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2016年9月5日月曜日

あの哲学者は論理派?直観派?(思いが溢れて伝えきれない編)

モテ系・非モテ系にかんする考察を行っていくうちに、いろいろ浮かび上がってきた観点がある。
そのひとつに、哲学者が「推論」を重視するか(discursive)、「直観」を重視するか(intuitive)という点である。
もちろん本来哲学において推論と直観は論理の両輪であり、切っても切れない関係にあり、だいたいの哲学者はその両方をバランスよく使用しているのだが、中にはそのバランスが悪い、どちらかに振り切ってしまっている(もしくはそのように見える)、まるで呂布や張飛のような哲学者がいないこともない。

今回からはしばらく、この「論理」(正式には推論だがゴロが悪いので論理とさせてもらう)と「直観」がどちらかに振り切れている哲学者について見ていきたいと思う。

まずは直観重視派を見ていきたいが、そのなかでも「思いが溢れて伝えきれない哲学者」を見てみることにしよう。

このタイプの哲学者は本来正統派なバランスの取れた哲学の教育を受けており、本人的にはそこまで逸脱していないつもりなのだけど、思いと情熱ばかりが先走ってしまい、結果的に何を言いたいのかよく分からない文章になっているというパターンが多い。
そのため、文章の熱量だけはやけに高くて、本人の意気込みだけは伝わってくるのだが、当の哲学者の中では自明になっていることは説明せずにすっ飛ばしたり、独自の用語を使用したり(それも本人の中ではみんなが分かってくれているという認識になっている)していて、「哲学的に深淵な文章だ!」と評価する人と、「何を言いたいのか分からない悪文だ!」と貶す人の真っ二つに分かれてしまう。

しかもだいたいこのタイプは基本的な熱量が高いので、文章を書かせるとしっちゃかめっちゃかになってしまう割に、講義で喋らせると饒舌で、むしろ名講義として評判を呼んだりする。

さてそんな思いが溢れて伝えきれない哲学者の代表と言えば、
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770–1831)
マルティン・ハイデッガー(1889–1976)
の二人だろう。

二人とも本人が書いた「著作」と呼べるものは少なく、むしろ膨大な講義録が伝わっている。
とくにハイデッガーなんて全集が数十巻出ているけれど、ほとんどが講義録とか講演録とか、そんな感じだ。
ヘーゲルの場合は死後に講義ノートを切り貼りしたものが多く、精度にやや問題があるらしいけど、いまだに翻訳が出たりして(今また新全集用意しているんだっけ)、大御所の貫録充分である。
そして彼らが好き勝手、思う存分話した講義じゃなくて、紙に書き落とした著作の方を見てみると、彼らの両方とも熱量が先走り過ぎてしまい、「ちょっと読んでみようかな」と思った初心者たちを無情にも振り払ってしまっている。
しかしこれがまた不思議なもので、単なる悪文ではなく「思いに溢れた悪文」というのは、なぜか若者の心をガッシリと掴んで離さないようで、ハイデッガーは不動のモテ系哲学者だし、ヘーゲルだって、いまや古典系に分類されるだろうが、昔は多くの若者たちを熱狂させていたわけで、系統的には正統派のモテ系である。
これがウィルフリード・セラーズ(1912–1989)のように「単なる悪文」だと、一部のゴリゴリの分析哲学者だけを惹きつける、非モテ系、もしくはマニアモテ系になってしまう。(個人的にはセラーズに惹きつけられるくちではあるけど)
著作は意味不明で講義は明晰というと、ほかにジャック・ラカン(1901–1981)が挙げられるが、ラカンの場合は意味不明な著作も含めて計算づくでしている感じで、ちょっといけ好かない。

やっぱりモテ系になるためには、熱量の高さというのは重要なファクターなのかもしれない。
そう考えると、西田幾多郎なんかは「思いが溢れて伝えきれない系」なのか「単なる悪文」なのか気になるところではある…。
個人的には(同郷の誼もあり)、前者だと思いたいところはあるが、後者の恐れもある。あんまり西田の講義聞いて感動したって話聞かないしなぁ。しかし、一時期は京都を西田哲学が席捲したわけだし、西田も意外と情熱的だったのかもしれない。そう考えると西田のあのわけの分からない文章もひとつのモテ要素として立ちあがってくるわけだ。

とはいえ、思いが溢れて伝えきれず、結果的に悪文になっているというのは狙ってできるわけではなく、本人の溢れ出る哲学的情熱と、それに僅かながら届かない表現力がきわめて高いレベルで混ざり合ってはじめて成立するものであり、最初からこの境地を目指そうとすると悲惨なことになるであろうことは想像に難くない。

ハイデッガーやヘーゲルの文章に魅せられて、あの奇跡の産物のような文体を真似しようとする大学院生がだいたい大変なことになっているのは、理由のないことではないのだろう。

いわばこの手のタイプは最初から「直観的」な文章を書こうとしているのではなく、個人的には割と真面目に「論理的」なスタイルを採ろうと思っているのに、結果としてあんな感じになってしまっているだけなのだ。むしろ最初から「直観的」な文章を意図的に選んでいるような哲学者のスタイルの方が真似やすいかもしれない。

また、翻訳が紛糾したり、「原書で読んだ方が読みやすいよ」なんて言われるのも大体このタイプだろう。(『精神現象学』や『存在と時間』なんて、いったい何種類翻訳が出てるんだという。)そりゃ彼らは自分の思いのたけを自分自身の言葉にも上手く乗せられていないのだから、それをさらに日本語に翻訳してしまったら、余計分かりにくくなることは明らかである。
でも大丈夫、西田の文章を見ても分かるように、このタイプの文章は、原書で読んでも分からないから。

とはいえ、個人的にはこの「思いが溢れて伝えきれない哲学者」の文章、嫌いじゃない。そして、こういった哲学者はだいたい「ベシャリ」が上手いことが多いので、彼らの講義や講演録を読むのも結構好きである。

次回:論理を相対化しようとしている編

2016年9月2日金曜日

モテ系哲学者?非モテ系哲学者?(モテ系編)


みなさん、もうお気づきのことかと思うが…。

この世には、モテ系と非モテ系が存在する。(つまり排中律だ。)

あっ!現実から目を背けないで!

なんだかんだ言ってもモテ・非モテの構図は大きく、哲学の世界にもこの分類を当てはめることができると、私はつねづね考えていた。
そう、真理とか深淵とか言っている哲学者たちもモテ・非モテの構図から自由にはなっていないのだ…!

今回は哲学者のなかでもモテ系非モテ系な奴らを紹介してみようと思う。

第一回目はモテ系哲学者編だ!

注意書き
しかし断っておかないといけないが、ここで言う「モテ系」とは、その哲学者が実生活においてどの程度異性(や同性)にモテていたかという意味ではない。
哲学をまったく知らない一般人が「おー、哲学って面白そうだな」とか「この人の本を読むために大学で哲学を学んでみたい」と思わせるような魅力をもっている哲学者を私は「モテ系哲学者」と定義する。しかし時代の流れとは恐ろしいもので、この世には「かつてモテ系だった哲学者」というのも大量に存在する。そのなかには、いまでもそれなりにモテる要素が理解できる哲学者と、なんであんなに熱狂されていたのかさっぱり分からない哲学者もいる…。
逆に「非モテ系」とは、一般人にほどんどアピールせず、もっぱら専門家にばっかりモテている哲学者のことで、彼らのことを「非モテ系哲学者」と定義する。なので、誰にも注目されない(専門家にすら)哲学者のことは指さない。それはモテ・非モテのフィールドにすら上がれない、ただの「マイナー哲学者」である。(とはいえ、専門家からのモテは、一般人からの「キャー!」というモテと違って、「○○は重要だよね」といった風なモテ方である。たまに各ジャンル内限定でモテているという、特殊ジャンル「マニアモテ系哲学者」もいて、この辺りの取り扱いは注意しなければならない。)ほかにも、もはやモテ・非モテすら超越した「古典系哲学者」もいる。ここまでくれば大丈夫、あとは歴史があなたを愛してくれる。

能書きも垂れたところで、さぁはじめようか…!

やはりモテ系哲学者といえば、この二人を挙げなければならないだろう。

フリードリヒ・ニーチェ(1844–1900)
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889–1951)

いまだに「ニーチェ読んで哲学科に来ました」とか「ウィトゲンシュタインにハマって世界について考えるようになりました」とか言う大学生がいるらしいというのですごい。
そして実際にそういう高校生にも何人も会ってきている。
(ただし、ウィトゲンシュタインにハマる学生の半分以上は永井均経由だったりする)

しかも女子学生の比率も結構高いという。
非モテ系の研究者からすると、ちょっと信じられない話じゃないだろうか。
このアピール具合はやはり侮れない。

やはり二人とも、アフォリズム的な言い切りの魅力があるのだろう。思うにこの「モテ系」に入れるかどうかは、「言い切りのカッコよさ」があるかどうかが大きな要素になっているのではないか。
やはり「神は死んだ!」なんて言われると、高校生あたりは「そうだぜ!神は死んだぜ!」と思っちゃうのだろうか。
はたして『ツァラツストラかく語りき』なんていったい何回訳されてるんだ?
個人的には『ツァラツストラ』よりも『喜ばしき智慧』の方が好きではあるが。
しかしニーチェはそもそも24歳で西洋古典学の教授になるぐらい、もともと「ゴリゴリ」の人なので、フリーダム(フライハイト?)になってからのニーチェに惹かれていきなりニーチェの真似をしようとすると、結構大けがする可能性が高い。
基礎をがっちりやってきた達人が「基礎なんてくだらねーぜ!インプロだぜ!自分の情熱にしたがえ!」と言ってるのを真に受けちゃう初心者、みたいな。

ウィトゲンシュタインも『論理哲学論考』の切り詰めた現代芸術のような緊張感と、『哲学探究』のアフォリズムの魅力と、「モテ系」になるための条件をキッチリ備えている人なのだけど、その分奥が深いというか難しいというか、学生が生半可に手を出すと焼死してしまう可能性が高い。
しかも『論理哲学論考』で「哲学は最終的に解決した!」と大見得を切っておきながら、「ぜんぶ間違っていた」と言って出戻ってくる辺り(べつに謝ったりしないところがミソ)、ウィトゲンシュタインのファンからすると萌えポイントなのだろう。
ウィトゲンシュタインは前期と後期でまったく言っていることが違うので、研究者は前期と後期の違いとかを云々するけど、哲学愛好家であればそういうことは気にせず、『論理哲学論考』も『哲学探究』もアフォリズム的に楽しんでしまって問題ないだろう。

個人的には両雄とも甲乙つけがたしなのだけど、本屋での関連書籍の量からするとニーチェに軍配が上がるのだろうか。

しかしこの二人がもっともモテ系ということは、やはり哲学者というのは「こじらせてナンボ」なところあるのだろうか。
冷静に論理的に論証するスタイル、初心者受けは悪いか。
やはり寝技で地味に相手を攻略していくより、打撃で派手にやる方が初心者的にも入りやすいのと同じか。

次点として
マルティン・ハイデッガー(1889–1976)
が挙げられるだろう。
ハイデッガーの魅力もその文体だと思うが、ハイデッガーの場合、アフォリズムによる言い切りの魅力というより、ものすごく粘度の高く、まるでトルコアイスのようにくっついて離れない粘着質の文章がむしろ魅力になっていると思われる。
またハイデッガーが凄いのは、主著とされる『存在と時間』が難解なゴシック建築だとしたら、彼の講演録はまるで流れる名調子を聞いているかのような名文だということだろう。
逆に考えると、あれだけ明晰なことを講義で言える人が、いざ文章を書こうとするとぜんぜん書けなくなってしまうというのも不思議ではあるけど…。(『現象学の根本問題』、『形而上学入門』など、やっぱりねちっこいんだけど、素晴らしい。)
ハイデッガーのすごいところは、最初に壮大な計画を提出して、その詳細な見取図をみんなに見せてワクワクさせておきながら、途中で「やっぱ続きやーめた」とすることだろう。(しかも常習犯)
普通はこれで「ふざけんな!」となるもんだけど、ハイデッガーの場合はそうならない。『存在と時間』なんて前半の1/3ぐらいしか書かれてないのに「未完の大著」扱いしてくれる。ほかの哲学者が同じことやったら「構想倒れ」とか言われるよ?(まぁハイデッガーも言われてるけど)
やってることは『ハンターハンター』や『ファイブスター物語』と同じである。

しかしハイデッガーも、哲学をやろうとする学生は気を付けないといけない。ハイデッガーを専攻する学生はなぜかハイデッガーのような文章を書き始めて、ひとりで袋小路に入るというパターンが…。
またこの人は、現実世界でもモテ系だった。(余談だが)

ほかにもモテ系哲学者を挙げることはできるだろう。(社会学分野でのハンナ・アーレントとか、日本だと永井均、池田晶子とか?但し個人的に池田晶子にはそこまで「深み」は感じないが。)
ただし、ニーチェ、ウィトゲンシュタインを超える哲学者はしばらく現れないだろう。

まとめ

モテ系哲学者はその定義通り、哲学に詳しくない一般人や学生を惹きつけるだけの魅力を備えた存在であるが、逆に哲学を専門に学ぼうとする学生にとっては底なし沼、いわばズルズルと哲学者の魅力だけにはまり込んで、そのまま思索の海に溺れてしまう危険性が非常に高い、とてもリスキーな存在であると言えよう。
そしてモテ系になるために必要な要素として

・アフォリズム的な言い切りがカッコいい
・文章が美しいor難解である(何度も読みたくなる)
・分からない、分からないようなモヤモヤとした気にさせる。
・既存の哲学を破壊・再構築しようとしている(とくに破壊に重点を置いている)

辺りが挙げられるだろう。これらの要素のうちいくつかをもっていれば、モテ系になる資格はある!

もしあなたが哲学好きな一般人であれば、モテ系哲学者から入るというのはひとつの選択肢としてアリだろう。(むしろそれ以外の非モテ系や古典系から入ると、途中で挫折する可能性が高いので、ある意味「哲学愛好者にとっては」もっとも安全な入口と言えるかもしれない。)
なにしろモテ系哲学者は読んでいて面白いし、それだけの深みがあるからだ。関連書籍も多いので、原典、研究書、解説書、入門書に困ることはないだろう。

逆にあなたが哲学専攻の学生の場合、もしあなたが学部で終えるつもりなら、モテ系哲学者たちはあなたの若い情熱を正面から受け止めてくれるだろう。若き思索の衝動にまかせて書きなぐった卒論は、いつかあなたの青春の思い出として、美しくあなたの記憶の1ぺージにおさまってくれるだろう。
もしあなたが大学院に進んで、その哲学者を専門に研究しようとするなら、モテ系哲学者には注意せよ。将来「哲学者」になるつもりならまだしも、大学院に進むということは「哲学研究者」としての修業も積まないといけないということだ。あなたは「哲学」をしたかったのであって、「哲学研究」をしたかったわけではないと思うかもしれないが、大学院に進むというのは、初期衝動とサヨナラするということでもある。速やかに「哲学研究」も進めないと、神じゃなくて自分が死ぬ可能性がある。しかしモテ系哲学者は何だかんだいって、哲学に興味のなかった人を惹きつける魅力があるわけだし、最後まで到達することができたなら、その頂きからの眺めはきっと素晴らしいことだろう。(そのとき、モテ系哲学者という梯子は不要になり、あなた自身がモテ系哲学者になるのだ。)

2016年7月1日金曜日

哲学と言葉遊び


提唱者:ハイデガー、レヴィナス、和辻哲郎

テキスト:『存在と時間』、『実存から実存者へ』、『人間の学としての倫理学』

哲学者のなかには言葉遊びが好きな人がいる。
言葉との戯れ、なんて表現するとカッコいいかもしれないけれど、要は「ダジャレ」である。

ダジャレ、なんて言うと怒られるかもしれないけれど、まぁこの辺りは、言葉遊びにどういうスタンスを取るかで変わってくるだろう。

そして、言葉遊びとかダジャレとかの語句で惑わされるかもしれないけれど、これはじつは、「哲学は自然言語に依存するか」という、とーっても深い問題にまで行きつく。(中世アラビア語哲学のような「翻訳哲学」は、つねにこの問題に付きまとわれていた。)

で、言葉遊びについてだけど、哲学者のなかで言葉遊び大好き人間といえば、もうこれはハイデガーをおいてほかにいないだろう。

ハイデガーの言葉遊びで有名なのは、「真理」についてだろう。
「真理」はギリシア語でἀλήθεια(アレーテイア)という。これは(ちゃんとした語源学的に正しいのかどうか知らないけれど、)否定辞のἀ-(ア)とλήθεια(レーテイア)に分離できる。
レーテイアの部分は、さらにさかのぼると、ギリシア神話に出てくる、この世とあの世を分ける川、レーテーの川に到達する。
このレーテーの川の水を飲むと、これまでの人生の記憶がなくなって、また生まれ変わるときに前世のことを忘れてしまうという、そういう水なのだ。
つまりレーテーは忘却・隠蔽である。
真理は「ア・レーテイア」なわけだから、これは「非隠蔽性」のことなのだ!

「な、なんだってー!!!」

…という言葉が聞こえてきそうなくらい(古い)、強引な解釈。(キバヤシはハイデガー好きだと思う)
まぁこの、真理は忘却していないこと、開示されていることだという考え方、スフラワルディーと通ずるところがあるんじゃないかとも思うんだけど。

さて、ハイデガーがどれだけ言葉遊び好きか分かったところで(いまのでわかったかなぁ?)

今度は「存在」についての証拠をお見せしよう。

現存在は、開示態によって構成されているかぎり、本質上、真理の内にある。開示態は、現存在の本質的存在様相である。真理は、現存在が存在しているかぎり、かつその間だけ、《与えられている》(《es gibt》)。
ハイデガー『存在と時間 上』(細谷貞雄訳)ちくま学芸文庫、1963, 1994, p. 468.

うん…。

分からない…。

何言っているのか分からないよ!

でも、ここで重要なのは、上の和訳では《与えられている》「es gibt」。
これはドイツ語におけるthere isのようなもので、「~がある」といった、とくになんてことはない、普通の言葉だ。

ハイデガーはそこに、es gibtが本来もつ、「与えられている」という意味を読み込んでいるのだ。

またもやハイデガーマジック!
みんなこれで納得したのかな?

しかしそこに噛みついた猛者がいた!
ユダヤ人の哲学者、エマニュエル・レヴィナスである。

彼は「~がある」を、以下のように解釈する。

この存在とは、いかなる存在者も自分がそれだとは主張しない無名の存在、個々の存在者ないし存在者たちを欠いた存在であり、ブランショの比喩を借りていえば絶え間ない「騒動」であり、「雨が降る(il pleut)」とか「夜になる(il fait nuit)」といった表現と同様に非人称の<ある(il y a)>である。この語はハイデガーの「ある(es gibt)」とは根本的に異なっている。<ある=イリヤ>はけっして、このドイツ語表現や、そこに含まれている豊饒さや気前よさといった含意の、翻訳でもなければそれを下敷きにしたものでもなかった。
エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』(西谷修訳)ちくま学芸文庫、1987, 2005, p. 11.

レヴィナスによれば、存在はハイデガーが言うように「与えられている」、気前のいいものじゃない。もっと酷薄な、奪うものだのだ。
(この辺りは、彼のユダヤ人としての収容所の体験も関係しているだろうし、彼自身そういったことを書いている。)
それを彼は、フランス語のil y aから解釈する。
フランス語のil y aも、これもまた何の変哲もない「~がある」という言葉なのだけれど、aはavoir(もつ)の変化であり、つまり「~をもつ/取る」という意味が隠れているのだ。

『実存から実存者へ』の該当の箇所には、このes gibtとil y aをめぐる論争(言い争い?)にかんして西谷が註を付けているので、興味のある方はそちらを見ていただくとして…。

何というか…。

とっても肩の力が抜けてしまう。

そのダジャレ、ドイツ語とフランス語でしか成り立たなくない?
そもそも英語だとthere isだから、与えも奪いもしないよね?たしかに非人称的ではあるけど。
もっと言えば日本語だと「~がある」に非人称表現をしないから、日本人にはまったく関係なかったりする。

たしかにこういうのは、ネイティブはものすごく感動するんだろうけど…。

でも日本人には、こういうのいないよなぁ、と思っていたら、いた!
和辻哲郎である!

和辻哲郎は「人間」という語がそもそもは「よのなか」や「世間」を意味しており、そこから「人」の意味へと「誤解」によって転じた例を挙げてから、こう解釈する。

しかしこの「誤解」は単に誤解と呼ばれるにはあまりに重大な意義を持っている。なぜならそれは数世紀にわたる日本人の歴史的生活において、無自覚的にではあるがしかも人間に対する直接の理解にもとづいて、社会的に起こった事件なのだからである。この歴史的な事実は、「世の中」を意味する「人間」という言葉が、単に「人」の意にも解せられ得るということを実証している。そうしてこのことは我々に対してきわめて深い示唆を与えるのである。もし「人」が人間関係から全然抽離して把捉し得られるものであるならば、Menschをdas Zwischenmenschlicheから峻別するのが正しいであろう。しかし人が人間関係においてのみ初めて人であり、従って人としてはすでにその全体性を、すなわち人間関係を表している、と見てよいならば、人間が人の意に解せられるのもまた正しいのである。だから我々は「よのなか」を意味する人間という言葉が人の意に転化するという歴史的全体において、人間が社会であるとともにまた個人であるということの直接の理解を見いだし得ると思う。
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波文庫、1934, 2007, p. 19–20

うーん…。これもまた日本語でしか成り立たなくない?
いわゆる和辻の有名な「間柄」ってことなんだろうけど…。

内容的には、アリストテレスの「人間はポリス的動物である」というのを、日本語の言葉遊びで解説したようなものなんだろうけど、やっぱり何というか…。

個人的には、「哲学が自然言語に依存する」という立場から少し距離を取りたいので、こういったハイデガースクール(レヴィナスも和辻もハイデガーの影響受けまくっている)の言葉遊びに出くわしたときには、面白いと思いながらも、少し眉毛に唾をつけてしまうのだけど…。
(逆にペリパトス派は普遍言語による、ひとつの意味による哲学を目指して行った。)

でも、たしかに我々は日常生活を自然言語を使用しながら営んでいるわけで、そこから完全に乖離した人工言語での哲学って、果たして可能なのだろうか?という疑問ももっともだと思う。

この辺りは、それぞれの人が、どういった哲学を好むかという問題なんだろう。

とはいえ、こういった言葉遊びは必ずしも現象学のなかだけの出来事でもなく、フランス現代思想なんかはre=presentation「再=提示」みたいなダブルミーニングをよく使うので、ここしばらくの流行りみたいなものなのかもしれない。

まぁそれは良いんだけど、でも戦争責任論などで、責任とはresponsibility、つまりresponse「応答」+ability「可能性」であり、他者への応答可能性、相手の問いかけにつねに応答しようとしていく態度こそが「責任を取る」ということなのだ、なんて説明には、ちょっと白けてしまうのも確か。

それって、英語やフランス語でしか成り立たなくない?
ドイツ語だとVerantwortungで意味は同じか…。

でも、こういったヨーロッパ言語に依存した言葉遊びを、まったく言語体系の違う日本人がそこに全乗っかりしてしまっていいのだろうか、という疑問はどうにも拭い去れないんだよなぁ。

ハイデガー『存在と時間』におけるアヴィセンナへの誤解


提唱者:ハイデガー、トマス・アクィナス

テキスト:『存在と時間』『真理論』

ハイデガーは若いころイエズス会士になろうとしていたぐらいで、哲学史に詳しい。
これは面白い話で、ハイデガーの師匠のフッサールは余り哲学史に興味がない。晩年の講演『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でも、デカルト、ロック、ヒューム、カントと、いわゆる近世以降の哲学に興味が向いている。

一方でハイデガーは中世哲学への関心が強い。『現象学の根本問題』でも、スアレスとかを出してきて、当時の一般的なドイツ人の哲学史理解とはちょっと違ったところを見せ付けてくれる。

さらにフッサールの師匠のブレンターノは元々カトリックの出家だったということもあり、中世哲学に詳しい。個人的にはブレンターノにすごく興味があり、彼が中世哲学の墓場から掘り起こしてきた「志向性」は、究極的にはアヴィセンナ/イブン・シーナーに淵源すると考えている。(もちろん直接的な影響関係はないだろうけど。)

神学がベースのブレンターノ、ハイデガーと、数学がベースのフッサールのあいだを分ける興味深い特徴かなぁと思う。

で、その歴史に詳しいハイデガーだけど、彼は『存在と時間』のなかでアヴィセンナ/イブン・シーナーに言及している。第一編第六章第四十四節「現存在、開示態および真理性」(a)「伝統的な真理概念とその存在論的基礎」のところだ。
そこで彼はこう言っている。

アリストテレスは、παθήματα τῆς φυχῆς τῶν πραγμάτῶν ὁμοιῳματα、すなわち、心の「体験」たるνοήματα(「表象」)は、事物への同化である、と述べている。この言明は、決して真理の明示的な本質定義として提出されたものではないが、これがたまたま機縁ともなって、後世に真理の本質をadaequatio intellectus et rei(知性と事物との同化)として表明する方式が形成されることになった。トマス・アクィナスはこの定義の典拠としてアヴィセンナを指示しているが、アヴィセンナ自身はこれをイサク・イスラエリの『定義の書』(十世紀)から踏襲しているのであって、トマスはadaequatio(同化)という代わりにまたcorrespondentia(対応)とかconvenientia(合致)とかいう用語をも用いている。

ハイデガー『存在と時間 上』(細谷貞雄訳)ちくま学芸文庫、1966,1994, p.446–447.
(人名表記を修正)

つまりハイデガーによれば、認識の構図「知性と事物との同化」はトマスが『真理論』で提示しているのだけど、これはアヴィセンナに遡り、さらにアヴィセンナ自身はイサク・イスラエリから取っているという。

ふーん。でも、イサク・イスラエリなんて、アヴィセンナに影響与えてたかな?たしかにイサク・イスラエリ(855頃–955)がアヴィセンナ(980–1037)に影響を与えることは可能だけど…。

 じゃあ実際トマスはどう言っているかというと、彼は『真理論』第一項「真理とは何か」の「主文」でこう言っている。

或る定義は、真理の概念に先行し<真>の基盤をなすものに着眼して下される。アウグスティヌスが『独白』のなかで「<真>とは『現るがままのものごと』である」とし、アヴィセンナがその著『形而上学』のなかで「おのおのの事物の真理はその事物に内蔵される存在の特性である」とし、また或る学者が「<真>とは、存在とその存在を容れるものとの統一である」とするのはかかる見地に立つものである。
 また別の定義は、<真>の概念の点睛をなすものに着眼して(secundum id quod formaliter rationem veri perficit)下される。イサクが「真理とは事物と知性との合致である」(Veritas est adaequatio rei et intellectus)とし、アンセルムスがその著『真理論』のなかで、「真理とはただ精神だけで把握可能な正しさである」(Veritas est rectitudo sola mente perceptibilis)とするのも――いうところの「正しさ」とは何らかの合致を意味する――、この見地に立つものである。

トマス・アクィナス『真理論』(花井一典訳)哲学書房、1990年, p. 29–30.
(人名およびいくつかの用語を修正)

とくにアヴィセンナとイサクの関係性は言っていないなぁ…。
但し、やはり「事物と知性の合致」はイサク・イスラエリの主張だとしている。但し、『真理論』訳者の花井はここに註を付けていて、この文章はイサク・イスラエリの『定義集』には見出されず、むしろアヴィセンナの『形而上学』第1巻第8章の文章と同じ趣旨なのではないかと述べている。

そうなのか…?

すると、Stanford Encyclopedia of PhilosophyのIsaac Israeliの項目(Leonard Levin, R. David Walker執筆)に、以下のような記述を見つけた。

イスラエリの哲学的作品はキリスト教とユダヤ教の思想家たちにかなりの影響を与えたが、ムスリムの知識人たちのあいだではそれほどの影響をもたなかった。12世紀以降続くキリスト教徒によるスペインの再征服運動において、トレドのある学者グループが科学と哲学にかんする数多くのアラビア語作品をラテン語に翻訳した。この文化センターに移住した翻訳者のひとりにクレモナのゲラルドゥスがいる。彼はイスラエリの『定義の書』や『元素にかんする書』をラテン語に翻訳した。イスラエリの作品は数多くのキリスト教徒の思想家に引用され、敷衍された。そこには、グンディッサリーヌス、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、ボーヴェのヴァンサン、ボナヴェントゥラ、ロジャー・ベーコン、クーザのニコラスが含まれる(Altmann and Stern, Isaac Israeli, pp. xiii-xiv; Julius Guttmann, Die Scholastik des 13. Jahrhunderts in irhen Beziehungen zum Judentum und zur judische Literatur, pp. 55–60, 129–30,150 and 172; またGuttmann, Das Verhaltniss des Thomas von Aquino zum Judentum und zur judischen Literatur, pp. 55–60を見よ)。
(拙訳) 

なるほど。

さらには、『定義の書』にかんしても、以下のように説明されていた。ちょっと長いが引用しよう。

元々はアラビア語で書かれたこの作品はふたつのラテン語訳(Liber de Definicionibus/Definitionibus)とふたつのヘブライ語訳(Sefer ha-Gvulim)で現存しているが、元々のアラビア語版(Kitab al-Hudud)は断片でしか現存しない。この本がキリスト教徒のスコラ哲学者に広く読まれたことは、トマス・アクィナスやアルベルトゥス・マグヌスが真理にかんするアヴィセンナの定義をイサクの『定義の書』に誤って帰したことから明らかである(Altmann & Stern, Isaac Israeli, p. 59を見よ)。この本は57の定義集であり、その大半はキンディーの様々な文章からの(しばしば出典なしの)敷衍や引用である。いくつかの例で彼は「哲学者」を引用し、これはアリストテレスを意味していると理解されるだろうが、彼が実際に敷衍しているのはキンディーである。キンディーはしばしば、アリストテレスが特定の主題について書いた内容を解説すると主張している。時たま、彼の定義はほかの可能な資料、たとえばクスター・イブン・ルーカー(835–912年に生きた医者、数学者、科学者、翻訳家)、アレクサンドロスのアンモニオス・ヘルメイウー(5世紀)、ヨハネス・フィロポノス(490–570頃)から取られている。この作品に現れるいくつかの考えは、いかなる既知の資料にも裏付けがない。とはいえ、この本がキンディーにかなり依拠していることから、Sternは、これらの逸脱はしばしば、散逸したキンディーの定義集からの引用か、キンディーの誤読ではないかと仮説を立てている。奥付のひとつは、この作品が「コレクション」であると記しており、これはおそらく、資料がオリジナルでないことを示し、そういうものとして読まれないようにという意図であろう。ほかの写本では、イサク・イスラエリがそれを書いたと主張しているが、この同じ奥付は偽の情報を含んでいる――イサク・イスラエリはスペインに生まれて、彼の子どもたちがこれを学ぶように望んだなど(Altmann & Stern, Isaac Israeli, p. 78)、 よって、この作品が完全にイスラエリのオリジナルな作品だという主張は本当のものと見做されるべきではない。
(拙訳)

なるほど!
つまり、トマスやアルベルトゥスといった中世スコラの学者たちはイサク・イスラエリの書物をかなり読んでおり、アヴィセンナの言説も実はイスラエリに淵源する、みたいなことを言っていたんだろう。

たぶんこれは、自分たちが典拠にしているものがイスラームから発しているのではなく、(名前からも分かる通り)ユダヤ人のイサク・イスラエリからなんだと考えた方が精神安定上良かったということもあるんじゃなかろうか。(深読みしすぎ?)

でも、そのイサク・イスラエリの『定義の書』の内容の大半が、じつはアラブ人の哲学者キンディーの切り貼りから出来ていたなんて、こんなことトマスが知ったら卒倒しそうだな…。

まぁ何はともあれ、トマスが(知ってか知らずか)アヴィセンナの概念をイサク・イスラエリに帰していたということはこれで明らかになった!

ということは、ハイデガーが「アヴィセンナ自身はこれをイサク・イスラエリの『定義の書』(十世紀)から踏襲しているのであって」と言っているのは、トマスが書いている内容をそのまんま信じ込んでしまっている、ということか!

ハイデガーは確かに中世哲学にかんする知識を多くもっているのだけど、その知識もやはり古くて、スアレスを中心にした16世紀の哲学史観だという指摘も聞いたことがある。

やはりハイデガーも時代的制約を受けているのかぁ。というお話。