2016年7月5日火曜日

実在しないものもある?


提唱者:マイノング

テキスト:『対象論について』

個人的にとっても興味のある哲学者がいる。
それがアレクシウス・マイノングである。
ブレンターノの弟子のひとりであり、つまりフッサールの兄弟子ということになる。

現代の哲学史ではそれほど注目されていないのだけど(最近はマイノング主義の再評価もなされているみたいだけど)、もっとみんな注目しないかなぁと目論んでいる。

そして、マイノングの悪名高いテーゼが、「実在しないものも在る」というものである。
(基本的に哲学史でマイノングの名前が出てくるときは、ラッセルやクワインによる、この「マイノング主義」批判の文脈で出てくるので、ちょっと分析哲学を知っている人は「あぁ、ラッセルに批判された人でしょ?」と考えるんじゃないかなぁ。)

ん?

どういうこと?

ないものはないでしょ?

と思うかもしれない。

でも、マイノングは、「みんな現実世界を贔屓しすぎ!」と言うのだ。

現実世界って貧しくない?

と。

現実世界に実在しているものを全部ひっくるめたって、我々が思い浮かべたり、考えたりすることのできるものの集合に比べると全然少ない。
そりゃそうだ。

だから、実在しないものしか取り扱わないってのは、おかしいでしょ!と。
彼によると、我々の精神的活動の大半は、「何かについて」であり、何らかの対象をもっている。(このあたり、ブレンターノの影響を受けまくっていると思われる。)

そして、たとえば「数」は決して実在しない。

現実世界に実在しているのは、あくまでも「一本の人参」や「二足のサンダル」であって、そこに「一」や「二」といった数そのものがあるわけではない。
じゃあ、数は実在しないから、存在しないのか?
実存しないものはすべて無であれば、無意味なわけで、ってことは数学って無意味な学問?

マイノングはそこで、「~として在る」(Sosein)という考え方を持ち込む。

つまり、人参にしろサンダルにしろ、「~として在る」という在り方はもっている。
また、一や二といった数も、「~として在る」ことが可能だ。
さらにマイノングは「黄金の山」のように、現実には存在しえないものや、「丸い四角」のように矛盾をはらんだものまで「~として在る」ことができると言う。(たぶん、語義矛盾しているものまで存在のなかに含めてしまっていることも、ラッセルやクワインのような人たちに攻撃される理由じゃないかなぁ)

そして、こういった種類の「~として在る」は、たとえ実在じゃなかったとしても、ある意味では大きな「存在」の一様態なわけだから、存在していると言える。マイノングはそういったものが「存立」していると表現する。

そしてあらゆるものについて否定するとき、たとえば「丸い四角は無い!」と主張するとき、円い四角の「~として在る」が存在していないと、そもそも「丸い四角」を否定することなどできない。
まぁたしかに、「丸い四角は無い!」と考えるときに、頭の中でなんとかして丸い四角を思いうかべようとはしてるよなぁ。
(みんな、丸い四角を思いうかべることができるんだろうか?黄金の山なら問題なくできるだろうけど…。)

そしてマイノングによると、この「~として在る」は、外界の実在や不在とはまったく無関係だというのだ。
つまり、外界に実在するかとか、外界にいまだかつて存在したことがないし、将来も絶対無理!ということは(黄金の山は将来的に作ることができるかもしれないけど、丸い四角を作った人は絶対に精神崩壊すると思う)、それの「~として在る」に全然影響を与えることはなく、外界の状況がどうなろうとも、それの「~として在る」は相変わらず存立し続けるのだという。

フッサールの言う「エポケー」、存在のカッコ入れ、スイッチの一時断線、判断停止というのと、意外と近いんじゃないかという気もするんだけど、フッサールの研究している人たちは「違う!」と言うんだろうなぁ。

もちろん、認識の構造を明らかにするために「方法的に」エポケーを行うフッサールと、存在の判断を超えたところに「~として在る」を設定して、そこに存立を与えようとするマイノングでは、動機がまったく違うし、目指しているところも違うんだけど、これが同じくブレンターノの影響のもとから出てきたというのは、個人的にはとっても興味深い。(フッサールの数々の現象学的道具のなかにもブレンターノから借りて来たものがあるのかな?)

上でも言ったように、マイノングは「現実世界に実在するもの」よりも「頭の中で考え出されたもの」の方がよっぽど豊かだと考えている。
たしかに、もし我々が真面目に考える価値があるものが「実在するもの」だけなんだったら、数や「関係性」や「同等」、「差異」といった概念も外界には実在しないわけで、抽象的な思考、ひいては学問の大半が無意味ってことになってしまう。
もっとも頭の中の世界にも目を向けようよ!頭の中の世界にも権利を!というのがマイノングの主張だったと考えると、何だかとっても面白いし、とても意味のあることなんじゃないかなぁと思えてくる。

もちろん、「存在」をあらゆるものに適用させてしまうと、結局「すべて存在している」のは「すべて存在していない」のと同じであり、ほとんど何も言っていないに等しくなってしまうという危険性はあるんだけど、マイノングの意図は、そことはちょっと違うんだろう。

こんな素晴らしいマイノングなんだけど、ひとつ難点がある。
それは、和訳が手に入りにくいということである。
じつは戦前に岩波書店から『對象論に就いて』が三宅實訳で出ている(1930年)のだけど、もちろん絶版。
私も東大本郷の総合図書館の書庫のなかから見つけ出した。(廣松渉教授寄贈というハンコが押してあって、中にいくつか書き込みがあったけど、廣松渉が書いたのだろうか…。)
さすがにこの訳は古いので(「アンティポデスが在ることは正しい」es ist wahr, daß es Antipoden gibtという例文を「地球の反対面に人が存在すると云う事は正しい」と訳しているし)、現代語に訳した新訳が出ないかなぁ。

そしたらみんなもっとマイノングに触れることが出来るのに。

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