テキスト:『命題論』、『命題論註解』
アリストテレスは命題論を以下のような文章で始める。
最初に名詞とは何であるのか、そして動詞とは何であるのかを見定めなければならない。次に否定言明と肯定言明と命題と言表が何であるのかを見定めなければならない。
アリストテレス「命題論」『アリストテレス全集1』(早瀬篤訳)岩波書店、2013, 16a1, p. 112.
アンモニオスやステファノスといった註釈家たちは、アリストテレスが動詞よりも名詞を先に解説していることを、理にかなったことだと考えた。
なぜなら、名詞は「事物の存在」を指示しているけれど、動詞は「事物の行為」を指示しており、存在の方が行為より先なのだから。
この「名詞」中心主義的な言語観は古代に限らず、私たちも多かれ少なかれ共有しているように思う。
言語の中には名詞だって動詞だって、それ以外の小辞(前置詞や冠詞など)もあるのに、たとえば日本語をどれか挙げてみてって言われて、「山」や「川」じゃなくて、「走る」や「食べる」、さらには「だろう」や「と」を挙げる人は結構変わってる人だと思う。
(ウィトゲンシュタインが『哲学探究』でアウグスティヌスの『告白』を引用しながら批判したのは、まさにこういう名詞中心の言語観だと思うのだけど、ひとまず我々は古典的な言語観の味方ということにしておきたい。)
アリストテレスは名詞を次のように説明している。
さて、名詞とは対象となる思考内容あるいは事物・事象を表示する音声であり、取り決めによって成立するもので、時制をもたないものである。そして名詞の部分は、全体から切り離された状態では何も表示しない。
アリストテレス「命題論」p. 114.
アリストテレスにとって、名詞というのは人々の合意によって成り立つもので、言霊に基づいてそれぞれの言葉が決定されているものじゃない。
そして、かならず意味に時間が付け加えられてしまう動詞と異なり、時制をもたない。
(「山」に「過去」がくっついていたら怖い。ただ、「昨日」という名詞は時間を指すだろうという指摘もあり、これには註釈家の人たちがいろいろ答えている。)
そして、「イスラーム」という言葉の「イ」と「スラーム」がそれぞれ「イスラーム」がもつ意味の一部を担っているわけではない。
(「哲学」は「哲」と「学」でも意味があるし、「哲学」の意味の部分を指示してない?っていう指摘はたしかにあって、これもいろいろ説明されている。但し、アリストテレスのこの名詞観は漢字のように表意文字を使う文化圏にはそのまま適応しにくいかもしれない。)
以上がペリパトス派による、基本的な名詞の理解である。
もちろんアリストテレスがここで想定しているのは、人間であって、たとえば動物の鳴き声も何らかの意味をもっているだろうけれど、それはあくまで取り決めにしたがっていないため、言語ではないのだ。
動物の鳴き声が言葉と言えないことを、アレクサンドリアのステファノスは『命題論註解』のなかで以下のようにまとめている。
「意味をもつ」以下の部分を、彼は構成的種差として使用している。それはこの種の発話音を、分節化されまいがされようが、無意味な発話音から、また分節化されないが意味をもつ音(たとえば書かれない音や、犬の吠え声など)から区別するためである。分節化されるものは、たとえば「山羊鹿」や「ブリトュリ」のようなものである。彼は「合意による」を、「策定による」の代わりに使っている。というのもエジプト人たちは、事物をこれらの名前で呼ぶことに、ギリシア人たちはあれらの名前で、そしてほかの者たちは、同様に、ほかの名前で呼ぶことに合意しているのだから。これは、それらを、ほかの動物たちに作られた音、たとえば犬の吠え声と対比して区別するために言われたのである。というのも犬の吠え声は意味をもつ発話音であるが(というのもそれは友人や異邦人がいることを意味するのだから)、合意によらないのだから;というのも犬は「異邦人が現れたときに我々は吠えます」ということを合意していないのだから。
Stephanus, On Aristotle's On Interpretation, trans. Wiiliam Charlton, Ithaca, New York: Cornell University Press, 2000, 124.
でも、果たしてそれって不可能だろうか?
たとえば犬を訓練して、友達が来たときは二回吠えて、知らない人が来たときは三回吠えるようにしつけたとしたら、その犬はそういう「吠え声使用」をすることを飼い主と合意していることにならないだろうか?
手話で話せるゴリラのココなんかは、手話という、分節化されて合意によって作られた人間の人工言語を使いこなしているんだから、言葉を使用しているということにならないだろうか?
そう考えると、日本の犬と外国の犬の会話って通じるんだろうか…。
何となくだけど、普通にコミュニケーションが取れそうな気もする…。
そうなると、たとえ犬と飼い主のあいだに「合意に基づく」何らかの言語的なものは形成できるとしても、犬の吠え声そのものはやはり(合意じゃなくて本性に基づいているため)言語じゃないってことなのかなぁ。
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