2016年11月2日水曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学】2-1イスラームの誕生

第二章 歴史的な流れ

 ――イスラームの誕生

 第二章と第三章では、中世アラビア語哲学が形成されるまでの流れを、歴史的、思想史的な観点から見ていきたいと思います。まず第二章では歴史的な側面に目を向けてみることにしましょう。
 中世アラビア語哲学には、「イスラーム哲学」と違って宗教色が希薄です。哲学者たちは必ずしも反宗教的な姿勢を示したわけではありませんし、(哲学者がムスリムの場合)大抵の人たちは自らを敬虔なムスリムだと考えていました。しかし、ギリシアから輸入された「哲学」という外来の学問と、土着の宗教であるイスラームが馴染みにくかったというのは否定できません。
 とはいえ、彼らは主にイスラームを信奉する王朝に仕えていましたし、彼らが活躍したのはムスリムが多数派を占める地域であったというのもまた事実です。ですから、第二章はこの「イスラーム」という宗教の成り立ちを簡単に振り返ることから始めたいと思います。

 イスラームというと、ときどき中東=メソポタミアという連想からか、ユダヤ教やキリスト教の元になったと思っている人がいますが、これは大きな誤解であり、これら三つの宗教のなかではもっとも新しいものです。ユダヤ教がもっとも古く、ユダヤ王国を盛り上げたダビデ王の戴冠は紀元前1000年だと言われています。とはいえ、ユダヤ教の聖典『旧約聖書』がそのころに存在していたわけではなく、いまの聖書の核になるようなものが集まり出してきたのは紀元前5世紀以降だとされています。その後、現在のパレスチナに住んでいたユダヤ人のなかからイエスという男が現れ、ローマ帝国によって処刑された彼を神の子だとする「キリスト教」運動が、彼の弟子たちのあいだで次第に盛んになっていきました。キリスト教の聖典「新約聖書」が書かれたのは、もっとも古いとされるパウロの手紙が50年ごろ、もっとも新しいヨハネ福音書が100年ごろとされています。(ちなみに、教団としてのキリスト教の成立に深くかかわったパウロは生前のイエスに一度も会ったことがありません。)そして、イスラームは預言者ムハンマドがメッカからメディナに逃れた(聖遷=ヒジュラ)622年を元年としていますから、キリスト教よりも600年ほど新しいということになります。日本に目を向けてみると、聖徳太子が亡くなったとされるのが622年だと言えば、イメージがわくでしょうか。

 イスラームの預言者ムハンマドはメッカの豪族クライシュ族に生まれます。ただし彼の父親は彼が生まれる前に亡くなっているので、部族では叔父のアブー・ターリブの庇護を受けていました。成人したムハンマドはほかのクライシュ族の男子と同じように交易商になり、25歳のころ15歳年上の裕福な未亡人ハディージャと結婚します。その後ハディージャと力を合わせながら商売をおこなっていったムハンマドですが、40歳になったころ、突然心のなかに言い知れない悩みが沸き起こり、メッカ郊外にあるヒラー山の洞窟にこもって瞑想をおこなうようになります。若いころから交易商として一生懸命はたらいて、40歳になってひと段落したとき、ふと何か心に感じるものがあったのでしょうか。(当時の40歳は、現在の60歳ぐらいの感覚だと思えば分かりやすいです。)
 あるとき、いつものように瞑想をおこなっていると、突如ムハンマドの耳に「読め!」という声が聞こえます。これが天使ジブリールで、彼に神からの啓示を伝えます。ジブリールとはキリスト教でいうところの天使ガブリエルのアラビア語風発音で、マリアイエスの受胎を伝えたのもガブリエルだとされています。メッセンジャー的な役割を担う天使なのですね。突然の啓示にうろたえているムハンマドを励まし、最初にイスラームに改宗したのも妻のハディージャです。
 その後も断続的に啓示は下され、神の教えを伝えるムハンマドのもとに人々は集まってきますが、当然ながらメッカに住む住民の多くはイスラームにたいして懐疑的であり、ムハンマドのもとに集まる集団はわけのわからない新興宗教として危険視されます。これはイエスのもとに集まった集団が当時のユダヤ教から危険視されたのと同じであり、現在は長い歴史をもつ宗教であっても、それが成立したときには「新興宗教」だったということがよく分かります。
 迫害を受けながらも教団を維持していたムハンマドですが、619年に叔父のアブー・ターリブと妻のハディージャが亡くなり、メッカ住民からの迫害はさらに激しくなります。迫害がひどくなって、このままでは命の危険もあるかもしれないというとき、ヤスリブという街の住民から部族間の抗争の調停者としてムハンマドが呼ばれます。部族の対立を無関係の第三者に収めてもらうためということですが、こういった役割にムハンマドが選ばれるということは、ヤスリブの住民から彼がメッカの有力者のひとりとみなされていたことが分かります。ムハンマドは親友のアブー・バクルと共に、夜陰にまぎれてメッカを脱出します。メッカ側はムハンマドに刺客を差し向けましたが、なんとか無事にヤスリブに到着します。これが622年、聖遷(=ヒジュラ)と呼ばれるものです。
 ムハンマドを迎えたヤスリブはその後「預言者の街」(マディーナ・アンナビー)と呼ばれるようになります。このマディーナが訛ったものがメディナです。だから、メディナだけだと「街」という意味になってしまいます。ヤスリブ=メディナに拠点を移したムハンマドはその後もどんどん勢力を拡大していき、ムハンマド率いるメディナとメッカは何度も戦いを繰り広げます。攻防は一進一退でしたが、ついに630年、ムハンマドはメッカに無血入城します。当時のメッカでは多神教が信じられており、カアバ神殿には数々の神様の像(偶像)がまつられていました。メッカに入城したムハンマドはまず、このカアバ神殿にあった神様の像をすべて破壊しました。イスラームでは唯一の神様(アラビア語ではアッラーと言います)のみを信仰するべきで、数多くの神様を信じたり、神様の像を拝んだりすることは禁止されているからです。もちろんこれはユダヤ教でもキリスト教でも同じですが、キリスト教の場合、とくにカトリックはイエスの像やマリアの像が教会にあったりしますから、少し違いますね。(キリスト教でもプロテスタントにはカトリックのこういった態度を良く思わない人もいます。)
 その後632年にムハンマドはメッカに巡礼をおこなったさいに亡くなりますが、その後継問題を巡って、ふたたび大問題が生じてしまいます。
 ムハンマドに下された啓示は聖遷を境にして前半をメッカ期、後半をメディナ期と呼ばれます。メッカ期の啓示は一般的に短く、畳み掛けるような調子で、非常に緊張感の強いものが多く、内容もこの世の終わりなど、いわゆる「終末論」的な雰囲気のものが目立ちます。かわりにメディナ期の啓示はひとつひとつが長く、内容も共同体の決まりごとについてなどが多くなっていきます。これはイスラームという共同体がそのときどきに必要としている啓示が、そのときに応じて下されていったということなのでしょう。
 また、日本人などはときに褒める気持ちからも『コーラン』の(とくにメッカ期の)啓示を「詩のようだ」と言いますが、これはムスリムからするととんでもない言葉であるということは知っておいた方がいいでしょう。なぜなら詩とは、あくまでも人間や精霊などが作り出すもので、神が直接くだす啓示とはまったく別物だからです。実際ムハンマドも当時は「詩人」と呼ばれることがあり、これにたいして「もしこの神の啓示を詩と言うなら、詩人たちはこれに匹敵するぐらいのものを作ってみせろ」と返しています。

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