2016年10月30日日曜日

【高校生のための中世アラビア語哲学入門】【コラム】「アラビア語哲学」?「イスラーム哲学」?

【コラム】「アラビア語哲学」?「イスラーム哲学」?

 さて、それではなぜ「アラビア語哲学」と「イスラーム哲学」なのでしょうか?それぞれの呼び名にはどんな意味があるのでしょうか?
 まず、私がここで使っている「アラビア語哲学」という呼び名は、先ほども言いましたように英語でのArabic Philosophyの訳語であり、ちょっと日本語として馴染のない言葉です。でもなぜそんな不自然な言葉を使うかというと、「アラビア語哲学」の担い手たちが特定の宗教や民族に限定できないからなのです。
 歴史についてお話しするところでもう少し詳しく説明しますが、とくに成立初期のアラビア語哲学は、キリスト教徒たちの力を無視しては語れません。彼らの大半はネストリウス派やヤコブ派など、単性論と言われ西方の教会では異端とされた人たちで、東方に移り住んでいました。とくにアッバース朝は先行のウマイヤ朝と違って異民族の人材も積極的に活用したため、バグダードなどの大都市にはキリスト教徒が大勢いました。彼らの聖典である『新約聖書』はギリシア語で書かれているため、(もちろん個々人での能力の差はあったでしょうが)キリスト教徒たちはギリシア語を操ることができました。そしてこういった人たちが、アッバース朝におけるギリシアの先進的な文明のアラビア語への翻訳活動を牽引してきたのです。フナイン・イブン・イスハークイスハーク・イブン・フナインの親子による翻訳は有名で、とりわけ息子のイスハーク・イブン・フナインは数々のアリストテレスの著作をアラビア語に翻訳しました。また翻訳家以外にも、アブー・ビシュル・マッターヤフヤー・イブン・アディーなどの哲学者もキリスト教徒でした。(ユダヤ教徒の哲学者もいたのですが、彼らはキリスト教徒たちほどイスラームと積極的に交流せず、当時のユダヤ人哲学者からのアラビア語哲学への影響というのは意外と少ないものです。)
 そして民族的なことについて言いますと、実はアラビア語哲学を担った哲学者のなかでアラブ人というのは余りいないのです。最初のアラブ人の哲学者と言われるキンディーが有名ですが、それ以外となると有名な哲学者にはペルシア系の人が多いのです。ですから、アラブ人による「アラブ哲学」というのはまったく成り立たない呼び方になります。
 宗教についても「イスラーム哲学」は成り立たない。とても多種多様な人材が集まって哲学をおこなっていた、でもそこで共通していたのは「アラビア語という言葉を使う」ということ。そこで、アラビア語という言語による「アラビア語哲学」という呼び名が必要になってくるわけです。

 じゃあ、「イスラーム哲学」という呼び名は当てはまらないのでしょうか?実はそうではありません。先ほど述べた13世紀以降になると、今度は「アラビア語哲学」という呼び名が当てはまらなくなります。この頃になるとペルシア人の哲学者たちはペルシア語で著作をおこなうことが増えてきます。またオスマン帝国が成立した後は、トルコ系のオスマン語で書かれた作品も登場します。必ずしも哲学をおこなうためにアラビア語を使う必要がなくなってくるのですね。
 そして時代を経るごとにキリスト教徒たちの役割も小さくなってゆき、哲学はだんだんとイスラーム的な要素を強く前面に押し出してくることになります。イスラームの神学者が哲学書に註釈をおこなうといった、以前だったら考えられないようなことも普通に行われていくことになります。つまり、哲学がギリシア臭いといって宗教家から嫌われていた時代にあった、「哲学者vs神学者」という構図も成り立たなくなっていくのです。
 これは、ヨーロッパのスコラ哲学に比べると分かりやすいかもしれません。13世紀以降の「イスラーム哲学」は、スコラ哲学と同じく、宗教と哲学が融和して、混じり合っていくのですね。逆にアラビア語哲学は「哲学」の要素が強すぎて、宗教的なものとは対立することが多いのです。
 著名なイスラーム哲学の研究家アンリ・コルバンは「イスラーム哲学」という呼び方を好みますが、それは彼がイランの神秘主義を熱心に研究していたからです。イランの神秘主義は主にペルシア語で書かれていましたし、「アラビア語哲学」ではどうにも都合が悪いのです。それにコルバンが研究していた時代の哲学はほとんど哲学の担い手はムスリム(イスラム教徒)でしたし、「イスラーム哲学」という呼び名がピッタリ来ます。

 「イスラーム哲学」という呼び名を好む人たちからすると、「アラビア語哲学」というのはギリシアからの輸入哲学に過ぎず、そこに真に独創的なものはないように見えるかもしれません。逆に「アラビア語哲学」という呼び名を好む人たちからすると、「イスラーム哲学」の名のもとで展開されている思想を何の譲歩もなしに「哲学」と呼ぶことに躊躇があるかもしれません。それは「神学」の一分野、または「宗教哲学」であって、純粋な「哲学」のように見えないかもしれません。(もちろんキリスト教の神学者であったトマス・アクィナスのスコラ哲学が「哲学」であるのと同じ程度には哲学と呼べるでしょう。)
 同じ地続きのひとつながりの哲学なのに、前半は「アラビア語哲学」、後半は「イスラーム哲学」と呼んだ方がいいという理由、なんとなく分かってきたでしょうか。

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