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2016年9月1日木曜日

イブン・シーナーが読んでいたと思われる註釈の状況

イブン・シーナー/アヴィセンナといえば、一昔まえまでは「アリストテレスの註釈を書いた」なんて書かれることも多かった。

この「註釈」という言葉、いろいろ定義は細かいので今回は省くけれども、あくまでも基となるテキストがあって、それにコメントを付ける(何しろcommentaryというのだから)というスタイルだと考えてもらえれば問題ない。

アリストテレス(BC322歿)からイブン・シーナー(980生まれ)に至るまでのだいたい1300年のあいだに、それはもうたくさんの註釈が書かれてきた。

なんとなく、現代の価値観だとオリジナルを書くのが一流で、註釈、コメントは二流というイメージがあるかもしれないけれど、それは現代人の早とちり。むしろ伝統にしっかり依拠しているかどうかというのがとても大事だったりする。

現代の研究論文だって、「完全にオリジナル」な文章はなかなか受け入れられなくて、「出典」「引用」を付けて根拠を示さないと、論文として認められにくいけど、それと同じかもしれない。

じゃあイブン・シーナーはどんな註釈を読んでいたかということだけど、これは完全には分からない。但し、当時のアラビア語世界で流布していたものや、彼自身がコメントで書いているものなどから、ある程度まで絞り込むことができる。

以下では、彼が読んでいたと思われるアリストテレスの『魂について』への註釈が、とりわけアラビア語にかんしてどうなっているか、概観してみたいと思う。(最初に言い忘れていたけれど、中世のアラビア語哲学において、註釈がこんなに大量に書かれたのは『魂について』がダントツじゃなかろうか。そして私は『魂について』以外の状況については余り詳しくないのだ。)

・アフロディシアスのアレクサンドロス(200頃)
彼については、そもそも『魂について』の註釈がギリシア語で現存していないという問題がある。註釈ではなく、彼のオリジナルの『魂について』はギリシア語で現存しているが、こちらのアラビア語訳は現存しない。むしろ『魂について補遺』とでも言うべきMantissaの一部を抜粋した『知性論』が流布し、こちらはアラビア語訳が現存する。イスハーク・イブン・フナイン訳。校訂者Finneganによると、この『知性論』、西方イスラーム世界に比べて東方ではあまり流布していなかったんじゃないかと言っているが、そうでもないようだ。しかし、イブン・シーナーによるアレクサンドロスへの言及などを吟味してみると、アレクサンドロスの意見じゃないものも混じったりしているようで、その全体像が綺麗に伝わっていたかどうかは疑わしいかも。
ほかにも、ギリシア語では散逸してアラビア語でのみ残っている作品も多く、アレクサンドロスを研究しようとする人たち(いるのか?)にとっては、結構うっとうしい存在であると言える。

・テミスティオス(317–390頃)
彼の『魂について』註釈はほぼ完全なアラビア語翻訳が残っている。イスハーク・イブン・フナイン訳。アレクサンドロスの『知性論』なんかに比べて量も多く、ある意味アリストテレス『魂について』の副読本としても読まれていたと考えていいのではないか。それぐらいアラビア語世界では重要。イブン・シーナーもかなりテミスティオスを下敷きにしていると思われる。
そもそもアリストテレスの『魂について』のアラビア語訳自体がいろいろ問題含みなので、「アリストテレスの代わりに教科書的に読まれた」「乗り越えられるべきドグマとしていろいろ批判される」など、ラテン語世界におけるイブン・シーナーの『治癒の書』と同じような読まれ方をされたのかも。
とはいえ、テミスティオスは能動知性内在説で、あれだけアラビア語世界で読まれた割には能動知性内在説を採る人が少ないのは不思議ではある。

・ヨハネス・フィロポノス(490–570)
この辺りからこんがらかってくる。
まずフィロポノス『魂について』註釈は、そもそもギリシア語がおかしなことになっている。テキストは現存しているのだけど、第3巻(表象や知性を論じる、中世ではいちばん重要なところ)のギリシア語として現存しているのは、じつはフィロポノスの弟子ステファノスによるものだとされていて、フィロポノス本人のテキストは、ラテン語訳でのみ現存しているのだという。
しかしこのフィロポノス『知性論』(De Intellectu)は第3巻の第4章から第8章までの翻訳なので、第3巻の第1章から第3章、第9章から第13章までのフィロポノスのオリジナルは散逸してしまっているということになる。(つまりフィロポノスの表象論は散逸しているということ。)
そしてこのフィロポノス『魂について』註釈のアラビア語訳は存在しない。かつて存在したのに散逸したのか、そもそも翻訳されなかったのかも定かではない。とはいえ、イブン・シーナーはフィロポノスの名を挙げているし、彼の議論を見ると、明らかにフィロポノスを知っていた、そしておそらく読んでいたことは確かである。

・アレクサンドリアのステファノス(6世紀から7世紀)
もうここまで来ると、普通のひとには「誰だこいつ?」といったところだろう。
ステファノス自身の名前を冠している註釈としては、アリストテレスの『命題論』への註釈があるが(これもアラビア語世界に影響を与えている)、上にも述べたように、フィロポノスのものとして伝わっている『魂について註釈』のギリシア語テキストの第3巻は、このステファノスのものだという。なんともややこしい。しかもややこしいことに、アラビア語世界には、こちらの、いわば「擬フィロポノス=ステファノス」のテキストも伝わっていたと考えられる。しかも、こちらもアラビア語訳は現存しない。
形はゼロなのに影響ばかりあるとか言われてもどうするんだと思うけれど、伝わってしまっているから仕方ない。なのでイブン・シーナー(に限らず当時のアラビア語世界の人)が「フィロポノス」と言っているときは、フィロポノス本人のことを言っているのか、ステファノスの方を言っているのか気を付けないといけない。
この頃になると後期古代のアレクサンドリアの栄光はだいぶ翳りが見えてきて、641年には新興のイスラーム帝国の手に陥落する。Charltonによればステファノスの文章はきわめて保守的で、そこからは激動の時代に背を向け、古典の世界にのみ生きる絶滅危惧種の朴訥な教師像が浮かび上がってくる。ステファノス自身はキリスト教徒だったらしいが、註釈では同時代の出来事には全くと言っていいほど触れられておらず、まさに象牙の塔に籠りきっていたのかもしれない。

2016年7月11日月曜日

「すべての始原は水である」と「水!」


提唱者:タレス、アリストテレス、イブン・シーナー、井上忠

テキスト:『形而上学』、『治癒の書』「入門篇」、『根拠よりの挑戦』

日本を代表する哲学者のひとり(?)、井上忠、通称イノチュウは独特の言語感覚をもっており、彼の著作はどれもが「読むドラッグ」とでも言うような酩酊感を引き起こすものだけれど、初期の代表作『根拠よりの挑戦』の冒頭の論考において、彼は以下のように言っている。

こうした空寂の裡に、突然、
「タレス、このかような意味での哲学(ピロソピア)の創始者(アルケゴス)は、水だ、と言う」
との宣言が炸裂する。この言葉が、ただこの一句が、アリストテレス全著作、ひいては全西洋哲学史を貫いて、哲学の開落を告げている。それはあたかも、タレスの水の叫びが、体系めく理論の姿も、説明も纏わず、ただ一つの言葉として、アリストテレスの愛智探求の途に突如響交いわたった驚異の瞬間を、まざまざと示す如く、一瞬のうちにタレスの不動の位置を決定したものである。(……)
万有の始原・原理は何か、との問いがまずあったのであろうか。万有の原理という、この思想が、「水!」以前にあったのであろうか。アリストテレスの筆の運びは明らかに、「万有の存するはそれからであり、すべてがそれから生じ来る第一なるものであり、また終にはそれへと消滅しゆく窮極なるそれ(そこではそれが本当に有ることの所以〔その実体〕は、そのままそれらすべての基(もと)に〔基体として〕とどまっていて、ただそれの受ける様々な様態(パトス)においてのみその転化すなわちその生滅変化が現れる)、こうしたそれを、ひとびとはものの構成要素(ストイケイオン)であり始原(原理)(アルケ)であると言う」と述べたあとを承けて、このそれが水なのだという解釈を示している。勿論これは「講義」のための手法であり、かれ自身の体系構成の方法からの説明である。(……)
実に、タレスの「水!」の発語は、かれの筆持つことへの怠惰の故でも、文献の不足や伝承の疎漏の故にでもなく、初めてあれに、万有の蔭に完全犯罪を遂行して止まぬあいつに、人間が突然出遭ったときの、驚畏と緊張の異様な沈黙のさ中に発せられた一語であったが故に、かく厳しく孤立するのである。
井上忠「プラトンへの挑戦――質料論序論――」『根拠よりの挑戦 ギリシア哲学究攻』東京大学出版会、1974, p. 11–16.
(原文のルビは丸括弧にて指示、傍点は太字とした)

何とも不思議な文章だけれども、これはアリストテレス『形而上学』の記述を下敷きにしている。

しかし、こうした原理(アルケー)の数や種類に関しては、必ずしもかれらのすべてが同じことを言っているわけではなくて、タレスは、あの知恵の愛求〔哲学〕の始祖であるが、「水」(ヒードル)がそれであると言っている、(それゆえに大地も水のうえにあると唱えた、)そしてかれがこの見解をいだくに至ったのは、おそらく、すべてのものの養分が水気のあるものであり、熱そのものさえもこれから生じまたこれによって生存しているのを見てであろう、しかるに、すべてのものがそれから生成するところのそれこそは、すべてのものの原理(アルケー)〔始まり・もと〕だから、というのであろう。たしかにこうした理由でこの見解をいだくに至ったのであろうが、さらにまた、すべてのものの種子は水気のある自然性(フィシス)をもち、そして水こそは水気のあるものにとってその自然の原理であるという理由からでもあろう。
アリストテレス『形而上学 上』(出隆訳)岩波文庫、1959, p. 32–33.
(原文のルビは丸括弧にて指示、傍点は太字とした)

ここでアリストテレスは、原理=始原(アルケー)がどうなっているかについて過去の学説を紹介し、それをひとつずつ検討してゆく。そしてタレスはそれが「水」であると言ったとしている。

たしかにここから「すべての始原は水である」という命題を読み取るのは簡単だし、アリストテレスの文章がそうした命題的な文章への傾向性をもつことは確かだと思う。

でも、そこにイノチュウは待ったをかける。ここでタレスが言ったのは、

「水!」

の叫びじゃないといけない。

「すべての始原は水である」みたいに間延びした命題じゃあない。
哲学のはじまりが「驚き」なのであれば、まさにイノチュウの指摘は、哲学の始まりが何であるかについての厳しい洞察であると言えるんじゃないだろうか。

ここで私はイブン・シーナーによる「概念化」と「承認」という二つの考えに行きあたる。

彼は『治癒の書』「入門篇」第1巻第3章で以下のように言っている:

また事物はふたつの面から知られる:
ひとつ目は、概念化される(=思い浮かべられる)だけであり、それが名前を持っていて発話されたとき、精神のうちにその意味を、真も偽もなしに思い浮かべた場合。たとえば「人間」と言われたり、「私はこのようなことを行う」と言われたり。なぜならあなたは、それによって話されていることの意味を理解したら、それを概念化する(=思い浮かべる)だろうから。
ふたつ目は、概念化と共に承認が生じる場合である。たとえば「あらゆる白さは付帯性である」と言われたとき、これによってあなたに、この言説の意味の概念化が生じるだけでなく、あなたはそれがそうであると承認する。それがそうであるかそうでないかを疑っていても、あなたは言われたことをすでに概念化している。というのもあなたは、あなたが概念化していなかったり理解していなかったりするものを疑っているのではなく、それをまだ承認していないだけなのだから。あらゆる承認は概念化と共にあるが、逆は成り立たない。
Ibn Sīnā, Kitāb al-Shifā’: al-Madkhal, ed. A. Qanawātī, M. Al-Khuḍairī, F. Al-Ahwānī, Cairo: al-Idārah al-ʻāmmah li-l-taqāfah, 1952, p. 18

彼によれば、「人間」とだけ言われるのは概念化であり、「人間は理性的動物である」と言われるのが承認である。
概念化の場合、ただその概念が頭に思い浮かんでいるだけであり、それについて真も偽もまだ言われない。
それが分節化されて、文章になってはじめて論理学的な命題になるのだ。

これはまさに、「水!」という叫びから「すべての始原は水である」への分節化に対応していないだろうか。

もちろんこの概念化は真偽が定かでないのだから、命題的な文章こそを哲学的探求の題材にするペリパトス派的な視点からすると、「哲学以前」の叫びに過ぎないかもしれない。

しかし、承認可能な命題も、かならず概念化されたものから構築されなければならない。

そういった意味では、「水!」の叫びこそが哲学の始まりなのだというイノチュウの指摘と、哲学的命題以前に真偽の定まらない概念化の段階があるとしたイブン・シーナーの主張は、結構似ているのでないかとも思ったりするのだ。

2016年7月9日土曜日

哲学的な文とは命題的な文のことである


提唱者:アリストテレス、アンモニオス、イブン・シーナー

テキスト:『命題論』『命題論註解』『治癒の書』「命題論」

哲学的な文ってなんだろう?

とっても難しい気がする。

たぶん倫理の教科書とかでは、「すべての根源(アルケー)は水である」とか、そんな文章を読んだことがあるかもしれない。

でも、アリストテレスによれば、哲学的な文とそうでない文の違いは明確だ。

アリストテレスは『命題論』第4章で以下のように言う。

言表はすべて対象を表示するものだが、道具のようにではなく、すでに述べられたように、取り決めによって表示するものである。またすべての言表が命題的であるわけではなく、真または偽である言表が命題的である。例えば祈りの言葉は言表であるが、真でも偽でもないように、すべての言表が真であったり偽であったりするわけではない。しかしこういった他の種類の言表は考察対象から除外することにしよう。そうした言表の考察は現在の研究よりも弁論や詩作の研究で行われるものなのだから。そして命題的言表が現在の考察対象である。
アリストテレス「命題論」『アリストテレス全集1』(早瀬篤訳)岩波書店、2013, p. 118–119.

つまり、アリストテレスによれば、命題的で、真か偽か決定できるものだけが、『命題論』での考察の対象なのである。

それ以外のものは、たとえば『詩学』や『弁論術』で取り扱うべきだという。まぁアリストテレスの言いたいことは分かる。たしかに『命題論』で扱うのは(ギリシア語の原題だと『解釈について』だけど)、命題的な文章で、詩的な文章や修辞的な文章はほかのところで取り扱うんだよ、というのはとても理に適っている。

でも、これがアリストテレスの註釈家の時代になっていくともう少し細かく分析されるようになる。五世紀頃の註釈家アンモニオス・ヘルメイウは『命題論註解』の冒頭でこのように言っている。

文章には五つの種類がある。つまり(1)呼びかけ文、たとえば「ああ幸せなる者アトレウスの息子よ」のような。(2)命令文、たとえば「行け!疾く離れよイリス!」のような。(3)疑問文、たとえば「お前は誰でどこから来たのだ?」のような。(4)祈願文、たとえば「ああせめて、父なるゼウスよ…」のような。そして最後に(5)断言文で、これによって我々はあらゆるものに対する断言をおこなうのである。たとえば「しかし神はすべてを知っているのだ」、「あらゆる魂は不死である」など。アリストテレスはこの講座において、すべての単純な文でなく、断言文のみにかんする教授をおこなっている――それには理由がある。というのもこのタイプの文章のみが真偽を受け入れるのであり、哲学者(=アリストテレス)は論証のために論理学の講座全体を編んだのであり、それはこのタイプに分類されるのだから。
Ammonius, On Aristotle's On Interpretation 1–8, trans. David Blank, Ithaca, New York: Cornell University Press, 1996, p. 12.

アリストテレスによると真でも偽でもない言表があるよね、それは命題的ではないから論理学では扱わないよ、という程度だったものを、アンモニオスは文をぜんぶで五種類に分類する。
そして、呼びかけ、命令、疑問、祈願といったものは哲学では取り扱わないと宣言する。(ここで引っ張ってきている例文がホメロスからなのが、いちいち後期古代の教養を見せつけている)

命題的な(真か偽である)文のみを取り扱うのが論理学だけなのか、それとも哲学全体なのかという問題はあるだろうけど(アラビア語に翻訳される段階で『弁論術』と『詩学』は論理学(オルガノン)に含まれてしまうのでまた面倒な話になるんだけど)、アンモニオスのニュアンスでは「哲学的な文章=命題的な文章」と理解しても問題ないんじゃないかなぁ。

そしてもっと時代がくだってイブン・シーナーになるとどうなるかと言うと、彼は『治癒の書』「命題論」で、次のようなことを言っている。(ちょっと長いけど)

言説は、その一部がほかの一部を制限することによって、定義や描写のやり方で組み合わせられうる。また言説の諸部分のあいだに「~なもの」という発話が述べられるのは妥当である。たとえば「理性的で定命の動物」という文のように。というのも、それが「理性的なものであり、定命のものである動物」と言われるのは妥当なのだから。
 またべつの仕方でも組み合わされうる。というのも言説に必要なのは、魂のうちにあるものへの指示であり、指示は、それ自体によって意図されるか、会話内容によってそれに由来するものが生じると予測されるほかのものによって意図されるかである。
(1)それ自体によって意図される指示は述語で、本来的に指示されたものか、祈願や驚嘆などの転化のような、屈折されたものかである。なぜならそれらはすべて述語に還元されるのだから。
(2)会話内容から見出されるものによって意図されるものは、それも指示であるか、指示でなく活動であるかである。もし指示が意図されたなら、会話は調査や質問である。そして指示以外の何らかの行為や活動が意図されたとき、同等からのものは依頼、上からのものは命令や禁止、下からのものは嘆願や請求と言われる。
しかし学問において有益なのは、制限という仕方での組み合わせか(それは定義や描写やそれに類したものによる概念化の獲得にかかわる)、または述語にしたがった組み合わせ(それは推論やそれに類したものによる承認の獲得にかかわる)のどちらかである。そしてこのような仕方の組み合わせから、断言的と呼ばれる種類の言説が生じるのである。
断言的言説はすべてが真か偽であると言われる。そしてほかのいかなる[種類の]言説も、真か偽かと言われないように、断言的だと言われない。よって、それらにかんする考察は、弁論術や詩の規則にかんする考察により相応しい。
Ibn Sīnā, Kitāb al-Shifā’: al-ʻIbārah, ed. M. El-Khodeiri, S. Zāyid et al. Cairo: Dār al-Kātib al-ʻArabī, 1970, p. 31–32.

イブン・シーナーはアンモニオスほど細かく文章の種類を分類していないけど、ちょっと面白いのは、文の種類のなかには「行為を誘発するような文」があると指摘していることだ。でもやっぱり哲学的な文章というのは命題的な文章ということになる。(彼はそれを概念化と承認という二種類に分類する)
イブン・シーナーがちょろっと紹介している、この「行為を誘発するような文」は、いわゆる現代の言語行為論につながっていくものなのだろうけど、彼はそこをちょっと紹介しただけで素通りしてしまう。
やっぱりアリストテレス的な「真か偽である文」という規定がとっても強く支配していたことが分かる。
(言語行為論がオースティンなどに至るまで存在していなかったかというと、古代の教父たちが祈りにかんする考察をしているという主張もあるけれど、個人的にそれほど詳しくないし、彼らの考察が「哲学」かというとちょっと疑問もあるので、ここでは深く立ち入らない。)

おそらく、より文学的な傾向や神秘主義的な傾向をもった哲学や思想は、このアリストテレス的な「真か偽か判断できる命題的な文のみを哲学で取り扱う」という、割と限定的な規定を嫌い、いわばそれを「乗り越え」ていこうとするんだろうけど、たぶんそういった人たちの思想も、究極的な首長が「乗り越え」ているだけで、そこに至るまでの道筋は命題的だと思う。
もしそうじゃなければ、それは神秘哲学じゃなくて神秘主義ってことになるんじゃないかな。イブン・シーナーの、論理を安易に否定する「神秘野郎」への拒否感は、おそらくペリパトス派の典型的な考え方なんじゃないかと思う。

現代の哲学に慣れ親しんだ人からすると、この規定はいかにも窮屈に感じるかもしれないし、哲学の原初の姿勢は命題以前の驚きの叫びなのだという意見もあるだろうけれど、真とも偽とも言えないものを排除しようという姿勢は、改めてアリストテレスが「学問の祖」であることを思い出させてくれる。

2016年7月7日木曜日

名詞中心言語観と動物の言語

提唱者:アリストテレス、ステファノス

テキスト:『命題論』、『命題論註解』

アリストテレスは命題論を以下のような文章で始める。

最初に名詞とは何であるのか、そして動詞とは何であるのかを見定めなければならない。次に否定言明と肯定言明と命題と言表が何であるのかを見定めなければならない。
アリストテレス「命題論」『アリストテレス全集1』(早瀬篤訳)岩波書店、2013, 16a1, p. 112.

ふーん、と思うのだけど、古代の註釈家たちは、ここで名詞が最初に来ていることに注目した。
アンモニオスやステファノスといった註釈家たちは、アリストテレスが動詞よりも名詞を先に解説していることを、理にかなったことだと考えた。
なぜなら、名詞は「事物の存在」を指示しているけれど、動詞は「事物の行為」を指示しており、存在の方が行為より先なのだから。

この「名詞」中心主義的な言語観は古代に限らず、私たちも多かれ少なかれ共有しているように思う。

言語の中には名詞だって動詞だって、それ以外の小辞(前置詞や冠詞など)もあるのに、たとえば日本語をどれか挙げてみてって言われて、「山」や「川」じゃなくて、「走る」や「食べる」、さらには「だろう」や「と」を挙げる人は結構変わってる人だと思う。
(ウィトゲンシュタインが『哲学探究』でアウグスティヌスの『告白』を引用しながら批判したのは、まさにこういう名詞中心の言語観だと思うのだけど、ひとまず我々は古典的な言語観の味方ということにしておきたい。)

アリストテレスは名詞を次のように説明している。

さて、名詞とは対象となる思考内容あるいは事物・事象を表示する音声であり、取り決めによって成立するもので、時制をもたないものである。そして名詞の部分は、全体から切り離された状態では何も表示しない。
アリストテレス「命題論」p. 114.

アリストテレスにとって、名詞というのは人々の合意によって成り立つもので、言霊に基づいてそれぞれの言葉が決定されているものじゃない。

そして、かならず意味に時間が付け加えられてしまう動詞と異なり、時制をもたない。
(「山」に「過去」がくっついていたら怖い。ただ、「昨日」という名詞は時間を指すだろうという指摘もあり、これには註釈家の人たちがいろいろ答えている。)

そして、「イスラーム」という言葉の「イ」と「スラーム」がそれぞれ「イスラーム」がもつ意味の一部を担っているわけではない。
(「哲学」は「哲」と「学」でも意味があるし、「哲学」の意味の部分を指示してない?っていう指摘はたしかにあって、これもいろいろ説明されている。但し、アリストテレスのこの名詞観は漢字のように表意文字を使う文化圏にはそのまま適応しにくいかもしれない。)

以上がペリパトス派による、基本的な名詞の理解である。

もちろんアリストテレスがここで想定しているのは、人間であって、たとえば動物の鳴き声も何らかの意味をもっているだろうけれど、それはあくまで取り決めにしたがっていないため、言語ではないのだ。

 動物の鳴き声が言葉と言えないことを、アレクサンドリアのステファノスは『命題論註解』のなかで以下のようにまとめている。

 「意味をもつ」以下の部分を、彼は構成的種差として使用している。それはこの種の発話音を、分節化されまいがされようが、無意味な発話音から、また分節化されないが意味をもつ音(たとえば書かれない音や、犬の吠え声など)から区別するためである。分節化されるものは、たとえば「山羊鹿」や「ブリトュリ」のようなものである。彼は「合意による」を、「策定による」の代わりに使っている。というのもエジプト人たちは、事物をこれらの名前で呼ぶことに、ギリシア人たちはあれらの名前で、そしてほかの者たちは、同様に、ほかの名前で呼ぶことに合意しているのだから。これは、それらを、ほかの動物たちに作られた音、たとえば犬の吠え声と対比して区別するために言われたのである。というのも犬の吠え声は意味をもつ発話音であるが(というのもそれは友人や異邦人がいることを意味するのだから)、合意によらないのだから;というのも犬は「異邦人が現れたときに我々は吠えます」ということを合意していないのだから。
Stephanus, On Aristotle's On Interpretation, trans. Wiiliam Charlton, Ithaca, New York: Cornell University Press, 2000, 124.

まぁたしかに、犬が吠えるのは飼い主と合意しているわけじゃないか…。

でも、果たしてそれって不可能だろうか?

たとえば犬を訓練して、友達が来たときは二回吠えて、知らない人が来たときは三回吠えるようにしつけたとしたら、その犬はそういう「吠え声使用」をすることを飼い主と合意していることにならないだろうか?

手話で話せるゴリラのココなんかは、手話という、分節化されて合意によって作られた人間の人工言語を使いこなしているんだから、言葉を使用しているということにならないだろうか?

そう考えると、日本の犬と外国の犬の会話って通じるんだろうか…。

何となくだけど、普通にコミュニケーションが取れそうな気もする…。

そうなると、たとえ犬と飼い主のあいだに「合意に基づく」何らかの言語的なものは形成できるとしても、犬の吠え声そのものはやはり(合意じゃなくて本性に基づいているため)言語じゃないってことなのかなぁ。

無矛盾律を否定する奴はとりあえず殴っとけ!


提唱者:アリストテレス、イブン・シーナー

テキスト:『分析論後書』、『治癒の書』「形而上学」

 アリストテレスは『分析論後書』で次のように言っている。

矛盾対立とはその対立それ自身に中間のない対立である。
アリストテレス「分析論後書」『アリストテレス全集2』(高橋究一郎訳)岩波書店、2014, 72a12–14, p. 345.

 つまり、お互いに矛盾しているふたつのものの間には、その中間のものはない、という原則で、これは排中律などとも呼ばれている。(つまり、その「中」間のものを「排」除する「律」ということ。)
論理学の記号で書くとP⋁¬Pということになる。Pまたは非P。
たしかに、そりゃそうだよなぁという気もする。
実際、この排中律は最近に至るまで論理学の大前提のひとつだった。(論理学が発展するにつれて、これが成り立たない世界も出てくるらしいのだけど、そこは手が負えないので…。)

但し、こういった法則は、たしかに哲学の世界では大前提になっていたりするのだけれど、宗教家や神秘主義者は平気で排中律を無視したりする。

ペリパトス派の論理学には、これと並んで同一律、無矛盾律などが基本的な概念になってゆく。

同一律とは、A=Aとなることで、「人間は人間である」し、「馬は馬である」。
これが成り立たなかったら、ちょっとわけの分からないことになってしまう。

また無矛盾律とは、同じものが同時にAでありかつ非Aであることはできないことを言う。
たしかに、「A」と「非A」を同時に満たすようなものがあったら、そりゃすごいよな。

とくに神秘主義なんかは、論理の世界を超えた存在を探求したりするわけだから、こういった論理学の規定なんて、格好のオモチャとも言えるかもしれない。

俺の体験した超越者は、論理的世界なんて軽々と越えてしまってるんだぜ~!と。
(そんな風に言うと怒られるかもしれないけど…。)

でも、イブン・シーナー/アヴィセンナはそういう「神秘主義野郎」をものすごーく嫌う。
たとえば彼が紹介する詭弁には「あなたは同じものを二度見ることはできない。むしろ一度すら見ることができない」とか「事物はそれ自体においてでなく、関係性においてのみ存在をもつ」といったものがある。

たぶん彼が念頭に置いていたのは、神学者や神秘主義者たちなんだろうなぁ。
とはいえ、彼が挙げている詭弁は、たしかに詭弁じみているけれど、こういった物言いが好きな人も多いのは事実だよなぁ。むしろ、こういう言い方でしか真理は語れないのだ!なんて人もいる。

私が思うところ、彼はやはり徹頭徹尾「ペリパトス派理論」の人で、知性で割り切れることを好んだ人なんだろう。彼にとって哲学とは、あくまでも命題的な文の積み重ねである

だから、そういう禅問答みたいなことを言って初心者をけむに巻くような輩を徹底的に批判している。彼は『治癒の書』「形而上学」第1巻第8章で、以下のように言う。(ここの冒頭は真理について語っており、その流れでの議論。)

名詞がたとえば「人間」のようにひとつのものを指示するとき、「非・人間」、つまり人間と相反するものを、その名詞はいかなる面からも指示しない。よって「人間」という名詞が指示するものは、「非・人間」が指示するものではない。もし「人間」が「非・人間」を指示するなら、人間も、石も、ボートも、象も、かならず同じものになってしまう;むしろそれは白いもの、黒いもの、重いもの、軽いもの、「人間」という名詞が指示するものの外部にあるすべてのものを指示するだろう。これらの発話の概念の状態も同様である。よって、以上のことから、それがあらゆるものであること、それ自体がいかなるものでもないこと、そして議論が概念をもたないことが帰結する。
Avicenna, The Metaphysics of The Healing, trans. Michael E. Marmura, Provo, Utah: Brigham Young University Press, 2005, p. 42.(拙訳)

 イブン・シーナーによれば、もし「人間」という名詞があって、それが「非・人間」で指示するのと同じものを指示するなら(つまりP⋀¬P)、「人間」という名詞が指す対象には、石、ボート、象、さらには白いもの、黒いもの、重いもの、軽いものなど、「人間」以外のあらゆるものが含まれてしまう。これはあらゆる名詞に当てはまる。(石と非・石、ボートと非・ボートなど)
そうなると、あらゆる名詞はあらゆるものをさすわけで、結局名詞や、それから組み合わされる議論などはすべて無意味になってしまう。

おそらくこれにかんしては、いろいろ反論することもできるだろうが(たとえば宗教家は、神においてのみ論理法則は破られるのであり、地上においてはそれは保たれるとか言うかもしれない)、こういった輩に対するイブン・シーナーの対処法がなかなかすごい。

頑迷な者には、火を付けてやらねばならない。というのも「火」と「非・火」は同じなのだから。また殴って痛めつけなければならない。というのも「痛み」と「非・痛み」は同じなのだから。また飲食を妨げなければならない。というのも飲み食いするのとそれらをしないのは同じなのだから。
Avicenna, The Metaphysics, p. 43.

うーん、それでいいの?

お前らの理論だと熱いも熱くないも同じになるから、燃やしてやるぜー!って…。
なかなか激しい。
とりあえず殴る!ってお前は承太郎か!と思ってしまうが…。

しかしまぁ、理論を愛し、神秘主義的な「曖昧な物言い」を嫌ったイブン・シーナーっぽい割り切った考え方と、波乱万丈な人生を送った彼の、意外と行動派なところがよく現れてる文章だなぁと感じて、結構好き。
(こういう詭弁を弄するやつには、とりあえず蹴る、みたいなエピソード自体は、たしか古代ギリシアにまで遡るはず。)

Aと非Aは同じ、と言う輩には、「とりあえず殴る!」
みなさんも実践してみては?(もちろん結果に責任はもてないけど…)

2016年7月2日土曜日

多様な言葉とひとつの意味

提唱者:ソシュール、アリストテレス、プラトン

テキスト:『命題論』

近代言語学の父とも呼ばれるフェルディナンド・ド・ソシュールは、言語の恣意性を指摘した。
つまり、我々がイヌと呼ぶものは、英語だとdogだし、フランス語だとchienだし、ドイツ語だとHundだし、中国語だと狗だし、アラビア語だとكلبだし…。
じゃあ、もっともイヌという動物に相応しい名前はどれだろうか?
というと、ソシュールは、それは人間が勝手に決めたことだ、と指摘するのだ。

イヌという名前と、「あの動物」との結び付きは、実は日本語を話す我々が勝手に決めたことであって、dogやchienよりも「あの動物」に相応しいということはないのだ。(もちろん逆もまたしかりである。)

「恣意」なんて日常の会話で使わないのでびっくりするかもしれないけれど、自由気まま、勝手とかいったような意味だ。(日常で「恣意的に物事を決めるなよな!」なんて言うやつがいたら、それはそれで面白いけど)

つまり、我々がイヌと呼ぶあの動物には、それぞれの言語によっていろんな名前が付いているし、それらの名前のどれがイヌにより相応しいということもなく、むしろその名前は、我々が勝手に決めたものなのだという。

よく哲学史や現代思想の教科書だと、これが近代思想へのひとつのおおきな潮流のひとつ、みたいな紹介のされ方をしている。

しかし、じつはこれと同じようなことはすでに古代ギリシアの頃から言われてきた。
アリストテレスは『命題論』の冒頭で以下のように言っている。

声に出して話される言葉は、魂において受動的に起こっているものの符号であり、書かれている言葉は、声に出して話される言葉の符号である。そして文字がすべての人にとって同じではないように、音声もすべての人にとって同じではない。これに対して、音声は第一に、魂がもつ受動的なものの記号であるが、この受動的なものはもとよりすべての人にとって同じものである。また魂がもつ受動的なものは事物・事態の類似物であるが、事物・事態はもとよりすべての人にとって同じものである。
アリストテレス「命題論」『アリストテレス全集 1』(早瀬篤訳)岩波書店、2013, p. 112.

ちょっと分かりにくと思うので図にしてみると、下のようになるだろう。

  • 事物・事態(我々が認識するモノ)=すべての人にとって同じ
  • 魂のうちの受動的なもの(我々が認識したモノの概念)=すべての人にとって同じ
  • 音声=人によって違う
  • 文字=人によって違う

上にいくほど源流に近くて、下にいけばそれらの符号になってゆく。

つまり、我々がイヌを見るとき、その当の犬はいついかなるときにも同じである。
もし見る人によって犬が違っていたら変な話になる。(もちろんここにパースペクティブなどを持ち込んでくると話は変わってくるが)

その犬を見たとき、頭のなかに思い浮かべる概念は(アリストテレスは「魂のうちに受動するもの」という表現を使っているけど)、どの国、どの時代の人が見ても同じはずである。

じゃあ、その犬のイメージを口に出すとき、我々は「イヌ」と言って、イギリス人は「ドッグ」と言い、フランス人は「シエン」と言い、ドイツ人は「フント」と言い、中国人は「ゴウ」と言い、アラブ人は「カルブ」と言う。

さらにそれを文字に書き写す段階になると、もっと多様になるかもしれない。(日本だけでも「いぬ」「イヌ」「犬」「狗」「戌」など、色々な表記法がある)

我々がコミュニケーションをする場合、どうしても音声や文字によってお互いの考えていることを伝える必要がある。でもアリストテレスによれば、音声や文字は人によって異なっている可能性があるのだ。(よく漫画とかで、外国人や異星人とテレパシーで会話するシーンがあるけれど、これは第二段階、イメージの段階で情報の伝達をおこなっているから、言葉が分からなくても通じるってことなんだろう。)

さらにアリストテレスは名詞を定義して、以下のように言っている。

名詞とは対象となる思考内容あるいは事物・事態を表示する音声であり、取り決めによって成立するもので、時制をもたないものである。<……>また名詞が取り決めによって成立すると言ったのは、どんな名詞も自然において成立しているのではなくて、それが符号となるときに成立するからだ。もちろん、例えば動物の鳴き声のように、文字にならない音も何かを明らかにすることはある。しかしこのようなものはどれも名詞ではない。
アリストテレス『命題論』p. 114.

つまり、名詞は自然に決定されているのではなくて、我々人間の「取り決め」によって決定するのだ。これは、まさにソシュールの言うところの「恣意性」を2000年以上先取りしていると言うこともできないだろうか。

でもなんでアリストテレスがこんなことを言うかというと、これは彼の師匠、プラトンへの反論でもある。

プラトンはどちらかというと、日本の言霊信仰に近い考えをもっていて、ものの名前(名詞)はその本性を反映していると考えていた。
だから「つよし」君は強いわけだし、「さとし」君はかしこいわけだ。自分の名前は「優太」なので、えーと、優しくて、太い(?)、のかなぁ…。

アリストテレスは師匠のその説明に、「そんなわけあるかい!」と思ったに違いない。
(但しプラトン(本名アリストクレス)はレスリングの名手で、プラトン(ギリシア語ではプラトーン)とは「幅が広い」という意味なので、その点にかんしてはプラトンの言霊説も合っているんだけど…。本名じゃないしね…。)

たしかに、強くない「つよし」君だって、頭の悪い「さとし」君だって、あまりゲフンゲフン…な「みすず」ちゃんだっているかもしれない。

ただ、個人の名前は後から付けることができるので別としても、普通の名詞の場合はどうだろう?

ひよこは「ぴよぴよ」鳴くから「ぴよこ」で、それが変化して「ひよこ」になったらしい。
蝶々も「てふてふ」と飛ぶからだし、いわゆる「擬音語」「擬態語」が名詞になった例は多い。

その場合、「ひよこ」はひよこの本性をとてもよく表しているとは言えないだろうか?
でも、だからとって「ひよこ」がchickよりもひよこの本性に即しているかと言うと、そうは言えない、というのがアリストテレスやソシュールの考え方だ。

もし「ひよこ」がひよこの本性をもっともよく表しているなら、どこの国の人が聞いても、「なるほど!「ひよこ」だよね!」と思うはずだけど、果たしてそうだろうか?
それに「ひよこ」は「ぴよこ」が変化したものなので、もしそれが本性にピッタリなら、変化してしまうことなんてあるだろうか?

言語の恣意性は、ソシュールの独創性が強調されるけれど、ペリパトス派は実のところ、2000年以上前から「言語は恣意的だ」と考えていたのだ。

でも、彼らは逆に、その手前にある「概念」の同一性は固く信じている。
現代の哲学では、この辺りがつつかれたりしているんだけど、ペリパトス派が論理学で取り扱おうとしていたのは、個体の概念でなく、基本的に普遍概念(個々の犬ではなく、種としての犬)なので、概念の多様性という問題には直面しなくて済んだんじゃないかと思われる。
(もちろん、類+種差というペリパトス派的な定義論にはいろいろ反論もあるのだけど。)

とにかく、「「ひよこ」はひよこの本性を一番よく言い表している!」と主張しても、アリストテレスは苦笑いして、「それは日本人がそう決めたからそう感じるだけさ」と答えるだろう。