2016年7月5日火曜日

実在しないものもある?


提唱者:マイノング

テキスト:『対象論について』

個人的にとっても興味のある哲学者がいる。
それがアレクシウス・マイノングである。
ブレンターノの弟子のひとりであり、つまりフッサールの兄弟子ということになる。

現代の哲学史ではそれほど注目されていないのだけど(最近はマイノング主義の再評価もなされているみたいだけど)、もっとみんな注目しないかなぁと目論んでいる。

そして、マイノングの悪名高いテーゼが、「実在しないものも在る」というものである。
(基本的に哲学史でマイノングの名前が出てくるときは、ラッセルやクワインによる、この「マイノング主義」批判の文脈で出てくるので、ちょっと分析哲学を知っている人は「あぁ、ラッセルに批判された人でしょ?」と考えるんじゃないかなぁ。)

ん?

どういうこと?

ないものはないでしょ?

と思うかもしれない。

でも、マイノングは、「みんな現実世界を贔屓しすぎ!」と言うのだ。

現実世界って貧しくない?

と。

現実世界に実在しているものを全部ひっくるめたって、我々が思い浮かべたり、考えたりすることのできるものの集合に比べると全然少ない。
そりゃそうだ。

だから、実在しないものしか取り扱わないってのは、おかしいでしょ!と。
彼によると、我々の精神的活動の大半は、「何かについて」であり、何らかの対象をもっている。(このあたり、ブレンターノの影響を受けまくっていると思われる。)

そして、たとえば「数」は決して実在しない。

現実世界に実在しているのは、あくまでも「一本の人参」や「二足のサンダル」であって、そこに「一」や「二」といった数そのものがあるわけではない。
じゃあ、数は実在しないから、存在しないのか?
実存しないものはすべて無であれば、無意味なわけで、ってことは数学って無意味な学問?

マイノングはそこで、「~として在る」(Sosein)という考え方を持ち込む。

つまり、人参にしろサンダルにしろ、「~として在る」という在り方はもっている。
また、一や二といった数も、「~として在る」ことが可能だ。
さらにマイノングは「黄金の山」のように、現実には存在しえないものや、「丸い四角」のように矛盾をはらんだものまで「~として在る」ことができると言う。(たぶん、語義矛盾しているものまで存在のなかに含めてしまっていることも、ラッセルやクワインのような人たちに攻撃される理由じゃないかなぁ)

そして、こういった種類の「~として在る」は、たとえ実在じゃなかったとしても、ある意味では大きな「存在」の一様態なわけだから、存在していると言える。マイノングはそういったものが「存立」していると表現する。

そしてあらゆるものについて否定するとき、たとえば「丸い四角は無い!」と主張するとき、円い四角の「~として在る」が存在していないと、そもそも「丸い四角」を否定することなどできない。
まぁたしかに、「丸い四角は無い!」と考えるときに、頭の中でなんとかして丸い四角を思いうかべようとはしてるよなぁ。
(みんな、丸い四角を思いうかべることができるんだろうか?黄金の山なら問題なくできるだろうけど…。)

そしてマイノングによると、この「~として在る」は、外界の実在や不在とはまったく無関係だというのだ。
つまり、外界に実在するかとか、外界にいまだかつて存在したことがないし、将来も絶対無理!ということは(黄金の山は将来的に作ることができるかもしれないけど、丸い四角を作った人は絶対に精神崩壊すると思う)、それの「~として在る」に全然影響を与えることはなく、外界の状況がどうなろうとも、それの「~として在る」は相変わらず存立し続けるのだという。

フッサールの言う「エポケー」、存在のカッコ入れ、スイッチの一時断線、判断停止というのと、意外と近いんじゃないかという気もするんだけど、フッサールの研究している人たちは「違う!」と言うんだろうなぁ。

もちろん、認識の構造を明らかにするために「方法的に」エポケーを行うフッサールと、存在の判断を超えたところに「~として在る」を設定して、そこに存立を与えようとするマイノングでは、動機がまったく違うし、目指しているところも違うんだけど、これが同じくブレンターノの影響のもとから出てきたというのは、個人的にはとっても興味深い。(フッサールの数々の現象学的道具のなかにもブレンターノから借りて来たものがあるのかな?)

上でも言ったように、マイノングは「現実世界に実在するもの」よりも「頭の中で考え出されたもの」の方がよっぽど豊かだと考えている。
たしかに、もし我々が真面目に考える価値があるものが「実在するもの」だけなんだったら、数や「関係性」や「同等」、「差異」といった概念も外界には実在しないわけで、抽象的な思考、ひいては学問の大半が無意味ってことになってしまう。
もっとも頭の中の世界にも目を向けようよ!頭の中の世界にも権利を!というのがマイノングの主張だったと考えると、何だかとっても面白いし、とても意味のあることなんじゃないかなぁと思えてくる。

もちろん、「存在」をあらゆるものに適用させてしまうと、結局「すべて存在している」のは「すべて存在していない」のと同じであり、ほとんど何も言っていないに等しくなってしまうという危険性はあるんだけど、マイノングの意図は、そことはちょっと違うんだろう。

こんな素晴らしいマイノングなんだけど、ひとつ難点がある。
それは、和訳が手に入りにくいということである。
じつは戦前に岩波書店から『對象論に就いて』が三宅實訳で出ている(1930年)のだけど、もちろん絶版。
私も東大本郷の総合図書館の書庫のなかから見つけ出した。(廣松渉教授寄贈というハンコが押してあって、中にいくつか書き込みがあったけど、廣松渉が書いたのだろうか…。)
さすがにこの訳は古いので(「アンティポデスが在ることは正しい」es ist wahr, daß es Antipoden gibtという例文を「地球の反対面に人が存在すると云う事は正しい」と訳しているし)、現代語に訳した新訳が出ないかなぁ。

そしたらみんなもっとマイノングに触れることが出来るのに。

2016年7月2日土曜日

多様な言葉とひとつの意味

提唱者:ソシュール、アリストテレス、プラトン

テキスト:『命題論』

近代言語学の父とも呼ばれるフェルディナンド・ド・ソシュールは、言語の恣意性を指摘した。
つまり、我々がイヌと呼ぶものは、英語だとdogだし、フランス語だとchienだし、ドイツ語だとHundだし、中国語だと狗だし、アラビア語だとكلبだし…。
じゃあ、もっともイヌという動物に相応しい名前はどれだろうか?
というと、ソシュールは、それは人間が勝手に決めたことだ、と指摘するのだ。

イヌという名前と、「あの動物」との結び付きは、実は日本語を話す我々が勝手に決めたことであって、dogやchienよりも「あの動物」に相応しいということはないのだ。(もちろん逆もまたしかりである。)

「恣意」なんて日常の会話で使わないのでびっくりするかもしれないけれど、自由気まま、勝手とかいったような意味だ。(日常で「恣意的に物事を決めるなよな!」なんて言うやつがいたら、それはそれで面白いけど)

つまり、我々がイヌと呼ぶあの動物には、それぞれの言語によっていろんな名前が付いているし、それらの名前のどれがイヌにより相応しいということもなく、むしろその名前は、我々が勝手に決めたものなのだという。

よく哲学史や現代思想の教科書だと、これが近代思想へのひとつのおおきな潮流のひとつ、みたいな紹介のされ方をしている。

しかし、じつはこれと同じようなことはすでに古代ギリシアの頃から言われてきた。
アリストテレスは『命題論』の冒頭で以下のように言っている。

声に出して話される言葉は、魂において受動的に起こっているものの符号であり、書かれている言葉は、声に出して話される言葉の符号である。そして文字がすべての人にとって同じではないように、音声もすべての人にとって同じではない。これに対して、音声は第一に、魂がもつ受動的なものの記号であるが、この受動的なものはもとよりすべての人にとって同じものである。また魂がもつ受動的なものは事物・事態の類似物であるが、事物・事態はもとよりすべての人にとって同じものである。
アリストテレス「命題論」『アリストテレス全集 1』(早瀬篤訳)岩波書店、2013, p. 112.

ちょっと分かりにくと思うので図にしてみると、下のようになるだろう。

  • 事物・事態(我々が認識するモノ)=すべての人にとって同じ
  • 魂のうちの受動的なもの(我々が認識したモノの概念)=すべての人にとって同じ
  • 音声=人によって違う
  • 文字=人によって違う

上にいくほど源流に近くて、下にいけばそれらの符号になってゆく。

つまり、我々がイヌを見るとき、その当の犬はいついかなるときにも同じである。
もし見る人によって犬が違っていたら変な話になる。(もちろんここにパースペクティブなどを持ち込んでくると話は変わってくるが)

その犬を見たとき、頭のなかに思い浮かべる概念は(アリストテレスは「魂のうちに受動するもの」という表現を使っているけど)、どの国、どの時代の人が見ても同じはずである。

じゃあ、その犬のイメージを口に出すとき、我々は「イヌ」と言って、イギリス人は「ドッグ」と言い、フランス人は「シエン」と言い、ドイツ人は「フント」と言い、中国人は「ゴウ」と言い、アラブ人は「カルブ」と言う。

さらにそれを文字に書き写す段階になると、もっと多様になるかもしれない。(日本だけでも「いぬ」「イヌ」「犬」「狗」「戌」など、色々な表記法がある)

我々がコミュニケーションをする場合、どうしても音声や文字によってお互いの考えていることを伝える必要がある。でもアリストテレスによれば、音声や文字は人によって異なっている可能性があるのだ。(よく漫画とかで、外国人や異星人とテレパシーで会話するシーンがあるけれど、これは第二段階、イメージの段階で情報の伝達をおこなっているから、言葉が分からなくても通じるってことなんだろう。)

さらにアリストテレスは名詞を定義して、以下のように言っている。

名詞とは対象となる思考内容あるいは事物・事態を表示する音声であり、取り決めによって成立するもので、時制をもたないものである。<……>また名詞が取り決めによって成立すると言ったのは、どんな名詞も自然において成立しているのではなくて、それが符号となるときに成立するからだ。もちろん、例えば動物の鳴き声のように、文字にならない音も何かを明らかにすることはある。しかしこのようなものはどれも名詞ではない。
アリストテレス『命題論』p. 114.

つまり、名詞は自然に決定されているのではなくて、我々人間の「取り決め」によって決定するのだ。これは、まさにソシュールの言うところの「恣意性」を2000年以上先取りしていると言うこともできないだろうか。

でもなんでアリストテレスがこんなことを言うかというと、これは彼の師匠、プラトンへの反論でもある。

プラトンはどちらかというと、日本の言霊信仰に近い考えをもっていて、ものの名前(名詞)はその本性を反映していると考えていた。
だから「つよし」君は強いわけだし、「さとし」君はかしこいわけだ。自分の名前は「優太」なので、えーと、優しくて、太い(?)、のかなぁ…。

アリストテレスは師匠のその説明に、「そんなわけあるかい!」と思ったに違いない。
(但しプラトン(本名アリストクレス)はレスリングの名手で、プラトン(ギリシア語ではプラトーン)とは「幅が広い」という意味なので、その点にかんしてはプラトンの言霊説も合っているんだけど…。本名じゃないしね…。)

たしかに、強くない「つよし」君だって、頭の悪い「さとし」君だって、あまりゲフンゲフン…な「みすず」ちゃんだっているかもしれない。

ただ、個人の名前は後から付けることができるので別としても、普通の名詞の場合はどうだろう?

ひよこは「ぴよぴよ」鳴くから「ぴよこ」で、それが変化して「ひよこ」になったらしい。
蝶々も「てふてふ」と飛ぶからだし、いわゆる「擬音語」「擬態語」が名詞になった例は多い。

その場合、「ひよこ」はひよこの本性をとてもよく表しているとは言えないだろうか?
でも、だからとって「ひよこ」がchickよりもひよこの本性に即しているかと言うと、そうは言えない、というのがアリストテレスやソシュールの考え方だ。

もし「ひよこ」がひよこの本性をもっともよく表しているなら、どこの国の人が聞いても、「なるほど!「ひよこ」だよね!」と思うはずだけど、果たしてそうだろうか?
それに「ひよこ」は「ぴよこ」が変化したものなので、もしそれが本性にピッタリなら、変化してしまうことなんてあるだろうか?

言語の恣意性は、ソシュールの独創性が強調されるけれど、ペリパトス派は実のところ、2000年以上前から「言語は恣意的だ」と考えていたのだ。

でも、彼らは逆に、その手前にある「概念」の同一性は固く信じている。
現代の哲学では、この辺りがつつかれたりしているんだけど、ペリパトス派が論理学で取り扱おうとしていたのは、個体の概念でなく、基本的に普遍概念(個々の犬ではなく、種としての犬)なので、概念の多様性という問題には直面しなくて済んだんじゃないかと思われる。
(もちろん、類+種差というペリパトス派的な定義論にはいろいろ反論もあるのだけど。)

とにかく、「「ひよこ」はひよこの本性を一番よく言い表している!」と主張しても、アリストテレスは苦笑いして、「それは日本人がそう決めたからそう感じるだけさ」と答えるだろう。

2016年7月1日金曜日

哲学と言葉遊び


提唱者:ハイデガー、レヴィナス、和辻哲郎

テキスト:『存在と時間』、『実存から実存者へ』、『人間の学としての倫理学』

哲学者のなかには言葉遊びが好きな人がいる。
言葉との戯れ、なんて表現するとカッコいいかもしれないけれど、要は「ダジャレ」である。

ダジャレ、なんて言うと怒られるかもしれないけれど、まぁこの辺りは、言葉遊びにどういうスタンスを取るかで変わってくるだろう。

そして、言葉遊びとかダジャレとかの語句で惑わされるかもしれないけれど、これはじつは、「哲学は自然言語に依存するか」という、とーっても深い問題にまで行きつく。(中世アラビア語哲学のような「翻訳哲学」は、つねにこの問題に付きまとわれていた。)

で、言葉遊びについてだけど、哲学者のなかで言葉遊び大好き人間といえば、もうこれはハイデガーをおいてほかにいないだろう。

ハイデガーの言葉遊びで有名なのは、「真理」についてだろう。
「真理」はギリシア語でἀλήθεια(アレーテイア)という。これは(ちゃんとした語源学的に正しいのかどうか知らないけれど、)否定辞のἀ-(ア)とλήθεια(レーテイア)に分離できる。
レーテイアの部分は、さらにさかのぼると、ギリシア神話に出てくる、この世とあの世を分ける川、レーテーの川に到達する。
このレーテーの川の水を飲むと、これまでの人生の記憶がなくなって、また生まれ変わるときに前世のことを忘れてしまうという、そういう水なのだ。
つまりレーテーは忘却・隠蔽である。
真理は「ア・レーテイア」なわけだから、これは「非隠蔽性」のことなのだ!

「な、なんだってー!!!」

…という言葉が聞こえてきそうなくらい(古い)、強引な解釈。(キバヤシはハイデガー好きだと思う)
まぁこの、真理は忘却していないこと、開示されていることだという考え方、スフラワルディーと通ずるところがあるんじゃないかとも思うんだけど。

さて、ハイデガーがどれだけ言葉遊び好きか分かったところで(いまのでわかったかなぁ?)

今度は「存在」についての証拠をお見せしよう。

現存在は、開示態によって構成されているかぎり、本質上、真理の内にある。開示態は、現存在の本質的存在様相である。真理は、現存在が存在しているかぎり、かつその間だけ、《与えられている》(《es gibt》)。
ハイデガー『存在と時間 上』(細谷貞雄訳)ちくま学芸文庫、1963, 1994, p. 468.

うん…。

分からない…。

何言っているのか分からないよ!

でも、ここで重要なのは、上の和訳では《与えられている》「es gibt」。
これはドイツ語におけるthere isのようなもので、「~がある」といった、とくになんてことはない、普通の言葉だ。

ハイデガーはそこに、es gibtが本来もつ、「与えられている」という意味を読み込んでいるのだ。

またもやハイデガーマジック!
みんなこれで納得したのかな?

しかしそこに噛みついた猛者がいた!
ユダヤ人の哲学者、エマニュエル・レヴィナスである。

彼は「~がある」を、以下のように解釈する。

この存在とは、いかなる存在者も自分がそれだとは主張しない無名の存在、個々の存在者ないし存在者たちを欠いた存在であり、ブランショの比喩を借りていえば絶え間ない「騒動」であり、「雨が降る(il pleut)」とか「夜になる(il fait nuit)」といった表現と同様に非人称の<ある(il y a)>である。この語はハイデガーの「ある(es gibt)」とは根本的に異なっている。<ある=イリヤ>はけっして、このドイツ語表現や、そこに含まれている豊饒さや気前よさといった含意の、翻訳でもなければそれを下敷きにしたものでもなかった。
エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』(西谷修訳)ちくま学芸文庫、1987, 2005, p. 11.

レヴィナスによれば、存在はハイデガーが言うように「与えられている」、気前のいいものじゃない。もっと酷薄な、奪うものだのだ。
(この辺りは、彼のユダヤ人としての収容所の体験も関係しているだろうし、彼自身そういったことを書いている。)
それを彼は、フランス語のil y aから解釈する。
フランス語のil y aも、これもまた何の変哲もない「~がある」という言葉なのだけれど、aはavoir(もつ)の変化であり、つまり「~をもつ/取る」という意味が隠れているのだ。

『実存から実存者へ』の該当の箇所には、このes gibtとil y aをめぐる論争(言い争い?)にかんして西谷が註を付けているので、興味のある方はそちらを見ていただくとして…。

何というか…。

とっても肩の力が抜けてしまう。

そのダジャレ、ドイツ語とフランス語でしか成り立たなくない?
そもそも英語だとthere isだから、与えも奪いもしないよね?たしかに非人称的ではあるけど。
もっと言えば日本語だと「~がある」に非人称表現をしないから、日本人にはまったく関係なかったりする。

たしかにこういうのは、ネイティブはものすごく感動するんだろうけど…。

でも日本人には、こういうのいないよなぁ、と思っていたら、いた!
和辻哲郎である!

和辻哲郎は「人間」という語がそもそもは「よのなか」や「世間」を意味しており、そこから「人」の意味へと「誤解」によって転じた例を挙げてから、こう解釈する。

しかしこの「誤解」は単に誤解と呼ばれるにはあまりに重大な意義を持っている。なぜならそれは数世紀にわたる日本人の歴史的生活において、無自覚的にではあるがしかも人間に対する直接の理解にもとづいて、社会的に起こった事件なのだからである。この歴史的な事実は、「世の中」を意味する「人間」という言葉が、単に「人」の意にも解せられ得るということを実証している。そうしてこのことは我々に対してきわめて深い示唆を与えるのである。もし「人」が人間関係から全然抽離して把捉し得られるものであるならば、Menschをdas Zwischenmenschlicheから峻別するのが正しいであろう。しかし人が人間関係においてのみ初めて人であり、従って人としてはすでにその全体性を、すなわち人間関係を表している、と見てよいならば、人間が人の意に解せられるのもまた正しいのである。だから我々は「よのなか」を意味する人間という言葉が人の意に転化するという歴史的全体において、人間が社会であるとともにまた個人であるということの直接の理解を見いだし得ると思う。
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波文庫、1934, 2007, p. 19–20

うーん…。これもまた日本語でしか成り立たなくない?
いわゆる和辻の有名な「間柄」ってことなんだろうけど…。

内容的には、アリストテレスの「人間はポリス的動物である」というのを、日本語の言葉遊びで解説したようなものなんだろうけど、やっぱり何というか…。

個人的には、「哲学が自然言語に依存する」という立場から少し距離を取りたいので、こういったハイデガースクール(レヴィナスも和辻もハイデガーの影響受けまくっている)の言葉遊びに出くわしたときには、面白いと思いながらも、少し眉毛に唾をつけてしまうのだけど…。
(逆にペリパトス派は普遍言語による、ひとつの意味による哲学を目指して行った。)

でも、たしかに我々は日常生活を自然言語を使用しながら営んでいるわけで、そこから完全に乖離した人工言語での哲学って、果たして可能なのだろうか?という疑問ももっともだと思う。

この辺りは、それぞれの人が、どういった哲学を好むかという問題なんだろう。

とはいえ、こういった言葉遊びは必ずしも現象学のなかだけの出来事でもなく、フランス現代思想なんかはre=presentation「再=提示」みたいなダブルミーニングをよく使うので、ここしばらくの流行りみたいなものなのかもしれない。

まぁそれは良いんだけど、でも戦争責任論などで、責任とはresponsibility、つまりresponse「応答」+ability「可能性」であり、他者への応答可能性、相手の問いかけにつねに応答しようとしていく態度こそが「責任を取る」ということなのだ、なんて説明には、ちょっと白けてしまうのも確か。

それって、英語やフランス語でしか成り立たなくない?
ドイツ語だとVerantwortungで意味は同じか…。

でも、こういったヨーロッパ言語に依存した言葉遊びを、まったく言語体系の違う日本人がそこに全乗っかりしてしまっていいのだろうか、という疑問はどうにも拭い去れないんだよなぁ。

ハイデガー『存在と時間』におけるアヴィセンナへの誤解


提唱者:ハイデガー、トマス・アクィナス

テキスト:『存在と時間』『真理論』

ハイデガーは若いころイエズス会士になろうとしていたぐらいで、哲学史に詳しい。
これは面白い話で、ハイデガーの師匠のフッサールは余り哲学史に興味がない。晩年の講演『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でも、デカルト、ロック、ヒューム、カントと、いわゆる近世以降の哲学に興味が向いている。

一方でハイデガーは中世哲学への関心が強い。『現象学の根本問題』でも、スアレスとかを出してきて、当時の一般的なドイツ人の哲学史理解とはちょっと違ったところを見せ付けてくれる。

さらにフッサールの師匠のブレンターノは元々カトリックの出家だったということもあり、中世哲学に詳しい。個人的にはブレンターノにすごく興味があり、彼が中世哲学の墓場から掘り起こしてきた「志向性」は、究極的にはアヴィセンナ/イブン・シーナーに淵源すると考えている。(もちろん直接的な影響関係はないだろうけど。)

神学がベースのブレンターノ、ハイデガーと、数学がベースのフッサールのあいだを分ける興味深い特徴かなぁと思う。

で、その歴史に詳しいハイデガーだけど、彼は『存在と時間』のなかでアヴィセンナ/イブン・シーナーに言及している。第一編第六章第四十四節「現存在、開示態および真理性」(a)「伝統的な真理概念とその存在論的基礎」のところだ。
そこで彼はこう言っている。

アリストテレスは、παθήματα τῆς φυχῆς τῶν πραγμάτῶν ὁμοιῳματα、すなわち、心の「体験」たるνοήματα(「表象」)は、事物への同化である、と述べている。この言明は、決して真理の明示的な本質定義として提出されたものではないが、これがたまたま機縁ともなって、後世に真理の本質をadaequatio intellectus et rei(知性と事物との同化)として表明する方式が形成されることになった。トマス・アクィナスはこの定義の典拠としてアヴィセンナを指示しているが、アヴィセンナ自身はこれをイサク・イスラエリの『定義の書』(十世紀)から踏襲しているのであって、トマスはadaequatio(同化)という代わりにまたcorrespondentia(対応)とかconvenientia(合致)とかいう用語をも用いている。

ハイデガー『存在と時間 上』(細谷貞雄訳)ちくま学芸文庫、1966,1994, p.446–447.
(人名表記を修正)

つまりハイデガーによれば、認識の構図「知性と事物との同化」はトマスが『真理論』で提示しているのだけど、これはアヴィセンナに遡り、さらにアヴィセンナ自身はイサク・イスラエリから取っているという。

ふーん。でも、イサク・イスラエリなんて、アヴィセンナに影響与えてたかな?たしかにイサク・イスラエリ(855頃–955)がアヴィセンナ(980–1037)に影響を与えることは可能だけど…。

 じゃあ実際トマスはどう言っているかというと、彼は『真理論』第一項「真理とは何か」の「主文」でこう言っている。

或る定義は、真理の概念に先行し<真>の基盤をなすものに着眼して下される。アウグスティヌスが『独白』のなかで「<真>とは『現るがままのものごと』である」とし、アヴィセンナがその著『形而上学』のなかで「おのおのの事物の真理はその事物に内蔵される存在の特性である」とし、また或る学者が「<真>とは、存在とその存在を容れるものとの統一である」とするのはかかる見地に立つものである。
 また別の定義は、<真>の概念の点睛をなすものに着眼して(secundum id quod formaliter rationem veri perficit)下される。イサクが「真理とは事物と知性との合致である」(Veritas est adaequatio rei et intellectus)とし、アンセルムスがその著『真理論』のなかで、「真理とはただ精神だけで把握可能な正しさである」(Veritas est rectitudo sola mente perceptibilis)とするのも――いうところの「正しさ」とは何らかの合致を意味する――、この見地に立つものである。

トマス・アクィナス『真理論』(花井一典訳)哲学書房、1990年, p. 29–30.
(人名およびいくつかの用語を修正)

とくにアヴィセンナとイサクの関係性は言っていないなぁ…。
但し、やはり「事物と知性の合致」はイサク・イスラエリの主張だとしている。但し、『真理論』訳者の花井はここに註を付けていて、この文章はイサク・イスラエリの『定義集』には見出されず、むしろアヴィセンナの『形而上学』第1巻第8章の文章と同じ趣旨なのではないかと述べている。

そうなのか…?

すると、Stanford Encyclopedia of PhilosophyのIsaac Israeliの項目(Leonard Levin, R. David Walker執筆)に、以下のような記述を見つけた。

イスラエリの哲学的作品はキリスト教とユダヤ教の思想家たちにかなりの影響を与えたが、ムスリムの知識人たちのあいだではそれほどの影響をもたなかった。12世紀以降続くキリスト教徒によるスペインの再征服運動において、トレドのある学者グループが科学と哲学にかんする数多くのアラビア語作品をラテン語に翻訳した。この文化センターに移住した翻訳者のひとりにクレモナのゲラルドゥスがいる。彼はイスラエリの『定義の書』や『元素にかんする書』をラテン語に翻訳した。イスラエリの作品は数多くのキリスト教徒の思想家に引用され、敷衍された。そこには、グンディッサリーヌス、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、ボーヴェのヴァンサン、ボナヴェントゥラ、ロジャー・ベーコン、クーザのニコラスが含まれる(Altmann and Stern, Isaac Israeli, pp. xiii-xiv; Julius Guttmann, Die Scholastik des 13. Jahrhunderts in irhen Beziehungen zum Judentum und zur judische Literatur, pp. 55–60, 129–30,150 and 172; またGuttmann, Das Verhaltniss des Thomas von Aquino zum Judentum und zur judischen Literatur, pp. 55–60を見よ)。
(拙訳) 

なるほど。

さらには、『定義の書』にかんしても、以下のように説明されていた。ちょっと長いが引用しよう。

元々はアラビア語で書かれたこの作品はふたつのラテン語訳(Liber de Definicionibus/Definitionibus)とふたつのヘブライ語訳(Sefer ha-Gvulim)で現存しているが、元々のアラビア語版(Kitab al-Hudud)は断片でしか現存しない。この本がキリスト教徒のスコラ哲学者に広く読まれたことは、トマス・アクィナスやアルベルトゥス・マグヌスが真理にかんするアヴィセンナの定義をイサクの『定義の書』に誤って帰したことから明らかである(Altmann & Stern, Isaac Israeli, p. 59を見よ)。この本は57の定義集であり、その大半はキンディーの様々な文章からの(しばしば出典なしの)敷衍や引用である。いくつかの例で彼は「哲学者」を引用し、これはアリストテレスを意味していると理解されるだろうが、彼が実際に敷衍しているのはキンディーである。キンディーはしばしば、アリストテレスが特定の主題について書いた内容を解説すると主張している。時たま、彼の定義はほかの可能な資料、たとえばクスター・イブン・ルーカー(835–912年に生きた医者、数学者、科学者、翻訳家)、アレクサンドロスのアンモニオス・ヘルメイウー(5世紀)、ヨハネス・フィロポノス(490–570頃)から取られている。この作品に現れるいくつかの考えは、いかなる既知の資料にも裏付けがない。とはいえ、この本がキンディーにかなり依拠していることから、Sternは、これらの逸脱はしばしば、散逸したキンディーの定義集からの引用か、キンディーの誤読ではないかと仮説を立てている。奥付のひとつは、この作品が「コレクション」であると記しており、これはおそらく、資料がオリジナルでないことを示し、そういうものとして読まれないようにという意図であろう。ほかの写本では、イサク・イスラエリがそれを書いたと主張しているが、この同じ奥付は偽の情報を含んでいる――イサク・イスラエリはスペインに生まれて、彼の子どもたちがこれを学ぶように望んだなど(Altmann & Stern, Isaac Israeli, p. 78)、 よって、この作品が完全にイスラエリのオリジナルな作品だという主張は本当のものと見做されるべきではない。
(拙訳)

なるほど!
つまり、トマスやアルベルトゥスといった中世スコラの学者たちはイサク・イスラエリの書物をかなり読んでおり、アヴィセンナの言説も実はイスラエリに淵源する、みたいなことを言っていたんだろう。

たぶんこれは、自分たちが典拠にしているものがイスラームから発しているのではなく、(名前からも分かる通り)ユダヤ人のイサク・イスラエリからなんだと考えた方が精神安定上良かったということもあるんじゃなかろうか。(深読みしすぎ?)

でも、そのイサク・イスラエリの『定義の書』の内容の大半が、じつはアラブ人の哲学者キンディーの切り貼りから出来ていたなんて、こんなことトマスが知ったら卒倒しそうだな…。

まぁ何はともあれ、トマスが(知ってか知らずか)アヴィセンナの概念をイサク・イスラエリに帰していたということはこれで明らかになった!

ということは、ハイデガーが「アヴィセンナ自身はこれをイサク・イスラエリの『定義の書』(十世紀)から踏襲しているのであって」と言っているのは、トマスが書いている内容をそのまんま信じ込んでしまっている、ということか!

ハイデガーは確かに中世哲学にかんする知識を多くもっているのだけど、その知識もやはり古くて、スアレスを中心にした16世紀の哲学史観だという指摘も聞いたことがある。

やはりハイデガーも時代的制約を受けているのかぁ。というお話。

2016年6月30日木曜日

スフラワルディー『照明叡智学』第一部第二巻(2)

第二規則
〈命題の分類〉

(17)条件命題で「~なとき、~である」や「~であるか~である」と言われたとき、その命題が「つねに」や「あるときに」なのは妥当であり、義務である。そうでなければ命題は未決定や誤りである。叙述命題で「人間は動物である」と言われたとき、個々の人間すべてがそうであるか、ただある者だけがそうであるかのどちらかである。人間性それ自体は網羅的である必要はない。もしその必要があったなら、いかなる個人も人間でないことになってしまう。また特定の人間である必要もない。むしろそれは両者に妥当なのである。そして、判断が未決定で誤りでなくなるため、それが網羅的なのかそうでないか決定することにしよう 。個別的な主語をもつ命題を、我々は個別的命題(shākhiṣah)と呼ぶ。

例文「ザイドは書いている」

普遍的(shāmil)な主語をもち、個々のものにたいする判断が決定される命題は次のようである。

例文:「あらゆる人間は動物である」
否定の例文:「いかなる人間も石でない」
というのも、あらゆる命題は肯定と否定、つまり確立と否認をもつのだから。「ある~」によって特定化されているものは次のようである。

例文:「ある動物は人間である(または:ない)」

未決定状態を解消させる語は「量化子(sūr)」と呼ばれる。

例「すべて」や「ある~」など

量化された命題は限定命題(maḥṣūrah)である。全体を限定する命題を我々は「包括命題」(al-qaḍiyyah al-muḥīṭah)と呼ぶ。あるものへの判断が決定される命題を「個別未決定命題」(muhmalah baʻḍiyyah)と呼ぶ。条件的個別未決定命題で我々は「~なとき、~か~かであり得る」と言うことができる。「ある~」には未決定状態もあり得る。なぜなら事物には多数のものがあるのだから。推論中の「ある~」に特有の名前を付けて、たとえばそれをJとしよう。すると「あらゆるJは斯くの如きである」と言われ、命題は包括的になり、誤った未決定状態が解消される。個別命題は、反対や矛盾の一部の局面でしか有益でない。条件命題でも同様に、「ザイドが海にいたなら、彼は溺れるかもしれない」と言われるように。さてこの状態を特定化して、それから網羅的にしよう。すると「ザイドが海におり、彼がボートを持っておらず泳ぐことが出来ないのであればいつでも、彼は溺れる」と言われるが、「ある~」が本質的に未決定であることは否定できない。あなたが学問を探求して事物の「あるもの」の状態を見出そうとするなら、その「ある~」が特定化されない限り、その状態が未決定なままそこで探求される探求対象などありえない。よって、我々が述べた通りにするならば、包括的な命題しかあり得ない。なぜなら個別的事例の状態は学問で探求されないのだから。このとき、命題の規則はより少なく、より正確に、より簡単になる。

(18)知るがよい。あらゆる叙述命題のうちには主語と述語があり、両者の関係性は承認と否認に妥当する。その関係性によって命題は命題になるのだ。その関係性を指し示す語は「繋辞(al-rābiṭah)」と呼ばれる。それはある言語では省略され、関係性を感じさせる何らかの様態が代わりに表記される。

アラビア語での表記例「ザイドは書いている」(zaydun kātibun)
または「ザイドは書いている」(zaydun huwa kātibun)

否定命題(al-sālibah)は、その否定が繋辞を切断するものである。アラビア語では、繋辞を否定するために、否定辞は繋辞に先行していなければならない。

例文「ザイドは書いていない」(zaydun laysa huwa kātiban)

また否定辞が繋辞と結びつき、命題の主語か述語の一部になったなら、肯定的繋辞はその後も存続する。

アラビア語での例文「ザイドは非・書ている」(zaydun huwa kātibun)

上の例では繋辞は存続し、否定を述語の一部にしたのである。このような命題は肯定命題(al-mūjabah)であり、派生命題と呼ばれる 。アラビア語以外では、否定文や肯定文で繋辞の前後関係は考慮されず、むしろ繋辞があり、否定辞が主語か述語の一部であれば、否定辞が命題を切断しないかぎり、命題は肯定命題である。

例文「あらゆる非・偶数は奇数である」(kullu zawjin fardun)

上の例文では、それは非・偶数性の特徴をもつすべてのものに対する奇数性の肯定であり、肯定命題である。精神的な肯定判断は精神的に確立するものにたいしてのみ定められる。個物にかんする肯定文は、個物的に確立するものにたいしてのみ成り立つ。諸条件命題についても、そこに多数の否定辞があっても、順接辞や逆接辞があり続けるなら、その命題は肯定命題である。否定文がほかの状態の考慮なしに否定されたなら、それは肯定命題である。

例文「あらゆる人間が書いているのではない」

上の例文では、ある者は書いていることが可能であり、確定しているのはある者が書いていないことだけである。

例文「人間のいかなる者も書いていないわけではない」

上の例文では、ある者は書いていないことが可能である。連続命題は順接の除去によって否定され、離接命題は逆接の除去によって否定される。

(1)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

スフラワルディー『照明叡智学』第一部第二巻(1)

第二巻

証明とそれらの原理

諸規則を含む


第一規則
〈命題と推論の描写〉


(16)「命題」(al-qaḍiyyah)とは、それについて真か偽であると言われ得る言説のことである。
「推論」(al-qiyās)とは、承認されるとそれ自体から必然的にほかの言説を[生み出す]諸命題から組み合わされた言説である。
命題のなかでもっとも単純な命題は、叙述 命題(al-ḥamliyyah)であり、ふたつの事物の一方がもう一方であるかないかについて判断される命題である。

例文「人間は動物である」

判断対象は主語(mawḍūʻ)と呼ばれ、判断主体は述語(maḥmūl)と呼ばれる。またふたつの命題が別個の命題であることをやめて、ふたつが結ばれてひとつの命題が作られることもある。もし順接(luzūm)によって結ばれるならば、それは「連続条件命題」(al-sharṭiyyah al-muttaṣilah)と呼ばれる。

例文「もし太陽が昇ったならば、昼である」

命題のふたつの部分のうち、条件節は「前件」(al-muqaddam)と呼ばれ、応答節は「後件」(al-tālī)と呼ばれる。それらから推論を作りたいなら、我々は前件の肯定(ʻayn)を抜き出し、それによって後件を必然的に肯定にするため、叙述命題を結び付ける。

例文「しかるに太陽は昇っている」

というのもそれは昼であることを必然的に生じさせるのだから ;または、前件を否定するために後件の否定(naqīd)を抜き出す。

例文「しかるに昼でない」

というのも昼でなければ太陽が昇らないのだから 。なぜなら、もし順接の前件(al-malzūm)が真なら、必然的に順接の後件(al-lāzim)も真であり、順接の後件が偽なら、順接の前件も偽なのだから。しかし前件の否定や後件の肯定は命題を決定しない 。なぜなら後件は前件よりも一般的であり得るのだから。

例文「もしこれが黒いならば 、それは色である」

より特殊なものの否定や偽によって、必ずしもより一般的なものの否定や偽は生じない。また一般的なものの肯定と真によって、特殊なものの肯定と真も必ずしも生じない。むしろ、ただ特殊なものの肯定と真によって、一般的なものの肯定と真が、一般的なものの否定と偽によって、特殊なものの否定と偽のみが必然的に生じるのだ。もしふたつの叙述命題が逆説(ʻinād)によって結ばれるならば 、それは「離接条件命題」(al-sharṭiyyah al-munfaṣilah)と呼ばれる。

例文「この数は偶数か奇数である」

それはふたつ以上の項から成ることも可能である 。実際のところ、その諸項をすべて集めたり、すべてなくしたりすることはできない。離接条件命題から推論を作りたいならば、そのうちのある項の肯定を抜き出すと、必然的に残りの項は否定される――これは一つでも多数でもありうる――またはある項の否定を抜き出すと、必然的に残りの項は肯定される 。もしその命題に多くの項があり、ひとつ項の否定を抜き出すと、それは残りの項にかんする離接命題であり続ける 。連続命題は、ふたつの連続命題から組み合わせられうる。

例文「もし太陽が昇ったらいつも昼であるならば、太陽が沈むといつも夜である」

それらから離説命題も組み合わせられうる。

例文「太陽が昇ったときに昼であるか、太陽が沈んだときに夜であるかである」

変種は数多いが、天才の持ち主にとっては、法則を学んでしまえば、このような組み合わせは難しくない。知るがよい。順接や逆説を駆使して、様々な条件命題が叙述命題に転換させられるのは妥当である。よって我々は「太陽の上昇は、昼であることを必然的に生じさせる」や「それは夜を妨げる」と言うのである。つまり条件命題は叙述命題の転訛したものである。



←第一巻(2) (2)

*底本はコルバン校訂版。WalbridgeとZiaiの校訂版も適宜参照。
あくまでも私訳のため、その点をご了承願います。逐語訳よりも、日本語としての読みやすさを優先してあります。また、随時更新する可能性有り。

スフラワルディーの光の存在論

提唱者:スフラワルディー


 スフラワルディーによれば、この世のあらゆるものは光と闇で構成されているという。

 彼によれば、存在は次のような階梯をもつ。

 ・抽象的光、純粋な光

 ・他者の様態としての光、付帯的な光

 ・基体を必要としない闇、薄暮の実体

 ・他者の様態としての闇、付帯的な闇

 もちろん、上から下にいけばいくほど劣っており、劣悪なものになってゆく。

 この光と闇の構図を見て、イラン系の人などはすぐ「これこそスフラワルディーのイラン的(ゾロアスター教的)要素だ!」と言ったりするけれど、個人的には、これはむしろ新プラトン主義に近いのではないかと思う。(もちろんスフラワルディーのなかにイラン的要素もあるのだけれど、私はWalbridgeなどに倣い、スフラワルディーをプラトニズムの復興者と考える。)

 人間の本質はもちろん抽象的な、純粋な光である。
 そして光の特徴は自己顕在していることである。明るくて逃げも隠れもしていない。だから、自分自身に自分自身がはっきりと見えているのだ。
 スフラワルディーの存在論、認識論はすべて「顕在」⇔「忘却、隠蔽」の対立で語られてゆく。もちろん、「光」と「顕在」こそが目指されるべきものである。

 一方で人間の身体は「障壁(バルザフ:al-barzakh)」と呼ばれるものである。このバルザフは薄暮の実体の一種である。バルザフそのものは、イスラームの伝統における、この世とあの世の中間の世界、キリスト教でいう「煉獄」に近い世界のことを指す。
 光と闇のあいだの、中間的な薄暮のものを、この世とあの世の中間のバルザフと名付ける辺り、スフラワルディーの独特の言語センスが光っているなぁ。(とはいえ、スフラワルディーのこのセンス、いつも成功しているわけじゃない。敢えてペリパトス派と違う用語を使おうとしてわけわかんなくなってることもしばしば…)

 私たち人間の本質は純粋な光であり、光は自己認識する。
 スフラワルディーはここから、独特の自己認識論を展開してゆくのだけれど、Jari Kaukuaによれば、彼の自己認識論は、じつのところイブン・シーナーの空中人間説に淵源するとのこと。
 とはいえ、スフラワルディーの独特の自己認識論は「現前による知識」などとも言われ、ペリパトス派的な「概念化」と「承認」というふたつの認識論を超える、第三の認識として注目されていたりもする。

 光は認識し、闇は認識しない。知識は光にあり、闇は無知である。
 そして私たちの本質は光であるとはいえ、それが宿っている身体は、光とも闇ともつかない、薄暮のものなのだ。
 人間の身体が光と闇の戦いの場であるという考えは、ゾロアスター教よりもマニ教を連想させるが、スフラワルディーの折衷的で混淆的な世界観は、むしろマニ教に近いかもしれない。