2016年6月22日水曜日

ガレノス『ティマイオス敷衍』(1)

慈悲深き慈悲遍き神の御名において

I―ガレノス(Jālīnūs)は言った。プラトンは『ティマイオス』(ṭīmāwus)と題する著作の目的を、世界とそこにいる動物の生成にかんする言説とした。彼にとって世界にかんする言説と、天にかんする言説のあいだに違いはない。彼が「天」で意味するのは、円運動する球状の物体である。
 本書の冒頭には、ソクラテス(suqrāṭ)とクリティアス(qrīṭiyās)のあいだで交わされた、政治(al-siyāsah)や、アテネ(athīniyyah)の民の古代人や、アトランティス島(jarīrah aṭlanṭīs)にいた人々にかんする物語がある。ティマイオスの話が終わったら、彼ら(アトランティスの民)について語ることをクリティアスは請け負っている。その後、プラトンは話し手をティマイオスに移したが、プラトンの諸書におけるソクラテスの語りの伝統である質問と応答の形式でではなく、語りすべてをティマイオスひとりのものにしたのだ。我々はティマイオスが本書で語った内容を要約しなかった。我々がプラトンのほかの作品でその内容を要約したようには。というのも、それらの作品での彼の語りは広範囲で長いのだから。一方本書について言えば、それは極めて簡潔で、アリストテレス(arisṭāṭālīs)の圧縮された不明瞭な語りからも、プラトンのほかの作品での長い語りからも隔たっている。この文章にいくつかの圧縮や不明瞭があると思い込んだとしても、それはきわめて少ないことが分かるし、集中してみれば、文章自体が不明瞭だからそうなのではないことが明らかになるだろう。文章そのものがある種曖昧で不明瞭な場合、理解の少ない読者にはそのようなことが生じるが。それ自体が不明瞭な文章とは、〈…のような文章である。一方、それ自体が不明瞭でない文章とは、〉その分野を知悉している者でないと理解できない文章である。以下の文章は、ティマイオスの語りの冒頭を私が記述したものである。彼は言った「永遠なる存在者(al-mawjūd)は生成(kawn)せず、絶え間ない生成者(al-kā’in)は、いかなる時間のうちでも存在しない。」この言葉は、プラトンの他の作品に習熟している者には明白で歴然な言葉である。つまり知性で理解される物体でない実体と、プラトンの習慣では実体(jawhar)でなく生成と呼ばれる感覚的実体のあいだには違いがあるということである。『政治の書』(kitāb al-siyāsah)でソクラテスが何度も、感覚される諸物をこの名で呼んでいることが分かっている(ただしその名が相応しいとしたわけではないが)。よって必然的にこの箇所で、感覚されるものはすべて「絶え間ない生成者」と呼ばれ、知性でのみ理解されるものはすべて「永遠なる存在者」と呼ばれるのである。本書でのプラトンの語りがこのような具合なので、彼のほかの作品でしたように本書を要約することはできない。なぜなら、そうしたなら私は要約された語りをさらに要約してしまうから。しかし私は本書で、先行する文章に続ける形で、彼が『ティマイオス』で語ったこれらの意味をまとめている。

(2)

*底本はKrausとWalzerの校訂版。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月21日火曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第一部第一巻(2)

第五規則
〈普遍者は外界に存在しない〉

(11)「一般的意味」は精神の外に実在しない。というのも、もし実在したなら、他者から識別され他者と共通しないと考えられる「それ性」(huwwiyyah)をもっただろう。すると一般的なものと仮定されながら、個別的なものになるが、それは不合理である。
一般的意味には次の二種類がある。多数のものに等しく生じる意味は「均質一般的意味」(al-ʻāmm al-mutasāwiq)と呼ばれ、たとえば四つの個体それぞれにたいして「四」は等しく生じる。より完全かより欠如した仕方で生じる意味は「相違一般的意味」(al-maʻnā al-mutafāwit)と呼ばれ、たとえば雪や象牙などにたいして白さはより完全に生じたりより欠如して生じたりする。
ひとつの命名対象に多くの名前があるとき、「同義語」(mutarādifah)と呼ばれる。ひとつの名前に多くの命名対象があり、その名前がそれらにたいして同じ意味で生じていない場合、そのようなものは「同名語」(mushtarikah)と呼ばれる。名前が、その意味以外で、何らかの類似や隣接や附随によって口に出されたら、それは「比喩的」(majāzī)と呼ばれる。

第六規則
〈人間の知識〉

(12)人間の知識は生得的か非生得的かである。未知のものを知るためには注意喚起(al-tanbīh)したり心に思い浮かべたりするので充分でなく、偉大な賢者たちによる真の視認で獲得されなかったとしよう。その場合、我々はその未知のものに至る筋道をもつ既知のものを必要とし、その知識は探求のさい究極的には生得的知識に基づかなければならない。そうでなければ、人間の探求対象はすべて、それ以前に無限遡行するものに依拠し、彼には最初の知識すら生じないことになるが、これは不合理である。

第七規則
〈定義とその条件〉

(13)ある事物が、それを知らない者に定義されると、定義はそれに特有なものによってなされ、それぞれの要素の特定化か、一部の要素の特定化か、その組み合わせによって定義される 。定義はかならず、定義対象よりも顕在しているものによって定義され、それと同等なものや、それより隠れたものや、その定義対象によってしか知られないものによっては定義されない。誰かが父を定義して「それは息子をもつ者である」と言っても、それは正しくない。というのも「父」も「息子」も同じ知識と無知の条件にあるのだから、どちらかを知る者は、もう片方も知るのである。「X以前にXなしで知られている」というのが、Xを定義するものの条件である。また「火は魂に類似した元素である」という定義も、魂は火よりも隠れているので正しくない。同様に「太陽は昼間に出現する星である」という定義も、昼間は太陽の現れる時間によってしか知られないので正しくない。
実相の定義は単なる言い換え(tabdīl al-lafẓ)ではない 。なぜなら言い換えは、実相を知っているがその語の意味を曖昧に理解している者にとってのみ有効なのだから。関係語(al-iḍāfiyyaāt)の定義では、関係性を生じさせる原因が述べらる必要があり、派生語(al-mushtaqqāt)の定義では、派生の種類に応じて、その語が派生してきた元の語が述べられる必要がある 。

章〈真の本質定義〉

(14)ある人々 は、事物の「何であるか性」を指示する言説を「本質定義(ḥadd)」と呼び(それは本質的要素や、その実相内部の要素を指示している)、実相を外的な要素によって定義する言説を「描写(rasm)」としている。知るがよい。たとえば、ある者は物体に部分があると証明したが、ある人々はそれを疑っており、ある人々はそれを否定している 。この「部分」については後で知ることになるだろう。また大衆にとって、そのような「部分」は命名対象の概念に含まれず、むしろ思い浮かべた附随物の集合(majmūʻ)だけに名前が付けられるのだ。
また、たとえばあらゆる水や空気は感覚不可能な部分をもつと証明されたが、ある人々はそれを否定する。よって彼らにとって、その諸部分は、彼らが理解するもの(=水や空気)に何の影響も与えないのである。また既に述べたように、物体とは身体的実相のさまざまな部分や状態のひとつなのだが、物体といって人々が思い浮かべるものは、彼らに顕在しているものだけであり、それこそ命名者と人々の命名で意図されていたものなのである。
感覚可能なものでこの状況であったなら、感覚不可能なものについてはいかばかりか!また人間には、その人間性を実現させるものがあるが、大衆もペリパトス派の専門家もそれを知らない。(ペリパトス派はその本質定義を「理性的動物」としているが。)理性/発話の素質は付帯的で、実相に従属しており、こういった要素の原理 である魂は、附随物や付帯性によってしか知られないのだ。人間にもっとも近い魂ですらこのような状態なのだから、それ以外のものについては如何ようであろうか?しかしそれにかんして必要なことは述べることにしよう。

照明的基礎
〈ペリパトス派の定義論の基礎の解体〉

(15)ペリパトス派は事物を本質定義するさいに、その一般本質要素や特殊本質要素が述べられることを認めている。一般本質要素は「類」と呼ばれ、他の一般本質要素の部分でなく、それによって「それは何であるか」 の答えが変化する普遍的実相に属する。そして事物の特殊本質要素は「種差」と呼ばれる。しかし定義において両者にはこれ以外の体系もあり、我々はそれを我々の著作のべつの箇所ですでに述べた 。また彼らは、未知のものが既知のものによってしか獲得されないことを認めている。よってXの特殊本質要素は、これまでXを未知だった者には知られていない。なぜなら、その要素がX以外のものにおいて知られたら、それはXの特殊要素でないのだから。それがXに特有であり、感覚に顕在しておらず知られてもいないなら、それは彼に未知のものである。Xの特殊要素も知られたとして、それが特殊要素でなく一般要素によって知られたならば、それはXを定義しない。特殊な部分については前述の通りである。よって、べつの仕方で、感覚可能な要素か顕在している要素に立ち帰るしかない。あらゆる事物にかんしてこれが当てはまる。あなたはこの本質を後で知ることになるだろう。
 また、既知の本質要素を述べる者は、ほかに見過ごしている本質要素があるとは夢にも思わない。解説を求める者(al-mustashriḥ)や対立者(al-munāziʻ)は、彼にそれを求めることが出来る。しかし定義する者はこのとき「もしほかの属性(ṣifah)があったなら、私はそれに気付いていたはずだ」と答えることは出来ない。何しろ多くの属性は顕在していないのだから。「もしそれがべつの本質要素をもっていたなら、それなしに我々が「何であるか性」を知らなかったはずだ」という答えでは不十分だ。だから、実相はその本質要素がすべて知られたときのみ知られると言われるのだ。もしそれ以外に認識されていない本質要素があるかもしれないなら、実相の認知は確実ではない。よって、ペリパトス派が要求するような仕方で本質定義を遂行するのは、人間には不可能なことが明らかになった。その困難さについては、彼らの主人(アリストテレス)も認めている 。よって我々には、集合(ijtimāʻ)を特徴とするものによる定義(taʻrīfāt)しかないのである。

(1) 第二巻(1)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月20日月曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第一部第一巻(1)

第一部
思考の規則
全三巻


第一巻
知識(al-maʻārif)と定義(al-taʻrīf)
全七規則


第一規則
〈語(al-lafẓ)による意味の指示 〉

(7)対応する意味への語の指示は「意図(al-qaṣd)的指示」であり、意味の一部への指示は「包含(al-ḥayṭah)的指示」で、意味に附随するものへの指示は「寄生(al-taṭafful) 的指示」である。意図的指示には寄生的指示が必ず続く。というのもあらゆる存在は附随物をもつのだから 。しかし意図の指示は包含的指示を欠くこともある。というのも部分をもたないものもあるのだから。一般的なもの(al-ʻāmm)は特殊なもの(al-khāṣṣ)を、その特殊性で指示しない。だから「私は動物を見た」と言った者は、「私は人間を見なかった」とは言えるが、「私は物体を見なかった」や「意志的に運動するものを見なかった」などとは言えない。

第二規則
〈概念化と承認の分類 〉

(8)あなたが忘却していたものを認識したとき、この場に相応しい言い方をすれば、その認識はまさにその実相のイデア/イメージ (mithāl)があなたのうちに生じることである。というのも、忘却したものの本質をあなたが知るとき、あなたのうちにその痕跡が何も生じないならば、それを知る前と後であなたはまったく同じなのだから。あなたのうちにその痕跡が生じたとしても、[認識したものと]一致しないならば、あなたはそれを在りのままには知らなかったのだ。よってあなたが知ったものに何かしら一致していなければならないし、あなたのうちにあるのはそのイデア/イメージなのだ。
我々は、本質的に多数者への一致が妥当な意味を「一般的意味」(al-maʻnā al-ʻāmm)、それを指示する語を「一般語」(al-lafẓ al-ʻāmm)とする。たとえば「人間」という語とその意味のように。そして語の概念そのもののうちに共通性がまったく思い浮かべられないなら、それは「個別的意味」(al-maʻnā al-shākhiṣ)であり、それを指示する語については「個別語」(al-lafẓ al-shākhiṣ)と呼ばれる。たとえば「ザイド」という名前とその意味のように。また他の意味に包含される意味はすべて、包含する意味との関係において「低位の意味」(al-maʻnā al-munḥaṭṭ)と呼ばれる 。

第三規則
〈何であるか性〉

(9)あらゆる「実相(ḥaqīqah) 」は「純一(basīṭah)」で、知性のうちでも部分をもたないか、「非純一(ghayr basīṭah)」で、たとえば動物のように部分をもつかである。
というのも動物は「物体」と、「その生命を必然化するもの」から構成されているのだから 。最初の要素は「一般的な部分」であり 、つまり物体と動物が思い浮かべられたとき、物体は動物よりも一般的で、動物は物体との関係において低位のものである。二つ目の要素は「特殊な部分」であり、それのみに属している 。事物に特有の意味は、事物と等しい場合もある。たとえば人間のもつ理性/発話(al-nuṭq)の素質のように 。または人間のもつ男らしさ(al-rujūliyyah)のように、より特殊な場合もある。実相は、人間の「現実に笑うこと」のような「離存的付帯性」(ʻawāriḍ mufāraqah)をもち得る。また「附随的付帯性」(ʻawāriḍ lāzimah)をもち得る 。そして完全な附随物(al-lāzim al-tāmm)は、本質的に実相に関係していなければならない。たとえば三角形にとっての三つの角のように。なぜならそれを取り除いた状態を思いうかべることはできないし、何らかの作用因が三角形に三つの角をもたせるわけでもないのだから。というのも、もしそうであれば、[三つの角は]三角形に附随することも附随しないことも可能になり、三つの角なしでも三角形が実現し得ることになるが、これは不合理である 。

第四規則
〈本質的付帯性と離存的付帯性の違い〉

(10)あらゆる実相について、作用因がなくとも本質的に必ず実相に附随するものと、他者によって実相に附随するものを知りたいのであれば、実相だけを観想し、それ以外から目を背けなければならない。実相から除去できないものは、実相に従属し、実相自体がそれを必然化する原因なのだ。つまり、実相以外がそれを必然化したならば、それは附随も除去も可能になっただろう。部分のシンボル(ʻalāmāt)のなかには、全体を思惟する前にそれを思惟し、全体を確証するために役立つものがある。それによって事物が描写される部分、たとえば人間の「動物性」などを、ペリパトス派の信奉者は「本質的なもの」と呼ぶが、我々はこういったものを「必然的なもの」(mā yajibu)と呼ぶ。附随的付帯性や離存的付帯性への思惟は 、実相を思惟してからであり、それが存在するさいに実相は何らかの振る舞いをする。付帯性は、人間の「歩く」素質のように、事物よりも一般的な場合もあるし、人間の「笑う」素質のように、それに特有な場合もある。

(2)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月18日土曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第二部第一巻(3)

第五章(概略)
〈自己認識する者は、抽象的光である〉

(114)本質(=自己)をもっておりそれを見過ごすことがないすべてのものは、薄暮のものではない 。というのもその本質がそこに顕在しているのだから。またそれは他者のうちの闇の様態でない。というのも光の様態も自体的な光ではないのだから、闇の様態については言うまでもない。よってそれは指示されない、純粋で抽象的な光なのである。

第五章(詳細)
〈上記の内容〉

(115)自体的に存立し、自己認識するものは、自己のうちにある自己のイメージ(mithāl)によって自己を知るのではない。なぜなら、もしその知識がイメージによるもので、私性(al-anā’iyyah)のイメージが自己でないならば、私性のイメージは私性との関係においてそうなのであり、このとき認識されるのは[私性そのものでなく、私性の]イメージということになる。すると、私性の認識はまさに「A=A」の認識であり、かつ私性自体の認識が私性そのもの以外の認識であることになってしまうが、これは不合理である。
 外界の認識について話は別である。なぜならイメージもその原像も、両方とも[対象として指示されうる]「それ」なのだから。
 さらに、もし自己認識がイメージによるもので、しかもそれが自らのイメージであることを知らなかったなら、それは自らを知らない。もしそれが、自らのイメージであることを知っていたなら、それはイメージなしですでに自らを知っていたのだ。自らに附随したものによって自己を知るなど、はたして想定可能だろうか。というのもそれは、自己の属性なのだから。よって自己に附随した属性はすべて、それが知識であろうなかろうが、自己に属していると判断されたなら、自己はあらゆる属性以前に、属性なしですでに知られていたのである。よって自己が、附随した属性によってすでに知られていることはないのである。
(116)あなたは、あなた自身も自己認識も忘却しない。なぜならその認識が形相や附随物によることは不可能なのだから。よってあなたが自己認識するさいに必要なのは、自己顕在しているあなた自身か、自らが忘却しないものだけである。よって必ず、自らによる自己認識は、まさにあなた自身によるし、あなたは決してあなた自身もその一部も忘却しない。あなた自身が忘却するもの(たとえば心臓、肝臓、脳のような器官や、障壁、闇や光の様態のようなものすべて)は、あなたの認識主体(al-mudrik)ではない。というのもあなたの認識主体は器官でも障壁的なものでもなく、そうでなければ、あなたが不断に連続して自己に気付いているように、あなたはそれを忘却しないことになるだろう。実体性をその「何であるか性」の完成体であるとしようが、主語や基体の否定の一種と理解しようが、あなた自身そのもののように自立的ではない。また実体性を未知の意味とし、あなたが附随物によらず連続的に自己認識するならば、あなたはこの実体性を忘却しているのだから、実体性はあなた自身の全体でも一部でもない。よって、あなたが省察したとき、「それによってあなたがあなたであるもの」で見えてくるのは自己認識主体、つまり「あなたの私性」以外にない。自己や私性を認識する者は皆共通してそうである。よって認識主体性は、どのようなものであれ、属性でも附随物でもないし、あなたの私性の一部でもない。というのもその場合、ほかの部分が未知のまま残ってしまうのだから。認識や気付きの主体を超えたものがあったなら、それは未知のものであり、あなた自身に属さない。あなた自身の自己への気付きは附随物ではないのだから。
以上の説明から、明らかに事物性も気付きの主体に附随しない。というのも気付きの主体は自らによって自己顕在しているのだから。また何らかの特性を伴って顕在の状態になるのではなく、むしろ顕在しているもの以外のなにものでもない。よってそれは自らによる光であり、よって純粋な光である。あなたの認識主体性は自己の後に出てくる何か別のものでもなく、認識する素質は自己に付帯的でもない。もしあなたが自らを自己認識する存在(anniyyah)と想定したなら、自己は認識に先行することになり、未知のものであることになるが、それは不合理である。よって我々が言ったこと以外はありえない。そしてあなたが光と共にあらんとするならば、以下の規則がある。
(117)規則、光は、自らの実相において顕在しており、本質的に他者を顕在させる。光はそれ自体で、実相に顕在が[後から]附随するあらゆるものより顕在している。付帯的な光も、それらへの附随物によって顕在するのではない。よってそれらはそれ自体で隠れているが、ただ自らの実相によるって顕在するのだ。この光は発生して、それから顕在がそれに付随するのではない。そのようなものは定義自体での光ではなく、ほかのものがそれを顕在させるのである。むしろ光は顕在してり、それが光であることにより顕在するのだ。「我々の視覚が太陽の光を顕在させるのだ」と空想して言われるようなものではなく、むしろそれが光であることにより顕在するのだ。たとえすべての人間、あらゆる感覚を持つものがいなくなったとしても、その光性は消滅しない。
(118)ほかの説明:あなたは「私の私性には顕在が附随し、それ自体では隠れている」と言えない。むしろそれは顕在や光性そのものなのである。知っての通り、事物が実相や「何であるか性」であるように、事物性は概念的(al-ʻaqliyyah)な述語や属性のひとつである。また忘却の欠如は否定的なものであり、あなたの「何であるか性」ではない。最終的に、それは顕在と光性以外ではありえない。よって、自己認識する者はすべて純粋な光であり、あらゆる純粋な光は自己顕在しており、自己認識主体である。説明終わり。
(119)判断〈事物の自己認識は、事物の自己顕在であり、ペリパトス派の教義のように質料からの抽象化ではない〉加えて言おう。もし味覚が障壁や質料から抽象化されていると想定したならば、それはまさに味覚以外のなにものでもないことになる。そして光の抽象化が光そのものであると想定されたなら、それは自己顕在、つまり認識していることになる。しかし抽象化された味覚が自己顕在していることにはならず、むしろそれは味覚そのものに過ぎない。もしペリパトス派の教義のように、事物が自らに気付くための充分条件が「ヒューレー(al-hayūlā)や障壁から抽象化されている」ことであったなら、彼らの主張するヒューレーは、自らに気付くことになってしまう。というのもヒューレーは他者の様態でなく、むしろ「何であるか性」をもち、ほかのヒューレーから抽象化されているのだから――というのもヒューレーはヒューレーをもたないのだから――ヒューレーは自己忘却しないことになる。もし「忘却」で自己からの疎外を意味するのであれば。もし「忘却の欠如」で気付きを意味するならば、離存実体における気付きは、忘却の欠如に起因しない。むしろこの仮定によれば、忘却の欠如は気付きの婉曲表現や比喩である。そしてペリパトス派にとって、事物の認識とは、事物が質料から抽象化されており自己忘却していないことである。また彼らが言うように、質料自体の特性は、様態によってのみ生じる。様態が認識することを質料が妨げているならば、質料が認識することを妨げるものは何だろうか?そして彼らが認めるように、ヒューレーは彼らが「形相」と呼ぶ様態によってしか特定化しない。形相が我々のうちに生じたら、我々はそれらを認識する。しかしヒューレーそれ自体は彼らが主張するように、無限定の何か、または量やあらゆる様態とは無関係の何らかの実体以外のなにものでもない。よって定義自体において、ヒューレーより単純なものはない。とりわけ彼らが認めるように、ヒューレーの実体性は、そこから「基に置かれたもの(基体=主語)」を否定することなのだから。ではなぜヒューレーは基体や部分からの抽象化によって自己認識しないのか?またなぜそこにある形相を認識しないのか?しかし我々は、実体性と事物性などといったものは、概念的表現であることを明らかにした。
(120)また彼らが言うには、万物の創出者は存在そのものでしかあり得ない。そして彼らの学説に基づいてヒューレーを研究したら、それらの発生はまさに存在に由来する。というのも前述のように、ヒューレーが特定化するのはただ実体的な様態によるのだから。よって、端的に「何であるか性」そのものであるようなものはない。むしろ、特性が確定されたとき、それは「何であるか性」や「存在者」と言われるのである。最終的に、ヒューレーは何らかの「何であるか性」や存在でしかあり得ない。よって、ヒューレーが形相を乞い願うということそれ自体が、何か存在者であることに起因するならば、必然的存在もそのようになろう――その御方はそれよりも高くにあられるのに!そして必然的存在がこの純一性のようなものによって自己や事物を思惟するならば、ヒューレーもそうしなければならない。なぜなら、ヒューレーも存在者以外のなにものでもないのだから。以上の発言の誤りは明らかである。
よって、自己認識するものは自らによる光であり、逆も真であることが確定した。もし付帯的光が抽象的であると仮定したら、それは本質的に自己顕在しているだろう。そして「本質的に自己顕現していること」という実相をもつものは、「抽象的だと仮定された光」の実相をもつ。なぜなら「X=Y」と「Y=X」は同じなのだから。

(2)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。


あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月12日日曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第二部第一巻(2)

第四章
〈物体はその存在において抽象的光を必要とする〉

(111)障壁的な薄暮のものは、形(ashkāl)などのような闇のものや、量による特性をもつ(もちろん量は障壁に附随しないのだが。そうでなければ、障壁は何らかの特定化や切断面(maqṭaʻ)や限定(ḥadd)をもち、それによって量同士が区別されることになるだろう)。よって障壁同士を互いに異なるものとしているこういった諸事物を、障壁は本質的にもたない。そうでなければ、あらゆる障壁がそれらを共有することになるだろう。障壁は量の限定を本質的にもたない。そうでなければ、すべてのものが量にかんして等しいことになるだろう。
つまり障壁がそれ(=量にかんする限定)をもつのは、他者に起因するのだ。というのも、もし形などの闇の様態が充足していたならば、それらの存在は障壁に依存しなかっただろう。また、もし障壁的な実相が本質的に必然的に充足していたならば、それは自らの存在の実現にかんして、闇の様態の特定化されたものなどを乞い願うことはなかっただろう。なぜなら、もし障壁が量や様態から抽象化されていたなら、離存的な様態には識別要素がないため、それが多化することはできなかったし、いかなる障壁の本質も特定化できなかっただろう。識別可能な様態は、それらが必要とする障壁的な「何であるか性」に附随すると言われることはできない。というのも、もしそのようであれば、[それらの諸様態は]異なった障壁において相違していないことになるが、実際には相違しているのだから。
 そして直観(al-ḥads)は、「定命の(al-mayyitah)薄暮の実体は、互いの存在が互いに由来していない」と判断する。というのも定命の障壁的な実相にかんして前後関係(awwaliyyah)はないのだから。またほかの説明によって、障壁はほかの障壁を存在させないことを知るだろう。
そして障壁の闇や光の様態のいかなるものの存在もほかの何ものかに循環的な仕方で基づいていないとき(Aが依存している対象BがAに依存していることを防ぐため)、あるものは自らを存在させるものを存在させ、するとそれを存在させるものと自らとに先行することになるが、これは不可能である。そしてそれらが自己充足していないとき、それらはみな薄暮の実体や闇や光の様態以外のもの、つまり抽象的光を乞い願う。
薄暮の実体の「実体性」は知性的であるが、「薄暮性」は無的(ʻadamiyyah)である。よってそれは在りのままに存在するのではなく、諸特性をともない個物(al-aʻyān)のうちに存在するのだ。
(112)規則〈抽象的光は感覚によって指示されない。〉知ってのとおり、指示される光はすべて、付帯的な光なのだから、もし純粋な光があったなら、それは指示されず、物体を基体としてもたず、まったく様相をもたない。
(113)規則〈自らによる光はすべて、抽象的光である。〉付帯的な光は自らによる光でない。その存在は他者によるのだから、それは他者によらねば光ではない。よって純粋で抽象的な光は自らによる光であり、自らによる光はすべて、純粋で抽象的な光である。
(1) (3)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月9日木曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第二部第一巻(1)

第二部



神的な諸光と諸光の光、存在の諸原理、それらの序列

全五巻


第一巻
光とその実相、諸光の光、そこから第一に発出するもの

諸章と諸規則が含まれる


第一章
〈光は意義付けを必要としない〉

(107)もし意義付けと説明を必要としない存在があるならば、それは顕在しているものである。そして光より顕在しているものはなく、光以上に充足しており意義付け不要なものはない。

第二章
〈充足したものの意義付け〉

(108)充足したものの本質や完全性は他者に依存していない。そして不足したものの本質や完全性は他者に依存している。

第三章
〈光と闇〉

(109)事物は、自らの実相において光や閃光であるものと、自らの実相において光や閃光でないものに分類される。
ここで光や閃光で言わんとしているものはひとつである。というのも、私はそれによって比喩的なものに数えられるものを意味していないのだから(たとえば「光」で「知性にとって妥当なもの」が意味されるようには。もっとも、それ(=光の比喩表現)も煎じ詰めればこの「光」から派生しているのだが)。
また光は、他者の様態(hay’ah)(つまり付帯的な光)と、他者の様態ではない光(つまり抽象的光、純粋な光)に分類される。
自らの実相において光でないものは、基体を必要としないもの(つまり薄暮の実体(al-jawhar al-ghāsiq))と、他者の様態(つまり闇の様態(al-hay’ah al-ẓalmāniyyah))に分類される。
障壁(al-barzakh)は物体であり、それは指示(al-ishārah)によって志向される実体として描写される。ある種の障壁は、そこから光が消え去ったとき、昏く在り続けると見做されている。「闇(al-ẓalmah)」は「光の欠如」を言い換えただけではない。これは可能性が条件付けられた欠如でない。なぜなら、もし世界が「虚空」や「無光の天球」であると仮定したなら、それは昏いことになり、光が[そこに生じる]可能性がなくても闇が減少することが伴っただろう。よって光や光的でないものはすべて、昏いことが確定した。
障壁から光が消え去っても、その障壁が昏くあるために他者を必要としない。よってこういった障壁は薄暮の実体なのである。また太陽などのように、そこから光が消え去ることのない障壁も残っている。これらはそこから閃光が消え去るものと、障壁性にかんして共通しているが、[太陽の]閃光が永続するという点で異なっている。つまりこれらの障壁をほかと隔てている光は、障壁性に附随しており、障壁性によって存立しているのだ。よってそれは付帯的な光であり、それを纏うものは薄暮の実体である。よって障壁はすべて薄暮の実体である。
(110)感覚される付帯的な光は、自己充足していない。そうでなければ、薄暮のものを必要としなかっただろう。[しかし感覚される付帯的な光は]それ(=薄暮のもの)によって存立するのだから、不足しており[他者を必要とし]可能的である。しかしその存在は薄暮の実体に由来しない。そうでなければ、それは薄暮の実体に附随し、それと共にあり続けただろう。しかしそうではない。自らよりも高貴なものを必然化する事物などありうるだろうか?よって、すべての薄暮の実体にそれらの光を与えるものは、それらの昏い「何であるか性」や闇の様態ではない。あなたは、闇の様態の多くが光の結果であることを知るだろう(その光自体が付帯的であったとしも)。[闇の様態は]隠されているのだ。いかにして、[より隠れているものが、]より隠れていないものや同等なものを必然化するのか?よって障壁に光を与えるものは、障壁でも薄暮の実体でもありえない。そうでなければ、すべてに当てはまるこの規則(=より顕在しているものがより隠れたものを顕らかにする)に抵触してしまう。よって障壁に光を与えるものは、障壁でも薄暮の実体でもないのである。

(2)



*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。


あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

2016年6月6日月曜日

井筒史観の危険性について

2016年3月に、とうとう井筒俊彦全集の最終巻『アラビア語入門』が発売された。
(たしか最初は2015年の10月だかに発売予定だったから、半年近く伸びた計算だ。まるで昔のドラクエみたいな遅延具合だな…。)


それとともに近年、井筒俊彦の再評価が目覚ましいが、いちおうアラビア語の哲学を専門にしている者としては、「喜ばしさ半分」「苦々しさ半分」といったところである。

喜ばしさとしては当然、日本におけるアラビア語哲学の旗手であった井筒が再評価されるということは、この分野が活性化するという理由が挙げられる。

しかし、大半の人は、なぜ苦々しさを覚えるのか不思議に思うだろう。

これはつまり、井筒俊彦というよりも、彼が依拠している哲学史観、いわば「井筒史観」とでも言うべきものに原因がある。


よく知られたように(あまり知られてもいないか)、井筒の盟友とも言える研究者にアンリ・コルバンHenry Corbin(1903–1978)がいる。
コルバンはきわめて優れたイスラームの研究者だったが、同時に独自の思想を展開する人物でもあった。コルバンの哲学史を一言で言えば「イラン的神秘主義哲学に帰着する東方哲学史」である。(何とも表現しづらいのだが…。)
ものすごく大雑把にいってしまえば、モッラー・サドラー(1572–1640)あたりを頂点とする哲学史を構築し、東方哲学はすべてここに至るまでの発展史だという考え方である。


井筒俊彦の哲学史がコルバンのものとまったく同じというわけではないのだが、井筒はコルバンから極めて強い影響を受けている。
たとえば、イブン・シーナーが最終的に神秘主義に目覚めた、なんて考え方はコルバン(さらにもとを辿れば19世紀のMehrenに至る)辺りの考え方を踏襲している。
私の考えでは、イブン・シーナーはきわめてペリパトス派の論理に忠実な人で、晩年に神秘に目覚めたというのは「誤読」だと思われるが。


もちろん、ギリシアの古典哲学と違って、中世アラビア語哲学はいまだに新たな文献が発見されている状態で、現在刊行されているエディションにかんしても、「批判校訂版」と言えるものはまだまだ少ないのが現状である。

だから、井筒史観が現代の目から見て「古い」のは仕方ない話で、むしろそういった資料的制約のあるなかで、よくあれだけの思想を展開したものだという点では、掛け値なしに素晴らしい。

ただやはり、井筒史観は井筒史観であり、現在の研究状況から見ると、それを鵜吞みにするのは危険であると言わざるを得ない。


もちろん、思想家としての井筒の素晴らしさがそれで損なわれるということでは、まったくない。

しかし、やはり井筒の著作は井筒思想として読むべきであり、「中世アラビア語哲学の教科書」として読むのは避けた方が良いかもしれない。(じゃあ現役の研究者がしっかりした教科書を書け!という批判は更に当然のこととして受け入れながら)