2014年4月17日木曜日

イブン・シーナー『救済の書』「論理学」(2)論理学の利点

イブン・シーナーIbn Sīnā980–1037)『救済の書』Kitāb al-Najāh「論理学」から、第2章。

2. 論理学の利点について

論理学は、いかなる形相と質料からも、真に定義と呼ばれる正しい定義と、論証(burhān)と呼ばれる正しい推論が生じることをあなたに説明する観想的技術(ṣināʻa naẓariyya)である。
またいかなる形相と質料からも、記述(rasm)と呼ばれる説得力のある(iqnāʻī)定義が生じることを、あなたに説明する。
またいかなる形相と質料からも、[普通の推論よりも]強力なものと呼ばれ、確信に類似している弁証的(jadalī)な承認を生じさせる、説得力のある推論が生じることを、あなたに説明する。
また修辞的(khaṭābī)で圧倒的な思いなしを生じさせる、弱い種類[の推論が生じることを、あなたに説明する]。
またいかなる形相と質料からも誤った定義が生じるし、いかなる形相と質料からも詭弁的(mughāliṭī)やソフィスト的(sūfisṭā’ī)と呼ばれる誤った推論――それは一見すると論証的や弁証的のように見えるが、実はそうでない――が生じることが[論理学によって]知られる。
またいかなる形相と質料からも、決して承認を生じさせず、むしろ魂にある事物を欲求させたり、拒否させたり、嫌悪させたり、喜ばせたり、落胆させたりする表象(takhyīl)を生じさせる類論が生じ、これは詩的推論(al-qiyās al-shiʻrī)と呼ばれることが[論理学によって知られる]。

以上が論理学の技術の利点である。その熟慮への関係性は、文法(al-naḥw)の会話(al-kalām)への、韻律学(al-ʻarūḍ)の詩(al-shiʻr)への関係性[に似て]いる。
しかし健全な本性や健全な感性(al-dhawq)は、しばしば文法や韻律学の学習を必要としない。しかしいかなる人間的な本性も、熟慮に使用に際し、この道具(=論理学)の事前の準備を必要としない者はいない。さもなければ、[論理学を必要としない者は]至高なる神の加護を受けた人間である。
Dāneshpazhūh版、pp. 8–9.
Ahmed訳、pp. 4–5.

 イブン・シーナーによれば、様々な形相と質料を組み合わせによって、定義や推論が生じることを明らかにするのが論理学の利点である。しかしこの組み合わせによって生じる定義や推論には、正しいものもあれば間違っているものもあるし、また承認を発生させず、詩的な感情を発生させるような種類のものもある。「アポロンよ高くあれ!」や「汝には復讐が為されよ!」といった宣言文や感嘆文は、元来ペリパトス派論理学では、命題に含まれなかった。アンモニオスἈμμώνιος ὁ Ἑρμείου440–520頃)は『命題論註解』Ὑπόμνημα εἰς το περί ἑρμηνείαςにおいて、以下のように述べている。

しかし文章には五つの種類がある、つまり(1)呼びかけ文(ὁ κλητικός)、たとえば
「ああ幸せなる者アトレウスの息子よ(ὦ μάκαρ Ἀτρείδη)」のような。
2)命令文(ὁ προστακτικός)、たとえば
「行け!疾く離れよイリス!(βάσκ’ ἴθι, Ἶρι ταχεῖα)」のような。
3)疑問文(ὁ ἐρωτηματικός)、たとえば
「お前は誰でどこから来たのだ?(τίς πόθεν εἶς ἀνδρῶν)」のような。
4)祈願文(ὁ εὐκτικός)、たとえば
「ああせめて、父なるゼウスよ…(αἲ γάρ, Ζεῦ τε πάτερ)」のような。
そして最後に(5)断言文(ὁ ἀποφαντικός)で、これによって我々はあらゆるものに対する断言をおこなうのである。たとえば
「しかし神はすべてを知っているのだ(θεοὶ δέ τε πάντα ἴσασι)」
「あらゆる魂は不死である(πᾶσα ψυχὴ ἀθάνατος)」など。アリストテレスはこの講座において、すべての単純な文でなく、断言文のみにかんする教授をおこなっている――そしてそうするには理由がある。というのもこの種の文章のみが真偽を受け入れるのであり、哲学者が論理学の講座全体を編んだ理由である論証は、この種のもとに分類されるのだから。
Ammonius, In Aristotelis De Interpretatione Commentarius, ed. Adolf Busse, Berlin: Typis et Impensis Georgii Reimeri,1897, p.2.9–25.
Ammonius, On Aristotle’s On Interpretation 1–8, trans. David Blank, Ithaca, New York: Cornell University Press, 1996, p. 12.

 つまり、本来論理学の範疇に含まれる文章は極めて限定的だったのである。イブン・シーナーも基本的にこの形式を踏襲しており、彼の論理学が取り扱うのは、「概念化」と「承認」という二本柱から外れない範囲内の文章である。
 また、文法を学べば会話が出来、韻律学を学べば詩を作れるようになるのと同じく、論理学を学べば熟慮を働かせることが出来るようになる。しかし文法を学ばなくても会話が出来たり、韻律学を学ばなくても詩を作れることがあるが、論理学の場合はそうはいかない。もし論理学を学ばないのに熟慮を働かせることの出来る者がいたなら、それは神の加護を受けた者だとイブン・シーナーは言うが、これは預言者や一部の賢者などを念頭に置いているのだろう。


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