2016年7月2日土曜日

多様な言葉とひとつの意味

提唱者:ソシュール、アリストテレス、プラトン

テキスト:『命題論』

近代言語学の父とも呼ばれるフェルディナンド・ド・ソシュールは、言語の恣意性を指摘した。
つまり、我々がイヌと呼ぶものは、英語だとdogだし、フランス語だとchienだし、ドイツ語だとHundだし、中国語だと狗だし、アラビア語だとكلبだし…。
じゃあ、もっともイヌという動物に相応しい名前はどれだろうか?
というと、ソシュールは、それは人間が勝手に決めたことだ、と指摘するのだ。

イヌという名前と、「あの動物」との結び付きは、実は日本語を話す我々が勝手に決めたことであって、dogやchienよりも「あの動物」に相応しいということはないのだ。(もちろん逆もまたしかりである。)

「恣意」なんて日常の会話で使わないのでびっくりするかもしれないけれど、自由気まま、勝手とかいったような意味だ。(日常で「恣意的に物事を決めるなよな!」なんて言うやつがいたら、それはそれで面白いけど)

つまり、我々がイヌと呼ぶあの動物には、それぞれの言語によっていろんな名前が付いているし、それらの名前のどれがイヌにより相応しいということもなく、むしろその名前は、我々が勝手に決めたものなのだという。

よく哲学史や現代思想の教科書だと、これが近代思想へのひとつのおおきな潮流のひとつ、みたいな紹介のされ方をしている。

しかし、じつはこれと同じようなことはすでに古代ギリシアの頃から言われてきた。
アリストテレスは『命題論』の冒頭で以下のように言っている。

声に出して話される言葉は、魂において受動的に起こっているものの符号であり、書かれている言葉は、声に出して話される言葉の符号である。そして文字がすべての人にとって同じではないように、音声もすべての人にとって同じではない。これに対して、音声は第一に、魂がもつ受動的なものの記号であるが、この受動的なものはもとよりすべての人にとって同じものである。また魂がもつ受動的なものは事物・事態の類似物であるが、事物・事態はもとよりすべての人にとって同じものである。
アリストテレス「命題論」『アリストテレス全集 1』(早瀬篤訳)岩波書店、2013, p. 112.

ちょっと分かりにくと思うので図にしてみると、下のようになるだろう。

  • 事物・事態(我々が認識するモノ)=すべての人にとって同じ
  • 魂のうちの受動的なもの(我々が認識したモノの概念)=すべての人にとって同じ
  • 音声=人によって違う
  • 文字=人によって違う

上にいくほど源流に近くて、下にいけばそれらの符号になってゆく。

つまり、我々がイヌを見るとき、その当の犬はいついかなるときにも同じである。
もし見る人によって犬が違っていたら変な話になる。(もちろんここにパースペクティブなどを持ち込んでくると話は変わってくるが)

その犬を見たとき、頭のなかに思い浮かべる概念は(アリストテレスは「魂のうちに受動するもの」という表現を使っているけど)、どの国、どの時代の人が見ても同じはずである。

じゃあ、その犬のイメージを口に出すとき、我々は「イヌ」と言って、イギリス人は「ドッグ」と言い、フランス人は「シエン」と言い、ドイツ人は「フント」と言い、中国人は「ゴウ」と言い、アラブ人は「カルブ」と言う。

さらにそれを文字に書き写す段階になると、もっと多様になるかもしれない。(日本だけでも「いぬ」「イヌ」「犬」「狗」「戌」など、色々な表記法がある)

我々がコミュニケーションをする場合、どうしても音声や文字によってお互いの考えていることを伝える必要がある。でもアリストテレスによれば、音声や文字は人によって異なっている可能性があるのだ。(よく漫画とかで、外国人や異星人とテレパシーで会話するシーンがあるけれど、これは第二段階、イメージの段階で情報の伝達をおこなっているから、言葉が分からなくても通じるってことなんだろう。)

さらにアリストテレスは名詞を定義して、以下のように言っている。

名詞とは対象となる思考内容あるいは事物・事態を表示する音声であり、取り決めによって成立するもので、時制をもたないものである。<……>また名詞が取り決めによって成立すると言ったのは、どんな名詞も自然において成立しているのではなくて、それが符号となるときに成立するからだ。もちろん、例えば動物の鳴き声のように、文字にならない音も何かを明らかにすることはある。しかしこのようなものはどれも名詞ではない。
アリストテレス『命題論』p. 114.

つまり、名詞は自然に決定されているのではなくて、我々人間の「取り決め」によって決定するのだ。これは、まさにソシュールの言うところの「恣意性」を2000年以上先取りしていると言うこともできないだろうか。

でもなんでアリストテレスがこんなことを言うかというと、これは彼の師匠、プラトンへの反論でもある。

プラトンはどちらかというと、日本の言霊信仰に近い考えをもっていて、ものの名前(名詞)はその本性を反映していると考えていた。
だから「つよし」君は強いわけだし、「さとし」君はかしこいわけだ。自分の名前は「優太」なので、えーと、優しくて、太い(?)、のかなぁ…。

アリストテレスは師匠のその説明に、「そんなわけあるかい!」と思ったに違いない。
(但しプラトン(本名アリストクレス)はレスリングの名手で、プラトン(ギリシア語ではプラトーン)とは「幅が広い」という意味なので、その点にかんしてはプラトンの言霊説も合っているんだけど…。本名じゃないしね…。)

たしかに、強くない「つよし」君だって、頭の悪い「さとし」君だって、あまりゲフンゲフン…な「みすず」ちゃんだっているかもしれない。

ただ、個人の名前は後から付けることができるので別としても、普通の名詞の場合はどうだろう?

ひよこは「ぴよぴよ」鳴くから「ぴよこ」で、それが変化して「ひよこ」になったらしい。
蝶々も「てふてふ」と飛ぶからだし、いわゆる「擬音語」「擬態語」が名詞になった例は多い。

その場合、「ひよこ」はひよこの本性をとてもよく表しているとは言えないだろうか?
でも、だからとって「ひよこ」がchickよりもひよこの本性に即しているかと言うと、そうは言えない、というのがアリストテレスやソシュールの考え方だ。

もし「ひよこ」がひよこの本性をもっともよく表しているなら、どこの国の人が聞いても、「なるほど!「ひよこ」だよね!」と思うはずだけど、果たしてそうだろうか?
それに「ひよこ」は「ぴよこ」が変化したものなので、もしそれが本性にピッタリなら、変化してしまうことなんてあるだろうか?

言語の恣意性は、ソシュールの独創性が強調されるけれど、ペリパトス派は実のところ、2000年以上前から「言語は恣意的だ」と考えていたのだ。

でも、彼らは逆に、その手前にある「概念」の同一性は固く信じている。
現代の哲学では、この辺りがつつかれたりしているんだけど、ペリパトス派が論理学で取り扱おうとしていたのは、個体の概念でなく、基本的に普遍概念(個々の犬ではなく、種としての犬)なので、概念の多様性という問題には直面しなくて済んだんじゃないかと思われる。
(もちろん、類+種差というペリパトス派的な定義論にはいろいろ反論もあるのだけど。)

とにかく、「「ひよこ」はひよこの本性を一番よく言い表している!」と主張しても、アリストテレスは苦笑いして、「それは日本人がそう決めたからそう感じるだけさ」と答えるだろう。

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