2016年7月1日金曜日

哲学と言葉遊び


提唱者:ハイデガー、レヴィナス、和辻哲郎

テキスト:『存在と時間』、『実存から実存者へ』、『人間の学としての倫理学』

哲学者のなかには言葉遊びが好きな人がいる。
言葉との戯れ、なんて表現するとカッコいいかもしれないけれど、要は「ダジャレ」である。

ダジャレ、なんて言うと怒られるかもしれないけれど、まぁこの辺りは、言葉遊びにどういうスタンスを取るかで変わってくるだろう。

そして、言葉遊びとかダジャレとかの語句で惑わされるかもしれないけれど、これはじつは、「哲学は自然言語に依存するか」という、とーっても深い問題にまで行きつく。(中世アラビア語哲学のような「翻訳哲学」は、つねにこの問題に付きまとわれていた。)

で、言葉遊びについてだけど、哲学者のなかで言葉遊び大好き人間といえば、もうこれはハイデガーをおいてほかにいないだろう。

ハイデガーの言葉遊びで有名なのは、「真理」についてだろう。
「真理」はギリシア語でἀλήθεια(アレーテイア)という。これは(ちゃんとした語源学的に正しいのかどうか知らないけれど、)否定辞のἀ-(ア)とλήθεια(レーテイア)に分離できる。
レーテイアの部分は、さらにさかのぼると、ギリシア神話に出てくる、この世とあの世を分ける川、レーテーの川に到達する。
このレーテーの川の水を飲むと、これまでの人生の記憶がなくなって、また生まれ変わるときに前世のことを忘れてしまうという、そういう水なのだ。
つまりレーテーは忘却・隠蔽である。
真理は「ア・レーテイア」なわけだから、これは「非隠蔽性」のことなのだ!

「な、なんだってー!!!」

…という言葉が聞こえてきそうなくらい(古い)、強引な解釈。(キバヤシはハイデガー好きだと思う)
まぁこの、真理は忘却していないこと、開示されていることだという考え方、スフラワルディーと通ずるところがあるんじゃないかとも思うんだけど。

さて、ハイデガーがどれだけ言葉遊び好きか分かったところで(いまのでわかったかなぁ?)

今度は「存在」についての証拠をお見せしよう。

現存在は、開示態によって構成されているかぎり、本質上、真理の内にある。開示態は、現存在の本質的存在様相である。真理は、現存在が存在しているかぎり、かつその間だけ、《与えられている》(《es gibt》)。
ハイデガー『存在と時間 上』(細谷貞雄訳)ちくま学芸文庫、1963, 1994, p. 468.

うん…。

分からない…。

何言っているのか分からないよ!

でも、ここで重要なのは、上の和訳では《与えられている》「es gibt」。
これはドイツ語におけるthere isのようなもので、「~がある」といった、とくになんてことはない、普通の言葉だ。

ハイデガーはそこに、es gibtが本来もつ、「与えられている」という意味を読み込んでいるのだ。

またもやハイデガーマジック!
みんなこれで納得したのかな?

しかしそこに噛みついた猛者がいた!
ユダヤ人の哲学者、エマニュエル・レヴィナスである。

彼は「~がある」を、以下のように解釈する。

この存在とは、いかなる存在者も自分がそれだとは主張しない無名の存在、個々の存在者ないし存在者たちを欠いた存在であり、ブランショの比喩を借りていえば絶え間ない「騒動」であり、「雨が降る(il pleut)」とか「夜になる(il fait nuit)」といった表現と同様に非人称の<ある(il y a)>である。この語はハイデガーの「ある(es gibt)」とは根本的に異なっている。<ある=イリヤ>はけっして、このドイツ語表現や、そこに含まれている豊饒さや気前よさといった含意の、翻訳でもなければそれを下敷きにしたものでもなかった。
エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』(西谷修訳)ちくま学芸文庫、1987, 2005, p. 11.

レヴィナスによれば、存在はハイデガーが言うように「与えられている」、気前のいいものじゃない。もっと酷薄な、奪うものだのだ。
(この辺りは、彼のユダヤ人としての収容所の体験も関係しているだろうし、彼自身そういったことを書いている。)
それを彼は、フランス語のil y aから解釈する。
フランス語のil y aも、これもまた何の変哲もない「~がある」という言葉なのだけれど、aはavoir(もつ)の変化であり、つまり「~をもつ/取る」という意味が隠れているのだ。

『実存から実存者へ』の該当の箇所には、このes gibtとil y aをめぐる論争(言い争い?)にかんして西谷が註を付けているので、興味のある方はそちらを見ていただくとして…。

何というか…。

とっても肩の力が抜けてしまう。

そのダジャレ、ドイツ語とフランス語でしか成り立たなくない?
そもそも英語だとthere isだから、与えも奪いもしないよね?たしかに非人称的ではあるけど。
もっと言えば日本語だと「~がある」に非人称表現をしないから、日本人にはまったく関係なかったりする。

たしかにこういうのは、ネイティブはものすごく感動するんだろうけど…。

でも日本人には、こういうのいないよなぁ、と思っていたら、いた!
和辻哲郎である!

和辻哲郎は「人間」という語がそもそもは「よのなか」や「世間」を意味しており、そこから「人」の意味へと「誤解」によって転じた例を挙げてから、こう解釈する。

しかしこの「誤解」は単に誤解と呼ばれるにはあまりに重大な意義を持っている。なぜならそれは数世紀にわたる日本人の歴史的生活において、無自覚的にではあるがしかも人間に対する直接の理解にもとづいて、社会的に起こった事件なのだからである。この歴史的な事実は、「世の中」を意味する「人間」という言葉が、単に「人」の意にも解せられ得るということを実証している。そうしてこのことは我々に対してきわめて深い示唆を与えるのである。もし「人」が人間関係から全然抽離して把捉し得られるものであるならば、Menschをdas Zwischenmenschlicheから峻別するのが正しいであろう。しかし人が人間関係においてのみ初めて人であり、従って人としてはすでにその全体性を、すなわち人間関係を表している、と見てよいならば、人間が人の意に解せられるのもまた正しいのである。だから我々は「よのなか」を意味する人間という言葉が人の意に転化するという歴史的全体において、人間が社会であるとともにまた個人であるということの直接の理解を見いだし得ると思う。
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波文庫、1934, 2007, p. 19–20

うーん…。これもまた日本語でしか成り立たなくない?
いわゆる和辻の有名な「間柄」ってことなんだろうけど…。

内容的には、アリストテレスの「人間はポリス的動物である」というのを、日本語の言葉遊びで解説したようなものなんだろうけど、やっぱり何というか…。

個人的には、「哲学が自然言語に依存する」という立場から少し距離を取りたいので、こういったハイデガースクール(レヴィナスも和辻もハイデガーの影響受けまくっている)の言葉遊びに出くわしたときには、面白いと思いながらも、少し眉毛に唾をつけてしまうのだけど…。
(逆にペリパトス派は普遍言語による、ひとつの意味による哲学を目指して行った。)

でも、たしかに我々は日常生活を自然言語を使用しながら営んでいるわけで、そこから完全に乖離した人工言語での哲学って、果たして可能なのだろうか?という疑問ももっともだと思う。

この辺りは、それぞれの人が、どういった哲学を好むかという問題なんだろう。

とはいえ、こういった言葉遊びは必ずしも現象学のなかだけの出来事でもなく、フランス現代思想なんかはre=presentation「再=提示」みたいなダブルミーニングをよく使うので、ここしばらくの流行りみたいなものなのかもしれない。

まぁそれは良いんだけど、でも戦争責任論などで、責任とはresponsibility、つまりresponse「応答」+ability「可能性」であり、他者への応答可能性、相手の問いかけにつねに応答しようとしていく態度こそが「責任を取る」ということなのだ、なんて説明には、ちょっと白けてしまうのも確か。

それって、英語やフランス語でしか成り立たなくない?
ドイツ語だとVerantwortungで意味は同じか…。

でも、こういったヨーロッパ言語に依存した言葉遊びを、まったく言語体系の違う日本人がそこに全乗っかりしてしまっていいのだろうか、という疑問はどうにも拭い去れないんだよなぁ。

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