だと思うが、ハイデッガーの場合、アフォリズムによる言い切りの魅力というより、ものすごく粘度の高く、まるでトルコアイスのようにくっついて離れない粘着質の文章がむしろ魅力になっていると思われる。
またハイデッガーが凄いのは、主著とされる『存在と時間』が難解なゴシック建築だとしたら、彼の講演録はまるで流れる名調子を聞いているかのような名文だということだろう。
逆に考えると、あれだけ明晰なことを講義で言える人が、いざ文章を書こうとするとぜんぜん書けなくなってしまうというのも不思議ではあるけど…。(『現象学の根本問題』、『形而上学入門』など、やっぱりねちっこいんだけど、素晴らしい。)
ハイデッガーのすごいところは、最初に壮大な計画を提出して、その詳細な見取図をみんなに見せてワクワクさせておきながら、途中で「やっぱ続きやーめた」とすることだろう。(しかも常習犯)
普通はこれで「ふざけんな!」となるもんだけど、ハイデッガーの場合はそうならない。『存在と時間』なんて前半の1/3ぐらいしか書かれてないのに「未完の大著」扱いしてくれる。ほかの哲学者が同じことやったら「構想倒れ」とか言われるよ?(まぁハイデッガーも言われてるけど)
やってることは『ハンターハンター』や『ファイブスター物語』と同じである。

しかしハイデッガーも、哲学をやろうとする学生は気を付けないといけない。ハイデッガーを専攻する学生はなぜかハイデッガーのような文章を書き始めて、ひとりで袋小路に入るというパターンが…。
またこの人は、現実世界でもモテ系だった。(余談だが)

ほかにもモテ系哲学者を挙げることはできるだろう。(社会学分野でのハンナ・アーレントとか、日本だと永井均、池田晶子とか?但し個人的に池田晶子にはそこまで「深み」は感じないが。)
ただし、ニーチェ、ウィトゲンシュタインを超える哲学者はしばらく現れないだろう。

まとめ

モテ系哲学者はその定義通り、哲学に詳しくない一般人や学生を惹きつけるだけの魅力を備えた存在であるが、逆に哲学を専門に学ぼうとする学生にとっては底なし沼、いわばズルズルと哲学者の魅力だけにはまり込んで、そのまま思索の海に溺れてしまう危険性が非常に高い、とてもリスキーな存在であると言えよう。
そしてモテ系になるために必要な要素として

・アフォリズム的な言い切りがカッコいい
・文章が美しいor難解である(何度も読みたくなる)
・分からない、分からないようなモヤモヤとした気にさせる。
・既存の哲学を破壊・再構築しようとしている(とくに破壊に重点を置いている)

辺りが挙げられるだろう。これらの要素のうちいくつかをもっていれば、モテ系になる資格はある!

もしあなたが哲学好きな一般人であれば、モテ系哲学者から入るというのはひとつの選択肢としてアリだろう。(むしろそれ以外の非モテ系や古典系から入ると、途中で挫折する可能性が高いので、ある意味「哲学愛好者にとっては」もっとも安全な入口と言えるかもしれない。)
なにしろモテ系哲学者は読んでいて面白いし、それだけの深みがあるからだ。関連書籍も多いので、原典、研究書、解説書、入門書に困ることはないだろう。

逆にあなたが哲学専攻の学生の場合、もしあなたが学部で終えるつもりなら、モテ系哲学者たちはあなたの若い情熱を正面から受け止めてくれるだろう。若き思索の衝動にまかせて書きなぐった卒論は、いつかあなたの青春の思い出として、美しくあなたの記憶の1ぺージにおさまってくれるだろう。
もしあなたが大学院に進んで、その哲学者を専門に研究しようとするなら、モテ系哲学者には注意せよ。将来「哲学者」になるつもりならまだしも、大学院に進むということは「哲学研究者」としての修業も積まないといけないということだ。あなたは「哲学」をしたかったのであって、「哲学研究」をしたかったわけではないと思うかもしれないが、大学院に進むというのは、初期衝動とサヨナラするということでもある。速やかに「哲学研究」も進めないと、神じゃなくて自分が死ぬ可能性がある。しかしモテ系哲学者は何だかんだいって、哲学に興味のなかった人を惹きつける魅力があるわけだし、最後まで到達することができたなら、その頂きからの眺めはきっと素晴らしいことだろう。(そのとき、モテ系哲学者という梯子は不要になり、あなた自身がモテ系哲学者になるのだ。)

2016年9月1日木曜日

イブン・シーナーが読んでいたと思われる註釈の状況

イブン・シーナー/アヴィセンナといえば、一昔まえまでは「アリストテレスの註釈を書いた」なんて書かれることも多かった。

この「註釈」という言葉、いろいろ定義は細かいので今回は省くけれども、あくまでも基となるテキストがあって、それにコメントを付ける(何しろcommentaryというのだから)というスタイルだと考えてもらえれば問題ない。

アリストテレス(BC322歿)からイブン・シーナー(980生まれ)に至るまでのだいたい1300年のあいだに、それはもうたくさんの註釈が書かれてきた。

なんとなく、現代の価値観だとオリジナルを書くのが一流で、註釈、コメントは二流というイメージがあるかもしれないけれど、それは現代人の早とちり。むしろ伝統にしっかり依拠しているかどうかというのがとても大事だったりする。

現代の研究論文だって、「完全にオリジナル」な文章はなかなか受け入れられなくて、「出典」「引用」を付けて根拠を示さないと、論文として認められにくいけど、それと同じかもしれない。

じゃあイブン・シーナーはどんな註釈を読んでいたかということだけど、これは完全には分からない。但し、当時のアラビア語世界で流布していたものや、彼自身がコメントで書いているものなどから、ある程度まで絞り込むことができる。

以下では、彼が読んでいたと思われるアリストテレスの『魂について』への註釈が、とりわけアラビア語にかんしてどうなっているか、概観してみたいと思う。(最初に言い忘れていたけれど、中世のアラビア語哲学において、註釈がこんなに大量に書かれたのは『魂について』がダントツじゃなかろうか。そして私は『魂について』以外の状況については余り詳しくないのだ。)

・アフロディシアスのアレクサンドロス(200頃)
彼については、そもそも『魂について』の註釈がギリシア語で現存していないという問題がある。註釈ではなく、彼のオリジナルの『魂について』はギリシア語で現存しているが、こちらのアラビア語訳は現存しない。むしろ『魂について補遺』とでも言うべきMantissaの一部を抜粋した『知性論』が流布し、こちらはアラビア語訳が現存する。イスハーク・イブン・フナイン訳。校訂者Finneganによると、この『知性論』、西方イスラーム世界に比べて東方ではあまり流布していなかったんじゃないかと言っているが、そうでもないようだ。しかし、イブン・シーナーによるアレクサンドロスへの言及などを吟味してみると、アレクサンドロスの意見じゃないものも混じったりしているようで、その全体像が綺麗に伝わっていたかどうかは疑わしいかも。
ほかにも、ギリシア語では散逸してアラビア語でのみ残っている作品も多く、アレクサンドロスを研究しようとする人たち(いるのか?)にとっては、結構うっとうしい存在であると言える。

・テミスティオス(317–390頃)
彼の『魂について』註釈はほぼ完全なアラビア語翻訳が残っている。イスハーク・イブン・フナイン訳。アレクサンドロスの『知性論』なんかに比べて量も多く、ある意味アリストテレス『魂について』の副読本としても読まれていたと考えていいのではないか。それぐらいアラビア語世界では重要。イブン・シーナーもかなりテミスティオスを下敷きにしていると思われる。
そもそもアリストテレスの『魂について』のアラビア語訳自体がいろいろ問題含みなので、「アリストテレスの代わりに教科書的に読まれた」「乗り越えられるべきドグマとしていろいろ批判される」など、ラテン語世界におけるイブン・シーナーの『治癒の書』と同じような読まれ方をされたのかも。
とはいえ、テミスティオスは能動知性内在説で、あれだけアラビア語世界で読まれた割には能動知性内在説を採る人が少ないのは不思議ではある。

・ヨハネス・フィロポノス(490–570)
この辺りからこんがらかってくる。
まずフィロポノス『魂について』註釈は、そもそもギリシア語がおかしなことになっている。テキストは現存しているのだけど、第3巻(表象や知性を論じる、中世ではいちばん重要なところ)のギリシア語として現存しているのは、じつはフィロポノスの弟子ステファノスによるものだとされていて、フィロポノス本人のテキストは、ラテン語訳でのみ現存しているのだという。
しかしこのフィロポノス『知性論』(De Intellectu)は第3巻の第4章から第8章までの翻訳なので、第3巻の第1章から第3章、第9章から第13章までのフィロポノスのオリジナルは散逸してしまっているということになる。(つまりフィロポノスの表象論は散逸しているということ。)
そしてこのフィロポノス『魂について』註釈のアラビア語訳は存在しない。かつて存在したのに散逸したのか、そもそも翻訳されなかったのかも定かではない。とはいえ、イブン・シーナーはフィロポノスの名を挙げているし、彼の議論を見ると、明らかにフィロポノスを知っていた、そしておそらく読んでいたことは確かである。

・アレクサンドリアのステファノス(6世紀から7世紀)
もうここまで来ると、普通のひとには「誰だこいつ?」といったところだろう。
ステファノス自身の名前を冠している註釈としては、アリストテレスの『命題論』への註釈があるが(これもアラビア語世界に影響を与えている)、上にも述べたように、フィロポノスのものとして伝わっている『魂について註釈』のギリシア語テキストの第3巻は、このステファノスのものだという。なんともややこしい。しかもややこしいことに、アラビア語世界には、こちらの、いわば「擬フィロポノス=ステファノス」のテキストも伝わっていたと考えられる。しかも、こちらもアラビア語訳は現存しない。
形はゼロなのに影響ばかりあるとか言われてもどうするんだと思うけれど、伝わってしまっているから仕方ない。なのでイブン・シーナー(に限らず当時のアラビア語世界の人)が「フィロポノス」と言っているときは、フィロポノス本人のことを言っているのか、ステファノスの方を言っているのか気を付けないといけない。
この頃になると後期古代のアレクサンドリアの栄光はだいぶ翳りが見えてきて、641年には新興のイスラーム帝国の手に陥落する。Charltonによればステファノスの文章はきわめて保守的で、そこからは激動の時代に背を向け、古典の世界にのみ生きる絶滅危惧種の朴訥な教師像が浮かび上がってくる。ステファノス自身はキリスト教徒だったらしいが、註釈では同時代の出来事には全くと言っていいほど触れられておらず、まさに象牙の塔に籠りきっていたのかもしれない。