2016年6月30日木曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第一部第二巻(2)

第二規則
〈命題の分類〉

(17)条件命題で「~なとき、~である」や「~であるか~である」と言われたとき、その命題が「つねに」や「あるときに」なのは妥当であり、義務である。そうでなければ命題は未決定や誤りである。叙述命題で「人間は動物である」と言われたとき、個々の人間すべてがそうであるか、ただある者だけがそうであるかのどちらかである。人間性それ自体は網羅的である必要はない。もしその必要があったなら、いかなる個人も人間でないことになってしまう。また特定の人間である必要もない。むしろそれは両者に妥当なのである。そして、判断が未決定で誤りでなくなるため、それが網羅的なのかそうでないか決定することにしよう 。個別的な主語をもつ命題を、我々は個別的命題(shākhiṣah)と呼ぶ。

例文「ザイドは書いている」

普遍的(shāmil)な主語をもち、個々のものにたいする判断が決定される命題は次のようである。

例文:「あらゆる人間は動物である」
否定の例文:「いかなる人間も石でない」
というのも、あらゆる命題は肯定と否定、つまり確立と否認をもつのだから。「ある~」によって特定化されているものは次のようである。

例文:「ある動物は人間である(または:ない)」

未決定状態を解消させる語は「量化子(sūr)」と呼ばれる。

例「すべて」や「ある~」など

量化された命題は限定命題(maḥṣūrah)である。全体を限定する命題を我々は「包括命題」(al-qaḍiyyah al-muḥīṭah)と呼ぶ。あるものへの判断が決定される命題を「個別未決定命題」(muhmalah baʻḍiyyah)と呼ぶ。条件的個別未決定命題で我々は「~なとき、~か~かであり得る」と言うことができる。「ある~」には未決定状態もあり得る。なぜなら事物には多数のものがあるのだから。推論中の「ある~」に特有の名前を付けて、たとえばそれをJとしよう。すると「あらゆるJは斯くの如きである」と言われ、命題は包括的になり、誤った未決定状態が解消される。個別命題は、反対や矛盾の一部の局面でしか有益でない。条件命題でも同様に、「ザイドが海にいたなら、彼は溺れるかもしれない」と言われるように。さてこの状態を特定化して、それから網羅的にしよう。すると「ザイドが海におり、彼がボートを持っておらず泳ぐことが出来ないのであればいつでも、彼は溺れる」と言われるが、「ある~」が本質的に未決定であることは否定できない。あなたが学問を探求して事物の「あるもの」の状態を見出そうとするなら、その「ある~」が特定化されない限り、その状態が未決定なままそこで探求される探求対象などありえない。よって、我々が述べた通りにするならば、包括的な命題しかあり得ない。なぜなら個別的事例の状態は学問で探求されないのだから。このとき、命題の規則はより少なく、より正確に、より簡単になる。

(18)知るがよい。あらゆる叙述命題のうちには主語と述語があり、両者の関係性は承認と否認に妥当する。その関係性によって命題は命題になるのだ。その関係性を指し示す語は「繋辞(al-rābiṭah)」と呼ばれる。それはある言語では省略され、関係性を感じさせる何らかの様態が代わりに表記される。

アラビア語での表記例「ザイドは書いている」(zaydun kātibun)
または「ザイドは書いている」(zaydun huwa kātibun)

否定命題(al-sālibah)は、その否定が繋辞を切断するものである。アラビア語では、繋辞を否定するために、否定辞は繋辞に先行していなければならない。

例文「ザイドは書いていない」(zaydun laysa huwa kātiban)

また否定辞が繋辞と結びつき、命題の主語か述語の一部になったなら、肯定的繋辞はその後も存続する。

アラビア語での例文「ザイドは非・書ている」(zaydun huwa kātibun)

上の例では繋辞は存続し、否定を述語の一部にしたのである。このような命題は肯定命題(al-mūjabah)であり、派生命題と呼ばれる 。アラビア語以外では、否定文や肯定文で繋辞の前後関係は考慮されず、むしろ繋辞があり、否定辞が主語か述語の一部であれば、否定辞が命題を切断しないかぎり、命題は肯定命題である。

例文「あらゆる非・偶数は奇数である」(kullu zawjin fardun)

上の例文では、それは非・偶数性の特徴をもつすべてのものに対する奇数性の肯定であり、肯定命題である。精神的な肯定判断は精神的に確立するものにたいしてのみ定められる。個物にかんする肯定文は、個物的に確立するものにたいしてのみ成り立つ。諸条件命題についても、そこに多数の否定辞があっても、順接辞や逆接辞があり続けるなら、その命題は肯定命題である。否定文がほかの状態の考慮なしに否定されたなら、それは肯定命題である。

例文「あらゆる人間が書いているのではない」

上の例文では、ある者は書いていることが可能であり、確定しているのはある者が書いていないことだけである。

例文「人間のいかなる者も書いていないわけではない」

上の例文では、ある者は書いていないことが可能である。連続命題は順接の除去によって否定され、離接命題は逆接の除去によって否定される。

(1)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

スフラワルディー『照明叡智学』第一部第二巻(1)

第二巻

証明とそれらの原理

諸規則を含む


第一規則
〈命題と推論の描写〉


(16)「命題」(al-qaḍiyyah)とは、それについて真か偽であると言われ得る言説のことである。
「推論」(al-qiyās)とは、承認されるとそれ自体から必然的にほかの言説を[生み出す]諸命題から組み合わされた言説である。
命題のなかでもっとも単純な命題は、叙述 命題(al-ḥamliyyah)であり、ふたつの事物の一方がもう一方であるかないかについて判断される命題である。

例文「人間は動物である」

判断対象は主語(mawḍūʻ)と呼ばれ、判断主体は述語(maḥmūl)と呼ばれる。またふたつの命題が別個の命題であることをやめて、ふたつが結ばれてひとつの命題が作られることもある。もし順接(luzūm)によって結ばれるならば、それは「連続条件命題」(al-sharṭiyyah al-muttaṣilah)と呼ばれる。

例文「もし太陽が昇ったならば、昼である」

命題のふたつの部分のうち、条件節は「前件」(al-muqaddam)と呼ばれ、応答節は「後件」(al-tālī)と呼ばれる。それらから推論を作りたいなら、我々は前件の肯定(ʻayn)を抜き出し、それによって後件を必然的に肯定にするため、叙述命題を結び付ける。

例文「しかるに太陽は昇っている」

というのもそれは昼であることを必然的に生じさせるのだから ;または、前件を否定するために後件の否定(naqīd)を抜き出す。

例文「しかるに昼でない」

というのも昼でなければ太陽が昇らないのだから 。なぜなら、もし順接の前件(al-malzūm)が真なら、必然的に順接の後件(al-lāzim)も真であり、順接の後件が偽なら、順接の前件も偽なのだから。しかし前件の否定や後件の肯定は命題を決定しない 。なぜなら後件は前件よりも一般的であり得るのだから。

例文「もしこれが黒いならば 、それは色である」

より特殊なものの否定や偽によって、必ずしもより一般的なものの否定や偽は生じない。また一般的なものの肯定と真によって、特殊なものの肯定と真も必ずしも生じない。むしろ、ただ特殊なものの肯定と真によって、一般的なものの肯定と真が、一般的なものの否定と偽によって、特殊なものの否定と偽のみが必然的に生じるのだ。もしふたつの叙述命題が逆説(ʻinād)によって結ばれるならば 、それは「離接条件命題」(al-sharṭiyyah al-munfaṣilah)と呼ばれる。

例文「この数は偶数か奇数である」

それはふたつ以上の項から成ることも可能である 。実際のところ、その諸項をすべて集めたり、すべてなくしたりすることはできない。離接条件命題から推論を作りたいならば、そのうちのある項の肯定を抜き出すと、必然的に残りの項は否定される――これは一つでも多数でもありうる――またはある項の否定を抜き出すと、必然的に残りの項は肯定される 。もしその命題に多くの項があり、ひとつ項の否定を抜き出すと、それは残りの項にかんする離接命題であり続ける 。連続命題は、ふたつの連続命題から組み合わせられうる。

例文「もし太陽が昇ったらいつも昼であるならば、太陽が沈むといつも夜である」

それらから離説命題も組み合わせられうる。

例文「太陽が昇ったときに昼であるか、太陽が沈んだときに夜であるかである」

変種は数多いが、天才の持ち主にとっては、法則を学んでしまえば、このような組み合わせは難しくない。知るがよい。順接や逆説を駆使して、様々な条件命題が叙述命題に転換させられるのは妥当である。よって我々は「太陽の上昇は、昼であることを必然的に生じさせる」や「それは夜を妨げる」と言うのである。つまり条件命題は叙述命題の転訛したものである。



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*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

スフラワルディーの光の存在論

提唱者:スフラワルディー


 スフラワルディーによれば、この世のあらゆるものは光と闇で構成されているという。

 彼によれば、存在は次のような階梯をもつ。

 ・抽象的光、純粋な光

 ・他者の様態としての光、付帯的な光

 ・基体を必要としない闇、薄暮の実体

 ・他者の様態としての闇、付帯的な闇

 もちろん、上から下にいけばいくほど劣っており、劣悪なものになってゆく。

 この光と闇の構図を見て、イラン系の人などはすぐ「これこそスフラワルディーのイラン的(ゾロアスター教的)要素だ!」と言ったりするけれど、個人的には、これはむしろ新プラトン主義に近いのではないかと思う。(もちろんスフラワルディーのなかにイラン的要素もあるのだけれど、私はWalbridgeなどに倣い、スフラワルディーをプラトニズムの復興者と考える。)

 人間の本質はもちろん抽象的な、純粋な光である。
 そして光の特徴は自己顕在していることである。明るくて逃げも隠れもしていない。だから、自分自身に自分自身がはっきりと見えているのだ。
 スフラワルディーの存在論、認識論はすべて「顕在」⇔「忘却、隠蔽」の対立で語られてゆく。もちろん、「光」と「顕在」こそが目指されるべきものである。

 一方で人間の身体は「障壁(バルザフ:al-barzakh)」と呼ばれるものである。このバルザフは薄暮の実体の一種である。バルザフそのものは、イスラームの伝統における、この世とあの世の中間の世界、キリスト教でいう「煉獄」に近い世界のことを指す。
 光と闇のあいだの、中間的な薄暮のものを、この世とあの世の中間のバルザフと名付ける辺り、スフラワルディーの独特の言語センスが光っているなぁ。(とはいえ、スフラワルディーのこのセンス、いつも成功しているわけじゃない。敢えてペリパトス派と違う用語を使おうとしてわけわかんなくなってることもしばしば…)

 私たち人間の本質は純粋な光であり、光は自己認識する。
 スフラワルディーはここから、独特の自己認識論を展開してゆくのだけれど、Jari Kaukuaによれば、彼の自己認識論は、じつのところイブン・シーナーの空中人間説に淵源するとのこと。
 とはいえ、スフラワルディーの独特の自己認識論は「現前による知識」などとも言われ、ペリパトス派的な「概念化」と「承認」というふたつの認識論を超える、第三の認識として注目されていたりもする。

 光は認識し、闇は認識しない。知識は光にあり、闇は無知である。
 そして私たちの本質は光であるとはいえ、それが宿っている身体は、光とも闇ともつかない、薄暮のものなのだ。
 人間の身体が光と闇の戦いの場であるという考えは、ゾロアスター教よりもマニ教を連想させるが、スフラワルディーの折衷的で混淆的な世界観は、むしろマニ教に近いかもしれない。

2016年6月29日水曜日

プラトンの無貌の世界:宇宙卵

提唱者:プラトン

テキスト『ティマイオス』

 プラトンの『ティマイオス』はアラビア語世界にかなり詳細な形で伝わった数少ない対話篇のひとつである。(とはいえ、その形式は対話篇から論考形式に変えられているけれど。)

 そこで言われるところによると、世界はつるつるでまったく瑕のない完全な球体をしていて、そこには手も足も、目も鼻も口もないという。

 プラトンによると世界と天は同じ意味らしいので、世界とはつまり宇宙のことである。

 つまり、宇宙の形状は完全な球体だという。

 これは、現代の宇宙物理学でも完全に否定し切ることができないのではないか。
 現代の宇宙物理学の進歩は目覚ましいが、それが観測できるのは、あくまでも光が届く範囲、つまり地球にいまだ光が届いていない場所については「どうなっているか分からない」としか言えないのだ。

 自分も子どものころ、宇宙は球体をしている、というか、宇宙は水晶玉のようなものの中に入っていて、その外側にはまったくべつの世界があり、べつの世界の人たちがその水晶玉を見守っているのではないだろうかと考えていた。

 そのため、プラトンのこの宇宙観にはとても親近感がある。
 (もちろんプラトンの宇宙観の場合、この球体の外側には何もない。でも、プラトンは世界の内側から世界を描写したわけで、完全な球体の外側には、球体を蝕む炎や氷じゃなくて、球体を慈しむべつの世界があってもいいんじゃないだろうか。)

 そして、同時に連想するのが、世界卵、もしくは宇宙卵という概念である。

    正確に言えば、球体と楕円形の卵(いやむしろ卵形と言うべきか?)は違うかもしれないが、ここは自由連想ということで許していただきたい。

 世界中には世界、または宇宙を卵のイメージで語るという流れが古代から連綿と続いてきた。
 そのイメージを澁澤龍彦は『胡桃の中の世界』のなかの一篇「宇宙卵について」で猟歩している。この辺りに深く突っ込み始めるときりがないので、そこは澁澤に任せるとして、プラトンが『ティマイオス』で語ったこの無貌の球体としての世界と宇宙卵、何か関連性が見出せるような気がしている。
 単なる予感に過ぎないが。

 プラトンは球体に完全性を重ねあわせており、知性や宇宙といった永遠なる存在は回転運動をするという。
 この「円運動は永遠である」という考えはその後も西洋哲学を深く支配し続け、結局コペルニクスだってここから抜け出せなかった。
 西洋の天文学がプラトンの呪縛から抜け出すには、ケプラーの登場を待つしかなかった。

 そしてもうひとつ、無貌というイメージ。
 これは、『ティマイオス』のもうひとつの大きなイメージ、「場」(コーラ)とも結びつくのではないだろうか。

 無貌の世界。怖くて怖くて、でも何だか魅力的なイメージである。
 私はこの水晶玉のような宇宙を喰い破って、中から何か凄いものが生まれてくるんじゃないかという空想をやめることができないのだ。

2016年6月28日火曜日

スフラワルディーの定義批判

提唱者:スフラワルディー

テキスト:『照明叡智学』第一部第一巻

スフラワルディーによれば、ペリパトス派の定義は不充分だという。

ペリパトス派の定義は、「もっとも近い類+種差」で成り立っている。

そのもっとも有名なのが、人間の定義としての「理性的な動物」というものだと思う。

つまり、人間という種にもっとも近い類が「動物」であり、その種差が「理性的」。

でも、スフラワルディーはそれを否定する。

たしかに、種差が果たして何なのか、分かりにくい。
人間には、「ほかの動物がもたない人間だけの要素」なんて、もっとあるんじゃないの?
「文字を書く」とか「無意味に爆笑する」とか「お互いのアソコの大きさを競い合ったりする」とか。
でもペリパトス派の決まりによれば、人間にとって「笑う」というのは、種差じゃなくて特性。

じゃあ定義に用いられる「種差」はいったい何であれば問題ないのだろうか?

これはスフラワルディーじゃなくても疑問に思うだろう。
人間の定義は「理性的な動物」。
それは問題ない。
オーケー。それでいい。

じゃあ、犬の定義は?
「四足歩行で吠える動物」?
でもこれじゃあ「四足歩行」と「吠える」の二つの要素が出てきてしまっている。

はたして、「犬」をそれ以外のすべての動物から区別する「種差」は何だろうか?

これは個人的に、「人間」以外をペリパトス派のやり方で定義しようとすると生じてきた問題である。

理論は立派なのだけど、それを実地に実践しようとすると、途端に訳が分からなくなる。

一方でスフラワルディーは定義にかんして、ある事物にかんする本質的要素は無数にあるんだから、それをひとつだけ挙げることなどできないと言う。

たしかに、人間の定義が「理性的な動物」というのは一般的に膾炙しているので問題ないけれど、それ以外のものについての定義は結構あやふやだ。

だからスフラワルディーは、「集合」によって、その対象がもっている要素をいろいろ集めることこそが定義だと言う。

スフラワルディーによれば「人間は笑う二足歩行の動物である」という定義もアリなのだ。
(それが「人間は理性的な動物である」よりどれほどの精度をもっているかは分からないが。いや、そもそも「人間は理性的な動物である」といった定義は無理、というのがスフラワルディーの立場か。)

定義される対象がもつ要素を少しずつ加えていって、段々と定義の精度を上げていくというのは、まさにプラグマティズムとも通じるところがあるんじゃないだろうか。

可愛くて、気立てがよくて、優しくて、料理が上手で、笑顔が素敵で…えーと、えーと、そういった要素を加えていくことで、段々定義は精緻になってゆく。

ペリパトス派批判、かもしれないけど、独自の定義論を提示しているという点で、スフラワルディーはペリパトス派を超えている、ということも出来るかもしれない。

ガレノス『ティマイオス敷衍』(9)

IX―その後に彼は形相(al-ṣuwar)すべての存在にかんする一般的説明をおこなった。以下は彼の言葉そのものである:「よってもし知性(al-ʻaql)と正しい考え(al-fikr al-ḥaqīqī)がべつのふたつの類ならば、我々が感覚せず、〈むしろ〉ただ頭に思い浮かべるだけの、それ自体で存立する種(anwāʻ)が必ず存在しなければならない。もしある人たちが考えているように、正しい考えと知性の違いが、肉体のうちで我々が感覚するいかなるものも存在しないということならば、このふたつはべつの種だと言われるべきだということを確実に確定しなければならないだろう。なぜなら、両者は互いに無関係に思い浮かべられるし、類似していないのだから。というのも、我々のうちの一方は知識(al-ʻilm)により、もう一方は説得(al-iqnāʻ)によるのだから。第一のものはつねに正しい推論(qiyās ḥaqīqī)により、第二のものは推論以外によって生じる。更に第一のものは説得によって動かないが、第二のものは説得によって変化する。すべての人間は後者を共有していると言われなければならないが、知性のほとんどは天使たちのうちにあり、人間のうちには僅かな知性しかない。このようならば、天使のうちにある種はひとつであり、生成されず滅びず、お互いに影響を受けず、他者のうちで活動せず、見られず感覚されないことを認めなければならない。以上が我々の記述通りならば、我々は知性が認識した以上の内容を探求しなければならないだろう。それと同じ名前のものは、それに類似しており、それに続く第二のもので、感覚され生成され、つねに何らかの場所(mawḍiʻ)に生成し消滅し、思いなしと感覚によって認識される。第三の種類について言えば、それは消滅を受け入れず、生成するすべてのものに安定や土台を与え、感覚以外によって触られ、誤った考えが信じるものを嘘だと見做す。我々はそれをまるで夢のように考え、この事物が存在するときはいつも、触れられる何らかの場所(mawḍiʻ)のうちに存在しなければならない、なぜなら大地にも天の場所にもないものは、いかなるものでもないのだからと言うのだ。」(51d–52b)ここまでがプラトンの言葉である。

(8)

*底本はKrausとWalzerの校訂版。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月27日月曜日

ガレノス『ティマイオス敷衍』(8)

VIII―ここまで彼がその創造について述べたものすべての生成の原因は知性であると見做されている。後の箇所で彼が述べるほかのすべてのものは必然的に生成すると見做されている。というのも、世界は必然的なものと知性から混淆され生成しており、知性は必然的なものを支配しており、〈というのも、〉知性は生成するものの大部分を、もっとも優れておりもっとも正しい状態にするよう〈必然的なものを説得するのだから〉。それから彼は言った:「この世界は必然的なものを説得したときに発生する。」(48a)必然的なものは、混乱した原因と呼ばれうるもので、彼にとってこの名前は、ごちゃまぜの状態(al-tashwīsh)や、秩序や善良さに従っていないものを指しうる。
それから彼は話を戻して、土と火と水と空気の互いへの変化(istiḥālah)について語った。そして土、火、水、空気すべてを包み込み、それらが変化してもそのままに留まるものを、生成の母や乳母(al-wālidah wa-l-murḍiʻah li-l-kawn)と呼んだ。彼は言った:「母は最初から置かれており、それを模倣するもののように父に従属している。」(50d)なぜなら世界は質料と形相から発生し、生まれるのだから。

(7) (9)

*底本はKrausとWalzerの校訂版。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。


ガレノス『ティマイオス敷衍』(7)

VII―それから彼は言った:「創造主(至高なる神に讃えあれ)は天使たちに、魂たちに死を受け入れる身体を作って、その身体を残りの魂たちに結び付けるよう命じた。そこで天使たちは最初の創造をおこなったが、その基礎(al-aṣl)は世界の諸部分から選抜した火や土や水や空気から天使たちが取ってきたものだった。」(42e–43a)そのあとに彼は、魂と肉体の必然的な結びつきによって魂に付帯しているものについて、なぜ魂は結びつきの当初には知性をもたないのか、なぜ知性はその後に魂の相手になったのかを説明した。それから魂の最初の状態の原因を湿度の多さに、第二の状態の原因を乾燥とした。それから彼は言う:「力強く偉大なる創造主は人間を創造したとき、人間の器官のなかで頭を創造しようとし、そのうちにふたつの神的な回転を作った。」(44d)つまり、創造主は人間のほんの一部しかこの器官に含めなかったのだ。つまり彼は言う:「すべての器官は頭に奉仕するためだけに創造されたのである。両足は歩くため、両手は掴むため、両目は見るために。」(44c–45b)そして彼は言う:「瞳から発出する光り輝く実体が我々を取り囲む空気と結びつき、その光が似たものと混ざり合い、それの変化に合わせて変化することによって、我々は外部〈に〉あるものを感覚するのだ。」(45b–d)私はこの言説を私の著作『ヒッポクラテスとプラトンの見解について』(fī ārā’ buqrāṭ wa-flāṭun)の第七巻やその多くの箇所ですでに明らかにしている。そして私の著作『論証について』(fī al-burhān)の十三巻で本当の論証をおこなっている。とはいえ、プラトンはその著作『ティマイオス』で、〈夢のなかでしか〉現れない像や、鏡のなか〈に現れる像について〉も語っている。我々が視覚から獲得する利益と我々が聴覚から獲得する利益は明らかである。彼は言った:「視覚と聴覚は哲学(al-falsafah)の生成のために作られたのである。」(47b)

(6) (8)

*底本はKrausとWalzerの校訂版。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月25日土曜日

ガレノス『ティマイオス敷衍』(6)

VI―それから彼は言った:「至高なる神は天使たちに汎く言われた:「彼らは生成されたものなので、消滅しないことはない。しかしながら、彼らはいかなる時にも、神の意志や配慮によっても消滅しないだろう。なぜなら天使たちを、世界において死を受け入れる動物が生成するための原因としなければならなかったのだから。というのも、もし創造主が彼らの創造を指揮したら、彼らは天使たちの等級になっていただろうから。」」(41a–c)それから彼は言った:「創造主(至高なる神に讃えあれ)は天使たちに、不死の天性の始まりを与えた(それで理性的魂を意味しているのは明らかである)。そしてこのため、世界の魂が混ぜ合わされている第一の混淆を混淆したとき、前回のものの残りを注ぎこみ、それらをすべて混ぜ合わせ、それらをある面ではそのまま存続するものとして作ったのだ。しかし創造主はそれらをその似像(al-mithāl)のように消滅しないものとして作ったのではなく、第二のもの、第三のものとして作ったのだ。」(41d)
それから彼は言った:「世界の創造が完了すると、創造主は魂を星々の数と同じになるよう分割し、各々の魂をそれぞれの星のうちに置き、魂たちに世界の本性を示し、規範(al-sunan)を定め、魂たちに布告した。」(41d–e)それから彼は言った:「すべての人々にとって最初の生成はひとつで、その持ち主から生成が〈まったく〉不足していない。」(41e)それから彼は言った:「しかし――魂が各々に、各々に相応しい時間の道具に応じて植えつけられたとき――創造主(至高なる神に讃えあれ)は動物のなかで創造主にとって最も優れたものを発芽させなければならなかった。また人間の本性は二種類なので〈…〉そのうち優れた方は、後に男と呼ばれるものである。」(41e–42a)
それから彼は言った:「人間は魂が肉体と結び付けられたあとに、その肉体に出たり入ったりするものを必要とするので、創造主(至高なる神に讃えあれ)はそのうちに生得的な感覚を作り、そのうちに快楽と苦痛が混ぜ合わされた欲望(al-shahwah)を作り、それに加えて恐怖と怒りや、これらに従属するものや、それらに反対のものを作った。人間がそれらを打ち負かしたとき、彼の生命と統括は正義に従っている。逆にこれらのものが人間を制圧したとき、彼の生命と統括は不正に従っている。すべての時間を首尾よく過ごして人生に満足している者は、その魂もそれが出発してきた星々に戻り、彼の生命をより優れて統括することでそこに安住する。しかし彼の生命をそのように[統括]せず、その統括をしくじった者は、第二の生成において女の本性に生まれ変わる。さらにこの本性を維持しなければ、その生成の状態に対応したほかの本性で罰せられ、何らかの野獣の本性に生まれ変わり、これらの生まれ変わりは、彼が最初に立ち帰り、その魂から、自らのうちでつねに同じ状態に留まっている運動によって、彼のうちで理性(al-nuṭq)なく無秩序に混ぜられ火と水と空気と土から成るそれら反芻するものどもを断ち切って、理性でそれらを圧倒し制圧し、それによってもっとも優れていた最初の状態に戻らない限り、決して止むことがない。」(42a–42d)
それから彼は言った:「すべての魂のうちに公正を通したとき(魂たちに定めた律法(al-nawāmīs)とは異なるが)、創造主は魂たちの一部を時間の道具の一部のうちに植え、――ある魂は大地へと移された、管見によればそれは間違いだが――ほかの一部をべつの時間の道具のうちに植えた。」(41d)

(5) (7)

*底本はKrausとWalzerの校訂版。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月24日金曜日

ガレノス『ティマイオス敷衍』(5)

V―それから彼は時間の本性について語り、こう言った:「創造主は惑星の星々とすべての天球の一巡を定めた。つまり、夜と昼はともに天球の運動によって生じ、ひと月は月が一巡して、自らの天球を横切り太陽に追いたときに生じる。一年は太陽がその天球を横切ることによって生じる。」(39c)それから彼は言った:「あらゆる惑星は独自の運動をもっており、多くの人たちはそれに気付いていない。しかしこれらの一巡はすべて、完全年(al-sanah al-tāmmah)の完成というひとつの目的のためである。」(39c–d)
 ティマイオスはこの後に、こう言う:「動物には四つの種類があり、ひとつ目は天上のもの(al-samā’ī)、ふたつ目は飛んでいるもの(al-ṭayyār)、三つ目は水に棲み泳ぐもの、四つ目は大地の表面を歩くものである。創造主は天上のものの姿の大部分を火で作り、その〈理解力〉をもっとも強い一巡のうちに置いた。天上のもののあらゆる者は、自らによって運動する。大地は世界の中心に置かれた。天球のなかには、天球での現れ方の似ているべつの星々がある。」(40a–d)この文章で示されているのが、ある時に現れ、それから消え去る星々なのは明らかである。我々はそういった星を何度も見たことがあり、ヒッパルコス(ibarkhus)がその著作で、またほかの占星術師も述べている。

(4) (6)

*底本はKrausとWalzerの校訂版。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

ガレノス『ティマイオス敷衍』(4)

IV―創造主は世界のなかの魂を、分割されずつねに同じ状態に存続している実体と、物体のうちの分割されるものから作った。よって世界のうちに、つねに同じ状態に存続している実体の本性と、べつの実体の本性を作ったのだ。「分割されないもの」とは〈…〉という意味で、「物体に〈分割されるもの」〉とは、質料のうちの生得的運動という意味で、彼はすぐあとで、そのうちには永久性(al-azaliyyah)があると言っている。彼の意見によれば、もし魂が運動の始まりで、質料がそれ自体で運動するならば、質料が魂をもつことは明らかである。さもなくば質料のうちの魂は混乱し、定められた秩序によらず運動することになる。そのため、創造者(至高なる神に讃えあれ)は質料を整序と秩序に従わせようとして、質料のうちに、本性的につねに同じ状態に存続する魂を作ったのだ。
 それからティマイオスはこの話のあとに、世界の魂がどのようにしてその諸部分に、構成の比例に従って分割されるか描写し、そこで数値を示している。それを終えてから、こう言った:「創造者はその全体を縦にふたつの部分に分割し、両者を互いにもう一方に送り、両者の形がギリシア人の書物におけるش(shīn)の形、つまりXの形になるようにした。そして両者を折り曲げて、片方がもう一方とつながっているふたつの円になるようにした。」(36b–c)この文章で示されているのが、黄道の天球の円と、赤道の円であることは明らかである。また赤道の円の運動はすべての天球の運動と等しくない。この運動のなかには黄道の天球の円が含まれているので、創造主は外側の円を分割されないままにし、内側の円を六か所に分割し、それらから構成の比例に従って七つの天球を作った。魂の実体を分割するとき、彼はこの構成の比例について語った。彼が「七つの天球」で惑星の星々の天球を意図していることは明らかである。
そして彼は言った:「これら七つの天球のうち三つは、同じ速度で運動する。」(36d)つまり、太陽(al-shams)の天球、金星(al-zuharah)の天球、水星(ʻuṭārid)の天球のことである。しかし金星はこの名前で呼ばれず、彼はそれを夜明けの星(kawkab al-ṣubḥ)と呼んだ。そして外側の円を、同じ状態に存続しているものと呼び、内側の円を相互に異なるものと呼んだ。それから彼は、正しい思いなし(al-ẓann)と確信(al-yaqīn)が相互に異なるものの本性からいかにして生じ、知識(al-ʻilm)と知性(al-ʻaql)が同じ状態に存続しているものからいかにして生じるか明らかにした。

(3) (5)

*底本はKrausとWalzerの校訂版。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月23日木曜日

ガレノス『ティマイオス敷衍』(3)

III―この言説に続くのは、世界はただひとつであるというものだ。それにまた続くのは、創造者は世界が物体であることを命じ、確実に見られ、感覚されるものとして作った。見られるものは火がなければなく、感覚されるものは土がなければない。そのため、世界を火と土から創造したのだ。そしてそれらのあいだにべつのふたつのもの、水と空気を作った。なぜなら、単純な表面がひとつの媒介をもつように、物体化されたものはすべて、ふたつの媒介をもつのであり、これはエウクレイデスが(awqlīdus)明らかにしている。その実体から、世界を超えたものは残されなかった。なぜなら、創造主は世界がつねに、影響を受容しないものであり得るように作ろうとしたのだから。というのも、もし世界を外から取り囲む物体を、熱かったり冷たかったりなどする強力な物体が取り囲んでおり、不必要な仕方で世界に触れたならば、その物体は世界を解体し、それによって世界のうちに病気や老衰が生じ、崩壊してしまっただろうから。そのため創造者(至高なる神に讃えあれ)は、天の外周を、円くてすべすべしてどこも同じような物体として作った、それが手も足ももつ必要がないように。つまり世界を、他者を必要としないで自らで運動できるものとして作ったのだ。なぜなら、その外部には何もないのだから。同様に、それは目も鼻も両のくちびるもないのだ。

(2) (4)

*底本はKrausとWalzerの校訂版。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

ガレノス『ティマイオス敷衍』(2)

II―私は言う。ティマイオスは、すべてのものにはふたつの第一の類(jins)があり、そのひとつは永遠の存在者で、もうひとつは絶え間ない生成者であると定めているのだから、彼は続けて「生成者はすべて、必ず何らかの原因によってのみある」(28a)と言ったが、そこに論証を与えてはいない。というのもそれは、知性によって明白なもののひとつなのだから。というのも、つねにひとつの状態にあるものは何であれ生成も消滅もせず、それを生成させる原因をもたないのだから。かつて在ったものはすべて、かつて作用因をもっていたのであり、生成のうちにあるものはすべて、現在の時間において作用因をもっているのだ。世界が生成のうちにあるということを、ティマイオスはすでに掛け値なしに認めている。なぜならソクラテスがそれを違う箇所の彼の訓練においてすでに明らかにしているのだから。そしてその生成が消え去ることのないか、始まりをもつかについて、彼は後の箇所で解説し、その生成は始まりをもつと言う。彼は言う:「真に世界[創造]の創造者の存在について、それを探求することは困難かもしれない。たとえ真にそれを見出したとしても、彼はそれをすべての人々に公表することはできない。」(28c)
 それから、創造者が世界創造をおこなった目的に注視して彼は言った:「創造者は世界がずっと存続するように作り上げた。それが明らかなのは、世界がいまあるよりも卓越した状態にあることは不可能だからであり、もし彼が世界にずっと存続するよう命じなかったなら、そのようではなかっただろう。」(29c)それから彼は第三の原因に注視した。それは世界創造を呼びかける者(al-dāʻī)で、それは完全なる者(al-tamām)、または世界がそのためにあるものと呼ばれる。それから彼はそれを、彼が述べたふたつのもの、つまり創造者と、世界創造がそれに基づいている彫像(timthāl)に付け加えた。そして彼は言った:「世界創造の原因は、神の寛大さである(至高なる神に祝福あれ)、そして寛大なる御方は嫉妬せず、いついかなるときも、いかなるものについても物惜しみしない。そのため、世界の創造を整序することができるように、秩序をもたずまったくばらばらに運動する物体的実体を整序しようと望んだのである。なぜなら、秩序付けられていないいかなるものも、知性なしでは秩序に戻ることができず、そのため創造者はこの実体のうちに知性を作ったのである。いかなるものも魂なしで知性をもつことはできない。そのため、世界が魂をもつようにして、それをつねに可能なものとして創造したのだ。」(29e–30b)

(1) (3)

*底本はKrausとWalzerの校訂版。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月22日水曜日

ガレノス『ティマイオス敷衍』(1)

慈悲深き慈悲遍き神の御名において

I―ガレノス(Jālīnūs)は言った。プラトンは『ティマイオス』(ṭīmāwus)と題する著作の目的を、世界とそこにいる動物の生成にかんする言説とした。彼にとって世界にかんする言説と、天にかんする言説のあいだに違いはない。彼が「天」で意味するのは、円運動する球状の物体である。
 本書の冒頭には、ソクラテス(suqrāṭ)とクリティアス(qrīṭiyās)のあいだで交わされた、政治(al-siyāsah)や、アテネ(athīniyyah)の民の古代人や、アトランティス島(jarīrah aṭlanṭīs)にいた人々にかんする物語がある。ティマイオスの話が終わったら、彼ら(アトランティスの民)について語ることをクリティアスは請け負っている。その後、プラトンは話し手をティマイオスに移したが、プラトンの諸書におけるソクラテスの語りの伝統である質問と応答の形式でではなく、語りすべてをティマイオスひとりのものにしたのだ。我々はティマイオスが本書で語った内容を要約しなかった。我々がプラトンのほかの作品でその内容を要約したようには。というのも、それらの作品での彼の語りは広範囲で長いのだから。一方本書について言えば、それは極めて簡潔で、アリストテレス(arisṭāṭālīs)の圧縮された不明瞭な語りからも、プラトンのほかの作品での長い語りからも隔たっている。この文章にいくつかの圧縮や不明瞭があると思い込んだとしても、それはきわめて少ないことが分かるし、集中してみれば、文章自体が不明瞭だからそうなのではないことが明らかになるだろう。文章そのものがある種曖昧で不明瞭な場合、理解の少ない読者にはそのようなことが生じるが。それ自体が不明瞭な文章とは、〈…のような文章である。一方、それ自体が不明瞭でない文章とは、〉その分野を知悉している者でないと理解できない文章である。以下の文章は、ティマイオスの語りの冒頭を私が記述したものである。彼は言った「永遠なる存在者(al-mawjūd)は生成(kawn)せず、絶え間ない生成者(al-kā’in)は、いかなる時間のうちでも存在しない。」この言葉は、プラトンの他の作品に習熟している者には明白で歴然な言葉である。つまり知性で理解される物体でない実体と、プラトンの習慣では実体(jawhar)でなく生成と呼ばれる感覚的実体のあいだには違いがあるということである。『政治の書』(kitāb al-siyāsah)でソクラテスが何度も、感覚される諸物をこの名で呼んでいることが分かっている(ただしその名が相応しいとしたわけではないが)。よって必然的にこの箇所で、感覚されるものはすべて「絶え間ない生成者」と呼ばれ、知性でのみ理解されるものはすべて「永遠なる存在者」と呼ばれるのである。本書でのプラトンの語りがこのような具合なので、彼のほかの作品でしたように本書を要約することはできない。なぜなら、そうしたなら私は要約された語りをさらに要約してしまうから。しかし私は本書で、先行する文章に続ける形で、彼が『ティマイオス』で語ったこれらの意味をまとめている。

(2)

*底本はKrausとWalzerの校訂版。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月21日火曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第一部第一巻(2)

第五規則
〈普遍者は外界に存在しない〉

(11)「一般的意味」は精神の外に実在しない。というのも、もし実在したなら、他者から識別され他者と共通しないと考えられる「それ性」(huwwiyyah)をもっただろう。すると一般的なものと仮定されながら、個別的なものになるが、それは不合理である。
一般的意味には次の二種類がある。多数のものに等しく生じる意味は「均質一般的意味」(al-ʻāmm al-mutasāwiq)と呼ばれ、たとえば四つの個体それぞれにたいして「四」は等しく生じる。より完全かより欠如した仕方で生じる意味は「相違一般的意味」(al-maʻnā al-mutafāwit)と呼ばれ、たとえば雪や象牙などにたいして白さはより完全に生じたりより欠如して生じたりする。
ひとつの命名対象に多くの名前があるとき、「同義語」(mutarādifah)と呼ばれる。ひとつの名前に多くの命名対象があり、その名前がそれらにたいして同じ意味で生じていない場合、そのようなものは「同名語」(mushtarikah)と呼ばれる。名前が、その意味以外で、何らかの類似や隣接や附随によって口に出されたら、それは「比喩的」(majāzī)と呼ばれる。

第六規則
〈人間の知識〉

(12)人間の知識は生得的か非生得的かである。未知のものを知るためには注意喚起(al-tanbīh)したり心に思い浮かべたりするので充分でなく、偉大な賢者たちによる真の視認で獲得されなかったとしよう。その場合、我々はその未知のものに至る筋道をもつ既知のものを必要とし、その知識は探求のさい究極的には生得的知識に基づかなければならない。そうでなければ、人間の探求対象はすべて、それ以前に無限遡行するものに依拠し、彼には最初の知識すら生じないことになるが、これは不合理である。

第七規則
〈定義とその条件〉

(13)ある事物が、それを知らない者に定義されると、定義はそれに特有なものによってなされ、それぞれの要素の特定化か、一部の要素の特定化か、その組み合わせによって定義される 。定義はかならず、定義対象よりも顕在しているものによって定義され、それと同等なものや、それより隠れたものや、その定義対象によってしか知られないものによっては定義されない。誰かが父を定義して「それは息子をもつ者である」と言っても、それは正しくない。というのも「父」も「息子」も同じ知識と無知の条件にあるのだから、どちらかを知る者は、もう片方も知るのである。「X以前にXなしで知られている」というのが、Xを定義するものの条件である。また「火は魂に類似した元素である」という定義も、魂は火よりも隠れているので正しくない。同様に「太陽は昼間に出現する星である」という定義も、昼間は太陽の現れる時間によってしか知られないので正しくない。
実相の定義は単なる言い換え(tabdīl al-lafẓ)ではない 。なぜなら言い換えは、実相を知っているがその語の意味を曖昧に理解している者にとってのみ有効なのだから。関係語(al-iḍāfiyyaāt)の定義では、関係性を生じさせる原因が述べらる必要があり、派生語(al-mushtaqqāt)の定義では、派生の種類に応じて、その語が派生してきた元の語が述べられる必要がある 。

章〈真の本質定義〉

(14)ある人々 は、事物の「何であるか性」を指示する言説を「本質定義(ḥadd)」と呼び(それは本質的要素や、その実相内部の要素を指示している)、実相を外的な要素によって定義する言説を「描写(rasm)」としている。知るがよい。たとえば、ある者は物体に部分があると証明したが、ある人々はそれを疑っており、ある人々はそれを否定している 。この「部分」については後で知ることになるだろう。また大衆にとって、そのような「部分」は命名対象の概念に含まれず、むしろ思い浮かべた附随物の集合(majmūʻ)だけに名前が付けられるのだ。
また、たとえばあらゆる水や空気は感覚不可能な部分をもつと証明されたが、ある人々はそれを否定する。よって彼らにとって、その諸部分は、彼らが理解するもの(=水や空気)に何の影響も与えないのである。また既に述べたように、物体とは身体的実相のさまざまな部分や状態のひとつなのだが、物体といって人々が思い浮かべるものは、彼らに顕在しているものだけであり、それこそ命名者と人々の命名で意図されていたものなのである。
感覚可能なものでこの状況であったなら、感覚不可能なものについてはいかばかりか!また人間には、その人間性を実現させるものがあるが、大衆もペリパトス派の専門家もそれを知らない。(ペリパトス派はその本質定義を「理性的動物」としているが。)理性/発話の素質は付帯的で、実相に従属しており、こういった要素の原理 である魂は、附随物や付帯性によってしか知られないのだ。人間にもっとも近い魂ですらこのような状態なのだから、それ以外のものについては如何ようであろうか?しかしそれにかんして必要なことは述べることにしよう。

照明的基礎
〈ペリパトス派の定義論の基礎の解体〉

(15)ペリパトス派は事物を本質定義するさいに、その一般本質要素や特殊本質要素が述べられることを認めている。一般本質要素は「類」と呼ばれ、他の一般本質要素の部分でなく、それによって「それは何であるか」 の答えが変化する普遍的実相に属する。そして事物の特殊本質要素は「種差」と呼ばれる。しかし定義において両者にはこれ以外の体系もあり、我々はそれを我々の著作のべつの箇所ですでに述べた 。また彼らは、未知のものが既知のものによってしか獲得されないことを認めている。よってXの特殊本質要素は、これまでXを未知だった者には知られていない。なぜなら、その要素がX以外のものにおいて知られたら、それはXの特殊要素でないのだから。それがXに特有であり、感覚に顕在しておらず知られてもいないなら、それは彼に未知のものである。Xの特殊要素も知られたとして、それが特殊要素でなく一般要素によって知られたならば、それはXを定義しない。特殊な部分については前述の通りである。よって、べつの仕方で、感覚可能な要素か顕在している要素に立ち帰るしかない。あらゆる事物にかんしてこれが当てはまる。あなたはこの本質を後で知ることになるだろう。
 また、既知の本質要素を述べる者は、ほかに見過ごしている本質要素があるとは夢にも思わない。解説を求める者(al-mustashriḥ)や対立者(al-munāziʻ)は、彼にそれを求めることが出来る。しかし定義する者はこのとき「もしほかの属性(ṣifah)があったなら、私はそれに気付いていたはずだ」と答えることは出来ない。何しろ多くの属性は顕在していないのだから。「もしそれがべつの本質要素をもっていたなら、それなしに我々が「何であるか性」を知らなかったはずだ」という答えでは不十分だ。だから、実相はその本質要素がすべて知られたときのみ知られると言われるのだ。もしそれ以外に認識されていない本質要素があるかもしれないなら、実相の認知は確実ではない。よって、ペリパトス派が要求するような仕方で本質定義を遂行するのは、人間には不可能なことが明らかになった。その困難さについては、彼らの主人(アリストテレス)も認めている 。よって我々には、集合(ijtimāʻ)を特徴とするものによる定義(taʻrīfāt)しかないのである。

(1) 第二巻(1)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月20日月曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第一部第一巻(1)

第一部
思考の規則
全三巻


第一巻
知識(al-maʻārif)と定義(al-taʻrīf)
全七規則


第一規則
〈語(al-lafẓ)による意味の指示 〉

(7)対応する意味への語の指示は「意図(al-qaṣd)的指示」であり、意味の一部への指示は「包含(al-ḥayṭah)的指示」で、意味に附随するものへの指示は「寄生(al-taṭafful) 的指示」である。意図的指示には寄生的指示が必ず続く。というのもあらゆる存在は附随物をもつのだから 。しかし意図の指示は包含的指示を欠くこともある。というのも部分をもたないものもあるのだから。一般的なもの(al-ʻāmm)は特殊なもの(al-khāṣṣ)を、その特殊性で指示しない。だから「私は動物を見た」と言った者は、「私は人間を見なかった」とは言えるが、「私は物体を見なかった」や「意志的に運動するものを見なかった」などとは言えない。

第二規則
〈概念化と承認の分類 〉

(8)あなたが忘却していたものを認識したとき、この場に相応しい言い方をすれば、その認識はまさにその実相のイデア/イメージ (mithāl)があなたのうちに生じることである。というのも、忘却したものの本質をあなたが知るとき、あなたのうちにその痕跡が何も生じないならば、それを知る前と後であなたはまったく同じなのだから。あなたのうちにその痕跡が生じたとしても、[認識したものと]一致しないならば、あなたはそれを在りのままには知らなかったのだ。よってあなたが知ったものに何かしら一致していなければならないし、あなたのうちにあるのはそのイデア/イメージなのだ。
我々は、本質的に多数者への一致が妥当な意味を「一般的意味」(al-maʻnā al-ʻāmm)、それを指示する語を「一般語」(al-lafẓ al-ʻāmm)とする。たとえば「人間」という語とその意味のように。そして語の概念そのもののうちに共通性がまったく思い浮かべられないなら、それは「個別的意味」(al-maʻnā al-shākhiṣ)であり、それを指示する語については「個別語」(al-lafẓ al-shākhiṣ)と呼ばれる。たとえば「ザイド」という名前とその意味のように。また他の意味に包含される意味はすべて、包含する意味との関係において「低位の意味」(al-maʻnā al-munḥaṭṭ)と呼ばれる 。

第三規則
〈何であるか性〉

(9)あらゆる「実相(ḥaqīqah) 」は「純一(basīṭah)」で、知性のうちでも部分をもたないか、「非純一(ghayr basīṭah)」で、たとえば動物のように部分をもつかである。
というのも動物は「物体」と、「その生命を必然化するもの」から構成されているのだから 。最初の要素は「一般的な部分」であり 、つまり物体と動物が思い浮かべられたとき、物体は動物よりも一般的で、動物は物体との関係において低位のものである。二つ目の要素は「特殊な部分」であり、それのみに属している 。事物に特有の意味は、事物と等しい場合もある。たとえば人間のもつ理性/発話(al-nuṭq)の素質のように 。または人間のもつ男らしさ(al-rujūliyyah)のように、より特殊な場合もある。実相は、人間の「現実に笑うこと」のような「離存的付帯性」(ʻawāriḍ mufāraqah)をもち得る。また「附随的付帯性」(ʻawāriḍ lāzimah)をもち得る 。そして完全な附随物(al-lāzim al-tāmm)は、本質的に実相に関係していなければならない。たとえば三角形にとっての三つの角のように。なぜならそれを取り除いた状態を思いうかべることはできないし、何らかの作用因が三角形に三つの角をもたせるわけでもないのだから。というのも、もしそうであれば、[三つの角は]三角形に附随することも附随しないことも可能になり、三つの角なしでも三角形が実現し得ることになるが、これは不合理である 。

第四規則
〈本質的付帯性と離存的付帯性の違い〉

(10)あらゆる実相について、作用因がなくとも本質的に必ず実相に附随するものと、他者によって実相に附随するものを知りたいのであれば、実相だけを観想し、それ以外から目を背けなければならない。実相から除去できないものは、実相に従属し、実相自体がそれを必然化する原因なのだ。つまり、実相以外がそれを必然化したならば、それは附随も除去も可能になっただろう。部分のシンボル(ʻalāmāt)のなかには、全体を思惟する前にそれを思惟し、全体を確証するために役立つものがある。それによって事物が描写される部分、たとえば人間の「動物性」などを、ペリパトス派の信奉者は「本質的なもの」と呼ぶが、我々はこういったものを「必然的なもの」(mā yajibu)と呼ぶ。附随的付帯性や離存的付帯性への思惟は 、実相を思惟してからであり、それが存在するさいに実相は何らかの振る舞いをする。付帯性は、人間の「歩く」素質のように、事物よりも一般的な場合もあるし、人間の「笑う」素質のように、それに特有な場合もある。

(2)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月18日土曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第二部第一巻(3)

第五章(概略)
〈自己認識する者は、抽象的光である〉

(114)本質(=自己)をもっておりそれを見過ごすことがないすべてのものは、薄暮のものではない 。というのもその本質がそこに顕在しているのだから。またそれは他者のうちの闇の様態でない。というのも光の様態も自体的な光ではないのだから、闇の様態については言うまでもない。よってそれは指示されない、純粋で抽象的な光なのである。

第五章(詳細)
〈上記の内容〉

(115)自体的に存立し、自己認識するものは、自己のうちにある自己のイメージ(mithāl)によって自己を知るのではない。なぜなら、もしその知識がイメージによるもので、私性(al-anā’iyyah)のイメージが自己でないならば、私性のイメージは私性との関係においてそうなのであり、このとき認識されるのは[私性そのものでなく、私性の]イメージということになる。すると、私性の認識はまさに「A=A」の認識であり、かつ私性自体の認識が私性そのもの以外の認識であることになってしまうが、これは不合理である。
 外界の認識について話は別である。なぜならイメージもその原像も、両方とも[対象として指示されうる]「それ」なのだから。
 さらに、もし自己認識がイメージによるもので、しかもそれが自らのイメージであることを知らなかったなら、それは自らを知らない。もしそれが、自らのイメージであることを知っていたなら、それはイメージなしですでに自らを知っていたのだ。自らに附随したものによって自己を知るなど、はたして想定可能だろうか。というのもそれは、自己の属性なのだから。よって自己に附随した属性はすべて、それが知識であろうなかろうが、自己に属していると判断されたなら、自己はあらゆる属性以前に、属性なしですでに知られていたのである。よって自己が、附随した属性によってすでに知られていることはないのである。
(116)あなたは、あなた自身も自己認識も忘却しない。なぜならその認識が形相や附随物によることは不可能なのだから。よってあなたが自己認識するさいに必要なのは、自己顕在しているあなた自身か、自らが忘却しないものだけである。よって必ず、自らによる自己認識は、まさにあなた自身によるし、あなたは決してあなた自身もその一部も忘却しない。あなた自身が忘却するもの(たとえば心臓、肝臓、脳のような器官や、障壁、闇や光の様態のようなものすべて)は、あなたの認識主体(al-mudrik)ではない。というのもあなたの認識主体は器官でも障壁的なものでもなく、そうでなければ、あなたが不断に連続して自己に気付いているように、あなたはそれを忘却しないことになるだろう。実体性をその「何であるか性」の完成体であるとしようが、主語や基体の否定の一種と理解しようが、あなた自身そのもののように自立的ではない。また実体性を未知の意味とし、あなたが附随物によらず連続的に自己認識するならば、あなたはこの実体性を忘却しているのだから、実体性はあなた自身の全体でも一部でもない。よって、あなたが省察したとき、「それによってあなたがあなたであるもの」で見えてくるのは自己認識主体、つまり「あなたの私性」以外にない。自己や私性を認識する者は皆共通してそうである。よって認識主体性は、どのようなものであれ、属性でも附随物でもないし、あなたの私性の一部でもない。というのもその場合、ほかの部分が未知のまま残ってしまうのだから。認識や気付きの主体を超えたものがあったなら、それは未知のものであり、あなた自身に属さない。あなた自身の自己への気付きは附随物ではないのだから。
以上の説明から、明らかに事物性も気付きの主体に附随しない。というのも気付きの主体は自らによって自己顕在しているのだから。また何らかの特性を伴って顕在の状態になるのではなく、むしろ顕在しているもの以外のなにものでもない。よってそれは自らによる光であり、よって純粋な光である。あなたの認識主体性は自己の後に出てくる何か別のものでもなく、認識する素質は自己に付帯的でもない。もしあなたが自らを自己認識する存在(anniyyah)と想定したなら、自己は認識に先行することになり、未知のものであることになるが、それは不合理である。よって我々が言ったこと以外はありえない。そしてあなたが光と共にあらんとするならば、以下の規則がある。
(117)規則、光は、自らの実相において顕在しており、本質的に他者を顕在させる。光はそれ自体で、実相に顕在が[後から]附随するあらゆるものより顕在している。付帯的な光も、それらへの附随物によって顕在するのではない。よってそれらはそれ自体で隠れているが、ただ自らの実相によるって顕在するのだ。この光は発生して、それから顕在がそれに付随するのではない。そのようなものは定義自体での光ではなく、ほかのものがそれを顕在させるのである。むしろ光は顕在してり、それが光であることにより顕在するのだ。「我々の視覚が太陽の光を顕在させるのだ」と空想して言われるようなものではなく、むしろそれが光であることにより顕在するのだ。たとえすべての人間、あらゆる感覚を持つものがいなくなったとしても、その光性は消滅しない。
(118)ほかの説明:あなたは「私の私性には顕在が附随し、それ自体では隠れている」と言えない。むしろそれは顕在や光性そのものなのである。知っての通り、事物が実相や「何であるか性」であるように、事物性は概念的(al-ʻaqliyyah)な述語や属性のひとつである。また忘却の欠如は否定的なものであり、あなたの「何であるか性」ではない。最終的に、それは顕在と光性以外ではありえない。よって、自己認識する者はすべて純粋な光であり、あらゆる純粋な光は自己顕在しており、自己認識主体である。説明終わり。
(119)判断〈事物の自己認識は、事物の自己顕在であり、ペリパトス派の教義のように質料からの抽象化ではない〉加えて言おう。もし味覚が障壁や質料から抽象化されていると想定したならば、それはまさに味覚以外のなにものでもないことになる。そして光の抽象化が光そのものであると想定されたなら、それは自己顕在、つまり認識していることになる。しかし抽象化された味覚が自己顕在していることにはならず、むしろそれは味覚そのものに過ぎない。もしペリパトス派の教義のように、事物が自らに気付くための充分条件が「ヒューレー(al-hayūlā)や障壁から抽象化されている」ことであったなら、彼らの主張するヒューレーは、自らに気付くことになってしまう。というのもヒューレーは他者の様態でなく、むしろ「何であるか性」をもち、ほかのヒューレーから抽象化されているのだから――というのもヒューレーはヒューレーをもたないのだから――ヒューレーは自己忘却しないことになる。もし「忘却」で自己からの疎外を意味するのであれば。もし「忘却の欠如」で気付きを意味するならば、離存実体における気付きは、忘却の欠如に起因しない。むしろこの仮定によれば、忘却の欠如は気付きの婉曲表現や比喩である。そしてペリパトス派にとって、事物の認識とは、事物が質料から抽象化されており自己忘却していないことである。また彼らが言うように、質料自体の特性は、様態によってのみ生じる。様態が認識することを質料が妨げているならば、質料が認識することを妨げるものは何だろうか?そして彼らが認めるように、ヒューレーは彼らが「形相」と呼ぶ様態によってしか特定化しない。形相が我々のうちに生じたら、我々はそれらを認識する。しかしヒューレーそれ自体は彼らが主張するように、無限定の何か、または量やあらゆる様態とは無関係の何らかの実体以外のなにものでもない。よって定義自体において、ヒューレーより単純なものはない。とりわけ彼らが認めるように、ヒューレーの実体性は、そこから「基に置かれたもの(基体=主語)」を否定することなのだから。ではなぜヒューレーは基体や部分からの抽象化によって自己認識しないのか?またなぜそこにある形相を認識しないのか?しかし我々は、実体性と事物性などといったものは、概念的表現であることを明らかにした。
(120)また彼らが言うには、万物の創出者は存在そのものでしかあり得ない。そして彼らの学説に基づいてヒューレーを研究したら、それらの発生はまさに存在に由来する。というのも前述のように、ヒューレーが特定化するのはただ実体的な様態によるのだから。よって、端的に「何であるか性」そのものであるようなものはない。むしろ、特性が確定されたとき、それは「何であるか性」や「存在者」と言われるのである。最終的に、ヒューレーは何らかの「何であるか性」や存在でしかあり得ない。よって、ヒューレーが形相を乞い願うということそれ自体が、何か存在者であることに起因するならば、必然的存在もそのようになろう――その御方はそれよりも高くにあられるのに!そして必然的存在がこの純一性のようなものによって自己や事物を思惟するならば、ヒューレーもそうしなければならない。なぜなら、ヒューレーも存在者以外のなにものでもないのだから。以上の発言の誤りは明らかである。
よって、自己認識するものは自らによる光であり、逆も真であることが確定した。もし付帯的光が抽象的であると仮定したら、それは本質的に自己顕在しているだろう。そして「本質的に自己顕現していること」という実相をもつものは、「抽象的だと仮定された光」の実相をもつ。なぜなら「X=Y」と「Y=X」は同じなのだから。

(2)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。


あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月12日日曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第二部第一巻(2)

第四章
〈物体はその存在において抽象的光を必要とする〉

(111)障壁的な薄暮のものは、形(ashkāl)などのような闇のものや、量による特性をもつ(もちろん量は障壁に附随しないのだが。そうでなければ、障壁は何らかの特定化や切断面(maqṭaʻ)や限定(ḥadd)をもち、それによって量同士が区別されることになるだろう)。よって障壁同士を互いに異なるものとしているこういった諸事物を、障壁は本質的にもたない。そうでなければ、あらゆる障壁がそれらを共有することになるだろう。障壁は量の限定を本質的にもたない。そうでなければ、すべてのものが量にかんして等しいことになるだろう。
つまり障壁がそれ(=量にかんする限定)をもつのは、他者に起因するのだ。というのも、もし形などの闇の様態が充足していたならば、それらの存在は障壁に依存しなかっただろう。また、もし障壁的な実相が本質的に必然的に充足していたならば、それは自らの存在の実現にかんして、闇の様態の特定化されたものなどを乞い願うことはなかっただろう。なぜなら、もし障壁が量や様態から抽象化されていたなら、離存的な様態には識別要素がないため、それが多化することはできなかったし、いかなる障壁の本質も特定化できなかっただろう。識別可能な様態は、それらが必要とする障壁的な「何であるか性」に附随すると言われることはできない。というのも、もしそのようであれば、[それらの諸様態は]異なった障壁において相違していないことになるが、実際には相違しているのだから。
 そして直観(al-ḥads)は、「定命の(al-mayyitah)薄暮の実体は、互いの存在が互いに由来していない」と判断する。というのも定命の障壁的な実相にかんして前後関係(awwaliyyah)はないのだから。またほかの説明によって、障壁はほかの障壁を存在させないことを知るだろう。
そして障壁の闇や光の様態のいかなるものの存在もほかの何ものかに循環的な仕方で基づいていないとき(Aが依存している対象BがAに依存していることを防ぐため)、あるものは自らを存在させるものを存在させ、するとそれを存在させるものと自らとに先行することになるが、これは不可能である。そしてそれらが自己充足していないとき、それらはみな薄暮の実体や闇や光の様態以外のもの、つまり抽象的光を乞い願う。
薄暮の実体の「実体性」は知性的であるが、「薄暮性」は無的(ʻadamiyyah)である。よってそれは在りのままに存在するのではなく、諸特性をともない個物(al-aʻyān)のうちに存在するのだ。
(112)規則〈抽象的光は感覚によって指示されない。〉知ってのとおり、指示される光はすべて、付帯的な光なのだから、もし純粋な光があったなら、それは指示されず、物体を基体としてもたず、まったく様相をもたない。
(113)規則〈自らによる光はすべて、抽象的光である。〉付帯的な光は自らによる光でない。その存在は他者によるのだから、それは他者によらねば光ではない。よって純粋で抽象的な光は自らによる光であり、自らによる光はすべて、純粋で抽象的な光である。
(1) (3)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月9日木曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第二部第一巻(1)

第二部



神的な諸光と諸光の光、存在の諸原理、それらの序列

全五巻


第一巻
光とその実相、諸光の光、そこから第一に発出するもの

諸章と諸規則が含まれる


第一章
〈光は意義付けを必要としない〉

(107)もし意義付けと説明を必要としない存在があるならば、それは顕在しているものである。そして光より顕在しているものはなく、光以上に充足しており意義付け不要なものはない。

第二章
〈充足したものの意義付け〉

(108)充足したものの本質や完全性は他者に依存していない。そして不足したものの本質や完全性は他者に依存している。

第三章
〈光と闇〉

(109)事物は、自らの実相において光や閃光であるものと、自らの実相において光や閃光でないものに分類される。
ここで光や閃光で言わんとしているものはひとつである。というのも、私はそれによって比喩的なものに数えられるものを意味していないのだから(たとえば「光」で「知性にとって妥当なもの」が意味されるようには。もっとも、それ(=光の比喩表現)も煎じ詰めればこの「光」から派生しているのだが)。
また光は、他者の様態(hay’ah)(つまり付帯的な光)と、他者の様態ではない光(つまり抽象的光、純粋な光)に分類される。
自らの実相において光でないものは、基体を必要としないもの(つまり薄暮の実体(al-jawhar al-ghāsiq))と、他者の様態(つまり闇の様態(al-hay’ah al-ẓalmāniyyah))に分類される。
障壁(al-barzakh)は物体であり、それは指示(al-ishārah)によって志向される実体として描写される。ある種の障壁は、そこから光が消え去ったとき、昏く在り続けると見做されている。「闇(al-ẓalmah)」は「光の欠如」を言い換えただけではない。これは可能性が条件付けられた欠如でない。なぜなら、もし世界が「虚空」や「無光の天球」であると仮定したなら、それは昏いことになり、光が[そこに生じる]可能性がなくても闇が減少することが伴っただろう。よって光や光的でないものはすべて、昏いことが確定した。
障壁から光が消え去っても、その障壁が昏くあるために他者を必要としない。よってこういった障壁は薄暮の実体なのである。また太陽などのように、そこから光が消え去ることのない障壁も残っている。これらはそこから閃光が消え去るものと、障壁性にかんして共通しているが、[太陽の]閃光が永続するという点で異なっている。つまりこれらの障壁をほかと隔てている光は、障壁性に附随しており、障壁性によって存立しているのだ。よってそれは付帯的な光であり、それを纏うものは薄暮の実体である。よって障壁はすべて薄暮の実体である。
(110)感覚される付帯的な光は、自己充足していない。そうでなければ、薄暮のものを必要としなかっただろう。[しかし感覚される付帯的な光は]それ(=薄暮のもの)によって存立するのだから、不足しており[他者を必要とし]可能的である。しかしその存在は薄暮の実体に由来しない。そうでなければ、それは薄暮の実体に附随し、それと共にあり続けただろう。しかしそうではない。自らよりも高貴なものを必然化する事物などありうるだろうか?よって、すべての薄暮の実体にそれらの光を与えるものは、それらの昏い「何であるか性」や闇の様態ではない。あなたは、闇の様態の多くが光の結果であることを知るだろう(その光自体が付帯的であったとしも)。[闇の様態は]隠されているのだ。いかにして、[より隠れているものが、]より隠れていないものや同等なものを必然化するのか?よって障壁に光を与えるものは、障壁でも薄暮の実体でもありえない。そうでなければ、すべてに当てはまるこの規則(=より顕在しているものがより隠れたものを顕らかにする)に抵触してしまう。よって障壁に光を与えるものは、障壁でも薄暮の実体でもないのである。

(2)



*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。


あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月6日月曜日

井筒史観の危険性について

2016年3月に、とうとう井筒俊彦全集の最終巻『アラビア語入門』が発売された。
(たしか最初は2015年の10月だかに発売予定だったから、半年近く伸びた計算だ。まるで昔のドラクエみたいな遅延具合だな…。)


それとともに近年、井筒俊彦の再評価が目覚ましいが、いちおうアラビア語の哲学を専門にしている者としては、「喜ばしさ半分」「苦々しさ半分」といったところである。

喜ばしさとしては当然、日本におけるアラビア語哲学の旗手であった井筒が再評価されるということは、この分野が活性化するという理由が挙げられる。

しかし、大半の人は、なぜ苦々しさを覚えるのか不思議に思うだろう。

これはつまり、井筒俊彦というよりも、彼が依拠している哲学史観、いわば「井筒史観」とでも言うべきものに原因がある。


よく知られたように(あまり知られてもいないか)、井筒の盟友とも言える研究者にアンリ・コルバンHenry Corbin(1903–1978)がいる。
コルバンはきわめて優れたイスラームの研究者だったが、同時に独自の思想を展開する人物でもあった。コルバンの哲学史を一言で言えば「イラン的神秘主義哲学に帰着する東方哲学史」である。(何とも表現しづらいのだが…。)
ものすごく大雑把にいってしまえば、モッラー・サドラー(1572–1640)あたりを頂点とする哲学史を構築し、東方哲学はすべてここに至るまでの発展史だという考え方である。


井筒俊彦の哲学史がコルバンのものとまったく同じというわけではないのだが、井筒はコルバンから極めて強い影響を受けている。
たとえば、イブン・シーナーが最終的に神秘主義に目覚めた、なんて考え方はコルバン(さらにもとを辿れば19世紀のMehrenに至る)辺りの考え方を踏襲している。
私の考えでは、イブン・シーナーはきわめてペリパトス派の論理に忠実な人で、晩年に神秘に目覚めたというのは「誤読」だと思われるが。


もちろん、ギリシアの古典哲学と違って、中世アラビア語哲学はいまだに新たな文献が発見されている状態で、現在刊行されているエディションにかんしても、「批判校訂版」と言えるものはまだまだ少ないのが現状である。

だから、井筒史観が現代の目から見て「古い」のは仕方ない話で、むしろそういった資料的制約のあるなかで、よくあれだけの思想を展開したものだという点では、掛け値なしに素晴らしい。

ただやはり、井筒史観は井筒史観であり、現在の研究状況から見ると、それを鵜吞みにするのは危険であると言わざるを得ない。


もちろん、思想家としての井筒の素晴らしさがそれで損なわれるということでは、まったくない。

しかし、やはり井筒の著作は井筒思想として読むべきであり、「中世アラビア語哲学の教科書」として読むのは避けた方が良いかもしれない。(じゃあ現役の研究者がしっかりした教科書を書け!という批判は更に当然のこととして受け入れながら)