2016年9月5日月曜日

あの哲学者は論理派?直観派?(思いが溢れて伝えきれない編)

モテ系・非モテ系にかんする考察を行っていくうちに、いろいろ浮かび上がってきた観点がある。
そのひとつに、哲学者が「推論」を重視するか(discursive)、「直観」を重視するか(intuitive)という点である。
もちろん本来哲学において推論と直観は論理の両輪であり、切っても切れない関係にあり、だいたいの哲学者はその両方をバランスよく使用しているのだが、中にはそのバランスが悪い、どちらかに振り切ってしまっている(もしくはそのように見える)、まるで呂布や張飛のような哲学者がいないこともない。

今回からはしばらく、この「論理」(正式には推論だがゴロが悪いので論理とさせてもらう)と「直観」がどちらかに振り切れている哲学者について見ていきたいと思う。

まずは直観重視派を見ていきたいが、そのなかでも「思いが溢れて伝えきれない哲学者」を見てみることにしよう。

このタイプの哲学者は本来正統派なバランスの取れた哲学の教育を受けており、本人的にはそこまで逸脱していないつもりなのだけど、思いと情熱ばかりが先走ってしまい、結果的に何を言いたいのかよく分からない文章になっているというパターンが多い。
そのため、文章の熱量だけはやけに高くて、本人の意気込みだけは伝わってくるのだが、当の哲学者の中では自明になっていることは説明せずにすっ飛ばしたり、独自の用語を使用したり(それも本人の中ではみんなが分かってくれているという認識になっている)していて、「哲学的に深淵な文章だ!」と評価する人と、「何を言いたいのか分からない悪文だ!」と貶す人の真っ二つに分かれてしまう。

しかもだいたいこのタイプは基本的な熱量が高いので、文章を書かせるとしっちゃかめっちゃかになってしまう割に、講義で喋らせると饒舌で、むしろ名講義として評判を呼んだりする。

さてそんな思いが溢れて伝えきれない哲学者の代表と言えば、
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770–1831)
マルティン・ハイデッガー(1889–1976)
の二人だろう。

二人とも本人が書いた「著作」と呼べるものは少なく、むしろ膨大な講義録が伝わっている。
とくにハイデッガーなんて全集が数十巻出ているけれど、ほとんどが講義録とか講演録とか、そんな感じだ。
ヘーゲルの場合は死後に講義ノートを切り貼りしたものが多く、精度にやや問題があるらしいけど、いまだに翻訳が出たりして(今また新全集用意しているんだっけ)、大御所の貫録充分である。
そして彼らが好き勝手、思う存分話した講義じゃなくて、紙に書き落とした著作の方を見てみると、彼らの両方とも熱量が先走り過ぎてしまい、「ちょっと読んでみようかな」と思った初心者たちを無情にも振り払ってしまっている。
しかしこれがまた不思議なもので、単なる悪文ではなく「思いに溢れた悪文」というのは、なぜか若者の心をガッシリと掴んで離さないようで、ハイデッガーは不動のモテ系哲学者だし、ヘーゲルだって、いまや古典系に分類されるだろうが、昔は多くの若者たちを熱狂させていたわけで、系統的には正統派のモテ系である。
これがウィルフリード・セラーズ(1912–1989)のように「単なる悪文」だと、一部のゴリゴリの分析哲学者だけを惹きつける、非モテ系、もしくはマニアモテ系になってしまう。(個人的にはセラーズに惹きつけられるくちではあるけど)
著作は意味不明で講義は明晰というと、ほかにジャック・ラカン(1901–1981)が挙げられるが、ラカンの場合は意味不明な著作も含めて計算づくでしている感じで、ちょっといけ好かない。

やっぱりモテ系になるためには、熱量の高さというのは重要なファクターなのかもしれない。
そう考えると、西田幾多郎なんかは「思いが溢れて伝えきれない系」なのか「単なる悪文」なのか気になるところではある…。
個人的には(同郷の誼もあり)、前者だと思いたいところはあるが、後者の恐れもある。あんまり西田の講義聞いて感動したって話聞かないしなぁ。しかし、一時期は京都を西田哲学が席捲したわけだし、西田も意外と情熱的だったのかもしれない。そう考えると西田のあのわけの分からない文章もひとつのモテ要素として立ちあがってくるわけだ。

とはいえ、思いが溢れて伝えきれず、結果的に悪文になっているというのは狙ってできるわけではなく、本人の溢れ出る哲学的情熱と、それに僅かながら届かない表現力がきわめて高いレベルで混ざり合ってはじめて成立するものであり、最初からこの境地を目指そうとすると悲惨なことになるであろうことは想像に難くない。

ハイデッガーやヘーゲルの文章に魅せられて、あの奇跡の産物のような文体を真似しようとする大学院生がだいたい大変なことになっているのは、理由のないことではないのだろう。

いわばこの手のタイプは最初から「直観的」な文章を書こうとしているのではなく、個人的には割と真面目に「論理的」なスタイルを採ろうと思っているのに、結果としてあんな感じになってしまっているだけなのだ。むしろ最初から「直観的」な文章を意図的に選んでいるような哲学者のスタイルの方が真似やすいかもしれない。

また、翻訳が紛糾したり、「原書で読んだ方が読みやすいよ」なんて言われるのも大体このタイプだろう。(『精神現象学』や『存在と時間』なんて、いったい何種類翻訳が出てるんだという。)そりゃ彼らは自分の思いのたけを自分自身の言葉にも上手く乗せられていないのだから、それをさらに日本語に翻訳してしまったら、余計分かりにくくなることは明らかである。
でも大丈夫、西田の文章を見ても分かるように、このタイプの文章は、原書で読んでも分からないから。

とはいえ、個人的にはこの「思いが溢れて伝えきれない哲学者」の文章、嫌いじゃない。そして、こういった哲学者はだいたい「ベシャリ」が上手いことが多いので、彼らの講義や講演録を読むのも結構好きである。

次回:論理を相対化しようとしている編

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