2016年7月22日金曜日

本当の自分はすっぱだか?

提唱者:イブン・シーナー

テキスト:『治癒の書』「魂について」

本当の「自分」って何だろう?

「私」の範囲をどこに設定するかというのは、昔の哲学者にとっても大きな問題だった。

「私」=「自分」=「私そのもの」だとすれば、私がいつも着ているお気に入りのシャツは私に含まれるのだろうか?いつも履いている靴は?

いつも眼メガネをかけている人にとって、メガネは自分を構成する要素と言えるかもしれない。

しかし、イブン・シーナーはその範囲をかなり狭く設定する。

これらの肢部(=手足のような身体器官)は、実際には衣服のようにして我々にそなわるにすぎないのに、つねに我々に付着しているため、我々から見ると、我々の部分のようになっている。我々が自分自身を想像するとき、裸体で想像することはなく、身にまとう物体をともなった姿で想像する。その原因は恒常的な付着だが、しかし衣服については、肢体にあっては慣れていない剥ぎ取りや脱ぎ捨てに我々が慣れているため、肢体は我々の部分だという考えの方が、衣服は我々の部分だという考えよりも強固なのである。
イブン・シーナー『魂について 治癒の書 自然学第六篇』(木下雄介訳)知泉書館、2012, p. 294.

 つまり、イブン・シーナーによれば、私たちは普段「私」を想像するときに、服を着た姿で想像する。これは、(大抵の場合、)通常人間は服を着ているからであるが、それでも私たちはその服が自分自身ではないことを分かっている。
それと同じように、私たちに備わっている身体の器官も、本当は私じゃないのに、身体がつねに私に付着しているため、あたかもそれが「絶対に脱げない服」のようになっており、身体が私たちの本質に含まれると勘違いしてしまうのだ。

イブン・シーナーはこれを、空中人間説という独特な思考実験によって説明しようとする。

彼によると、人間の本質とは「魂」(現代的な言い方をすれば心)であり、身体の方は、いわば絶対に脱げない服のようなものであり、私を構成する本質の一部ではないのだ。

だから、本当の自分はすっぱだかどころか、身体をまったくもたないのだ。

これは一見すると理に適っているように思われるかもしれないけど、現代人からすると、ちょっと納得のいかない部分も多いだろう。

たとえば、メイクを日常的にしている人からすれば、メイクをした顔の方が本当の顔のように思えるだろうし、身体が変化することによって「自分」も刻一刻と変化していってるように思えるんじゃないだろうか。

風邪をひいたとき、体調の良いときで、「私」は違うように感じられるだろうし、落ち込んでいるときと嬉しいときではまるっきり別人になっているように思われるだろう。

10歳のときの自分と20歳のときの自分、30歳のときの自分は同じだろうか?

なんとなくイブン・シーナーの言っている「私」の説明は違うように思えないだろうか?

そう思うのは、彼が考える「自分」と、私たちが考える「自分」が違っているからだろう。

イブン・シーナーは基本的に「個物」に関心がない。彼が哲学的考察の対象とするのは、あくまでも一般概念である。

だから、ここでイブン・シーナーが問題にしているのは、いまここにいる私やあなたではなく、あくまでも「人間」一般なのである。

あなたが嬉しかろうか悲しかろうが、10歳だろうが80歳だろうが、「人間」としてのあなたは変わりないはずだ。

事故にあって片足を失ったら、たしかにそれ以前とそれ以降の私の自己認識は変わるだろうけど、あくまでも「人間」として見た場合、手足がなくなろうとも、目が見えなくなろうとも、「人間」であることには変わりない。

そういった意味で、イブン・シーナーは「私たち」の本質は身体にない、と言ったのである。

だから、個々の私やあなたの、唯一無二の身体性を伴った「私」が、身体の変化に連動して変化することそのものを、イブン・シーナーは否定しないだろう。
ただ、そこで感じられている「私」は、彼にとって学問の対象ではなく、あくまでも「人間」一般こそが論じられるべきだというのだろう。

こういう態度は、個々人のケーススタディをする学問を知っている現代人からすると奇妙なものに思われるかもしれないけれど、あくまでも「普遍学」こそが学問だという、イブン・シーナーのある意味「科学的」な態度も、個人的にはなかなか悪くないように思ってしまうのだ。

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