2016年6月21日火曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第一部第一巻(2)

第五規則
〈普遍者は外界に存在しない〉

(11)「一般的意味」は精神の外に実在しない。というのも、もし実在したなら、他者から識別され他者と共通しないと考えられる「それ性」(huwwiyyah)をもっただろう。すると一般的なものと仮定されながら、個別的なものになるが、それは不合理である。
一般的意味には次の二種類がある。多数のものに等しく生じる意味は「均質一般的意味」(al-ʻāmm al-mutasāwiq)と呼ばれ、たとえば四つの個体それぞれにたいして「四」は等しく生じる。より完全かより欠如した仕方で生じる意味は「相違一般的意味」(al-maʻnā al-mutafāwit)と呼ばれ、たとえば雪や象牙などにたいして白さはより完全に生じたりより欠如して生じたりする。
ひとつの命名対象に多くの名前があるとき、「同義語」(mutarādifah)と呼ばれる。ひとつの名前に多くの命名対象があり、その名前がそれらにたいして同じ意味で生じていない場合、そのようなものは「同名語」(mushtarikah)と呼ばれる。名前が、その意味以外で、何らかの類似や隣接や附随によって口に出されたら、それは「比喩的」(majāzī)と呼ばれる。

第六規則
〈人間の知識〉

(12)人間の知識は生得的か非生得的かである。未知のものを知るためには注意喚起(al-tanbīh)したり心に思い浮かべたりするので充分でなく、偉大な賢者たちによる真の視認で獲得されなかったとしよう。その場合、我々はその未知のものに至る筋道をもつ既知のものを必要とし、その知識は探求のさい究極的には生得的知識に基づかなければならない。そうでなければ、人間の探求対象はすべて、それ以前に無限遡行するものに依拠し、彼には最初の知識すら生じないことになるが、これは不合理である。

第七規則
〈定義とその条件〉

(13)ある事物が、それを知らない者に定義されると、定義はそれに特有なものによってなされ、それぞれの要素の特定化か、一部の要素の特定化か、その組み合わせによって定義される 。定義はかならず、定義対象よりも顕在しているものによって定義され、それと同等なものや、それより隠れたものや、その定義対象によってしか知られないものによっては定義されない。誰かが父を定義して「それは息子をもつ者である」と言っても、それは正しくない。というのも「父」も「息子」も同じ知識と無知の条件にあるのだから、どちらかを知る者は、もう片方も知るのである。「X以前にXなしで知られている」というのが、Xを定義するものの条件である。また「火は魂に類似した元素である」という定義も、魂は火よりも隠れているので正しくない。同様に「太陽は昼間に出現する星である」という定義も、昼間は太陽の現れる時間によってしか知られないので正しくない。
実相の定義は単なる言い換え(tabdīl al-lafẓ)ではない 。なぜなら言い換えは、実相を知っているがその語の意味を曖昧に理解している者にとってのみ有効なのだから。関係語(al-iḍāfiyyaāt)の定義では、関係性を生じさせる原因が述べらる必要があり、派生語(al-mushtaqqāt)の定義では、派生の種類に応じて、その語が派生してきた元の語が述べられる必要がある 。

章〈真の本質定義〉

(14)ある人々 は、事物の「何であるか性」を指示する言説を「本質定義(ḥadd)」と呼び(それは本質的要素や、その実相内部の要素を指示している)、実相を外的な要素によって定義する言説を「描写(rasm)」としている。知るがよい。たとえば、ある者は物体に部分があると証明したが、ある人々はそれを疑っており、ある人々はそれを否定している 。この「部分」については後で知ることになるだろう。また大衆にとって、そのような「部分」は命名対象の概念に含まれず、むしろ思い浮かべた附随物の集合(majmūʻ)だけに名前が付けられるのだ。
また、たとえばあらゆる水や空気は感覚不可能な部分をもつと証明されたが、ある人々はそれを否定する。よって彼らにとって、その諸部分は、彼らが理解するもの(=水や空気)に何の影響も与えないのである。また既に述べたように、物体とは身体的実相のさまざまな部分や状態のひとつなのだが、物体といって人々が思い浮かべるものは、彼らに顕在しているものだけであり、それこそ命名者と人々の命名で意図されていたものなのである。
感覚可能なものでこの状況であったなら、感覚不可能なものについてはいかばかりか!また人間には、その人間性を実現させるものがあるが、大衆もペリパトス派の専門家もそれを知らない。(ペリパトス派はその本質定義を「理性的動物」としているが。)理性/発話の素質は付帯的で、実相に従属しており、こういった要素の原理 である魂は、附随物や付帯性によってしか知られないのだ。人間にもっとも近い魂ですらこのような状態なのだから、それ以外のものについては如何ようであろうか?しかしそれにかんして必要なことは述べることにしよう。

照明的基礎
〈ペリパトス派の定義論の基礎の解体〉

(15)ペリパトス派は事物を本質定義するさいに、その一般本質要素や特殊本質要素が述べられることを認めている。一般本質要素は「類」と呼ばれ、他の一般本質要素の部分でなく、それによって「それは何であるか」 の答えが変化する普遍的実相に属する。そして事物の特殊本質要素は「種差」と呼ばれる。しかし定義において両者にはこれ以外の体系もあり、我々はそれを我々の著作のべつの箇所ですでに述べた 。また彼らは、未知のものが既知のものによってしか獲得されないことを認めている。よってXの特殊本質要素は、これまでXを未知だった者には知られていない。なぜなら、その要素がX以外のものにおいて知られたら、それはXの特殊要素でないのだから。それがXに特有であり、感覚に顕在しておらず知られてもいないなら、それは彼に未知のものである。Xの特殊要素も知られたとして、それが特殊要素でなく一般要素によって知られたならば、それはXを定義しない。特殊な部分については前述の通りである。よって、べつの仕方で、感覚可能な要素か顕在している要素に立ち帰るしかない。あらゆる事物にかんしてこれが当てはまる。あなたはこの本質を後で知ることになるだろう。
 また、既知の本質要素を述べる者は、ほかに見過ごしている本質要素があるとは夢にも思わない。解説を求める者(al-mustashriḥ)や対立者(al-munāziʻ)は、彼にそれを求めることが出来る。しかし定義する者はこのとき「もしほかの属性(ṣifah)があったなら、私はそれに気付いていたはずだ」と答えることは出来ない。何しろ多くの属性は顕在していないのだから。「もしそれがべつの本質要素をもっていたなら、それなしに我々が「何であるか性」を知らなかったはずだ」という答えでは不十分だ。だから、実相はその本質要素がすべて知られたときのみ知られると言われるのだ。もしそれ以外に認識されていない本質要素があるかもしれないなら、実相の認知は確実ではない。よって、ペリパトス派が要求するような仕方で本質定義を遂行するのは、人間には不可能なことが明らかになった。その困難さについては、彼らの主人(アリストテレス)も認めている 。よって我々には、集合(ijtimāʻ)を特徴とするものによる定義(taʻrīfāt)しかないのである。

(1) 第二巻(1)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

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